五ノ巻1話  四大明王


 わずかな薄墨色をした、透明に近い壁の向こう。そこに立ちはだかる、四体の怪仏。

 彼らを見回しながらかすみはつぶやいた。

「四大、明王……」


 だん、と音を立てて、崇春がその壁を叩く。壁は砕けるどころか、揺らぎもしない。それでも両手で何度も叩き、声を上げた。

「ええい! 何か知らんが、そのもんをどうする気じゃ! 放さんかい!」

 紫苑のいる方に歩み寄り、さらに壁を叩く。

「おんしもおんしじゃ、起きんか!」


 明王の一体――その多腕のうち一対の腕――に抱えられた東条紫苑は、気を失ったのか目を閉じている。だが胸元はわずかに上下しており、呼吸をしていることは確認できた。


 それにしても、紫苑や明王らとの間だけではない。壁は生徒会室を細かく仕切り、かすみ、崇春、百見、平坂を分断していた。細く狭いスペースに、動物園のおりのように。


 かすみは目の前の壁に触れてみる。つるり、と滑らかで硬いそれは、見た目どおりガラスのような質感だったが、冷たさは感じなかった。何度か押してみるも、やはり小揺るぎもしない。それどころか震えもしなかった。まるで水族館の巨大な水槽、そのアクリル壁を押しているような感触。


 崇春とは反対隣、仕切る壁の向こうで百見が声を上げた。壁は床から天井まで届いているが、不思議と声がさえぎられる様子はなかった。

「確かにその姿、伝承上の四大明王に近い。それら明王の姿を取った怪仏、ということで間違いはないようだが。目的は何だ、なぜ僕らを分断し、東条紫苑の身をさらう」


 声を上げたのは先ほどとは別の明王。

「――……くどい」

 阿修羅像にも似た、正面と左右との三面。加えてその頭上にはもう一つ小振りな頭が載っており、そこにも正面左右の三面があった。それら六面と、腕も六本。さらには脚まで左三本、右三本が、それぞれ前後に並んだ六脚。


 その異形の明王は、正面一つの口だけを動かし、ぼそぼそと低く喋った。

「――先ほど軍荼利ぐんだりが申したとおり、だ……拙者ら明王は大自在天と同根……貴様ら四天王と勝負を所望しょもう。……それのみ、だ」


 眼鏡を押し上げ、百見はその怪仏へと声を上げる。

「とはいえ、理由も分からず勝負には応じられないな。そうではないかな、『大威徳だいいとく明王』? またの名を『六足尊ろくそくそん』。多腕の仏像というものはよく見られるが、多脚の像となればほぼその尊格のみだ」


 大威徳だいいとく明王の十二の目が見開かれ、全てが重く百見をにらむ。

「――……『像』ではない。『仏』、だ」


 百見が首を横に振る。

「『仏』じゃない。『怪仏』さ」


 にらむ目のまま、大威徳だいいとく明王はつぶやく。

「――……応じぬならばそれでも良い。大自在天と他の欠片、一つとなるまで待っておれ。さすれば、結界を解かぬでもない……とはいえ」

 さらに低い声で続ける。

「――そちらが応じぬとて、こちらが仕掛けぬとは限らん、が」


 ふと、かすみは気づく。

 百見は顔を相手に向け、話を聞きながら。床の上、足で何かを押していた。

 見ればそれは倒れた椅子。ただし、巡らされた壁に半分めり込んだ形の。もう半分は壁のこちら側、つまりかすみの方へと突き出ている。

 どうやら、部屋中に散らばる机や椅子。壁はそれらを避けることなく、それごと仕切るかのように走っているらしかった。


 百見は相手に気づかれないように、その様子を探っていたのか。たとえば、それらをどかして壁の向こうへ通り抜けられないか、と。


 かすみもそっとそこへ足を乗せ、押してみたが。まるで動く様子はなく、百見が押している震動すら感じられなかった。よく見ればその椅子もまた、わずかに薄墨色がかかっている。もしかしてそれらの物自体、壁の一部として取り込まれているのか。


 表情を変えずに百見は言う。肩をすくめてみせながら。

「いざ尋常じんじょうに勝負、勝負……と、いくにはあまりにも急じゃあないかな。こちらへの情報が少な過ぎる、とても勝負を申し込む者の態度とは思えないな」


 紫苑を抱えた、別の怪仏が声を上げる。

「――で、あるか」

 四面八、そのうち正面の顔は三眼。

「――先に名乗らせてもらおう、吾輩わがはいの名は降三世ごうさんぜ明王。過去・現在・未来、三つの世界をも降伏ごうぶくさせる者である。貴様が納得いく・いかぬ・どちらでもない、そのようなことはどうでもよいのである」

 紫苑を高く抱え上げ、シバヅキの方を振り向く。

吾輩わがはいらはあくまでも、あるじめいに従うまでである。従う・従わない・どちらでもない、の内、従うという選択の他はなし。吾輩わがはいらも貴様らも、である」


「あ?」

 平坂が不機嫌な声を上げた。どうやら百見のいる仕切りの向こうにいるようだ。

「気に入らねェ……ッつか、誰もやらねェとは言ってねェだろ。今すぐこの生簀いけすみてェな壁をどけろ。どいつもこいつも、三枚に下ろして酢締すじめにしてやる」


「――あん?」

 同じくドスの利いた声で応じたのは三面六、正面の顔のみ五眼の怪仏。

 その顔が壁の前に寄せられ、数多い目が貫くように平坂をにらむ。

「――面白いことを言う小僧だ、いっぺん死んでみるか? 貴様ら四天王が如き小物、いくら集まろうと。このオレ、金剛夜叉こんごうやしゃ明王の体に、傷の一つもつけられんだろうぜ」

 六本腕の一つが動き、重い音を立てて分厚い胸板を叩く。


 平坂は引くことなく、むしろ壁の前に顔を突き出した。

「ほーぉ、言うこととやることがずいぶん違ェな。一度に来てみろッつうンならよ、このセコい壁は何なんだよ。ビビってンじゃねェ……ンなもんとっとと取っ払って、かかってこいよ」

 ノックするように壁を叩いてみせる。相手の頭の前辺りを。


「――何だと」

 金剛夜叉明王の多眼が、なおも一度に眉間を寄せる。


 その傍らへ、蛇を巻きつかせた怪仏――軍荼利ぐんだり明王と名乗った者――が歩み寄った。二人を押し分けなだめるように、八つの掌をそれぞれへ向ける。

 苦笑した顔を同様に二人へ向けた。こちらは一面しかないので、交互に。

「――まあまあ、落ち着かれよ。確かに急な申し出、気を悪くされるのも致し方ない」

 平坂へ頭を下げ、それからかすみたち全員を見やる。

「――無論、かといって直ちに放すわけにもいかぬが……せめて、この場の説明だけでもさせていただこうか」


 辺り一帯を眼で示し、続ける。

「――随分ずいぶんと様子が変わったことで、驚かれた向きも多いであろう。先程も申し上げたが、貴公らにおかれては、我ら四大明王が生み出せし異界【裏獄りごく】結界内へと隔離させていただいた」


 窓の外の景色を眼で示して言う。

「――我ら怪仏が仏を模した存在なれば、此方こちらはいわば世界を模した『怪界かいがい』とでも申すべきもの。怪仏の力で作り上げた、小さな別世界。ああ、見た目にはどこまでも広がっているようだが、実際にはこの建物の敷地を多少はみ出た程度の空間。手狭で申し訳ない」


 首の後ろに手をやり、小さく頭を下げる。

「――とはいえ、いつまでも此方こちらにご滞在いただこうというわけではない。申し上げたように、大自在天と他の欠片。それらが再び一つに戻り次第、帰っていただこうかと存ずる」


 六脚をそなえた大威徳明王が、ぼそり、とつぶやく。

「――ただ待つのも芸があるまい……拙者ら四大明王と貴様ら四天王、四方を司る怪仏同士。どちらが上か腕比べとゆこう、ぞ」


 崇春が拳を握り鳴らす。

「要は。おんしら、シバヅキの手下っちゅうわけかい。奴は東条の血肉を喰ろうて強うなる、そう東条が言うちょったが……その時間稼ぎをしようっちゅうことか」


 軍荼利ぐんだり明王が澄ました顔で微笑む。

「――その辺りは、みなまで申す必要もないかと」


 百見が声を上げた。

「だが、妙だ。隔離と先ほど言ったが、それにしてはあまりに杜撰ずさんだ」


 椅子や机に埋もれかけた中から別の明王に助け起こされる、シバヅキに目をやりながら言う。

「壁で隔てたとはいえ、そちらが守るべき対象と、隔離しておくべき敵とが同じ空間にいる。何の意味があるというんだ」


 軍荼利ぐんだり明王は肩を揺すって苦笑する。

「――これは面目めんぼくない。ご指摘いちいちごもっとも、されど……我らが結界術も、決して万能ではありませんでな。『怪仏及び、怪仏との結縁者けちえんじゃのみをこの異空間に隔離する』、それがこの術の眼目」


 四面八、正面の顔のみ三眼の怪仏――降三世明王――が後を受ける。

「――何、そもそも他の人間の耳目じもくからも隠れたいところ……意味がある・ない・どちらでもないでいえば、間違いなく意味はある、のである」


 三面六、正面の顔のみ五眼の怪仏――金剛夜叉明王――が声を上げる。

「――ふんっ、ぐだぐだと話したところで時間の無駄よ。とっとと始めるぞ」

 剣や弓矢を持った手のうち一本を掲げる。そこには鐘のような形をした、法具らしき鈴が握られていた。甲高い音を上げ、それを振るう。


 その音が合図だったかのように。かすみたちの間を仕切っていた薄墨色の壁が音もなくうねり、形を変えた。

 部屋の中を仕切るだけだった壁は、今や直角に曲がり、真っ直ぐに伸び、また直角に曲がり。迷路のように曲がりくねった、細い通路となっていた。

 相変わらず四人の間は仕切られ、それがどこかで交わっているのかは分からなかった。だが、とにかく四人分の道は、いつの間にか開け放たれている廊下への出入口に繋がっていた。生徒会室の前後にある引き戸へ、きっちりと仕切られた細い道が。


 こちらに背を向け、歩き出しながら金剛夜叉明王は言う。振り返らず、左右の面の口を動かして。

「――追ってこい……それぞれ道の果てで待っていてやる。この結界を解きたいなら、オレたち四尊を全て倒してみせることだ。ふんっ……できるものならなあ」

 そうして、手の届かない壁の向こうで。シバヅキが叩き割って侵入していた窓、そこを目がけて跳び上がり、外へと身を躍らせた。


 シバヅキは六脚の大威徳明王に抱えられ、同じく窓の方へと向かっていた。こちらを見下ろす眼差しには、何の感情も感じられない。

 その後に続く降三世明王が抱える紫苑は、未だ目を覚ます様子はなかった。


 突然、かすみの後ろで声が上がった。

「待て……待って、会長! 紫苑! 起きて、紫苑!」

 鈴下。気づかなかったが、かすみと同じ仕切りの中にいたのか。

そう考えるとこの仕切りは、かすみたち全員を分断するものではなく。四大明王の一人ずつと戦うよう仕向けるものなのかもしれない。


 帝釈天も離れたところで声を上げる。どうやら平坂と同じ仕切りにいるようだ。

「――待てい、我らに背を見せるか! 卑怯ではないか、シバヅキ!」


 気にした様子もなく、二体の怪仏は外へと跳んだ。


 ぐぬぬぬ、と帝釈天のうなる中。

 軍荼利ぐんだり明王が小さく頭を下げた。

「――では失敬して、後ほど。……ああ、そうそう」

 背を向けて歩みかけたが、足を止めて振り向く。

「――敷地の外で待機していた、貴公らのお仲間。彼らも此方こちらへお越しいただいているが……自分たちの眷族けんぞくを向かわせております。決して無事では済むますまい」


 無言のまま、百見の目元が険しくなる。


 かすみは手にしていた携帯に目を走らせたが。画面には圏外との表示があった。


 軍荼利ぐんだり明王は穏やかに言う。

「――ゆえ、ここにて動かず彼らからの助けを待とう……などとは甲斐の無い仕儀しぎ。それより先に、我らを追って討滅し、彼らを救うつもりでいた方がまだよろしいかと」


 腕組みして聞いていた、崇春が不意に口を開く。

「そうよ、最後に一つ。言い忘れとったことがあったわい」


「――ほう、それは――」

 口を開いた軍荼利ぐんだり明王に向け。


 崇春は拳を繰り出した。鬼神の腕、その幻の浮かぶ拳を。

「【南贍部洲なんせんぶしゅう護王拳】!」

 拳は明王の顔の前、その壁にぶち当たるも。重い音を立てたのみで、砕ける気配はなかった。


 崇春は逆の拳を繰り出す。同じ幻の浮かぶ拳を。

「【南贍部洲なんせんぶしゅう護王拳】!」

 今度は足下、床と、薄墨色の壁にめりこんだ机や椅子、そちらへ叩きつけた。

だが、床はおろか机や椅子すら、崇春の打撃を受けてへこむ様子すらない。


 そこから崇春の両手が、さらなる金の輝きをまとう。

「おおおおおっ! 【閻浮提えんぶだい覇王拳】じゃああーーっ!」

 天へと掲げた両の拳から、放たれた光の流れが天井を打つ。だが、低い響きを上げたそこには、ひびの一つも入ってはいなかった。


 軍荼利ぐんだり明王は口を開け、その様を見上げていたが。やがて肩を揺すって笑う。

「――……成程、成程。賢き御仁。さて、我らが結界の強靭きょうじんさがご理解いただけたところで」

 かすみら全員を見回し、一礼する。

「――我ら四大明王一同、四天王の皆様方との腕比べ、心待ちにしております。どうぞ、お手柔らかに」

 そうして、窓の外へと身を躍らせた。

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