五ノ巻22話 離しはしない
金剛夜叉は鼻で笑う。
「――うだあぁぁ……何だ、武神とは名ばかりか。
六本の腕のうち、武器を持たない二腕を振るう。
「――素手にて充分! 受けよ、【重撃重爆金剛壊拳】!」
連続で繰り出される二つの拳はまるで、六腕全てを使って打ったかのように無数の残像を残していた。それらが一撃ごとに重い音を立て、毘沙門天の純黒の鎧へと打ち当たる。そのたびに床が揺れ、ひびを入れられた鎧の欠片が散り。拳の圧に窓が震えた。
それでも毘沙門天は小揺るぎもしない。
印を構えたかすみは、唇をなめて湿した後。ぎこちなく、その舌を動かせた。
「オン……シチロクリ・ソワカ――オン、ベイシラマンダヤ・ソワカ」
ぴくり、と毘沙門天の肩が震えた。そして、かすみの方をゆっくりと振り向く。牙を剥いたその顔には、歪んだ笑みが浮かんでいた。
同時、かすみの内に言葉が響く。鼓膜の奥、頭の中、胸の底で絡みつくように――もっとだ、もっと力が要る全てを引き裂く力、叩き潰す力、何もかもを、そうだ力が全てを踏みつけ押し通る力、踏みにじり壊し押し退ける力。そうだ斬り裂け全ての敵を、叩き壊せ何もかもを。阻む全てを――。
その言葉は確かにかすみの声。いや、地の底から轟くような響きは毘沙門天のものだろうか。
それらの音は混じり合い、渦を巻き、かすみの中を駆け巡る――そうだ力が要る、そうだ時間はない、そうだ
かすみは印を崩し、耳を塞ぎ頭を押さえていた。顔を歪め、震えながら。
そのままの姿勢で歩いた、歯を食いしばって毘沙門天の方へと。
そうして、蹴った。毘沙門天を思い切り。
乾いた音がロビーに響いた。
「え」
紡がつぶやくのも聞かず、かすみはもう一度蹴った。
毘沙門天は目を見開き、大口を開けていた。憤怒の表情も歪んだ笑みも忘れたかのようだった。
その背中では吉祥天が目を見張り、両手で口を押さえていた。
かすみは歯を噛み締め、それから声を張り上げる。
「うるさい。聞きなさい……聞け
さらにもう一度蹴り、それから印を組み直す。
言葉を胸の奥から絞り出す。頭に響く言葉ではなく、それらの言葉は自らの内に渦巻くままにして。かすみ自身の言葉を発した、毘沙門天の背を見上げながら。
「あなたは違う、私じゃあない。けれど私の一部はあなた。あなたの一部は確かに、私」
目をそらすように顔をうつむけた。それでもかすみは、また顔を上げる。
「あなたが私の
今までは崇春が、百見が守ってくれた。平坂も学校を守るため戦うと言ってくれていた。
けれど今、彼らはいない。紡の力も通じはしなかった、それに彼女は味方ではない、いつまでも頼るわけにはいかない。
なら、今ここで。取るべき道は一つしかない。
かすみは毘沙門天の目を真っ直ぐに見る。
「来なさい、私の真なる怪仏。これしか道がないのなら……あなたと共に、駆けてみせる。
頬に力を込め、腹の底から声を張り上げた。
「来い! 討つ者、全てを
毘沙門天は口を開け、目を見開く。
歯を噛み締め、震える。震える、震える。そこだけ地震が起こったかのように、激しく。
やがて震動に自身が耐えかねたように、裂けた、皮膚が。首が顔が肩が背が、みちり、と音を立てて。
金剛夜叉が拳を止める。
「――何っ!?」
毘沙門天はなおも震える。
腕の周りで裂けた皮膚の間、肩や背中の肉の奥から。めぎり、めぎりと絞るような、裂くような音を立て、何かが生え出る――新たな腕。骨すら
かすみを見下ろす目が、赤黒く涙をこぼし。その顔の横から同じ色の体液をこぼして、同じ顔が、ずるり、と生え出る。同じ涙をこぼしながら、元の顔はかすみを、残る三面は敵を、貫くようににらんでいた。
かすみは静かに命ずる。
「やりなさい」
振るう、刀八毘沙門天は八本の刀を。体から生え出たまま、赤黒い体液に濡れたそれを。八腕がそれぞれ意思を持つかのようにばらばらに、しかし自らの腕を振るいちぎろうとするかのような力を込めて。
その半分ほどは金剛夜叉の掲げた武器に阻まれたが、残る半分が体へと打ち当たる。鈍い金属音を立て、金剛夜叉の体から火花が散った。
金剛夜叉は笑う。
「――ふんっ! 少々驚いたがその程度の刃、効きもせんわっ! 教えてやろう……
六腕のうち四腕に持った、大剣、
かすみは印を崩さず、声を上げた。
「やりなさい!」
振るった、毘沙門天は八つの刀を、元の二腕の戟も、塔すら。
振るった、金剛夜叉は四つの武器を、残る二腕の拳を。
幾度も幾度も繰り出されるそれらが打ち当たり、重い金属音を上げる。そのたび火花が吹き上がる。飛沫のように、あるいは飛び散る血潮のように。
空を切る音が響き、金剛鈴の打ち当たる音が割れ鐘のように轟く。
「――うだぁっ!?」
嵐のような打ち合いから、先に身を引いたのは金剛夜叉だった。
四腕の武具はひび割れ刃こぼれし、自慢の肉体にも幾つも幾つも、骨に達するほどの斬り込みが走り。そこから水銀にも似た、鈍く輝く体液がこぼれ落ちていた。
六腕を震わせ、信じられないものを見るように自らの体に目を落とす。
「――なんだあっ……! バカな、このオレの金剛
刀八毘沙門天はなおも、内なる怒りを抑えかねているかのように震え。荒い息を四つの顔で繰り返しつつ、八本の刀を掲げて敵へと歩む。
「――ぐっ……!」
金剛夜叉は跳び退き、距離を取った。武器を持たない二腕が印を組む――両手の指を内側へ差し込むように組み、両親指は伸ばして揃える。人差指はわずかに曲げて浮かし、小指は緩く曲げて外へ出す――。
「――オン・バザラ・ヤキシャ・ウン!」
その真言と共に、六腕から炎が吹き上がる。紅蓮の色を通り越し、溶鉱炉で溶けゆく金属にも似た、白に近い輝きの炎。
その輝きが腕を覆い、体さえも覆う。見ればその炎の下、口を開けていた傷はどれも、どろりと溶けたような体液が粘りつき、塞がれてしまっていた。
「――このオレこと四大明王北方守護者・金剛夜叉明王。だが宗派によってはその位置に
三面の口で歯を見せて笑う。
「――故にっ! 金剛
白く炎を噴き上がらせ、全ての武器を掲げ構えた。その刃もまた熱され、白く輝いている。
「――
火の粉をなびかせ突進するその巨体は、真っ白な炎に包まれていた。まるでゆらめく刃紋を
足を踏ん張り歯を噛み締め、かすみは声を張り上げた。
「毘沙門天っ! やりなさい!!」
刀八毘沙門天は八振り全ての刀を掲げる。塔も戟もそこへ重ねた。まるで一振りの刀であるかのように。
その足下から、体から腕から染み出すように、黒いもやが立ち昇る。層をなし渦を巻いたそれが、掲げた腕を駆け登り、重ねた武具へと絡みつく。
黒いもやは今や、黒い気流と化して吹き荒び、巨大な刀のような姿を形作っていた。
四面の歯を食いしばる毘沙門天は、その重さに耐えかねたかのように腕を震わせたが。
支えるように、その背に吉祥天が寄り添い。背後を守り合うように背をつけた。そうしてなぜだか、吉祥天はかすみを見て。片目をつむり、両拳の親指を立ててみせる。
その表情に、かすみは目を瞬かせたが。
すぐに息を大きく吸い込む。胸の内に響いたその力の名を、叫んだ。
「やりなさい……【
駆け、そして跳び込みながら、巨大な刀を振るう毘沙門天は。黒い気流をまとうその姿は、一振りの巨大な刀のようだった。さながら、向かってくる金剛夜叉と同じく。しかしその白い炎を、たやすく呑み込むほどにも巨大な。
声もなく、断ち斬った音もなく。金剛夜叉はその炎ごと武器ごと二つに断たれ。分かたれたその体も武器も、黒い気流に呑み込まれ、
勢い余ったその気流は辺りの床を打ち割り、付近に置かれた長椅子を巻き込んで砕き。さらには前方一面、天井まで続く窓へと打ち当たる。引きちぎるような破壊音を立て、ガラスが、窓枠が、壁さえも砕け落ちる。
だが外へと突き破ることはできず。窓が砕け落ちた後に残った、薄墨色の結界の壁。それがひび割れ、破れんばかりに外へと大きく膨らんだ形に歪み。そこで、毘沙門天は止まっていた。
すがりつくように壁に背をつけ、紡は口を開けていた。
「これが……刀八毘沙門天の力……あの結界すら、ここまで変形させる、だって……?」
生徒会室で崇春が力を振るったときのことを、かすみは言われて思い出した。崇春の力でさえ、薄墨色の壁はびくともしなかった。どうやらそれと同じ結界が、外へと繋がる窓などの中には仕込まれているようだが。刀八毘沙門天はそれを、ここまで。
天井まで続く結界の歪みとひびを見上げながら、かすみの背筋が冷たく震えた。
と、見る間に。結界は枝を踏み折るような音を立て、内側へと戻り始める。ひび割れた箇所も合わさり、傷などなかったかのように塞がっていく。
窓や校舎の壁こそ崩れ落ちたままだったが。薄墨色の結界は再び、傷一つなくそびえ立っていた。
毘沙門天の力を使ったせいか、体に重く疲労がのしかかるのを感じ、かすみはひざに手をつく。荒い呼吸を整えながら思った。
さっきの力を――体力的に相当無理はあるだろうが――連続で使えば、あるいは結界の壁を破れるかもしれない。だが、その後どうすべきかが分かっていない。崇春らの場所も紫苑とシバヅキの居場所も。少なくとも今、無理に消耗してまで壁の破壊を試みる理由はなかった。
未だ壁に背をつけたまま、遠くから紡が言った。
「しかしまさか、いきなり刀八毘沙門天を使うとは……ムチャクチャをするな君は」
呼吸の下からかすみは言う。
「それぐらい、やらなきゃ……時間も、ないですし。私がやらなきゃ、ですし。それに」
額の汗を――疲労によるものか、あるいは冷や汗か――拭う。
「昨日みたいに、後から勝手に出てこられるより。こっちから
周囲の破壊痕を見渡し、頬をひくつかせた後で紡は言う。
「そう、かなあ……そもそもあれだ、我が妙音弁才天の
かすみは真顔で紡を見やる。
「それ、私にまでかけるつもりじゃないですよね。覚えてます、昨日あなたがしようとしたこと」
紡は頬を引きつらせつつほほ笑んだ。視線をそらして言う。
「あー、とにかく、だ。急ごう、紫苑が危ない。シバヅキが何をする気かは分からない点も多いが……放っておいていいことはないはずだ、私たちにも、君たちにとっても」
かすみはうなずく。
先に駆け出した紡の後を追って、歩を進め出す。
そのとおりだ、紫苑を早く助けなければ。
けれどまだ何か、考えるべきことはなかったか――その思考が足音と、荒い呼吸の中に薄れていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます