五ノ巻19話 もう一つの勘違い
大威徳明王は六つの口で歯を軋らせた。
「――何だ、と……」
「続けないのか? 投降するならそれでもいい、無傷のまま広目天の力で封じよう。続けるのなら早くしてくれ、僕も急ぐんだ」
百見は肩をすくめてみせた。
「もっとも。どちらにせよ、すぐに終わるが」
六つの顔が一斉に引きつり、牙を剥く。
「――ほざけ! 受けよ、我が最速の――」
大威徳が跳び出しかけた、それより早く。
大威徳のその背から、黒い龍が躍っていた。
「【
百見が先ほど放っていた【
それが宙へと首をもたげる間に、辺りの壁から、手すりから。吹き抜け階段のそこかしこから、同じことが起こっていた。【
それらは大威徳の背から伸びていた龍と絡み、咬み合い。跳び出そうとしていた大威徳の動きを宙で絡め取っていた。
さらには百見の足下、床の上。歩き回りながら広目天が神筆の墨を落とし、点々と描いていたそこから。一際長く大きな龍が立ち上がり、大威徳へと絡みつく。
「凡人、愚鈍、頑張ったところで秀才止まり、か。芸がなくて申し訳ないが、さっきすでに使った手だ」
薄く笑う。
「とはいえ、だ。同じ手を喰らうお前も、なかなかの愚鈍だね」
幾多の龍に絡みつかれ、蜘蛛の巣に囚われたような格好で大威徳が声を上げる。
「――ぐ……! だが忘れた、か! 貴様の龍も水神としての力も、我には一切――」
百見は変わらずほほ笑む。
「通用しない、つまり無効。そうだね、『攻撃は』そうだろう。だが今のそれはどうだ? 我が龍どもが、お前に危害を加えているかい? そうじゃあないね。『龍は他の龍と絡み合い咬み合っているだけ、お前に牙を剥いてはいない』『何も攻撃はしていない』。結果としてお前を拘束してはいるがね」
歯を見せていっそう笑う。
「そして。お前は忘れている。我が広目天、神筆を握る記録者もまた四天王。つまりは武辺武門の
笑みを消して続けた。
「あんな悪夢を見せられて。この僕がお前に対して、もんの凄ぇ怒ってることを。……広目天、やれ」
広目天は無言のまま、強く唇を引き結んだまま。手にしていた筆と巻物を懐に収め。床から伸びる龍の体を、両手で、むんず、と強くつかんだ。
「――ま、待て、何を――」
大威徳の六つの顔が、それぞれに固く引きつるのも構わず。
「ぉおおおおおぉぉっっ!」
百見の叫びのままに。広目天は両手を、そこにつかんだ龍の体を振るう。辺りから伸びたいくつもの龍は、すでに壁から身を離し、敵へと絡みついていた。決して逃がすまいとするように。
そして、振り抜かれた大威徳の体は。そのまま、壁へと激突した。
「――ごぁ……!」
大威徳の
「【裏獄結界】とやらで造り出したのがこの学校、そうだったね。つまりはこの地この建物全て、『怪仏の力に拠るもの』。……怪仏に拠らない、物理的な力は怪仏に対してわずかな効果しか及ぼさないが。これなら大いに効くだろう」
百見は吹き抜け階段を見上げた。らせんを描いて続く手すり、辺りを囲む壁。そこら中に突き出たままの墨の柱と、大元帥明王が残した武器。
「つまりは。お前が用意したこの場所こそが、お前を倒す武器となる。……行くぞ」
広目天は何も言わず歯を噛み締め、龍の体を握り直す。
「――ひ……!」
大威徳の表情がこわばるのも構わず、広目天は手にした龍の尾を振るい上げた。両の手を広げて短く持ち、ぐるんぐるんと振り回して勢いをつける。やがて片手を緩め、宙へと放った。
空を裂く音を短く立てて、大威徳は階段の手すりへ顔面――下の三面――をめり込ませた。金属の手すりは円く歪み、コンクリートの土台がひび割れて破片をこぼした。
大威徳は声もなく、へこんだ三面から赤黒い体液を垂らしていたが。気にした風もなく百見は言う。
「へえ。生徒会室の壁は砕けなかったが、ここはそうでもないようだ。他の者と隔てる薄墨色の壁や、校外へ出る窓なんかだけにあの強度の結界があるということかな。つまり」
薄く薄く笑った。
「その堅い結界にぶつけてやれば、さぞ効くだろうということか。……やれ」
表情一つ変えずにうなずき、広目天は再び龍の尾を振るう。風を切る音を立て、宙で円を描いて振り回されるそれは。最高速に乗ったと同時、叩きつけられた。壁へ。そして階段、その角へ。また壁へ。反対側の壁へ、手すりへ、階段へ床へ壁へ壁へ階段へ壁へ。そこからさらに壁へ、そこからさらに手すり、さらに階段――
やがて。辺りの床には飛び散っていた。砕けた壁と階段の破片。赤味を帯びた墨のような体液。欠け落ちた壁の奥には薄墨色の結界がのぞき、そこにも体液が、まるで塗りたくられたようについていた。
そして。そこにまた、大威徳の体が叩きつけられる。
結界の壁に、粘りつくような体液の跡を残しながら。ずぅ、と大威徳は床へずり落ちた。六腕六脚のいくつかはあらぬ方向に曲がり、ぴくぴくと震えていた。
百見は額の汗を拭い、大きく息をついた。
「腐っても明王、さすがに頑丈なようだが。勝負あった、そう見ていいかな」
「――…………」
時折震えるばかりで、大威徳からは何の返答もなかった。
百見は万年筆をポケットに収め、本を小脇に抱える。両手で印を結んだ。
「むやみに苦しませるのは本意ではない……多少の意趣は返したかったがね。そろそろ封印し、終わりにしよう。オン・ビロバキシャ・ナギャ――」
目を閉じる寸前で薄くまぶたを開け、真言を唱える。
広目天は龍の尾を握っていたが、右手だけを離して懐を探り、筆を取り出した。
だが。その一瞬、大威徳の目は――潰れ腫れ上がった、六面のうちいくつかの目は――強く見開かれた。
「――
折れ曲がる六脚のうち、無事なものが床を踏み締め。矢のような速度で、体液をこぼす巨体を宙へと飛ばした。
同じく折れ曲がる六腕は、とうに武器を取り落としてはいたが。無事な手が四指を伸ばし、刃物のような
「! しまっ――」
百見が目を見開く。
広目天が龍の尾を引き、止めようとするがすでに遅く。
鈍い音を立て、貫手が肉体を打った。
「ふん……危なかったではないか、百見」
大威徳の手は確かに突き立っていた。賀来が駆け寄り、かばうようにかざした
賀来の右目が金色に光り、端正な顔が引きつるように歪む。その口から、
「――百見殿はまあよいとしても。我が魔王女にようもようも、あのような悪夢を見せてくれたものよ……!
その語気に反応したかのように、ツインテールに結んだ髪が、ふわり、と逆立つ。
歯を剥き出して歪んだ顔の横、燃え上がるように
仮面は一つではなかった。牙を剥き頬を歪めたそれらがいくつもいくつも、賀来の顔の周りに浮かぶ。
そうして賀来と
それらは揺らめきながらも寄り集まり、長く太く形を変え。ぎちり、とした肉を
賀来の、明王の口が低く声を上げる。
「――我が怒れる像容に諸説あり。
光った、賀来の目と辺りに浮かぶ鬼神の面、合わせて十八面の
構えた、ぎぎぎ、と
振るい落とされ、床に転がった大威徳は、六面の目をまなじりが裂けるほどに見開き。ただその様を見上げていた、震えることさえもはやなかった。
そして。床を踏み割るほどに踏み込み、その音を鈍く残しながら。大元帥明王は全ての拳を放った。
「――【
もはや拳の当たる音もなく、大威徳の上げる声もなかった。
打ちつける大波のような、迫り来る山崩れのような拳の群れは。
百見はなす
「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ――【神筆写仏】!」
広目天はその筆を振るい、宙に散った大威徳の塵をその墨に含ませ。百見の広げた白紙の本に、大威徳明王の絵姿を描いた。怯えたように六面の目を、ひどく見開いたその姿を。
「怪仏・大威徳明王、これにて封じた。……すまない、助けられた。賀来さん、それに
大威徳明王の絵姿に目を落とす。そちらに呼びかけるようにつぶやいた。
「……悪かった。もっと早く致命打を与えて、封じてやればよかったかもしれない」
その絵に顔を寄せ、ささやいた。
「せめてもう一つ教えておこう。『なぜ悪夢が解けたか』『心の強さか経文の
眼鏡を押し上げて続ける。
「『経文に
宙を見上げ、どこへともなく視線を浮かべた。
「仏教は誰も救わない。そういうものじゃないんだ、これは」
大きくため息をつく。小指で片側の耳をほじった。ほどなく耳から抜き出したそれには、黒く墨がついていた。
「お前の術から、悪夢から抜け出せた理由。これさ、たまたま墨が落ちてきた。僕がそこらの壁や階段の裏に放っていた、【広目連矢】の墨。それがたまたま耳に入って、その違和感で意識を取り戻した。まさに寝耳に水、といったところか。それで夢の中で自分のコントロールを取り戻し、やがて目を覚ました」
皮肉がるように頬を歪め、ほほ笑んでみせる。
「お前の術をこき下ろしてみせたが。あれはただのハッタリさ、お前の術という【要素】は僕の意識を黒く染め上げていた。この偶然がなければ、決して抜け出せはしなかったろう。……本来なら負けていたよ。ただとにかく、結果としては僕らの勝ちさ。それにしても……」
うつむき、黙った後。つぶやいた。
「お前、何であんな
そうしていた後、顔を上げて賀来の方へと向き直った。ぎこちなく目をそらしたまま。
「ああ、その。……助かったよ。すっかり助けられた、賀来さん、
深く、頭を下げた。
「すまなかった。賀来さんの、君たちの意思を考えず、ないがしろにしていた。本当に……申し訳ない」
鬼神の腕のうち一組を腰に当て、残る二本を胸の前で組み。
「――ふん……分かればよいわ。我の方、こ、そ――」
そのとき。突然、賀来の顔がひどく歪んだ。自身の小さな両手が、その口元を強く押さえる。
「な……どうした、賀来さん! どこかやられ――」
賀来は苦しげに身を折り曲げながら、ふるふると首を横に振る。片手で口を押さえながらもう片方の手を、すがるように百見の方へと出した。
「違、ぅ……ぇっ、すま、その、アーラヴァカが……あんまり、跳んだり跳ねたりして……ぅぇ」
げっぷのような、いや、えづくような声を喉の奥から洩らし、賀来は両手で口を覆った。
「やば……ぅぉえ、吐、これ、絶対吐く……ぉうぁえ……っ」
「な……にぃぃ!? ちょっと待て、とにかく、トイレに――」
顔を引きつらせた百見は駆け出し、廊下の角を曲がろうとしたが。未だ立ちはだかっていた、薄墨色の壁に全身をぶつけた。
「な!? これまだ残ってんのか!? 四尊全てを倒さなければ解けないということか、いやしかし――」
すがりつきながら壁を何度も叩く。その向こう、廊下の端に見えるトイレの入口を見ながら。
「そこ! すぐそこにあるのに! 何でだよ! いや……そもそもこの異界のトイレ、水道なんか機能するのか……!?」
そのとき。引きずるような足音を立て、口元を押さえたままの賀来が、背後に来ていた。
「百、見……そっ、ちか……」
すがるように差し出した片手が、百見の肩を強くつかむ。
「! ま、待て、こっちは駄目だ! 二階、階段を上がった所にトイレが――」
アーラヴァカの手が不器用に賀来の胸や背をさするが。具合のよくなった様子はなく、賀来は身を折り曲げている。
百見は押さえるように賀来へ手を向け、ゆっくりと階段の方へ歩き出した。
「待て、いいか落ち着け、大丈夫だゆっくり行こうじゃないか、さあ二階へ――」
しかし。百見の肩を握り締めた賀来は、その場に足を止めたまま。小さく、首を横に振った。
「待……無、理、助け……て」
「わああああ待て、落ち着け
賀来の目が、観念したように閉じられる。
「も……だ、め……ぇ……」
「わぁあああやめろ、こっち来んな
百見の悲痛な叫びは、吹き抜け階段の彼方へと遠く響いた。
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