五ノ巻30話  たどり着いた先に見たものは


 その戦いのかなり後。


 かすみは薄暗い階段を上っていた。最上階である三階より上へと続く、細く長い階段。屋上への階段。

 無論、いつもの学校ならその先のドアには鍵がかかっている、屋上は立ち入り禁止だ。だが、金剛夜叉明王を倒した先の道はただ一つ、この場所へとつながっていた。

 つまりはこの先にいるはず。囚われた東条紫苑と、彼の力を欲し、四大明王にこの異界を造り出させたという、『大自在天に憑かれた者シバヅキ』が。


 本来なら百見が最初に提案したとおり、生徒会室に戻って皆の合流を待つべきではあったが。そうはできなかった。

 かすみたちを隔離しておきながら、わざわざ戦いを挑んできた四大明王らの行動に疑問が残る、何らかの時間稼ぎの可能性がある――それを阻むべく早く行動すべき、という理由もないではないが。

 何より、物理的に帰れなかった。金剛夜叉明王と刀八毘沙門天がぶつかり合った衝撃に辺りの床は崩れ落ち、その裂け目に真っ黒な穴をのぞかせていた――本来の学校なら地面なり見えるだろうが、ここで見えたのはただ、穴。底があるかどうかも分からない全くの暗黒――。

 元来た道も大きく裂け、帰ることは不可能だった。


 だから今、細く長い階段を上がる。刀八毘沙門天の巨体ではこの階段を進むことはできない、吉祥天ともども還してある。

 だから今、聞こえるのは。前を行く鈴下紡と、かすみ自身のひそやかな足音。どうしても強くなる息づかい。鼓膜の奥を震わせる、鼓動の響き。

 指先が冷たく震えて、何度も手を握っては離す。上履きの中で、足の指も同様に。


 そうして今、紡が、屋上へと続くドアノブに手をかけた。鍵はかかっておらず、軽い音を立ててドアが開く。


 不穏な色をした雲が分厚く、今にも落ちてきそうに垂れ込める空の下。屋上の真ん中にシバヅキはいた。枯れ草のように荒れた黒髪を揺らし、大きな傷跡の走る顔を風にさらして。その髪質と傷の他は同じ顔をした、東条紫苑を左腕に抱えて。

 紫苑に怪我はないようだったが。その目は閉じられ、シバヅキの腕にもたれるようにして抱えられた体に力はなかった。


 そして、今。シバヅキの右手が、大振りなナイフを掲げ、ゆっくりとその刃を紫苑の喉へと向ける。


 紡が駆け出す。

「紫苑!」


 かすみは遠ざかる紡の背を見、紫苑を、シバヅキを見、首を巡らせていたが。どうすべきか計りかねたように足は動かず、両手の指は組まれていた。


 そのとき、不意に。目を閉じたままの紫苑の唇が動く。

「……オン・ビシビシ・ンッシャ・バラギャテイ・ソワカ」


 そして、その真言を引鉄ひきがねとする大暗黒天の力、地から噴き出し天へと打ち上げる黄金の波、紫苑が【黒き黄金の大噴射ブラック・ゴールド・ガイザー】と呼ぶそれが。

 噴き上がった、かすみの足下から。

 金属のかち合う音を盛大に立てながら、かすみの視界全てを覆うほどに。黒いもやをまとった、大判小判の間欠泉が。


 やがて紫苑が目を開ける。シバヅキの手を離れ、確かな足取りでそこに立った。

 一方、シバヅキは。変わらぬ姿勢でそこにいた。何一つ変わらない、何かを抱えるように片腕を曲げ、何かにナイフを向けるような――紫苑がそこから抜け出した今、虚空を抱き宙に刃を突きつけるような――姿で。マネキンのように身動き一つせず。


 紫苑は息をこぼして笑う。

「思ったよりも人が悪いな、君は。……気づいていたとはね、谷﨑かすみ」


 かすみの前には、すでにその怪仏がいた。かすみに倍する巨体の刀八毘沙門天。八腕の刀と二腕の戟、宝塔をその身に沿わせるように構え、黄金の波を全て受け止めていた。

 おまけのように吉祥天がその傍らで宙に浮かび、毘沙門天の肩の上から顔を出す。


 かすみは両手で結んでいた印をいったん崩す。そう、印はすでに結んでいた。屋上に足を踏み入れ、紫苑とシバヅキとを見回していた、そのときにはすでに。


「もしかしたらと、そう思っただけです。もしかしたら……騙されてるんじゃないか、って。もしかしたら、あなたの言ったことが全部嘘で。だったら逆に……シバヅキとも共謀してる、その可能性もあるんじゃないか、って」


 紫苑は満面の笑みを浮かべる。自らの頭を掌で、ぽん、と叩いた。

「はは、これは参ったね。演技には自信があったんだが。紡の方が大根女優だったかな?」

 傍らに立つ紡の頭を同様にはたく。


 紡は表情もなくかすみの方を見ていた。

 シバヅキは変わらず、人形のように先ほどのままの姿勢でいた。


 かすみは首を横に振る。

「そうじゃあなくて。……矛盾してるんです、あなたの言ったこと」


 楽しげにほほ笑んだまま紫苑は言う。

「ほう、それはおかしな話だね。僕の過去については他ならぬ君の仲間、百見くんの力が映像として明らかにしたはず。『記録』の怪仏たる広目天の力、この僕でも改変はできない。まさか百見くんが裏切っているとでも?」


 かすみは首を強く横に振る。

「そうじゃあない……そこじゃないんです。矛盾しています、あなたの説明じゃなく、あなたの言った目的」


 息を継いで続ける。

「あなたは言いました、私の毘沙門天を求める理由。『集めた怪仏を組み合わせて七福神を作り、その力でお金を得ること』と。……けど、それより前、私が怪仏の力を得たそのときに。言ってました、帝釈天さんは。あなたの目的のことを。『あの御方は世を救おうとしておられる』『二度と誰も悲しむことの無い世を創ろうとしておられる。それは無論、汝も、汝の友らも悲しまぬ世』と」


 それだった、かすみが引っかかっていたことは。感じていた違和感の正体は。


 紫苑の表情がわずかにこわばるのを確認しながら、かすみは話す。

「帝釈天さんの話は、はっきり言って具体的ではないですけど。それでも、あなたの話とは全く違う。……あなたは嘘をついています。そうでなければ、話してないこと……私たちに隠していることがある。そうですね」


 紫苑に隠していることがある、だまそうとしていると考えれば。妙だと思っていた、もう一つのことにも説明がつくのではないか、かすみはそう思っていた。

 つまり、シバヅキと明王らが、自分たちと紫苑、そしてかすみたちとを完全に隔離しておきながら、わざわざ不必要な戦いを挑んだこと。


 そうした理由は未だ分からないが。たとえばこうは考えられないか、紫苑とシバヅキが争っているというのも嘘で。何らかの共謀関係にあり、かすみらを何らかの罠にかけようとしている、と。

 もちろんはっきりと言い切れるものではない、可能性でしかない。だが、可能性があるのなら当然警戒しておくべきだ。紡に背後を取られないよう、先に行ってもらったように。いつでも毘沙門天をべるよう、印を結んでおいたように。


 紫苑は息をつき、かぶりを振った。

「なるほど。そんなことも言っていたか、帝釈天の奴。……まあおおむね正解だよ、百見くんが映像化した部分に無論嘘はないが。それ以外の部分には嘘を混ぜてある、君たちに言っていないこともある。ああ、言っておくが七福神を揃えるだの、目的が金だのっていうのは嘘っぱちさ。――目的の本質は、帝釈天の言ったとおり」


 ほほ笑んでかすみの目を見る。

「僕はこの世を救わねばならない。二度と誰も悲しむことのない世を、創らねばならない。必ずね」


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