四ノ巻20話  弁才天の昔日(せきじつ)


 紫苑はうなずき、穏やかな顔のまま言った。

「そうだね、まずはさっきの映像からか。端的に言えば、あれは約一年前。僕と紡が初めて出会ったとき。二人が初めて怪仏の力を得たとき。僕はその力で人を助け……人を殺した」


 しゃがんだままでいた鈴下が、弾かれたように顔を上げた。

「違う!」


 立ち上がり、壁際から紫苑のそばに来る。

「殺してなんか、あなたは殺してなんか――」


「落ち着くんだ」

 紫苑は立ち上がり、震える紡の背を軽く叩いた。


 鈴下は震えたまま、何度も首を横に振る。

「違う、違うでしょうあなたは私に――」

「落ち着くんだ」

 紫苑はそのまま背をさする。


 鈴下は息を吸う音も高く、何度も浅く早い呼吸をしていた。そのたびに震える肩が小さく上下する。

 紫苑は自分の椅子に鈴下を座らせ、何度もゆっくり背をさすった。胸ポケットから出したハンカチを渡し、口にあてがわせる。


 しばらくそうしていた後、別の椅子を運んで、鈴下の隣に座った。

「申し訳ない、時間を取らせた。何の話だったか……あの映像のことだったね」

 脚を組み、片膝を抱えて話し出す。

「たまたまだ、たまたまだよ。山中の道をジョギング中、遅くなったあげく大雨に降られてね。近くにあった立派な家の、門ののき下で雨宿りさせてもらおうと思ったんだ。そうしたら中から怒鳴るような男の声が聞こえるじゃないか。さらには女性の悲鳴も。……無視できなくてね、門の脇の低い植え込みを越えて庭に入ったよ」


 肩をすくめて続ける。

「そうしたらすぐにあのざまさ。……血にまみれて倒れた女性、大振りなナイフを持った男。血を流しながら追われる少女――紡――。わけも分からず男を止めようとした僕は、あっという間に刺された。そうする間に少女も刺された、倒れた。もはや助かるとは思えなかった、誰も――少女は今にも目を閉じそう、女性はさっきからぴくりとも動かない。僕は僕で立ち上がることもできない、流れ出る血と降りしきる雨の温度の区別もつかない。多分漏らしていた、小便の温度とも――だが」


 脚を降ろし、身を乗り出す。

「そこで目覚めた――いや、怪仏の方から僕の業を見初みそめたんだろう。僕の生きようとする意思を、『大暗黒天』が」


 百見が口を挟む。

「……今朝の戦い、あなたは槌を武器としていたと平坂さんらから聞いたが。今の映像では剣を持っていた。それに、あなたのそばに浮かんだ怪仏、打出うちでの小槌を持った大黒天には見えなかったが」


「ああ、君には説明の必要もないだろうけど。大黒天が七福神で知られる穏やかな姿になったのは後世のこと。前に至寂さんが説明したとおり、日本に入ってきたそれが大国主神おおくにぬしのかみと習合してからだ。僕と結縁けちえんしたのはそれ以前の荒ぶる鬼神かみ。シヴァ神、またの名を大自在天とする破壊神の、別の姿ともいわれる『マハー暗黒天カーラ』。その姿で現れたようだ……至寂さんがそれを倒してから、どうして僕に憑いたかは知らないがね」


 ビデオ通話の向こうから至寂が言う。

『……拙僧が大暗黒天、荼枳尼天だきにてんと対峙した際、――百見殿の力のような――封じる手段は持っておりませんでした。散り、業へと還った怪仏は、年月が経ち、しかるべき業を得れば再生する……おそらくは、その地へ流れ着いた怪仏が紫苑殿の業に反応し、再生したのでしょう』


 紫苑がうなずく。

「どうも。納得がいきましたよ……もっとも、今は僕に合ったのか、福神たる大黒天としての姿に変わっているがね」


 百見がさらに尋ねる。

「男の方にも怪仏が憑いているようだったが、あれは――」


「そう、これも君ならご存知だろうけど――『伊舎那天いしゃなてん』。今朝、例の男が使っていたのと同じさ」


 シバヅキ、と呼ばれた男。彼と紫苑ら、そして先ほどの映像はどう関係するのか。それもまた謎だった。


 百見は言う。

伊舎那天いしゃなてん……八方の方角と天地日月をつかさどる『十二天』、その一尊。鬼門の方角たる北東を守護する存在。生血を注いだ杯とげき持物じぶつとして描かれる。大暗黒天と同じく、破壊神たる大自在天と同体とされる存在」


「そのとおり。……あの場で怪仏に憑かれたのは僕だけではなかった、むしろ彼が先だった。あるいはあれも、至寂さんの師が封印を解いてしまったものだろうか。それが再生し、あの男に憑いた……紡の、父親に」


 え、という言葉をかすみは吞み込んだ。

 だとしたら――今生きてはいるが――鈴下を、紫苑を殺そうとしたのは、鈴下の父。なら、すでに倒れていたあの女性は。


 淡々と紫苑は語っていく。

「後で知ったことだけどね。伊舎那天いしゃなてんは暴風の神仏かみであり、かつ、破壊神たる大自在天と同体。その強大な力を見込まれて鬼門の守護者とされたのだろうけれど。……鬼門とは知ってのとおり、よろずの鬼や、疫病、不吉、緒災厄。それらが入ってくれるとされる方角。伊舎那天いしゃなてんはそれを防ぎ止めるとされた存在だが。……逆に、こうも考えられないかな。『それら災厄に最も、毒されやすい位置にある神仏かみ』と」


 息を吐いて続ける。

「そうした面を反映した、『暴虐』の怪仏・伊舎那天いしゃなてん。それがどうやら紡の父親に憑いた。……何だっけ? お父さんがしてたんだっけ? いつの間にかDNA検査」


 紫苑は鈴下の方を見たが、鈴下はいよいよ震えるばかり。


 紫苑は言う。

「……彼らの疑念を解くためだ、包み隠さず話させてもらうよ。――父親と紡の間に血のつながりはなかった。それがどういうことかは口に出すまでもないだろう。……怒りに狂った父親は刃物を持ち出した、酒の酔いもあったようだ。そこへ憑いた、伊舎那天いしゃなてんが。紡の母親は死んだ」


 むぅぅ、と崇春は喉の奥でうめいた。その手は拳に握られていた。やり場のない力を込めるように。


 かすみは手にしたスマートフォンを握り締めていた。ひどく震えるそれは渦生らに、画像酔いするような光景を送っているだろうが。気にするだけの余裕はない。


 紫苑は変わらぬ調子で続ける。

「すまないね、紡。気にするな、僕と父の血だってつながってはいない。不妊治療の一環ではあるが……いや、すまない。君の気持ちも考えず、余計なことを言ったようだ」

 続けて言う。

「で、僕と紡の父親と、怪仏同士のぶつかり合いの結果。彼は死んだよ。僕が殺した」


「違う!!」

 叫んだのは鈴下だった。

 髪を振り乱すように、首を何度も横に振る。

「違う……あなたは、そんな……」


 紫苑はうなずく。

「ありがとう。では一応、伊舎那天いしゃなてんの力の暴走により亡くなった、としておこうか。だがどちらにせよ、怪仏のせいで亡くなった……それは変わらない。ああ、両親とも世間的には失踪として扱われ、紡は親戚に引き取られた。遺体をどうしたかは聞かないでくれ」


 目を閉じ、息をつく。片手を胸に当てた。

「一方僕は、大暗黒天の力で得た、生命力のおかげで助かった。血肉を代償に様々な願いを叶えるとされる魔神の力でね」


 百見が慎重に口を開く。

「……なら、あなたや鈴下さんが今朝、致命的な傷から回復したのは」

「ああ、僕のはそれだ。紡のは弁才天、生命の源たる水神の力。……当時、死にゆく彼女を助けるため、僕が無理やり憑けた。大黒袋に封じられていたそれを。――ここまでで何か質問は?」


 百見が言う。

「……あなた方の怪仏のルーツ、それは分かった。だが目的は何だ、毘沙門天を得て何をしようとしている。そしてあの、シバヅキと呼んでいた男……何者だ」


 紫苑は深くうなずいた。

「では、その話を。シバヅキ、奴は。僕の片割れだ。血肉の、そして大暗黒天の片割れ。大自在天に憑かれ、生まれた存在」


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