五ノ巻17話 悪夢
――ひそひそと
校内を賀来留美子が歩く、その度にひそひそと。波音のように風音のように、彼女にたかる虫の羽音のように、それは後をついて回る。
おかしな子だと、どこか違うと。
何か違う、おかしな子だと。
賀来留美子が辺りを見回しても、誰も彼女を見てはいなくて。それでも確かにひそひそひそと、声が後ろをついて回る。
そもそも賀来が通う学校は、こんな風だっただろうか。こんな、モノクロームの景色だったろうか。廊下も教室も、生徒も校庭の木も、空も雲も太陽さえも。こんな、白黒だっただろうか。
少なくともそう、今通っている高校ではない。二、三ヶ月前まで通っていた中学。賀来自身が身につけているのも、当時指定の――今のブレザーとは違って無改造の――セーラー服。頭の両側に分けた髪をつまみ、目の前にかざしてみても、銀に染めた部分はない。
背後から声が聞こえる。耳の両側から、鼓膜に染み込むような声が聞こえる。
おかしな子。
何を考えてるか分からない。
まともに挨拶もできない子。
何を言ってるのか分からない。
変わった子。
何をするか分からない、きっと。
賀来が耳を塞いでも。その声はするり、と掌に染み通り、耳の奥へと届いていた。
賀来が廊下を駆け出しても。その声はさやさやさやと、後をついて回っていた。
あまりに言葉がついて回るので、振り払おうと後ろを向く。耳を塞いでいた手を辺りへ振り回そうとして、気づいた。
その手が半分、無くなっていた。
無くなっていた、指の三本と掌の半分。肉も骨もかじられていた、その身にたかる虫、大きな口にずらりと歯をそなえた蝶や、腕の上を這いずる、牙を持った芋虫に。
それらは言葉だった、ささやかれる言葉だった。それらが賀来の体をかじるひそやかな音こそ、賀来への囁き声だった。
反射的に頬が引きつる――そう思ったのは錯覚で、頬などはすでに無かった。それはもう、言葉の蟲にかじり取られてしまっていた。
廊下の窓ガラスに映る姿を見れば、もう賀来は半分も無かった。囁く声がひそやかに交わされる中、蟲食いの穴が体中に開き、肉を骨を、ほの白い内臓をさらしていた。
顔はもう食い潰されて無く、その下の頭蓋骨すらもかじられて無く。こぼれ落ちた目玉だけが廊下に落ち。そこから、自分の食われる様を見上げていた――。
――また届かなかった、また。
教室の席についていた、岸山
両手で握り締めたテスト用紙は、潰れるような音を立てた。九十六点、と書かれたそれは。
ふと気づけば、その両手は小さかった。まるで小学生、高学年の生徒のように。
顔を上げれば、モノクロームの教室の中。先生に名を呼ばれた別の生徒が、前へ出てテスト用紙を受け取る。百点、と告げられながら。
どす、と、背中に何かが突き立つ感覚。投げつけられた刃物のような。
「愚鈍」
言葉だった、刺さっていたのはその言葉だった。ナタのように太い刃物、その姿を取った言葉。
振り向くまでもない、投げかけたのは誰か分かっている。
百見。同じ顔同じ姿をした百見自身が、一見の背後にいる。冷たく突き通すような目で、一見を見ている。
同じだった、いつも同じだった。
返ってくる、中学のテストの答案。
言葉が刺さる。刃物となって刺さる。突き立てたのは百見。
「凡人」
返ってくる、塾のテストの答案。
言葉が刺さる。刃物となって刺さる。突き立てたのは百見。
「愚物」
精魂込めた読書感想文。賞の候補になるも、選に洩れる。
言葉が刺さる。刃物となって刺さる。突き立てたのは百見。
「才能が無い」
同じく全てを込めた作文。これも同じく選に洩れる。
言葉が刺さる。刃物となって刺さる。突き立てたのは百見。
「進歩が無い」
走っていた、走っていた、いつしか。前を行く者の背を追い、懸命に。刃物が幾つも幾つも突き立ち、血を流す体のままで。
それでも、前を行く者らの背は遠く。見る間に距離が開き――一見と彼らとの間の、道そのものが伸びていくかのように――距離が開き。日がくれ、闇が落ち、その背は全く見えなくなる。
闇の中、耳の後ろの声だけが聞こえる。
「愚人。非才。平凡な男。無駄な努力。センスが無い。頑張ったところで秀才止まり」
その背にいくつもいくつも突き刺さる刃物の体積は、もはや百見自身を越えようとしていた。その足下には背から滴り落ちる血が、赤く深く血溜まりを作っていた。
気づけば、景色が変わっていた。
白黒ではなかった、薄いながら色のついた景色。柳、菩提樹、
その縁側で座禅を組んでいた。一見は。無数の刃物を背に突き立て、血を流したままで。
隣では崇春が、同じく座禅を組んでいた。一見の血や刃物に気づく様子も無く。
ただやってみたかのような、そんな座禅だった。
離れて立っていた祖父が、これも一見の様子に気づく様子もなく、そこにいた――禅宗で使うような、肩を叩く
そしてふと、声を漏らす。
「富士の山。あるの」
一見が何も言わずにいると、祖父は続けた。
「あれをの。お前の懐にしもうて、また出してくれんかの」
何を言っている。そう思ったがすぐ理解した、これは公案。つまり禅問答、その問題だと。
しかしなぜ禅問答、密教宗派で、そもそも座禅中にやるものでもない、問いも一見の知識にはない、物理的に無理のある命題、つまり『不可能』それ以外に答えなどない、なのになぜ、わざわざ問うた――
そう、思考が一見の内を駆け巡るうち。
隣で崇春が首をかしげた。
「むう? おかしなことをおっしゃるわい。わざわざ出すの、入れるのせんでも。もう、とっくに出とろうわい」
祖父はわずかに微笑み、うなずいた。
百見が背後で言う。
「お前が愛し敬った者が、お前が愛し敬った者の前で。お前が愛し敬ったものを、奪っていった。選ばれなかった、お前は誰にも」
その言葉が。刀の形をした言葉が、一見の首をはねる――。
――そうして、【裏獄結界】の学校で。
大威徳明王は六つの顔のうち、頭上で小さく横に並んだ、三面の目を静かに開く。賀来と百見、二人の見る悪夢をのぞいていた目を。
そうして立ち上がり、十二の目で見下ろした。足元の床に転がる二人を。
あお向けに横たわる賀来は、うなされたような声を時折上げ。目を覆うように、あるいはそこに顔があるのか確かめるかのように、手を顔に当てていた。自分の手ばかりか、アーラヴァカのたくましい腕さえも、顔を体をさすっていた。
百見は横向きになり、胎児のように身を丸めている。何も言わず、痛みに耐えるかのように時折震えながら、自らの腕を抱いている。
そして。その神仏を
それは文字どおり、敵を悪夢に引きずり込む力。その者がかつて体験した、忘れたい思い、しかし忘れ難い思い――それを元にし、さらに強調した、自らを喰い破るような悪夢に。
その悪夢はその者自身の意識を元にしたものであるがゆえに、誰もそれに抗いはできず、引きずり込まれることとなる。
大威徳は六つの顔でほくそ笑んだ。
「――ふ……いささか焦りはした、が。四大明王最強たる、拙者の力にかかればこのとおり、よ……赤子の手をひねるが如し」
二本の腕を体の前で組み、六つの顔の目を閉じて何度もうなずく。そして、剣に宝棒、
牙ののぞく六つの口が小さく開き、計ったように一斉に、舌なめずりをした。
「――さて、よ……いつまでも悪夢の中におるのは苦しかろう、ぞ。一思いに――」
武器を振りかぶり、再び二人を見下ろす。
――と、何かがおかしかった。
二人は変わらず横たわっていた、賀来は変わらずあお向けでうめいていた。
百見は変わらず横を向き。だが、身を丸めてはいなかった。
脚を伸ばし背筋を伸ばし、右ひじを床について右手は頭を支え。
「――ん……?」
大威徳が十二の目を瞬かせるうち、つぶやくようなその声は聞こえてきた。
「
横たわったまま、目を閉じたまま。百見の口が動いていた。
大威徳がさらに目を瞬かせるうちにも、その言葉は続いていた。
「
百見は、経を唱えていた。横になったまま、目を閉じたまま。手枕をしたような安楽な姿勢で、真顔で。
「――な!? んだこれ、は……?」
つぶやく大威徳は、上部三面の目を閉じる。そうして百見の意識を、その悪夢の情景を見た。
――一見は首を落とされて、まだ縁側に座していた。背中に大量の刃物を突き立てられ、血を流して。
その生首は縁側に載っていた。自らの血溜まりの中で、自らの体と向き合うように、転がったままそこにあった。
目を閉じた、その首が口を動かす。
「――
それを目にしても身動きはしなかった、崇春も祖父も。いや、それらはすでに動きを止めていた。庭の木々や岩、縁側の柱や床板と同じく、動きを止めていた。
ただ一見の背後、もう一人の百見だけが、表情を変えず言葉を放つ。
「浅学。
一見の体はそれでも座し。生首はなおも経を読む。
「――
背後の百見が顔を歪めた。
「何をしている、
一見が、その生首が、薄目を開けた。
「
「な――」
口を開けた。背後の百見も、見ていた大威徳も。
生首はなおも言う。
「どうした、先があるだろう、その先が。……
表情を失いながらも百見は言う。
「な、
生首が言う。
「
百見が言う。
「ばか、ばか、ばか、ば――
生首が言い、百見が言う。
「
「
一見が、百見が言う。
「
「
辺りには何も無かった。
崇春もなく、祖父もない。庭の木々も岩もない。
縁側の床も柱もなく、そもそも縁側も庭もない。
空もない。地もない。血溜まりも刃物もなく、生首もない。
一見もなく、百見もない。
大威徳明王の見る情景は、そこで途切れた。
――そして今。裏獄結界内の学校で、大威徳が見たものは。
いつの間にか身を起こし、そこに座し。静かに目を開ける百見だった。
「
そうして本と万年筆を手に、百見はゆっくりと立ち上がった。
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