四ノ巻18話  大暗黒天の来し方


「さて、これでいいかな」

 会議用といった風に長机が四角に並べられた、斑野高校生徒会室で。カーテンを全て閉め、東条紫苑はそう言った。外から見とがめられないよう、明かりはつけていない。


「ええ、ですが――」

 百見は出入口の錠を外す。

「施錠はしないでいてもらいましょうか」


 紫苑が言う。

「いいのかい、もし誰か入ってきて君の力を――」

「そのときは、即座に力を消してすっとぼけますよ。そちらの方がずいぶんマシだ、黒幕と同じ密室にいるよりはね」


 紫苑は肩をすくめる。

「好きにしたまえ。さて――」

 椅子を抱えると、机が四角く並んだうちの、真ん中のスペースへと入った。窓の側を背にして端の方に椅子を据え、腰かける。


 百見は長机一つ分ほどの距離を取り、その前に立つ。そばには守るように崇春もいた。かすみは迷った後、二人の後ろに立つ。


 鈴下は真ん中のスペースには入らず、壁際で立っていた。自らを抱くように、片手でもう片方の腕をつかむ。その手は制服の袖を強く握り締めていた。

 うつむいたその顔は、壁の方へと向けられていた。紫苑から顔をそむけるように。


 平坂は彼女を警戒するように、距離を取って壁際に立った。


 東条紫苑はひざの上に片脚を載せ、その上に両手を載せて指を組む。くつろぐかのような様子で後ろにもたれた。


 そこでなぜか、鈴下の方を見た。

「構わないかい、紡」


 鈴下はそちらを見ず、うつむいたままだった。

「……ええ。あなたの、望むように」


 紫苑は何も言わず、うなずく。

 百見に向き直り、笑いかけた。

「よろしく頼むよ」

 そして、目を閉じた。


 百見はうなずきもせず、印を結んだ。

「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ――【情画顕硯じょうがけんげん】」


 そして、傍らに現れた広目天が、紫苑の額に、そ、と筆先をつける。水面のように紫苑の輪郭が揺らぎ、筆はその奥へと沈んでゆく。


「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ。オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ、オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ、オン・ビロバキシャ――」


 百見の唱える真言が響く中、広目天は筆を抜き出し、空間へと振るった。

辺りが、室内の空間自体が、墨を浴びせられたかのように黒一色に染められる。

その中で、壁のうち一面から墨が流れ落ちた。白く四角く切り取られたようなそれは、映画のスクリーンにも似ていた。

 その手前にはいくつも、黒いもやの塊が漂っていた。奇妙なことにその小さな雲のようなものは、広目天の墨より黒く見えた。


「これは……」

 百見がつぶやくと、紫苑は薄く目を開いた。

「大暗黒天の力さ。プライバシーというものがあるのでね、無関係な部分は我が暗黒で塗り潰させてもらったよ」


 以前、斉藤の記憶を見たときも黒幕の姿は黒くもやがかかったようになって見えなかった。そのときと同じ力ということか。


 紫苑は微笑み、広目天とスクリーンの方とを見比べる。

「いやしかし、これが広目天の力か……興味深いね」


 百見は取り合わず、漂うもやの群れを指差す。

 広目天が筆でそれをかき分けると。一つだけ、もやのかかっていないものがあった。空間に白く切り取られた、小さなスクリーンのようなものが。そこには墨で描かれたような、モノクロの人影が映っていた。


 百見がうなずくと、広目天は小さなスクリーンを筆先で捕らえる。それを、壁のスクリーンへと放った。


 壁には大写しになる、古い記録映像にも似て、砂が舞うかのようにちらついた映像が。東条紫苑の過去が。





 ――さぁぁ、さぁぁ、と音がした。どうやら映像がちらつくのは、仕様のせいばかりでもなく。その中で、雨が降っているらしかった。傘を持たずに出れば、たちまち濡れそぼるほどの雨が。


 映像の中の全てはその雨に濡れていた。雨粒は黒く、辺りもまた墨をまいたように暗い。モノクロの映像だから、というだけではなく、夜の光景だろうか。


 やがて、目が慣れるにつれ見えてきた。木の茂る間に、三つほど人影が見えた。といって、森や山の中ではなさそうだ。背の低い植え込みが、こんもりとした丸みを帯びて辺りに点々と生えている。辺り一面の地面には背の低い芝が広がっていた。

 どうやら、どこかの庭らしかった。茂みの間からは建物の壁と、アルミサッシの窓が見えた。その窓から漏れ出る明かりが、白く薄く辺りを照らしていた。


 殺されていた、東条紫苑と鈴下紡は。薄明かりの差すその庭で。


 いや、死んではいなかった、まだ。

映像の中の紫苑は、芝の伸びる地面にひざをついて座り込んでいた。力なく震える両の手が、ナイフの柄を握っていた。学校指定のジャージを着たその腹に、深く刺さったナイフを。

 傷口からは黒く黒く、下半身を塗り潰そうとするかのように血が溢れた。震える指はその血にぬめり、ナイフを抜き出そうとするも、何度も手を滑らせていた。抜ける気配はいっこうになかった。


 鈴下はいよいよ死にかけていた。あお向けに倒れた芝の上、顔は雨に濡れて草葉が張りつき、制服の胸から下は血に濡れていた。胸と腹の中間辺り、体の真ん中にナイフが突き立っていた。誕生ケーキのロウソクのように。その回り、制服の腹辺りには、いくつも破れた後があった。ナイフで何度も刺されたみたいに。

 鈴下はゆっくりと、静かに、瞬きをしていた。ナイフに添えられた手も、もはやそこにあるだけだった。ナイフを抜こうとはしていなかった、彼女の意思でその手が動くかどうかも怪しかった。


 三人目の人影だけが、一人そこに立っていた。

 見知らぬ男。全身を雨に濡らした、中年の男。

スーツを着崩した、その男は震えていた。足もひざも肩も。何より激しく、その腕が。熱病にでもかかったかのように、その手が。黒く黒く、拭えぬほどぬらぬらと黒く、血に染まったその手が。


「紡……紡いぃぃ……っ!」

 肺の底から絞り出すように、食いしばった歯の隙間からうめくように、男は声を上げて。目の前に倒れた、鈴下のそばへと歩み寄った。一歩一歩、崩れるような足取りで。そして彼女のかたわらに、落ちるようにひざをつき。


 叩いた、拳を振り上げて。その顔を胸を。

 殴るのではなく、拳の小指側から叩いた、何度も、何度も。泣きじゃくる子供がそうするように。


 叩きながら男は名を呼んだ、彼女の。

 男の目は頬は濡れていた、雨に降られる以上に濡れていた。

 そうして、そっ、と両手を当てる。彼女の喉に。絞めるように。


 その腕に、血管が浮かぶほど力が込められ。

 鈴下が苦しげに口を開け、震える舌が天に向いて突き出されたとき。


 震えながら、東条紫苑は立ち上がっていた。腹のナイフを揺らしながら。手に印を結んで。

「オン……マカキャラヤ、ソワカ……」

 その背後には浮かんだ、三眼三面六臂さんがんさんめんろっぴ――三つの顔にそれぞれ三つの目、そして剣を手にした六本の腕――、夜より闇より血よりも黒い、鬼神の姿が。

 その姿は幻のように消え。変わりに紫苑の手には、黒くもやを上げる剣が握られていた。鬼神が、怪仏が手にしていた剣。


 一方、目を、歯を剥き出し、紫苑をにらんで立ち上がる男の背後には。

浮かんでいた、薄黒い肌の鬼神が。人と同じ一面二ながら、蛇のような目でめつけ。片手に三叉のげき、もう片手に髑髏どくろの杯を持った怪仏が。


 ふらつく紫苑と、揺らぐ男は。互いに歩み、駆け寄り、叫び、振るった。紫苑はその手の剣を。男は背後の怪仏の腕を、それが握るげきを。


 鈴下紡は震えていた。そのかたわら、男が蹴飛ばした洋酒の瓶が音を立てて転がり。

 その向こうにはよく見れば、もう一人が倒れていた。男と同年代の女性が、衣服にいくつも穴を開け、全身を血に染めて。


 紫苑の剣と怪物のげきが、真っ白く火花を上げてかち合う。



 ――そこから先、映像の全ては。突如湧き出た、黒く濃いもやに潰された。





「……ここまでだ。ここまでだよ」

 今、そう言った。東条紫苑は椅子にもたれ、優雅に脚を組んだまま。

 組んだ指を、震えるほどに握り締めて。


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