五ノ巻34話  駆けつけてくれたその人は


 紫苑は鼻息をつく。

「吉祥天、美と幸福の女神か。戦力になり得る怪仏とは思えないが。いったい何をしにきた、お前ごとき何の――」


 ぱん、と叩いた。喋っている途中の紫苑の顔を。


「……え」

 紫苑がそうつぶやく間に、吉祥天はかすみの胸ぐらをつかむ。引きずるようにして立たせてきた。


「あ、ありが――」

 礼を言おうとしたかすみに、両手で胸ぐらをつかんだままの吉祥天は。

大きく背をのけ反らせた後、思い切り勢いをつけ。頭突きをかましてきた、かすみの頭へ。


「ど……お、おぉお……!?」

 額を押さえながらよろめくかすみに、吉祥天は何か語りかける。いや、整った顔は怒ったように歪められ、その小さな唇は盛んに動いていたが。聞き取れる言葉は何も発せられていなかった。

 それでも、吉祥天は自分と毘沙門天を何度も指差し。紫苑に向かって殴るような手まねをしていた。


「つまり……戦え、と? 紫苑さんと戦わせろと、毘沙門天と……あなたと」


 吉祥天は満面の笑みを浮かべる。そうしてなぜだか笑顔のままでまた胸ぐらをつかみ、かすみに掌打ビンタを入れてくる。


「……なんで!?」


 かすみには構わず、吉祥天は宙を舞う。

 四つの顔でおろおろと、かすみと吉祥天を見回すばかりだった毘沙門天の元へと飛んだ。その背中と自らの背を合わせる。そして目を見合わせ、うなずき合った。


 口を開けていた紫苑が頬を歪める。

「く……何だというんだ! 吉祥天ごとき加わったところで、何の障害にもなり得はしない! そもそも、がら空きの本地がそこに――」


 そのとき、吉祥天が毘沙門天の肩を越えて身を乗り出す。何かを紫苑へと投げつけた。しゅるしゅると空気を裂く音を立てて飛ぶそれは、八つのとげを具えた車輪のような武器、宝輪。白いもやを上げるそれが紫苑の足下、床に突き刺さった。


 毘沙門天もまた武器を投げていた。黒いもやをまとう独鈷杵どっこしょが、同じく足下に突き刺さる。

 そして、二つの武器から上がる二色のもやは。紫苑の両脚へとまとわりつき、巻きつきながら上っていく。まるで紫苑の足を、その場へ縛りつけるかのように。


「ぐ……!? なんだこれは、そもそもこんな持物じぶつ、あの二尊には――」

 足を動かそうとするも、引きずるようにしか動けない紫苑。


 かすみは目を瞬かせていたが。すぐに二体を見据え、命ずる。

「毘沙門天、吉祥天! やりなさい!」

 二体の怪仏は、かすみと同じ目をしたそれらは、うなずいた。


 床を揺らして毘沙門天が駆け、吉祥天がその背に従う。

 そうして毘沙門天は紫苑へと振るう、黒いもやをまとう四本の刀を。

 残る四本の刀は、吉祥天の手から上がる白いもやを同じくまとっていた。それらも同じく振るう、激しく、何度も。


「なんの……【時を刻む】ぁ!」

 紫苑が繰り出す高速の剣が、八腕の刀全てとかち合う。光を反射した剣閃がきらめき、けたたましい金属音と溢れ出るような火花が当たりにこぼれる。


 毘沙門天が歯を食いしばり、吉祥天は背中で両拳を握る。


 紫苑がさらに顔を歪めた。

「く……そおぉ! もっとだ、時よ! さらに駆け、ろ……!?」


 めぎ、と嫌な音がした。

 一瞬だけ見えた、振りかぶられた紫苑の腕が、あり得ない方向に曲がっていた。ひじが、逆に。関節など無い上腕、肩とひじの間が折れ曲がっていた。ひじと手首の中ほども同様に。手首からは皮膚を破ってほの白く、節ばった骨が突き出ている。

 毘沙門天の剛力と何度も打ち合ったせい、いや。あるいは紫苑自身が、時を速めすぎた結果だろうか。


「ぎ……ぁぁあああ!?」


 紫苑の絶叫を追いかけるように。刀八毘沙門天の刀が紫苑を裂く。だが、二刀の刃は振り切られることなく、体にわずか食い込んだだけで止まり。残る六刀も振りかぶられたまま、あるいは振り下ろす途中で動きを止めていた。

 そして、その代わりのように。振り落とされる戟の柄と宝塔が、紫苑を床へと叩きつける。


「が……あ……」

 腕から体から血を流した紫苑は、うつ伏せのまま身を震わせた。


「私の……勝ちです」

 痛いぐらいに鳴る鼓動と、冷たくかいた汗の感触を感じながら――殺さなくて、死んでいなくてよかった、本当に――、かすみは言う。

「とにかく、解いて下さい、この結界だか何だか。崇春さんたちも解放して下さい、他の明王も今すぐ止めて」


 荒い呼吸を繰り返しながらかすみは考える。

 そうだ、でも傷が塞がるのかこの人は、特別な体質とか言っていたけれど。それも怪仏の力なのか、だったらどうしたら――


 ひざから力が抜け、転びかけて足を継ぐ。

 戦い終えて気が抜けたせいか、それとも怪仏の力を使って消耗したか。呼吸が荒いまま、いっこうに収まらない。


「……とに、かく。降伏して下さい、あなたの怪仏は封じます。百見さんが来るまでに、もしまたあなたが向かってくるなら……攻撃します、何度でも。殺さないように」


「殺さないように、か……」

 寝返りを打ち、あお向けになり。倒れたまま紫苑がつぶやく。

「殺さないように、か! この僕を! 殺さないように、だって? へ……へひゃ、はははは! よく言えたな、よくも言えたものだ!」

 おかしな方向にねじ曲がった腕を震わせ、全身を震わせ、笑う。


 思わず後ずさりながら、かすみは見た。ねじ曲がった紫苑の腕が、ゆっくりと元に戻っていくのを。


「毘沙、も……」

 その命令の先は言えなかった。足から、ひざから力が抜け。踏ん張ろうと継ぐ足からも抜け。手を床につこうとして、その手が動かず。

かすみは床に転がっていた。


「え……? あ……毘、しゃ……」

 呼吸が荒かった、呼吸が荒かった。

 攻撃されてなどいない、なのにかすみは倒れたのだった。突然、脚から力が抜けて。いや、今も力が入らない。床に手をついて身を起こそうにも、その手が床に転がったまま動かない。わずかに指が、宙をかくように動くだけ。

 呼吸が荒い。なのに、肺に穴でも開いているかのように、空気が体に入る手応えがない。体が冷たく、重い。体温を、いや命そのものを、吸い取られているかのように。


「言ったはずだよ。『【時を刻む】から逃れられる者は、この世に誰一人としていない』と」

 紫苑は楽々と身を起こす。腕の関節も折れていた骨も、元のとおりに戻っているようだった。体の刀傷も塞がり、そばに来た紡の手も借りずに立ち上がる。


 笑みを浮かべて言った。

「感じなかったかな、今までに。僕や紡の傷が治っていく、それを目にするたびに。シバヅキを造ってみせたときにも。力が抜けたり寒気がしたり……『命を、生きる力を吸い取られたような感覚』」


 横たわるかすみを見下ろす。

「大暗黒天は『全てを呑み込む暗黒』。そして僕はただの結縁者ではなく『それと一体になった者』。ゆえに、僕が負った傷は『周囲の他の生命の力を、吸い込み取り込んで治る』。……【時を刻む】、たとえその剣を防いだところで。速度と風圧に耐え切れず自壊した、『僕の腕を治すため』『周囲の生命力を呑み込む』、その力からは逃れられない」


 転がるかすみの腕が軽く蹴飛ばされる。それでもその冷たい腕には、わずかな震動しか感じられない。


 かすみは辺りに目を巡らせたが。吉祥天も同じく横たわり、毘沙門天は刀を杖にひざをついていた。構えを取ろうとする他の手が震え、取り落とした刀が音を立てて転がる。

 そして今、刀を杖としていた手がバランスを崩し。音を立てて、その巨体が伏した。


 紫苑は満足げにうなずく。

「いい仕上がりだ。わざわざ傷を負ってみせた甲斐があった、自分で手を切り落とすのは何度もやりたくないがね。さて――」


 横たわるかすみの目の前に、靴音も高く紫苑の足が近づく。

 声は上げられない、何度やってもかすれた吐息が漏れるのみだ。毘沙門天らに動くよう念じるも、反応した様子もなく倒れたまま。


 とにかく、逃げなければ。指を、足先をどうにか動かし、床を擦る。這いずる虫よりもまだ遅く。


 紫苑の靴音が頭の後ろで聞こえた、そのとき。


「遅くなりました。恐縮です」

 軽い音を立て、階段からつながるドアが開かれた。

 姿を現したのは尼僧のような頭巾ずきんをかぶった、山伏姿の優男。至寂だった。


「……!」

 かすみは目を見開くばかりで、口を開けても何も言えずにいたが。


 至寂は辺りを見回すと、納得したように何度かうなずく。

 かすみの元にかがみ込み、言った。

「よく頑張りましたね、谷﨑殿。ここからは拙僧が」


「……!」

 かすみは横たわったままうなずく。つむった目の端から涙がこぼれた。


 至寂は立ち上がり、印を結ぶ。

「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン」

 燃え盛る炎を背負って現れたのは、大剣を携えた不動明王。

 それは紫苑が最強格の一つとして挙げた怪仏。それを扱うのは怪仏との戦いに手馴れた僧、至寂。

 これなら、あるいは――


 炎の燃える音を上げながら、不動明王は剣を振るった。

 刀八毘沙門天へ。


「……え」

 かすみのつぶやきをよそに、斬られた毘沙門天はその姿を霧のように薄れさせる。


 至寂が静かに言った。

「毘沙門天と谷﨑殿とを結ぶ業、確かに断ち斬りました。今です」


 紫苑が前に出る。うつむく紡も黙ってそれに従った。


 紫苑は静かに、しかし力強く唱えた。

「『三天総呪』――オン・マソベイ・ソワカ。つながり来たれ三天、縁起にその業、結ばれし三天よ。くびきより解き放たれ、今こそ我が元に集うがいい……オン・マソベイ・ソワカ」


 毘沙門天がその身を黒いもやへと変える。吉祥天はそれをつかみ止めるように手を伸ばしたが、もやはすり抜けて紫苑の元へと流れた。


 目を閉じた紡の体からももやが上がり、琵琶を手にした女神・弁才天の姿を一瞬だけ取る。すぐに崩れてもやに戻ったそれもまた、紫苑の体に吸い込まれた。


「最強の刀八毘沙門天では僕に、大暗黒天には勝てない。その理由はね。こうなるからだよ」

 紫苑の体から黒いもやが上がる。燃え盛るように、瀧を逆流させたように。

 ぼ、と燃えるような音を立てたそれは、一つの形を取る。


 三面六臂ろっぴ――ただしそれは、摩訶迦羅まかから天のものではない。

 中央の面は頭巾をかぶった福々しい大黒天。両の手には小槌と大黒袋を持つ。

 向かって右の面はたおやかな女神。片手に宝珠、片手に鎌を携えたそれは、先ほど見えた弁才天。

 そして、向かって左の面は。かすみにはよく見覚えがあった。

 憤怒に歪んだ顔、歯軋りするように剥き出された歯。たくましい手には三叉戟、そして宝塔。

 毘沙門天が、そこにいた。


 紫苑が高らかに言う。

「最強のその力、僕のものとなるからだよ。最強を越えた最強、秘仏『三面大黒天』」


 かすみは横たわり、口を開けたままでいたが。それでも、わずかに顔を起こす。

「至寂、さん……! いったい、どうして――」


 怪仏と戦う僧侶にして渦生の親友。崇春と百見にも信頼された人物、昨日かすみたちを助けてくれた人。今朝には、紫苑に対して最も戦意を向けた者。

 その至寂が、なぜ。

「なんで……裏切ったりなんか」


 至寂は穏やかに笑う。

「まさか。裏切ってなどおりませんよ。わたくしは最初からこちら側」


 そうして紫苑の方へと歩く。

 腰を折り、手を、ひざを床に着け。五体を地に投ずるように、紫苑の足下へぬかずいた。


 ひざをついたまま顔を上げる。

わたくしは最初から、紫苑殿のお味方。――彼がこの世に生まれ出てから、いえ。それよりずうっと、以前から」


 紫苑はうなずく。

 そうして自らの怪仏を見据えた。

「これでようやく始められる、僕たちの目的を。さ、行こうか」


 三面大黒天の中央の面が炎を上げた。大黒の面を焦がし破って現れたのは鬼神の顔。手にした小槌も同じく燃え落ち、その中から直剣が姿を現す。


 紡と至寂を見回し、紫苑は言う。

「行こう、『あと五体』の怪仏を受け取りに。怪仏の力、その先を手に入れるために。――さ、この世を僕らで救おうじゃないか」





(五ノ巻  立ちはだかるは四大明王  了)

(次巻へと続く)


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