五ノ巻16話  最強を名乗る所以(ゆえん)


 大威徳は歯軋りの音を強めた。

「――ぬか、せ……!」


 大元帥たいげんは逆さに張りついたまま、無言で手を差し伸ばし。誘うように四指をひらめかせてみせる。


 六面の頬をいよいよ引きつらせ、大威徳は身構えた。六本の脚に溜めを作り、跳び出そうという瞬間。


「【広目一矢こうもくいっし】!」

 階下から百見が、広目天が放った墨の矢。柱のように太い一の字が、大威徳の背を打った。


「――なぁっ……!」

 体勢を崩しつつも、大威徳は壁にしがみつく。その背には血飛沫しぶきのように墨が散っていた。


 百見は眼鏡をかけ直す。

「僕のことをすっかり忘れていたようだが」

 微笑んで続ける。

「ありがとう。おかげでお前を倒せそうだ――【広目連筆】、【広目連矢れんし】!」


 百見の声と共に、広目天が矢継ぎ早に筆をふるう。その筆先の向こうに墨が飛び、筆跡のままに墨の柱となって壁の各所に突き立った。

 さらにふるい続けた筆から、腕ほども大きさのある墨の矢が無数に放たれる。様々な角度、方向から、大威徳を目がけて。


 だが、大威徳は表情一つ変えずに跳ぶ。無数の矢は空を切ってその場を通り過ぎた。

 大威徳はさらに何度も壁を跳ぶ。辺りに突き出た墨の柱を苦にした様子もなく、軽やかにその隙間を縫って。


 百見はつぶやく。

「それでいい――【跳弾連矢ちょうだんれんし】」


 かわされ、空振ったまま飛んだ矢が。その先で墨の柱に打ち辺り、弾き返されたかのように方向を変える。いくつもいくつもの矢が、いくつもいくつもの柱で。

 跳ね返された矢は全てが、大威徳の方を向いていた。


「――な――」

 大威徳は壁を蹴ってかわそうとするが、時遅く。いくつかの矢をその身に受けた。

 だが、矢の大半は再び空を切った。その先で様々な場所に打ち当たり、壁に黒く染みをつけたのみだった。


 バランスを崩しつつも、大威徳は無理やりに近くの壁を蹴った。その先で壁を蹴り、その先でまた壁を蹴り。その度に速度を上げ、動きを速め。

 その動きがやがて残像を伴う。いくつもいくつもの残像が宙を跳び交い、そのどこに大威徳自身がいるのか、もはや見当もつかない。

「――ふん……貴様らがいかな力を持とうとて、拙者に触れられねば即ち無力。四大明王最速たる拙者こそ即ち、最強……! 受けよ、【大威群影たいいぐんえい必滅ひつめつじん】!」

 無数の残像、その六面。それらの視線が全て、階下の百見を差す。


 表情を変えず、百見は言った。

「【墨龍撃屠ぼくりゅうげきと】」


 大威徳は鼻で笑う。

「――龍の力など無駄と言った、はず――」


 それでも龍は現れた。大威徳の背から。先程【跳弾連矢ちょうだんれんし】を受けた背に散った墨。そこに飛沫で描かれた龍の形から、立ち昇るように。

 龍は咬みつきはしなかった。ただ、ぐるりと大威徳の体を巡り、縛りつけるようにして。そこからさらに首を伸ばした。辺りの壁へと。

 突き出した墨の柱を咬もうとして、何度か空振った龍は。やがて階段の手すりを咬み締めた――同時に大威徳の動きに、強烈な制動がかかり。

 龍はその身をちぎり飛ばされながらも、敵の動きを止めた。大威徳の体は宙へ、ゆるり、と放り出され。どこにも、蹴るべき壁はない。


「――しまっ、た……!」

 

 大威徳が空しく六脚をばたつかせる間に、百見は声を張り上げる。

「今だ! 賀来さん!」


 階上から、青黒いもやを身にまとい。金の右目を光らせて、賀来が――大元帥明王が――跳んだ。

「――承知よ、百見殿。【降牙こうが瀧勢劈りゅうせいへき】!」


 蜘蛛の巣にでもかかったように、手足をじたばたと動かす大威徳の体を。大元帥の振り下ろす八腕がとらえ、落下する勢いのまま、階下の床へと叩きつけた。

 重い音と共に、床に走ったひびの中央。抵抗するように掲げていた六腕が、ぱたり、ぱたりとその場に倒れ。大威徳は声も無く、賀来の手の下に倒れていた。


 百見はそちらに駆け寄る。

「賀来さん! ……それに、大元帥明王。大丈夫かい」


 金の瞳を閃かせ、大元帥は笑って立ち上がる。

「――無論。この我がおるからには当然よ。のう、魔王女よ」

「う、うむ……」

 一方、賀来は。引きつった笑みをうかべてうなずいた後。その表情のまま唇を震わせ、目の端に涙を浮かべ。膝からその場に崩れ落ちた。


「どうした、どこかやられて――」

 百見は慌てて駆け寄り、賀来の前にかがみ込むが。


 賀来は変わらぬ表情で、震えながら首を横に振る。

「違っ、けど……けどお前、な? アーラヴァカのことは信頼しておる、しておるのだが……」

 虚ろな眼をして続ける。

「最上階から紐なしバンジー……壁を蹴って三角跳び……壁ダッシュからの体操競技、ウォールクライミング……さらには頭からダイブしてとどめ。そなたの力ならできるのは分かる、分かるのだが――」

 自らの腕で、ひどく震える両肩を抱く。

「怖いだろ! 怖過ぎるだろ! 体を動かしてるそなたはいいが! 私は、我は身動きも予測もできないまま、その動きに振り回されてるんだぞ!」


 同じ口から低い声が、慌てたように応じる。

「――あー……す、すまぬ魔王女! 大丈夫か、我の気づかいが足りなかった様子……!」

 アーラヴァカのたくましい六腕は、賀来のポケットからハンカチを取り出し、涙と額の汗を拭き。櫛を出しては髪を整え、残りの腕が肩を背を、頭を頬をなでさする。


 その分厚い手に頬を寄せながら、眼をつむった賀来は涙を流す。

「うぅぅ……せいぜい、もっとなでてもらおうかぁ……!」


 百見はため息をつき、肩を落とす。

「仲がいいようで何よりだよ……ん?」

 そのとき気づいた。いや、そのときまで気づけなかった。賀来に気を取られ過ぎていた――本来、警戒すべきだったもの。

 倒れていた大威徳明王が、震えながらわずかにその身を起こし。二人へと手を伸ばしていた。血というよりは墨に近い、赤黒い体液にまみれた手を。


「ぐっ……!」

 とっさの動きだった。百見は賀来の肩に手をかけて引き倒し、自らも倒れ込む形で、迫る手から距離を取った。

 だが、ほんのわずか遅く。伸ばされたいくつかの腕のうち、二本の指が百見と賀来、それぞれの額へと触れた。

 打撃を受けたわけではない、爪の一つも立てられてはいない。擦るように触れられたに過ぎない。


「――オン・シュッチリ・キャラロハ・ウン・ケン・ソワカ……!」


 なのに。すぐさま立ち上がろうとした百見の脚が緩み、膝が崩れ、気づけば廊下に手をついていた。

 目まいがした。まるで天井が歪み、壁が揺らめき、床が躍るような。自分の骨さえ頭蓋ずがいの内さえ、溶けて流れ出しそうな。

 見れば、賀来も床に伏したまま、目を見開いたまま、ひどく震えているようだった。その目線があちこちへと絶え間なく動き、だがどこにも焦点が合っていない。


 こちらも未だ床に伏したまま、大威徳が顔だけを起こす。

「――四大明王にて拙者こそ、最強……その訳は、拙者の力。六脚による速さなどでなく、大威徳明王がつかさどる『第六識』――すなわち、『意識』。そこへと干渉する力、よ」

 赤黒い体液にまみれた、六面全てが。いっせいに、歪んだ同じ笑みを浮かべた。

「――【大威徳・悪夢『非』消滅法】……我が真言を以て祈られる、悪夢消滅法の真逆。せいぜい見るがよい、わ。良き悪夢を、な」


 百見は首を起こし、大威徳へ手を伸ばしたが。その首も腕も力を失い、床に落ちる。

 あるいは波のような、揺りかごのような揺れをその床に、あるいは大地の上に感じながら。黒い海のような何かの底へ、落ちていくような感覚。


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