四ノ巻21話  大自在天に憑かれたもの


「シバヅキ……というのは、別に名字とかじゃなくてね。僕らが仮にそう名づけた。『大自在天にシヴァ憑かれたもの憑き』ってね」


 百見と崇春の方を見て言う。

「ところでその大自在天、シヴァ神だが。どのようないわれがあるがご存知かな」


 百見が言う。

「ヒンドゥー教における三柱の最高神、三神一体トリムールティともいわれるそれらの一柱。世界『創造』の神ブラフマー、世界『維持』の神ヴィシュヌ。そして世界に『破壊――あるいは再生、新たなる創造――』をもたらす神。それがシヴァ」


 わずかにうつむき、眼鏡を押し上げて続ける。早口で。

「まずその源流は古代インド、インダス文明において信仰された土着神話の暴風神が原型とされるが騎馬民族の侵攻によりそれら神話への信仰は衰退、代わって支配者層たる騎馬民族の信仰するバラモン教が隆盛を誇るも、その後仏教などの出現によりこれもまた衰退。庶民層が力を持ってゆくにつれ、彼らに信仰されていた古代の神話が復権しバラモン教の要素を取り入れたヒンドゥー教へと変化してゆくわけだがこれはつまり取りも直さず――」


 紫苑が何度か咳払いをする。

「……あー。教養の香り高いご高説はありがたいが、またの機会に賜わるとして。要はシヴァ神ら三柱の神、ブラフマーが世界を創造しヴィシュヌがそれを維持。やがてシヴァが破壊し、またブラフマーが創造する……宇宙はその繰り返しによって成り立っている、とするのがヒンドゥー教の世界観だが。シヴァ神は数多あまた伝えられるヒンドゥーの神々の中でも、一、二を争う信仰を得ている」


 かすみはつぶやく。

「破壊神……なのに?」


 紫苑は微笑む。

「そう、いいツッコミだ。単純に考えれば、世界を破壊する悪神と捉えられそうなものなのにね。にもかかわらず信仰されているのにはいくつかの理由が考えられる。まずは古代インドにおいて、そもそも『宇宙とはそういうものだ』と捉えられていたこと。朝と夜が巡るように、滅亡と再生を繰り返す……生命は輪廻りんねし、歴史すらも過去のできごとが巡りめぐって再演される、と。これも日や月が昇り、また沈むのと同じように。そのため――」


「おい」

 低く声を上げたのは平坂だった。

「てめェこそウダウダ喋ってンじゃねェ。結論から喋れよ」


 紫苑は苦笑する。

「ああ、失礼。もう一つの、そしてこの場合において重要なのは。『破壊神としてだけではない、あまりにも様々な側面がある』ということ」


 椅子から立ち上がり、辺りを歩き回りながら話す。

「そのことを示すように、その神には数々の異名がある。そのこと自体を指すような名『バフルーパ――多くの形を持つ者』、偉大なる存在『マハーデーヴァ――大神』。恐るべき暴虐の神『バイラヴァ――恐怖を与える者』、『ブーテーシュヴァラ――悪魔の王』。かと思えば慈悲深き『シャンカラ――恩恵を与える者』、ヨーガ行者を守護する『マハータバス――偉大なる苦行者』。『ナタラージャ――踊りの王』なんてものもある。『吉祥、めでたき前触れ』の意を持つシヴァ、その異名の数は千百十六とも言われている」


「千……」

 かすみがつぶやくと、紫苑はうなずいた。


「ああ、異常な数だ。世界中の神話と比較してもね。こうなった背景には先ほど百見くんが言った、土着神話からバラモン教を経てのヒンドゥー教への再統合。その過程において様々な神が一つのものと見なされ、現在の多面的なシヴァを形作ったという点があるが。何が言いたいかというと――」


 そこで言葉を切り、手品師のように手を閃かせる。指を一つ立てて言った。

「つまりその神は『複数の神性が合わさった存在』ということ。ゆえに破壊神としておそれられる一方、英雄神として崇められ、福徳神として敬われた。そして、ここからが重要なんだが――、複数の面を持つその神は、転じて『複数の存在に分かれ得る』ということ」


「え?」


「仏教、詳しく言えば密教にシヴァ神が取り入れられた際には、複数の姿を取った形で取り入れられている。具体的には『大自在天――シヴァ神』だけでなく、『大暗黒天』『伊舎那天』としてね。さらにいえば『明王』らの強大さや恐ろしい姿はシヴァ神のそれをモチーフに形作られたものとも見なされているし、『降三世ごうさんぜ明王』は足下に大自在天とその妻、烏摩うま妃――シヴァの妻たる女神パールヴァティ、またの名をウマー――を踏みつけた姿で描かれる。ヒンドゥー教に対する仏教の優位性を示そうとするようにね。そして、あるいは……そうした形に分割して取り入れることで、その強大な力をも分散させようとした。そんな解釈もできる」


 百見は考え込むようにあごに手を当て、その肘を反対の手で支える。

「……大胆な解釈ですが。確かにヒンドゥー教での地位に比べ、仏教において大自在天らが占める位置の重要性はおおむね低い。もっとも、そのまま取り入れてまつったところでヒンドゥー教との差別化ができない、といった事情も考えられますが」


 紫苑は肩をすくめる。

「ロマンがないな、君は」


 百見は言う。

「とはいえ、同じくヒンドゥー教の最高神たるヴィシュヌもまた、毘紐びちゅう天または那羅延ならえん天として仏教に取り入れられましたが。こちらも大きな位置づけをなされてはいない。その慈悲や大きな力のイメージはどうやら、大乗仏教の仏たる各種の観音菩薩、それらに借用されたようだ。さらにいえば、ヒンドゥー教と仏教における説話で配偶者の異なる毘沙門天――その妻たる吉祥天、つまりヒンドゥー教におけるラクシュミは、毘沙門天クベーラではなくヴィシュヌの妻とされていた――、こちらにもヴィシュヌの要素が振り分けられている、という説もある」


 紫苑は微笑んでうなずく。

「さすがの教養だね。つけ加えれば三柱の神のうちブラフマー、こちらはバラモン教に由来する神でもあり、原始仏教の時代からすでに仏教へ取り入れられている。そのせいか、他の二神のような変遷はたどっていないようだ……いや、すまない。話がそれたね」


 小さく咳払いし、辺りを見回してから言う。

「本題に入ろう。シバヅキ、奴は何者か? その答えは僕の半身を気取る存在にして、怪仏・大自在天そのもの。――具体的には。我が『大暗黒天から分かたれた、同体たる大自在天』。それが『僕の血肉から、自らが本地とするための肉体を創り出し、取り憑いたもの』。それが、『大自在天にシバ憑かれたものヅキ』」


 思わずかすみは口を開けていた。

「……え?」


 紫苑はうなずく。

「まあそうだね、そういう反応になるだろう。だが、真実だ。――先ほど見てもらった光景、大暗黒天の僕と、伊舎那天に憑かれた紡の父親。そのぶつかり合いの結果、後者は亡くなった。が、前者たる僕も死にかけてはいた。すでに血を流しすぎていたということもある」


 鈴下は何も言わず、両腕を抱いて震えていた。


 紫苑は何か投げかけるかのように、かすみらの方へ手を差し伸べ、語った。

「相変わらず腹にナイフが刺さったままの僕、降りしきる雨。血は止まる様子もなく、傍らに浮かんだ大暗黒天の姿も消えかけていた。そのときだ、一陣の風が吹きつけ、それを合図としたかのように大暗黒天の体が、黒いもやに変わり始め。そのもやが二つに分かれ、ある形を取り始めた。一つは大暗黒天の姿を。もう一つは別の怪仏、一面三眼四臂しひ、青黒い肌の破壊神――大自在天の姿を」


 目を伏せ、かぶりを振る。

「その後はあまり思い出したくない光景さ、大自在天が僕の腹のナイフを抜き取り、溢れ出た血を浴びる。奴はその血を受けた辺りの地面から泥をこね、自らのもやと混ぜ合わせた。もやが泥の塊を覆い尽くし、やがてその中に吸い込まれるように消え去ったとき。そこには人が横たわっていた。僕と同じ姿の人間が、裸で横たわっていた」


「それが……」


 かすみの言葉に紫苑はうなずく。

「ああ、シバヅキ。奴は目を見開くと、ナイフを手に斬りかかってきたが……僕は必死に、手にしていた剣を振るった。奴は顔に傷を受け、ひるんだように逃げていった――紡の父親の体から上着を剥ぎ取り、母親に刺さっていたもう一振りのナイフを抜いて」


 長く、長く息を吐いて、紫苑は椅子に深くもたれた。

「それが、奴。それが、シバヅキ。……以降、奴がどこへ行ったのかは分からない。何をしているのかも。ただ一つ言えるのは」


 背もたれから身を離し、前へかがみ込むように身を乗り出した。かすみたち一人一人の目をのぞき込みながら言う。

「この僕を、狙っているということ。どうやら僕を殺し、その血肉を喰らうことで大暗黒天の力を取り込み……同体たる大自在天の力を、完全なものにしようとしている」


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