五ノ巻20話 呉越同舟
駆けていた、駆けていた。谷﨑かすみは息を切らして。リノリウムの廊下に靴音を鳴らして。
駆けていくその先にはあるはずだった、望んでいたものが。四大明王を倒し、紫苑を助ければ。話し合い、
なのに。今、かすみの足は速度を落としかけていた。
疲れ、息切れ、それはある。敵と対峙することへの不安、それもある。
だが。足取りを鈍くするのはそれだけではなかった。
引っかかる、何かが。
それはたとえば、四大明王が突然現れ、異界へと隔離されたことへの当惑か? それともそれ以前に、紫苑が語ったシバヅキの正体への驚愕か?
いや。引っかかる、それ以前、それ以前の問題として、何かが――
そう考えていたとき。廊下のずっと先から、女子の鋭い声がかかる。
「谷﨑くん! 何をしている、遅いぞ!」
鈴下
そして昨日――つい昨日――、かすみと賀来に怪仏の力を植えつけ、操ろうとした者。つまりは敵。
それがどういうわけか、かすみと同じ仕切りの中にいて。こうして共に走っている。いや、紡の方がずっと先を走っている。
紫苑をシバヅキと四大明王から助ける、その目的は一致しているとしても。妙な感覚があった。
紡は足を止め、急かすように手を打ち鳴らした。
「はいはいはい、急いだ急いだ! 時は誰に対しても平等だ、青春は待ってくれないぞ! 君の青春などどうでもいいが、あの明王とやらが紫苑を――」
セルフレームの眼鏡をつまみ上げながら、顔をひどくしかめる。まるで自分の言葉に刺されたかのように。
「……紫苑に、危害を加えるのを。待ってくれるとは思えない」
とにかく、紡の元まで走った後。かすみは小さく頭を下げた。
すみません、とかすみが言うより早く、紡はきびすを返して再び駆け出す。
「待って下さい!」
足を速め、紡の袖をつかむ。
紡が顔をしかめ、足を止めかけたところで。先に立って早歩きしつつ、かすみは言った。
「待って下さい、そうだそれが……おかしい」
紡は目を瞬かせたが、かすみについて歩を進めた。
歩みを止めず、かすみは言う。
「言ってたはずです、明王たちは。『大自在天と他の欠片、それが一つになるまで待っていろ』と。『それまでの間、腕比べを所望する』『結界を解きたいなら、四尊全てを倒してみせることだ』って」
紡の表情は変わらず険しい。
「……それが、何か?」
「おかしいですよ、何から何まで。そもそも完全に隔離されてたはずです、私たちは生徒会室で。私たち四人もだし、何より……紫苑さんと、シバヅキから」
「……」
紡の視線が固まる。
かすみは続けて言った。
「シバヅキの目的が、紫苑さんの血肉を得て? 力を奪うことだとして。あの場で充分に、むしろ完全に、できたはずです」
紡が顔をうつむけ、考え込むように口元に拳をつける。
「……確かに。手合わせとやらに意味があるのか、それは置くとして。四尊を倒せば結界が解ける、そのチャンスをわざわざ作ってやる。その意味が無い……少なくとも無いように見える、か」
顔を上げて続けた。
「だが、どうだろう。明王というのはいわば、
かすみは小さく首をひねる。
「それは、あるのかもしれませんが。自分たちに取って無意味なチャンスを私たちに与えてまで、そうしたいものでしょうか」
紡は鼻から息をつき、首をひねった。
「つまりは。奴ら、何か企んでいるのでは、と。たとえばそうだな……何かしらの時間稼ぎ、だとか」
時間稼ぎ。その可能性はあるかもしれない、不必要な戦いを強いることで時間を稼ぐ。しかし、仮にそうだとしても。何のために時間を稼ごうと? 紫苑から力を奪うのに、そんなに時間が必要なものか? あるいは、何か他にやろうとしていることが――
歩きながらも考え込んでいたとき。
紡が不意に手を叩き、かすみの肩がびくり、と跳ねる。
「まあ何だ、とにかくだね! 仮に時間稼ぎ、その目的があるとしても、だ。要は、奴らに時間を与えてはいけない……それは変わらないはずだ」
顔を歪め、音を立てて歯噛みする。
「紫苑を、どうにかする暇など……あいつらに与えてなるものか」
拳を握り、指を握り鳴らした。
「ブチ殺す。結界を解き、紫苑を助ける。そしてシバヅキをブチ殺す。変わらないはずだ、私たちが奴らにやるべきことは。そして」
歩みを止め、かすみの目を見る。
「私たちの、ああつまり、私と君たちのやることは。同じはずだ」
目をそらして言う。
「……悪かった、君たちを巻き込んだことは。あるいは君たちを、軽んじて扱ったことは。だが、今はとにかくやるべきことをやろうじゃないか。……先に行くよ」
靴音をばたばたと立て、膝下に届く長いスカートをひるがえし。大股に駆け出した。
追って駆け出しながらかすみは思う。
そう、四大明王の目的が何であろうと。確かにそれがやるべきこと、そのとおり。
だが、と頭のどこかで思う。
それが果たして、引っかかっていたことだろうか。
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