四ノ巻11話  (後編)


「! 帝釈天!」

「――ははっ!」

 紫苑の叫びに弾かれたように。渦の外にいた帝釈天が金剛杵ヴァジュラを掲げる。

 そこから放たれた稲妻が、風を裂くように白く閃き。シバヅキの手にしたナイフを打った。


「が……!!」

 火花を上げたナイフを取り落とし、震えながらひざをつくシバヅキ。

同時、辺りを覆うようにうなっていた風はかき消えた。


「今だ! 【黒き黄金の大豊穣ブラック・ゴールド・ラッシュ】!」

 倒れたままの紫苑が小さく槌を持ち上げて地面を打つ。その先から湧き出た小判の群れが、波となってシバヅキを打ちのめした。


 帝釈天が倒れたシバヅキを見下ろし、縮れたひげをなでながら言う。

「――ヒンドゥー教において主神の一柱とされる大自在天シヴァ神。その原型はヒンドゥー教の前身、バラモン教における嵐の神『ルドラ』といわれておる。そして伊舎那天もまた暴風神、さらには大自在天シヴァ神と同体とされる存在。大自在天のなんじがその力を手にしたなら、なるほど相性が良いわけよな……しかし」

 歯を剥いて笑ってみせる。

「――だからといって思うたか? 雷神この我が嵐にひるむなどと、な」


 シバヅキは応えず、倒れたまま目だけを帝釈天に向ける。ナイフをなくしたその手は、しかし一つの形を取っていた。

 右手は拳に握り、親指と人差指だけを軽く伸ばす。そして親指で人差指の爪を押さえ、軽く曲げる。左手はそこに組み合わせはせず、親指、人差指、中指を合わせて伸ばした形。

「オン・イシャナエイ・ソワカ……」


 その両手の間の空間から。すさぶ音と共に風が吹いた。

 一直線にせるそれは、砲弾のように帝釈天の胴を打つ。


「――ば……ぁっ!?」

 身を折り曲げ、足を地から浮かせた帝釈天は、そのまま吹き飛ばされて地に落ちた。


 大槌を杖のようについて紫苑が立ち上がる。

「なるほど、相性が良いようだ。伊舎那天の力の方は、ナイフを媒介とせずとも使えるとはね。実に嫌なニュースだよ」


 立ち上がり、ナイフを拾うシバヅキ。その目は、じっ、と紫苑を見ていた。

「大暗、黒天……シぃぃオぉぉン……!」

 きしるような声を喉の奥から絞り出す。


 不意に、手にしたナイフを。思い切り、天へと向けて放り上げた。まるで雲でも目がけたかのように。

 そして、空いた両の手は。先ほどの印を再び結んでいた。

「オン・イシャナエイ・ソワカ……!」


 その言葉が終わると同時。風が吹いた、天と地とに。

 天の高みで鳴る風は、投げ上げられたナイフを捕らえた。緩やかな放物線を描いていたナイフが気流に押され、突如として稲妻のような、鋭角的な軌跡を描き始める。

 それは紫苑を目がけて素早く落ち来る。回避させまいとするかのように、右に左に軌道を変えながら。


 一方、地上で吹き荒ぶ風は。ばん、と鳴る音さえ立てて、そこに立つ者を打ち据えた。紫苑も、周囲の崇春らさえ。


「ぐ……!」

 顔をしかめ、足をよろめかせつつ。紫苑は足を継いでこらえた。崇春らも倒れはしなかった。

 が。そのときにはもう、シバヅキの網にかかっていた。


 地を這うように低く渦を描く風が、全員の足元にまとわりついていた。いや、巻きついていた。

 巻きつき巻き込み、地に縛りつけるかのような気流が重く、巻き起こっていた。それはまるで両の足それぞれを中心とした、小さな台風。ただし腹から上には、そよ、とも影響を及ぼさない、足腰だけを重く絡め取る暴風。


「何……!」

 紫苑の顔がこわばる。何度も足を風から抜こうとするが、びくともしない。


「ふんぬぐううううぅ!」

 崇春が腰を落とし、歯を噛み締めて力を込める。どうにか片脚を上げたが、すぐに風に引かれ、地に吸いつけられるように落ちる。その足を踏ん張り、逆の脚を上げるも、同じ結果となった。

「ぐう……おのれえええ!」

 それを繰り返し足を引きずって紫苑の方へ向かおうとするが、到底間に合いそうにもない。


 至寂が顔を歪める。

「不覚、拙僧としたことが……! 不動明王!」

 傍らの明王が、その背を越える大剣を振るい。至寂の足にまとわりつく、風の――業の――流れを断ち切る。

 気勢を上げるかのように、明王の背負う炎が音を上げ燃え盛る中。至寂は紫苑を目がけて駆ける。


 だが。そのときにはもう、風に操られたナイフが、紫苑へと迫っていた。


 紫苑は目をつむっていた。腰を落とし身を折り曲げていた、刃から少しでも身を遠ざけようとするかのように。

 だが。その両腕は力の限り、槌を地面に叩きつけ。その口は叫んでいた、真言を。「オン・ビシビシ・ンッシャ・バラギャテイ・ソワカ……打ち出せ小槌こづち暗黒くろの恵み! 【黒き黄金の大噴射ブラック・ゴールド・ガイザー!】


 打ち出された、黒い輝きを帯びた黄金の間欠泉が。紫苑の足下、いや、やや背後の地面から。上ではなく、斜め前に向かって。紫苑自身を吹き飛ばすように。


「ぐおおおおおっっ!?」

 それは打ち上げていた、紫苑の体を。噴き出す黄金でその身を容赦なく打ち据え、悲鳴を上げさせながら。彼の脚を縛りつけていた、気流を無理やりに断ち切って。


 そして、彼が斜め前方へと打ち上げられた先にいたのは。

印を結んだまま棒立ちの、シバヅキ。


「が、アぁぁっ!」

 紫苑自身の体と、それを押し流した黄金の流れに打ち当たり。巻き込まれるようにシバヅキは倒されていた。


 紫苑もまた地に倒れたが、シバヅキよりも早かった――立ち上がるのも、武器を構え直すのも。

 シバヅキと地面とに打ち当たった頭から、小判に打たれた背から、血を流しつつも槌を振るった。

「打ち出せ……【黒き黄金の大噴射ブラック・ゴールド・ガイザー!】」

 小さく、しかし素早く振るう槌が、シバヅキの背を打つ。


「が……アぁぁぁっっ!?」

 その身を、肌を内から破いて。シバヅキの背から黄金の群れが吹き上がり、血と共に舞い散った。


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