五ノ巻29話 迷路と群衆、龍と水
気にした様子もなく、至寂は破顔している。
「いや、間に合って実に
噛みつくかのように渦生は大きく口を開いた。
「うるせえバカ加減しろバカこっちは命の心配がいるわバカ!」
大きくため息をつき、肩を落とす。立ち上がり、どうにか気持ちを切り替える。
「ま、お前も無事でよかった。それよりよ、これからどうするかだが。クソ
至寂はうなずく。
「ええ、崇春殿らもこの異界に囚われているのでしょう。おそらくは我々がそうであったように、元の世界でいた場所と同じ所に。つまり彼らは、この異界の生徒会室に。さらに、華森の話から察するに……シバヅキといいましたか、大自在天の力を持つ者が、紫苑殿の大暗黒天の力を狙って事を起こした。そう考えていいでしょう」
渦生は拳を握り鳴らす。
「なら、退く手はねえし行くっきゃねえ。まずはあの
至寂に辺りを警戒してもらいつつ、不動明王の手を借り。
敵の居場所を直接目視する、というわけにはいかなかったが。グラウンド中を埋め尽くす迷路の中心部、そこだけが不自然なことに、全く曲がりくねっていない一直線の区域となっていた。
あるいはあれが、想定されているゴール。つまりは敵の居場所、その可能性が高い。
その旨と方向を至寂に伝え、後は早かった。
「【
不動明王が何度も大剣を振るい、一直線に壁を砕く。またも象人らと出くわすことはあったが、敵は為す
そうして目指す場所に出た。
見回すが、特に開けた場所というわけでもない。ただ一直線の長い通路。そして、敵の姿もなかった。
どこからか声が響き渡る。
「
見上げればいつの間にか、通路の壁の上に華森がいた。腰を浮かして座った、
そしてその傍らには、怪仏の姿があった。
渦生らを襲った象人、それを一回り大きくした姿。それが二体、互いに抱き合った形でいる。『双身歓喜天』。ヒンドゥー教にはない姿だが、仏教由来の像としてはむしろよく見られる造形。
華森はなおも言う。
「『この世界では、まっすぐの道はすべて迷路なんだ』――寺山修司『思いださないで』。震えろよ、てめ~らはすでに迷っている」
渦生と至寂がそちらを向き、印を結ぼうとしたとき。
まるで華森の言ったとおりに、震えていた。印の形を取ろうとしたその指が。その手が。いや、体が、足が――地面が、壁が。
ど、と音がした。どどどど、どどど、と、質量と流れを伴う音。先ほどの象人どもの群れとは比較にならない、質量と存在そのものの音。あるいはあの龍が高速で向かってくるかとも思えたが、それとも違う、それより重い。それが、後ろから。
振り返れば、一本道の彼方から。通路一杯に、水流が押し寄せてきていた。
「知ってっか、鉄砲水ってよ~。小生も初めて見るけどよ。これがそれよ、怪仏の力よ。【
向かいくる水流が地を揺らすまま、渦生と至寂は立ち尽くしていたが。
ふ、と小さく息をつく。笑って、二人で。
「やるぜ」
「ええ」
渦生は印を突き出し、叫ぶ。
「オン・クロダナウ・ウン・ジャク!
一瞬後。水流の全ては湯気を上げ、泡を立て、割れるような音を上げて沸騰し尽くし。蒸気となってその場から消えた。
「ぎゃ……っ
壁の上で、白い湯気に巻かれた華森を。あるいはむしろ助けるようにか、不動明王がそちらへ向かう。
「【
至寂の声と共に振るわれた剣は。立ち込める湯気を蒸気を真っ二つに斬り裂き、全て宙へと散らした。
そうしてさらに振るう剣閃が、双身歓喜天をも二つに裂いた。抱き合っていた腕を斬られた二体の象人は、象と同じ悲鳴を上げつつ地に倒れる。
壁からこちらの通路へ落ちるも、華森は起き上がる。
「くそ……まだだぜ、あの御方にいただいた力……! 【歓喜片身・変身大龍】!」
分かたれた二体の歓喜天、その片方が。輪郭を緩め、飴細工のようにとろけ、水のように流れ出て。その姿を変えていた。
膨らみ、広がり、もはや原型を留めぬその巨大な姿は。
「龍……! さっきのか、いや――」
渦生が見上げていたのは、迷路の壁を遥かに越え、鎌首をもたげた龍。いや、ただの龍ではない。日本神話の
渦生はもはや驚きはせず、しかし眉根を寄せた。
「いや……おかしいぞ」
至寂もまた眉をひそめる。
「何です?」
「奴の力だ。確かに歓喜天は強烈な呪力を持つといわれ、前身たるガネーシャもまた様々な
「その話は後ほど。それより、来ます」
至寂は顔を上げ、龍を見据えて印を結ぶ。
「伝教大師最澄様が開きし比叡山、そこに習合せし
至寂の背後で、隆々たる肉体の不動明王が大剣を構える。
「かの
印を結んだ指先を、壁を倒し迫り来る九頭龍へと向ける。
「ノウマク・サンマンダ・バザラダン・カン。【
牙を剥くいくつもの龍の首へ向かい、明王が跳ぶ。背丈を越える大剣、重く風を払う音と共に横殴りに繰り出されたそれは、龍の首を斬った――いや、もぎ取った。鈍くちぎれる音を立てて、三つの首をいっぺんに。
「なあ……っ!?」
目を剥く華森の顔から、眼鏡がずり落ちかけていた。
「ノウマク・サラバ・タタギャテイ・ビヤサルバ・モッケイ・ビヤサルバ・タタラタ・センダ・マカロシャナ・ケン・ギャキ・ギャキ――」
至寂が
ほどなく全ての龍頭は裂かれ、光の粒子となって散った。
「あ……ああ……」
地べたに尻をつけて震える、華森の手にある本を至寂の手がもぎ取る。それと同時、地に伏していた残る一体の歓喜天もかき消えた。
「この本がむしろ怪仏の本体、ということですか。後ほど百見殿に頼み、封じていただくとしましょう」
ページを繰ってみた後、懐へとしまう。
それを横目に、渦生は未だつぶやいていた。
「歓喜天……象、水、龍……やっぱおかしい……いや待てよ、確かそうだ、あの半身は、十――」
渦生は一瞬息を呑み、それから拳で手を叩いた。
「そうか! だから水、だから九頭龍……! だが、だとしたらヤバいぞ……オレたちは完全に――」
つぶやく渦生は、しかし気づいてはいなかった。歓喜天よりも遥かに強大な敵が、背後に迫っていることに。
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