四ノ巻22話  福神、来たる


 かすみはつぶやく。

「それは……どうして」


 紫苑は首を横に振った。

「分からない、そこまでは。あるいは怪仏としての本能。本来の力を取り戻し、破壊神としての業のままに振舞おうとしているのではないかと思うが……そんなことより指し当たっての問題は、だ」


 再び一人一人の目を見る。

「奴は僕を狙っている。僕以外の者を巻き込むことをもためらわずに、だ。つまり――」


 崇春が重く口を開いた。

「他のもん……斑野まだらの高校のもんらも、巻き込まれるっちゅうことか……!」


 紫苑もまた、重くうなずく。

「この一年、僕と紡は戦ってきた。僕らを狙う、大自在天の男と密かにね。なぜか奴は寝込みを襲ってくることはなかった。学校にいる間や登下校中、僕や紡が一人になったとき、あるいは何人か他の生徒がいるときを好んで狙った。それもなぜかは分からない、だが、他の生徒の血肉を喰らおうとしたときもあった。だから――僕と紡の戦いは。斑野まだらの高校を、生徒たちを守る戦いでもあった」


「いや、おかしいだろ」

 平坂は冷静な声で言った。しかしその眉根は険しく寄せられている。

「一年間戦ってきただと? この学校で? そんな話聞いたこともねェ……襲われただの守られただのッてのが事実なら、噂なりと広まるだろうが。守られた奴の口からよ」


 確かに、とかすみは思った。一年生の自分たちはともかく、二年の平坂なら何か聞いていてもおかしくないはずだ。なのにそれが、無い。


 紫苑は何度もうなずく。

「疑問はごもっともだ、やはり君たちは賢い。だが、僕もいたずらに騒ぎを大きくしたくはないんだ」

 突如、その手から黒いもやが立ち昇る。


 反射的といえる早さで平坂と百見が身構え、崇春はかすみをかばうように前に出る。

 三人と紫苑とを何度か見回し、ようやくかすみも身構えた。


 紫苑は座ったまま微笑んでいる。

「失礼、事を構えるつもりはないよ。ただ、分かりやすいかと思ってね。……我が怪仏は暗黒のもやをかける。広目天の描き出した情景にすら、つまりは記憶にすら。怪仏を憑けた者らが倒されたとき、あるいはその力を拒んだときにそうなったように。平坂くん、君や友だちもそうだったように」


 確かに、今まで怪仏を憑けられた者、斉藤、黒田、それに品ノ川先生。帝釈天を憑けられたが拒んだ平坂。その誰もが、会ったはずの黒幕に関する記憶を失っている。


 自分の額を押さえ、うめくように平坂は言った。

「じゃあ何か……てめェの都合のいいように、巻き込まれた奴の記憶も消したッてか」


 紫苑はうなずく。

「無用な混乱を呼ばないように、だよ」


 手にした本――ハードカバーだが白紙のもの――に万年筆を走らせていた、百見が口を開く。

「あなたたちとシバヅキとやらのルーツは分かった。だが、分からないことがある」

 突き刺すように万年筆を向ける。

「学校を、生徒を守るなどとご大層なことを言いながら、なぜ怪仏事件を引き起こした。何の理由があって、生徒たちに怪仏を憑けた」


 紫苑は肩をすくめる。降参した、とでもいうように両掌を上に向ける。

「いくつか理由はある、単純なものさ。まず、一緒に戦ってくれる仲間が欲しかった。それに、せっかく得た力なのでね。それが生徒らの役に立たないか試行錯誤していた、という面もある。何せ怪仏について、至寂さんが言ったような恐ろしいものという知識はなかったのでね」


 何か思い出すように顔を挙げ、目をどこか遠くに向けた。

「いや、思えば無茶ではあったかな……僕自身と怪仏の出会いだって、相当危険なものだったというのに。あるいは僕が自分の中に、『この恐ろしい力を完全に制御できている』という実感が欲しかったのかな……そういう、安心が」


「あの」

 かすみは手を上げていた。震えながら、しかし確かに。

「毘沙門天を探していたのは、いったい」


 ああ、とうなずき、紫苑は入口の引き戸に顔を向けた。音を立てて手を二度叩く。

「入ってくれ。鍵は開けてもらってる」


 崇春らが再び身構える中、戸を開けて姿を見せたのは。

 大きな体をきゅうくつげにスーツに押し込めた、帝釈天たいしゃくてん。なぜか釣竿を肩にかついでいた。

 縮れたひげを揺らし、にこやかに笑う。

「――どうも! 恵比寿天えびすてんです!」


 同じくにこやかに、紫苑は手でそちらを示す。

「紹介しよう。恵比寿天えびすてんだ」


「いや、違いますよねーーっ!!?」

 かすみは思わず声を上げていた。

 間髪入れず次の言葉を放つ。

帝釈天たいしゃくてんさん! 帝釈天たいしゃくてんさんでしょ、何言ってるんですか!」

 思えば昨日命がけで戦った者同士なのだが、なぜか言わずにはおれなかった。


 帝釈天たいしゃくてんは顔中に貼りつけた笑みを崩さない。

「――違います! 恵比寿天えびすてんです! 見るがよい、これが何よりの証拠よ」

 かついでいた釣竿を突き出す。

 確かに縁起絵に描かれる恵比寿は釣竿を持っていたと思うが。帝釈天が持っているそれは、昔ながらの竹製ではなく。リールと疑似餌ルアーのついた明らかな現代製だ。


 かすみがそう考えていると、それを見透かしたように帝釈天が何度もうなずく。

「――いやしかし、娘御むすめごよ。我について疑問に思うも当然のこと……です。だが――」


 スーツの内ポケットに手をやり、す、と取り出したのは。紅い魚がパッケージに描かれた、缶詰だった。

 帝釈天は微笑む。

「――な?」


 確か、恵比寿が持っているのは釣竿とたい。そう、尾頭つきの立派な鯛だ。決して水煮缶などではなく。


 その考えはお見通しだ、といった風に、帝釈天は笑ってうなずく。

 そして、反対側の内ポケットからも鯛の缶詰を出してきた。


「いや、二つあったから何なんですかーーっっ!!」


 びくり、と帝釈天は身を震わせたが。慌てたように、他のポケットからも次々と出してくる。同じ缶を。


「数で勝負しないで下さーーい!! いったい何なんですか……いや、ていうか」

 紫苑の方を見て続ける。どうしても目つきはきつくなる。

「毘沙門天を狙う理由を聞いたはずですが……ごまかさないで下さい」


 紫苑は微笑みを崩さない。

「いや、大いに関係のあることなんだ。そちらの恵比寿天、または恵比寿神。僕の大暗黒天こと大黒天。紡の弁才天、そして君の毘沙門天――これらの名から、何か気づくことはないかい?」


 どうやらあくまで恵比寿天と言い張るつもりらしいが。

 言われてみれば、それらの名には聞き覚えがある気もする。恵比寿、大黒、そう確か、縁起絵の――


「七福神、ですか」

 確かそうだ、正月の縁起絵などに描かれる、宝船に乗った七福神。そのメンバーのはずだ――他に誰がいたかは思い出せないが。


 紫苑はにっこりと笑ってうなずく。

「ご名答、博識だね。豊穣・財徳の大黒天、豊漁・豊穣の恵比寿天。学問・技芸・財徳の弁才天、勝負運と勇気の毘沙門天。さらには円満・人徳の布袋尊ほていそん、長寿・立身の福禄寿ふくろくじゅ、長寿、健康の寿老人じゅろうじん。ご利益は他にも様々いわれていて、また解釈によっては他の神仏と入れ替わる場合もあるが……一般的には、その七尊を以て七福神とされているんだ」


「……それを、作ろうと? でも何で……」

 言いながら、かすみは横目で百見を見ていた。

 こういう神仏関連の知識なら、誰より詳しいのが百見のはずだ――それを披露せずにはいられないはずだ、早口で――。

 だが、百見は今。無言で、顔の前に突き出した本に万年筆を走らせている。その本で、険しい表情を隠すようにして。


 気にした風もなく紫苑は答える。

「大暗黒天が教えてくれたのさ、『特定の組み合わせを揃えることで、怪仏はさらなる力を得る』と。それがつまり、七福神」


 そのとき、無言で。本に隠した百見の表情がさらに険しくなる。引きちぎられるように、噛み潰すように。


 だが数秒後には、波が引くようにその表情が消える。そして本を下ろし、紫苑に顔を向けた。いくらか表情は固かったが。

「……興味深いお話だが。弥勒菩薩みろくぼさつの化身ともされる僧、布袋尊はいいとして。恵比寿神は日本における神道しんとう由来の神。祖神たるイザナギ・イザナミ、二柱の夫婦神めおとがみの最初の子といわれた存在。福禄寿、寿老人は中国の道教由来、南極老人星の化身とされた存在が二つに分かれて信仰された仙人。……仏教をルーツとする怪仏を以て、それらを再現するのは不可能では」


 紫苑は満足げにうなずく。

「やはりさすがの知識だ、そう言うと思っていたよ。これもご存知かと思うが……信仰される地域や解釈によって、七福神のメンバーは入れ替わる場合がある。稲荷神いなりしん猩猩しょうじょう――酒を好む、猿に似た霊獣――、面白いのだと、ひょっとこ、おたふく、楊貴妃なんて場合もあるが……仏教由来に限れば、不動明王、愛染あいぜん明王、吉祥天に虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ


 言いながら、掌を広げてみせる。その上に、黒いもやとともに躍ったのは。

花びらの中に宝珠を包んだ蓮を持ち、差し伸べるような手をして座した怪仏。そして、片脚を反対のひざに乗せて台座に腰かけ、思索にふけるように片手を頬に当てた怪仏。さらには、金毛九尾の狐に乗った天女。


虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつに、布袋尊と同体たる弥勒菩薩みろくぼさつと……至寂さんには気分が悪いだろうが、稲荷神と習合された荼枳尼天だきにてん。それら七福神たり得る怪仏を、すでに大黒袋に収めている」


 百見の顔を横目でうかがったが、固く口を引き結んだまま。

 それでとにかく、かすみは代わりに口を開く。釣竿を手にした帝釈天を見ながら。

「だったとしても、その。そっちの人が恵比寿っていうのは……」


 ふ、と息をついて帝釈天が微笑む。

「――福神といえばまずその名が挙げられるのが恵比寿・大黒。その二尊は七福神においても中心といってよい、欠かすことのできぬ存在よ。そして恵比寿天を寺院において奉る際の真言は――オン・インダラヤ・ソワカ」


「ん?」

 平坂が不審げに目を瞬かせる。


 帝釈天はうなずいた。

「――そう、雷神インドラたる帝釈天の真言と同一。つまり……」

 そこで息を溜めて、声を上げた。分厚い胸を叩いて。

「――つまり! 帝釈天たるこの我は、恵比寿天でもあったのだ!!」


「な……何じゃとおぉぉ!?」

 目を剥いて叫んだのは崇春一人で、他の者からは何のリアクションもなかった。


 かすみもどう反応していいか分からず。静かな生徒会室で、ただ帝釈天に視線を向けていた。


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