五ノ巻18話  百見、明王へ説法す


 百見は大威徳明王に向き合い、語り出した。

「分かる。分かるさ、疑問があるのだろう、答えて差し上げよう。いったいなぜ――」

 万年筆の先で大威徳を指し、続ける。

「なぜ。如是我聞にょぜがもんではなく、如是我聞じょしがぶんと発音したのか」


「――……は?」


 大威徳が十二の目を瞬かせるうちにも百見は言う。腰の後ろに手を組み、傍らに広目天を従えて、歩き回りながら。

「『かくの如く我は聞いた、御仏が語られるのを』多くの経文の出だしとなる定型句だが、その発音が間違っているではないか? そのように感じたのだね、なるほど当然の疑問だ。そうなぜそのような発音をしたか、金剛大毘盧遮那如来こんごうだいびるしゃなにょらいではなく金剛大毘盧遮那如来きんこうたいひろしゃだじょらいと発音したのか」


 大威徳は何か言いたげに、空いた手を前に出す。

「――い、いや待て、何を――」


「日本の仏教において経文を読誦どくじゅする場合、一般には呉音ごおん、つまりは如是我聞にょぜがもん、といった発音となる。だが僕が今読んだ『理趣経りしゅきょう』については、特に漢音かんおんで読むよう定められているのさ。先程上げた例で言えば如是我聞じょしがぶん金剛大毘盧遮那如来きんこうたいひろしゃだじょらい、といった風にね。ちなみにこの――」


 大威徳はわずかに顔を引きつらせ、声を上げる。

「――だ、だから待て、何の話をして――」


 百見は変わらず後ろ手を組んで歩いている。広目天も同じ姿勢で、筆を後ろ手に垂らして従っていた。

「――ご存知『理趣経』だが真言密教のいわば奥義書であってねだがその内容については非常に深遠微妙なものを含みそれゆえに誤解を生じやすいものでもあって注意しなければならないところだ、そうそうこの理趣経を解説したおなじみ『理趣釈経りしゅしゃくきょう』という経典もあってだねこれはかの伝教大師最澄さいちょうがかの弘法大師空海から借り受けようとして双方の仏法観の違いから断わられ、お二人の断絶の一つのきっかけと言われており仏教史的な意味でも大きな意味を持つんだもしこの二人の天才の道がすれ違わなかったらいったいどのような仏法の展開があっただろうか、歴史にもしもはないとはいえど考えてみるのも益のないことではないはずだがさてそこを考えるに当たって押さえておかなければならないのは何といってもまず――」


 大威徳が武器を持たない、二本の手で頭をかきむしる。

「――えええいやめろ! そんなことを聞いているのではない、わ! 貴様はなぜ――」


 百見は足を止めた。

「なぜ。お前の見せた悪夢から脱することができたのか、だろう」


 大威徳の六面が、一斉にひどく引きつる。

「――……そのとおり、よ。拙者の【大威徳・悪夢『非』消滅法】を、自力で破るなど不可能のはず……他者から無理に起こされでもせぬ限り、脱するすべなど無い。我が秘術は貴様の心を、悪夢の底に捕らえておったはず、ぞ! なぜだ、それほどの心の強さがあるとでもいうのか! あるいはまさか、その経の功徳くどくとでも――」


 百見は二つ指を立てる。ピースサインを作るように。しかしまるで中指を立てて見せるように、手の甲を相手に向けて。

「お前は二つ勘違いをしている。まず一つ『お前の力が僕の心を捕らえた』という勘違い。いや、もっと重大な、根底からの間違いだ――この世の誰もが陥りがちな思い込みではあるがね――、『心などというものが、そもそも存在する』という勘違い」

 首を横に振って見せる。

「『心などというものは無い』。この世のどこにも無い。無いものに強いも弱いも無く、清いも汚いも無く、傷つくも癒されるも無く。そもそも無いものを捕らえられるはずがない」


「――な……?」


 六つの口を開けた大威徳が固まるうち、再び百見は歩き始めた。片手でポケットからハンカチを出し、広げてみせる。

「ここにハンカチがある。そう見えるかな」


 大威徳は武器を構え、眉根を寄せながらもわずかにうなずく。


 百見は首を横に振った。

「ここにハンカチなどは無い。『この世にそもそも、ハンカチなどという実体は存在しない』」

 ハンカチをもてあそびながら続けた。

「詳しく説明しよう。ここにハンカチと呼ばれるものがあるとして、だ。これを構成する縦糸と横糸、これらを半分ずつ引っこ抜いたとして。残ったものは、果たしてハンカチだろうか。そのスカスカな糸の集合体が、ハンカチと呼べるだろうか? ……無理だね。では引き抜いた糸を戻してだね、今度は逆に、先程抜かなかった半分の糸を抜いてみよう。この残ったもの、これがハンカチなのだろうか?」


 百見は首を横に振る。

「無論、そうとは呼べないね。……するとなると、おかしいな。半分を抜いたものはハンカチではない、だったらその抜いた半分こそがハンカチなのかというと、そうではない。『どちらの半分もハンカチではない』。ではその半分ずつの糸、両方を足したものがハンカチなのだろうか?」


 両手の上に何か持つような仕草をして、それらを重ねるように手を合わせ、何度か握ってみせる。

「ならばこのように両方の糸を合わせて、適当に丸めてみよう。これが果たしてハンカチなのか? ……違うね、これではただの糸の固まり。……おかしいな。最初から何も無くなっていない、なのにハンカチはどこにも無い」


 手にしたハンカチをひらめかせてみせる。

「つまり、だ。『ハンカチという確固たる実体などは、最初からどこにもない』。『多数の糸が縦横に四角く織られている、その【状態】【現象】が【仮にハンカチと呼ばれている】に過ぎない』。これは仏教の初期、原始仏典における『ミリンダ王の問い』という説話においてすでに説かれた教えだ。そして……人間自身、その心もまた同じ」


 ハンカチを広げ、そこに指を走らせてみせる。縦糸横糸を示すように、縦横に。

「たとえば、あるいは親からの遺伝、たとえばさらにその親からの、そのまた先祖からの遺伝。たとえば家族との思い出。友人からかけられた言葉。たまたま見たテレビCMの言葉。ドラマのセリフ。親にこっぴどく叱られたこと。愛読する本。家族で見に行った映画。ネットでの誹謗中傷。外食中隣のテーブルに座った、見知らぬ人の恋愛話。台風の翌日に見た景色。叶わなかった初恋。風邪をひいて遠足に行けず、ベッドの上から見上げた天井の木目――などと、などと、無数の体験や体質的素地……それら縦糸と横糸、『無数の要素』と『それら要素による、新たに加わっていく要素に対する反応』が織り成している、【状態】であり【現象】。それこそが、仮に【心】、【自我】と呼ばれているに過ぎない。『心などという、確固たるものがあるわけではない』。それはつまり――」


 間を置いて続ける。

「まさに仏教でいう『色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき』。『【物質や心といった、一見実体があるように見えるもの=しき】は、【実体のない現象・状態=くう】に過ぎない、その両者は等しい』」


 ハンカチを畳み、ポケットに収めながら言う。

「要素は無数に流れ込む、つまり新たな糸が。織り成す糸の色が変われば、ハンカチの色も柄も変わる。古代ギリシャの哲学者、ヘラクレイトスはいみじくも『万物は流転するパンタ・レイ』という言葉を遺しているが、それは心という【現象】にもあてはまるというわけだ。正に仏教でいう『諸行無常』――【物質という現象・状態】【心という現象・状態】それらは決して『永遠ではなく、常に移ろい、やがて消えゆく』」


 大威徳を指差してみせる。

「ゆえに、だ。心という『存在しないもの』を、捕らえておくことなど不可能。【状態】を【現象】を、いったいどうやって捕まえる? たとえるなら、お前の手は捕らえられるのか、【竜巻】を。一見、竜巻という実体があるかのように見えるが無論違う、空気の渦であり気流・気圧の生み出す【現象】。そのどこを持てば『竜巻を捕らえた』などと言えるんだ? それと同じく――どこをつかめば『心を捕らえた』などと言えるんだ?」


 ため息をついて続けた。

「お前の術は、確かに【心という現象に大きな影響を与える一要素】ではあるのだろう。だが、一つの要素が新たに加わったところで、【心という現象】をいつまでも御しきれるわけがない。その【現象】は常に変化し続ける、竜巻が渦を巻くように。風が絶えず吹き続け、一つ所に留まらないように」


 大威徳の目を見、笑ってみせる。

「もう一度言おう。お前の【要素】が多少影響を与えたところで、この【現象】の全てを捕らえ切れるはずもなく。移ろいゆく【現象】は、いずれお前の【要素】から外れる」


 大威徳はただ、六つの口を開けていたが。やがてその口全てで口早に言う。

「――馬鹿な、馬鹿な! そんな理屈があるか、だいたいそちらの者は変わらず、拙者の術中に――」


 百見の足下には未だ賀来が横たわり、うなされたまま目をつむっていた。

 無言で足を振りかぶり、百見は賀来の体を蹴った。


「ごぇ!?」

 呻き声を上げるも賀来は目を開けず、百見はもう一度蹴った。

 さすがに目を瞬かせ、賀来が首を起こす。

「……え、痛った……なに、なになにもう、もう朝か……?」


 百見はそちらに目を向けず、大威徳を見据える。

「僕の蹴りという【要素】、それで彼女という【現象】はまた変わった。お前の術の効果という【要素】は、一方途切れたようだな。……さて怪仏・大威徳明王」


 眼鏡を押し上げて言った。

「戦闘を続けよう。お前という【現象】はそれで終わる。僕の用意した【要素】が、それをすでに決定づけている」


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