四ノ巻12話  傷


 先ほどまで渦を巻いていた、風はすでにいでいた。吹きつけていた風のもやみ、辺りに何の音もなかった。そして、誰も動かなかった。


 シバヅキの背を裂いた大判小判も、すでにその噴出を止め。敷き詰められたように地に落ちたそれらの上に、倒れたシバヅキの血が流れる。その背から、音もなく。とめどなく。


 そしてようやく、崇春は口を開いた。

「な……大丈夫か!」

 巻きつくような風から解放された脚を動かし、駆ける。小判を蹴散らし、シバヅキの元に。


 横向きに倒れたシバヅキの目は見開かれ、しかしそばにかがみ込んだ崇春の姿を映した様子もなく。まるで小動物のように、浅く速い呼吸を繰り返していた。


 崇春は歯を噛み締める。

「く……いかん、すぐに――」

 その背に手を添えようとしたとき。


「待つんだ」

 東条紫苑がその手をつかんだ。自身の頭から血を流しながら、ゆっくりと首を横に振る。

「手当てをするというのなら、君たち自身にするがいい。……彼のことは、放っておいてもらおうか」


 崇春はその手を振り払う。歯を剥き、声を上げた。

「何言うちょんじゃい! おんしと、このもんの間に何があったかは知らん! じゃが、命まで奪ってええはずがあるかっ!!」


 しかし紫苑は、なおも首を横に振る。

「勘違いしている、勘違いしているんだ君は。そもそもそいつに――」


 崇春はもはやそちらに取り合わず、黙ってシバヅキの背に手を回そうとした。


 そのとき。不意に、彼の横たわる地面から水が噴き上がった。刃のように細く、鋭い水流が。その流れはシバヅキの体を、さらに裂きつつ打ち上げる。

 辺りに未だ広がっていた小判が、共に打ち上げられ割られ、地に落ちる音を立てた。シバヅキの体もまた、紫苑らから離れて地に伏す。


「何じゃと……」

 崇春は目を見開いていた。


 そのとき、女の声がした。崇春にとっては初めて聞く声。

「見たか、見たかあの野郎、シバヅキぃ……!」

 息を切らし肩を大きく上下させた、制服姿の女子――鈴下紡。櫛を入れたこともないような荒い黒髪は思い思いの方向に跳ね、黒縁の眼鏡はずり落ちかけている。


 紫苑が小さく息をつく。

「無事かい、つむぎ


 ひざに手をついて身をかがめ、顔を歪めて鈴下は言う。

「無事じゃありませんよ全く! さっきだってホラ、そいつこんなにやってくれやがったんですよ!」

 振り向き、紫苑に背を見せる。指で示したその背中の制服は大きく裂けていた。まるで何か大振りな刃物が突き立ったかのように。

 しかし。破れた布地の下にのぞく肌には。どこにも傷など見当たらなかった。破けた制服には赤黒く、確かに血が散っているというのに。


 紫苑は息をついて笑う。

「無事なようで何よりだよ。まあ当たり前か、何せ僕らは――」


 その先を紫苑は言えなかった。

 ど、と重い音がして、その背に刃物が突き立っていた。

 シバヅキが、弁才天の水流に吹き飛ばされた先で。拾った自らのナイフを、紫苑へと投げていた。


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