五ノ巻13話 黒
階段の遥か上から、大威徳明王の声が降る。
「――黙って聞いておれば……貴様一人で拙者を倒そうなど、と。
百見は鼻で笑う。
「失礼な。あまり誰でもかれでも
「はあぁあ!?」
賀来の
「ゆくぞ。我が広目天の筆先にて……添削してやる、お前の存在。【
黒々と墨を
と、見る間に。『一』の字、端を敵へと向けたその文字が。矢の速度を持って、明王を目がけて飛んだ。
「――ふん」
意に介した様子もなく、大威徳明王は階段から身を躍らせた。向かい来る墨の矢を、壁を蹴って難なくかわす。
さらに蹴った先の壁、それを六脚のうち別の脚が蹴る。その先の壁をまた別の脚が蹴って方向を変えつつ加速する、その先でまた、その先でまた。
「なるほど。まさにこの階段こそ、お前が用意したお前のための戦いの地形、か。だが、これはどうだ――【
広目天が
だが。明王はそれをも意に介さず、跳んだ。壁を蹴って墨の柱をかわし。向かう先に横から突き出た、黒いそれをも身をかがめてかわし。
さらに跳んだ、その向こうの壁を蹴って。跳んだ、墨の柱さえ足場にして、次々と加速しながら、いくつもの残像を宙に残して。いや、もはやその残像すら朧に、目で追えないほどの速度に達して。
「な……」
百見は口を開けていた。宙を見上げながらよろめくように後ずさり、その背が壁についた。
つき従う広目天は口を引き結んではいたが、筆を持った手はただ床に垂らされていた。
重く言葉が降る。宙を飛び交う、大威徳明王の残像の群れから。
「――これぞ拙者が秘技。【
そして、それら像の群れから。いくつかの像が、百見目がけて降り来たった――実際にはその間を素早く行き交う、ただ一体の明王が――。多腕に武器を握り締めて。
まさにそのとき、
「【広目連筆】!」
壁を背にした自分の回り、その床から上へと広目天が筆を走らせる。縦一文字に幾筋も、幾筋も。
床から垂直に伸びた墨の柱が百見を隙間なく取り巻き、壁を成した。左右から前方を半円に取り囲む壁を。背後は元より廊下の壁がある。
百見は上を向く。自分の回りに唯一開いた隙間である、上を。
いかに残像が多く見えようが、そこにいる敵はただの一体。向かってくる方向を限定させ、そこを待ち受ける。
狭い目標を狙うのに難儀したか、宙を跳び交う残像が一つ減り、また一つ減り。やがてただ一つの実像が残る。
「ぬ……! だが同じこと、よ……!」
壁を蹴り、さらに速度を増した明王が跳び来る。
広目天は筆を構えるが。先ほどその筆を
それでも、百見は声を上げていた。またも
「【
先ほど百見が宙を見上げていたとき、広目天が垂らした筆。その先の床、すなわち百見の足下には。
すでに描かれていた。筆先から落ちる墨、それらを点々とつなげて。小さくも確かに、
うるる、と低く
厚みを
が。貫けなかった、その牙は。明王の首、その骨どころか肉どころか、皮膚さえも。
そればかりか。さらに力を込める龍の、牙がひび割れ。そのひびが駆け上がるように牙を、口を、龍の頭を胴を走り。そこから、砕けた。
もはや龍の形を失った墨は黒い
「なっ……」
口を開ける百見。
「
龍によってわずかに勢いを殺されるも、剣を構え跳び来る明王。
その剣が届くかと見えた、その瞬間。
「いかん、任せる!」
「――承知!」
賀来とアーラヴァカの声が響く。
同時、百見の体は。
「――うおおおおぉぉっ!」
雄叫びと共に、抱きかかえられていた。横合いから突進してきた、アーラヴァカの腕に。周りに巡らせた墨の柱ごと、引っこ抜かれるように。
明王の刃は、
百見を床に降ろし、賀来は――アーラヴァカは――即座に立ち上がる。百見をかばうように前に出、鬼神の腕を構えた。
明王は武器を構え直すが、六面の口からまばらに舌打ちの音を響かせ。その六脚で床を蹴り、壁を蹴り、再び階段の遥か上へと戻った。
倒れたまま、目を見開いたまま、百見がつぶやく。ずり落ちた眼鏡をかけ直しもせずに。
「
応えるかのように大威徳明王の声が降る。
「――ふん……策はなかなか、よ。だが広目天、貴様の力、では……拙者に傷一つ負わすことは叶わぬ、わ」
「何だと……いや、そうか……しまった!」
眼鏡がずり落ちたまま、傍らに落とした本を取る。ページを跳ね飛ばすような勢いで次々と
眼鏡をかけ直し、そのページの内容を読み上げた。
「『仁王念誦儀軌』にはこう記載があった……大威徳明王は『一切の諸悪の毒龍を
大威徳明王の声が降る。
「――つまり。貴様の力は拙者には効かぬ……そうであろう、諸龍王の首領にして水神たる広目天、よ」
百見は口を開けていた。両手は本を開いたまま動かなかった。目だけが、ぱち、ぱち、と瞬いていた。
目を瞬かせるその度に、おぼろげに策が浮かびかけ、また消えていく。
――どのようにしてあの敵の機動を殺し、倒すにしても。とどめを刺すには広目天最大の力、龍の力と水の力が必要だった。それがそもそも無効なのでは。倒しようが、無い――。
ふう、と息をつく音がした。
百見の口からではない。未だ伏した百見の前に立つ、賀来がため息をついていた。
賀来はかぶりを振ってみせる。
「やれやれだな。僕一人で倒す、などと意気込んでおきながら。その
自らの手は腰に当てたまま、鬼神の二腕が掌を上に向け、肩をすくませてみせた。
「ぐ……!」
目を伏せ、拳を握る百見。
それに取り合う様子もなく、賀来は言った。
「さあアーラヴァカ、我らだけでやってみせようではないか。早速……真の本気を出してもらうぞ」
「――無論承知。だが、あれは持っているのだろうな」
そう問うた低い声に対し、賀来は小さくため息をついた。
「もちろんよ。そなたもずいぶん繊細なことだな……まあよい」
そしてスカートのポケットから、丸めていた布のようなものを取り出す。
広げたそれは、学校指定の体操服。そのズボンのうち、ごく短い丈のもの。
「さあ……本気でゆくぞっ!」
盛大にスカートをまくり上げ、勢いよく短パンを履いた。
彼女の背後で倒れていた百見は、そのお陰で拝むこととなった。
賀来のスカートの下、短い丈のオーバーパンツ。黒い見せパンに覆われた、彼女の尻を。
「――さあて、往くか」
つぶやいたアーラヴァカは、鬼神の腕で短パンの位置を直し、見せパンが隠れるようにした。手から離した短パンのゴムが、ぱつん、と強く音を立てた。
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