五ノ巻12話 アーラヴァカ
「な……ぁ……?」
空気が足りないかのように口を開け閉めさせながら、百見は賀来を指差していた。その肩から伸びる、
唇を吊り上げて賀来は笑う。
「お、早速
自分の腕は胸の前で組んだまま、鬼神の腕を器用に動かし。金色を帯びた、髪の房をかき上げてみせる。
「どうだ、オシャレであろうが。ちょうど金髪にも挑戦してみたかったところよ」
首をかしげてウインクしてみせる。慣れない様子で眉間にしわを寄せて、金色の方の目をつむって。
「そういう話をしてるんじゃあ――」
顔を歪めて叫んだ百見。その鼻が突然つつかれた。近寄ってきた賀来の、野太い鬼神の指に。
「そういうときは『君はバカか!』とか言うのではなかったか? 動揺しておるな、ん?」
賀来は意地悪く笑ってみせる。鉄のような鬼神の指で、なおも鼻をつつきながら。
「な……は……」
口ごもり、視線をさ迷わせた後、百見は鬼神の手を振り払った。
「……なら言ってやろう。君は
眼鏡をかけ直し、真っ直ぐに賀来を見た。
「分かっているのか。昨日君が……その怪仏が何をしたか」
ふ、と賀来は笑う。優しく目を細めて。
「そなた。さては、恋をしたことがないな」
百見は、かくり、と口を開け、そこから言葉が遅れて出た。
「…………は?」
変わらず笑って賀来は言う。
「あるのならば分かるはずぞ。恋に落ちるに、何年もかける者がおるか? いや、まあ、おるかもしれんが……」
自分で言って、自信なさげに視線をそらした後で続ける。
「それでもな。本当に恋に落ちるには、一瞬あればそれで足りる。人が心を変え、心を決めるのに、ただの一瞬で足りるのだ」
そのとき。アーラヴァカの拳に打たれ、身を引いていた大威徳明王は手すりにつかまり、六本の脚で身を支えて階段の外側にぶら下がっていたが。しびれを切らしたように声を上げた。
「――ええい……何をごちゃごちゃ、と……! この大威徳明王が刃の錆びとしてくれる、わ!」
ぶら下がっていた手を離すと同時。六腕のうち二本の腕が小さく動き、小ぶりな宝輪――車輪を模した形の金属輪――を手裏剣のように放つ。
直後。六本の脚が、打ち抜くような音を立てて壁を蹴り。その巨体が二人を目がけ、弾丸のように飛んだ。先に放った宝輪を追いかけ、追いつくほどの速度で。
「――受けよ。【
二つの宝輪と、剣、戟、棒を構えた巨体。それが同時に二人を襲う。
「く……」
百見が印を結び、すでに現れていた広目天が筆を構える。
それより早く、賀来は言った。
「アーラヴァカ。任せる」
「――委細承知よ」
賀来の右目が金色に光る。その軌跡を宙に残して前へと踏み込む。
体の前に折り畳むように、小さく構えた鬼神の四腕。その二腕を外へ開き、二つの宝輪を外へといなし。
残る二腕を続けざま、花弁が開くかのように振るう。それらはまるで、門を開けるように相手の腕を――六本腕のうち四腕をまとめて――外へとさばく。
「――ぬ……!」
大威徳明王は体勢を崩しつつ、残る二腕で握り締めた、一本の剣を突き出すが。
先に賀来が、アーラヴァカが。もう半歩踏み込んでいた。
「――【
突き出す、賀来自身の小さな両
そして、再び閉じて脇を絞り。折り畳むように弓の
「――が……!?」
遠く吹き飛ぶのではなく、その場で地に落ちた、敵は。まるで吹き飛ばすためのエネルギーさえ、その身の内に叩き込まれたように。
そのエネルギーが、打撃の震動が、体内を駆け巡るかのように。明王は地に伏し、震えていた。
それを踏みつけるべく、賀来は――アーラヴァカは――、スカートがまくれるのも構わず高々と脚を上げ、厚底の靴を振り下ろしたが。
明王はさすがに転がり身をかわし、六本の脚で跳びすさり跳び上がり。階段の上へと距離を取った。
ふん、と賀来が――アーラヴァカが――鼻で笑う。
「――さすがにこれだけで終わらせてはくれぬか。大威徳明王とやら、まあまあの敵よ……せいぜい楽しませてもらうとしようぞ」
賀来の声が応じた。
「で、あるか。ならば
鬼神の右腕、その上側の腕が胸に当てられ、左足が引かれる。そのまま、小さく礼をした。
「――仰せのままに、魔王女カラベラ」
「ちょっと待て」
こわばった表情で、百見が口を挟む。
「待て。……まさか、君は。自分の体を、怪仏に操らせている……のか」
自分の腕を腰に当て、鬼神の腕を胸の前で組み。賀来が背を反らせてみせる。強く鼻息をついて言った。
「そのとおりよ、見れば分かろう」
顔を引きつらせて百見は叫ぶ。
「君は
その語勢に賀来が目をつむった、そこへ言葉を畳みかける。
「何なんだ、本当に忘れてしまったのか? 昨日君が、いや、その怪仏がしたことをだ! 君の体を乗っ取り、斉藤くんを血まみれにしたんだぞ! 言いたくはないが……その手で。君のその手で、だ」
百見は顔を歪め、賀来の手から目をそらすように、うつむく。
顔を上げると続けて言った。
「
賀来が腕を組み、鬼神の四腕もまた腕を組む。
賀来はうつむきつつも、口を開いた。
「そう、それよ」
「――うむ、それよ」
うつむいたまま賀来は言う。
「私だって……我とて、そう思った。だから話し合った、昨日の晩にアーラヴァカと。そうして分かったのだが――」
その言葉をさえぎるように、突如賀来が――いや、アーラヴァカが――顔を上げ、天を仰ぐように声を上げた。
「――惚れ申したっっ!」
その大声に百見が顔をしかめていると、今度は賀来が喋った。
「そう、そうなのだ。アーラヴァカが言うには、昨日の――」
「――
鋼の如き鬼神の四腕、それらの人差指をつつき合わせながら。怪仏は視線をそらせ、小声で言った。
「――惚れ……申したぁ……」
小さな肩をすくめて賀来が言う。
「だ、そうだ。自分の全力を受け切って、なおも
「……え? は……えぇ?」
目を瞬かせ、口を半ば開けて百見はつぶやく。
そうするうち、賀来の顔が――百見から見て――右を向く。百見に金の右目を見せて。まるで、そちらにいる者に喋りかけるように。
「――言っておくが、ぞ。魔王女、いくら
とたん、賀来が――同じく百見から見て――左を向く。百見に左目、素の茶色の瞳を見せて。
「え。えええぇっ!? なんだそれ、想われ、とか! いいか待て、聞け、確かに斉藤くんは
押さえるように賀来の手が前に向けられる。
そうするうちにも賀来は逆を向き、瞳が金の光を放つ。鬼神の腕の一つが、指差すように賀来の顔に向けられる。
「――ほら見よ、ほーら見よ!
賀来がまた逆を向く。小さな手を拳に握り、腰の横へ払いながら言った。
「だから聞けぇ! いいか、斉藤くんは義理堅い
また逆を向く賀来。鬼神の四腕を胸の前で組み、深く何度もうなずく。
「――そう、そのとおりよ、よく分かっておる。斉藤様は実に義に
また逆を向く。
「そう、そうだけど聞けって、よいか、斉藤くんはな、ただ、我が以前に教えてやった
たまらず頭をかきむしり、百見は声を上げた。
「ええぇいやめろ、ややこしい!」
荒くなった呼吸を整えてから言う。
「整理しよう。要は、アーラヴァカは斉藤くんを……その、慕っていると。斉藤くんは間違いなく僕らの味方、ゆえにアーラヴァカもこちらの味方につく、そういうことだね」
二人が――賀来とアーラヴァカが――ため息をついて言う。
「だからそう言っておるであろうが」
「――理解の遅い男よ」
百見は思い切り頬を引きつらせた。
気にした風もなく賀来は言う。
「人であろうが怪仏であろうが。恋に落ちるはただの一瞬、心を決めるにただの一瞬。たったそれだけの時間があればよい。その時間が我らには――」
アーラヴァカの声が後を受ける。
「――たっぷり一晩もあったのだ、話し合う時間がな。一部とはいえ同じ業を持ち、つながっている我らに、ぞ。故に心はもう決まった、我は斉藤様の味方。そして――」
賀来が片手を胸の前に突き出す。
アーラヴァカが反対側の、鬼神の手をそこへ合わせた。
四指を揃えて曲げ、親指を下へ伸ばした二つの手は。合わさって、ハートマークを描いていた。
「この私の。魔王女たるカラベラの味方よ」
たくましい鬼神の二腕が、賀来の顔の横でピースサインを決めてみせる。
「は……ぁ……」
力なくそうつぶやいた百見は。肩を落とし、ため息をついた。
その後で眼鏡をかけ直す。
「話としては分かった。
目を見据え、続けて言う。
「心を決めるに必要なのはただの一瞬、確かにそうかもしれない。だが、それは。その心がまた覆るにもただの一瞬、迷いに堕ちるにただの一瞬。そのことをも同時に示している」
「そんなこと――」
「――何を――」
賀来とアーラヴァカの声が同時に上がるが。
百見は首を横に振った。
「気持ちはありがたい、本当に……、だが。いつ呑み込まれるか分からない力など、持ってほしくはないんだ」
賀来の横を過ぎ、前に出る。左手に本、右手に愛用の万年筆を握って。
傍らにはその背を越える広目天が左手に巻物、右手に神筆を握ってつき従う。
階段上の敵を見据えた。
「さっきは守りきれず申し訳なかった。下がっていてくれ、賀来さん」
万年筆が、広目天の筆が、真っ直ぐに明王を指した。
「奴は、僕一人で倒す」
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