五ノ巻33話  駆けつけてくれたのは


 床にひざをつき、身を折り曲げたかすみは自らの体を抱き、必死に息をしていた。そうしないと呼吸もままならなかった。


「……、……っ!」

 腹の奥から息を絞り出し、吐息の出た分ようやく空気を吸い込む。そうして、ようやく呼吸ができた。


 紫苑がため息をつく。

「何度も言うが。僕は争うつもりはない、君が毘沙門天を渡してくれればね。その方がお互いにいいだろう、君だってその強大凶悪な力、持っていたいわけではないはずだ」


 座り込んだまま、かすみは顔だけをどうにか上げる。

「それは……、そうです」


 紫苑が笑みをいっそう深める。

「だったら話は――」


「話は、変わりません」

 震えながら立ち上がる。

「黒幕はそこ、戦えるのは私一人。だったら、ここで終わらせる」


「そんなことができる、と?」


 かすみはうなずいた。

「刀八毘沙門天こそが『最強の怪仏』。言ってたのは帝釈天さんです、あなたの本当の力も知っているはずの。だったら……摩訶迦羅まかから天も、倒せる」


 紫苑は小さく息を吹き出す。

「最強? 君が? そんなことも言っていたか、帝釈天あれは。昨日その力に目覚めたばかりのただの女の子、その君が扱う力が最強と? なるほど、興味深いご意見だ」


 そこで初めて、紫苑が顔を引き締めた。

「そのとおり。君の怪仏こそが最強だよ、谷﨑かすみ」


 かすみが目を瞬かせる間に、紫苑は言う。

「怪仏は仏そのものではない――そもそも、神仏などというものがこの世に在るとは思えないがね――、だが。業により形作られ、仏を模した力を持つそれは、常に伝承に引っ張られる。ゆえに、仏教の説話・伝承から考えて、最強は三尊に絞られる」


 指を一つ立てる。

「まず、武を以て仏法を守ると共に、救い難い悪人をも力ずくで救うとされる神仏の一群、明王。その総帥にして最強の明王、『不動明王』。それはまた、密教における最高尊格・大日如来の直接の化身ともされる。怪仏としてはそちらの味方、至寂さんが使っていたね」


 続けて二つ目の指を立てる。

「さらには同じく明王、これもまた不動明王と並ぶ最強の明王。阿修羅・四天王・諸鬼神をも仏法に帰依せしめたといわれる、それら鬼類の総帥。一説には諸仏・諸菩薩の集合体とも語られる、外敵調伏ちょうぶくのための戦闘仏『大元帥たいげん明王』。怪仏としてはそちらの賀来さんが結縁した、『アーラヴァカ』が同一の存在だ」


 三つ目の指は立てず、かすみを指差す。

「そして言うまでもなく『刀八とうばつ毘沙門天』。福神であり武神でもある毘沙門天、それが八本の腕に八振りの刀を持った、異形にして究極の武神。神仏としての格でいえば『天部』、仏そのものではなく仏法を守護する神々であり、『明王』より格下の存在。――だが、それゆえにかえって『明王』より厄介」


 油断なくかすみに視線を向けながら続ける。

「なぜなら。力ずくとはいえ、敵に対しても『仏法による救い』を大前提とする明王と違い、毘沙門天は『単なる戦神いくさがみ』。『異常異形なる多腕に象徴される暴虐の力で、ただただ敵を殲滅せんめつする神』。ゆえに、戦力としては先の二尊をしのぐ最強の存在。――それを模した怪仏を持つのが君だ、谷﨑かすみ」


 首を横に振っていう。

「もっとも、この三尊がいかに強力であれ、最高尊格『大日如来』にはかなうべくもない。その存在は『仏法そのもの、悟りそのもの』であり、また『この世そのもの』であるとされる。そもそも戦いにすらなり得ない……残念ながら『悟りそのもの』であるそれは『業そのもの、執着そのもの』たる怪仏からは最も遠い存在……ゆえに、『怪仏としては存在し得ない』というがね」


 かすみは眉をひそめた。

「……何が、言いたいんですか」


 おかしな話を紫苑はしていた。紫苑の扱う怪仏よりもかすみのそれの方が強いと。さらにはかすみのものに次ぐ強さの怪仏二体、それをも至寂と賀来が握っていると。

 つまるところ、紫苑が勝てる道理などどこにもないではないか。


 それでも、かすみは油断なく印を結び直す。

「……こう、言いたいんですね。たとえ怪仏が最強だろうと、本体が私では宝の持ち腐れだ、って。帝釈天さんも言ってました」


 それに至寂はおろか、崇春たちもまだここまで来られてはいない。賀来に至っては昨日怪仏に操られたばかり、いかに最強格の怪仏を持つとはいえ戦力にはなり得ないのではないか――そもそも賀来と斉藤は、いつの間にこの異界へ来たのか――。


 紫苑は首を横に振る。

「いいや。決して君を見くびってはいない、予想を遥かに越えて怪仏それを使いこなしている。完全ではないにしろ、それを差し引いても最強は君だ」

 それでも、紫苑は再びほほ笑む。

「それでもね。君は僕に勝てない。最強の刀八毘沙門天では僕の摩訶迦羅まかから天、大暗黒天は倒せないんだよ」


 矛盾した発言だった。やはりかすみを見くびっての適当な言か、それとも何か策があるのか。

 それは分からない、分からないが。どうあれ戦うしかない。倒すか、そうでなくとも崇春らが来るまで時間を稼ぐか。


 そこまで考えたところでかすみは、ぶんぶんとかぶりを振る。

 ――そんな弱気なことでどうする、ここで私が止める。そうして百見さんが来てくれれば、広目天の力で怪仏を封じて終わり。そのつもりでいく。

 ただ、先の明王との戦いで使った最大の技――【刀八とうばつ毘沙門天・絶刀伐牙ぜっとうばつが】――、あれだけは強力過ぎる。いかに紫苑が特殊な体質とはいえ、人間相手に放っていいものとは思えなかった。


 とにかく――ここで止める。紫苑や紡を含め、全員が無事なうちに。


「やりなさい!」

 かすみが指差すままに、屋上の床を踏み揺らし、毘沙門天は突進する。

 先ほどの摩訶迦羅まかから天の技はどうやら、【貪欲どんよくなる暗黒】――空間に空けた穴――に吸い込んだ敵の攻撃を、【放埓ほうらつなる暗黒】――空間の裂け目――から放出し、敵に返す技。

吸い込んだ攻撃はすでに放出してしまったはず、今ならこちらから攻撃できる。


 紫苑はにこやかに剣を構える。

「そう、その判断だろうね。だが摩訶迦羅天マハー・カーラが示す意味は『全てを呑み込む暗黒、すなわち死、すなわち時』。『暗黒』は先ほどお見せした、今度は『時』をお目にかけようか。――時よ。駆けろっ!」


 時間を、止められたのかと思った。それほど瞬時に毘沙門天の目の前にいた。離れていたはずの紫苑は、剣を振りかぶって。


微塵みじんに裂け……【時を刻む】!」

 片手で持った剣を紫苑は振るう。それはたとえば円次が振るうような、洗練された動きではなく。ハエ叩きでも振るみたいな無造作な動きだった。

 ただ、それが速すぎる。早送りした映像のような不自然な速さの剣閃、それが縦横無尽に繰り出される。


「な……!」


 毘沙門天は四面の口を食いしばり、八腕の刀を振るう。その大太刀を振るうには近すぎる間合いだとはいえ、紫苑の剣はその全てと打ち合っていた。


 そして紫苑の肩の上、黒いもやが形作る二腕が印を結ぶ。

「オン・イシャナエイ・ソワカ」

 吹き荒ぶ風が毘沙門天を打った。足を踏ん張るも、その巨体は床に足をこすりながら後ろへと遠ざけられる。


 一方の紫苑もまた、風に巻かれたようにふわり、と浮き上がり、後方へと距離を取った。

 肩をすくめて言う。

「ま、時を操るといっても。時間を止めるだのといった、たいそうなことはできやしない。できるのはただ『時間を早める』こと。それも『自分に流れる時間だけ』をね。具体的にはさっきみたいな高速移動、高速攻撃というただそれだけ。……だが、予告しておこう。【時を刻む】から逃れられる者は、この世に誰一人としていない。たとえ最強の怪仏を操る君であってもね」


 はったりだ、そうかすみは判断した。刀の間合いさえ調整すれば刀八毘沙――


「ほらね」

 かすみの目の前で、鼻と鼻とがぶつかりそうな距離で。紫苑が笑っていた。

 瞬きする間もなく。紫苑の肩から伸びる黒いもや、鬼神の腕を形作ったそれが、かすみの腹へと拳を打ち込む。


「……、が……!?」


 床へと崩れ、横たわるかすみの上に紫苑の声が降る。

「怪仏は最強でも、君の方はそうじゃないね。……さて、もういいか。その力こちらにいただこう、『三天――」


 紫苑が何か言いかけたとき。かすみとの間に誰かが割って入る――紫苑がかすみのすぐ前にいるせいで立つ場所がなく、ほとんどかすみをまたぐ格好だが。


 かすみと結縁したもう一体の怪仏。吉祥天がそこにいた。


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