四ノ巻11話 紫苑とシバヅキ (前編)
全ての霧が吹き払われ、辺りには早朝の空から光が差し込んでいた。遠く山の
その晴れた空の下。地に突き立った二振りのナイフ、それだけがまるで異物だった。それらの周りにだけ、砂を巻き上げて風が渦巻いていた。不機嫌に
やがて地に風圧を叩きつけ、一際高く風音を立てて。二振りのナイフは地から自らを抜き出し、宙に孤を描いて元の居場所へと戻った。それらの主であろう、男の手に。
朝の日差しの中にあって、男もまた異物だった。夜がそこに置き忘れていったかのように、くすんだ闇の色をしていた。荒れた髪も口元を覆うマフラーも。丸めた背を覆う、袖も裾もほつれたコートも。ズボンも靴も。目元を隠すほど長い前髪とマフラーの間からのぞく肌すら、くすんで浅黒い。
その男の他全員が、未だ身を伏せたままだったが。紫苑だけが立ち上がり、手放していた槌を拾って、男へと笑いかけた。どこか固い顔で。
「やあ、シバヅキ。また会ったね――別に会いたくはなかったが」
シバヅキと呼ばれた男はみじろぎもせず、ナイフを提げてうつむいたまま。
紫苑はなおも話しかける。
「また強くなったようだね、ちっとも嬉しくはないが。風の力なんていつ手に入れたんだい? さっきの
不意にシバヅキが口を開く。背を丸めてうつむいたまま。
「……美味カった、ぞ」
紫苑が眉を寄せる。
その間にもシバヅキは喋った。
「美味カっ、たぞ。弁才天ノ、血ハな」
右手に持ったナイフを示すと、マフラーを左手で持ち上げて口元をあらわにした。ナイフの刃に横から舌をつけ、
「な……!」
瞬間、紫苑は拳を握り、歯を剥いていた。
だがすぐに息をつき、微笑んでみせる。先ほど同じ表情で。
「なるほど、手傷は負わせたようだね。だが、彼女が死ぬはずはない。僕と同じく――」
聞いた風もなく、シバヅキは紫苑へとナイフを向ける。
「次ハ、お前ダ。大暗黒天……シオン。お前ノ全テ、喰ラっテくレる」
紫苑は言う。
「
槌を掲げ、シバヅキを見据える。
「やるべきことは。お前を倒し、僕ら自身と学校に平和を。怪仏事件に終止符を」
離れた所でようやく身を起こしていた崇春は、その言葉に眉根を寄せる。
「むう……!?」
平坂も紫苑らの方からいったん身を引き、尋ねるように崇春を見た。
「どういう話だ、東条紫苑が黒幕じゃねェのか? 黒幕だとしても、それに敵対するあっちの奴は何なんだ?」
つぶやくように至寂が言う。
「『一連の怪仏事件の原因である、それはおおむね認める』――そんな風に紫苑という者は言っていました。ですが……」
渦生も困惑したように顔を歪める。
「ああ……いったい向こうの奴は何なんだ、あるいは俺らの知らない
崇春は考え込むように腕を組む。
「むうう……分からん! 分からんものは本人に聞いてみるしかあるまい――」
大きく息を吸い込み、片手を口元に添えて。シバヅキと呼ばれた男へ向けて、声を上げようとしたとき。
至寂がさえぎるように手を上げた。
「待つのです。こういう
「むう、しかし……」
「お聞きなさい。新たに現れた男が何者か、それは分かりませんが。一つだけはっきりしていることがあるはずです。それは『東条紫苑は我々と、そして無関係な者らに害をなした』ということ」
他の者をも見回して続ける。
「昨日の
その言葉に自分で同意するかのように大きくうなずく。
「故に、今は様子を見ましょう。東条紫苑に手傷を負わすなり、隙を作ってくれれば
崇春は眉を寄せる。
「じゃが……それでええんじゃろうか、もしも――」
再び、さえぎるように至寂が手を上げる。
「確かに、もしも。命に関わるようなことがあってはなりません。故、そうなる前には介入いたしましょう。むしろ、様子を見ることで分かることもあるやもしれません。我々に対し取り
そうして渦生と平坂の方を見るが、二人とも考え込むように視線を落とすばかりで、反論は特になかった。
そうするうちにも、シバヅキと呼ばれた男は紫苑に向けてナイフを放つ。
「じゃアっ!」
叫びと共に飛んだナイフは、しかし紫苑の展開した黄金の壁に阻まれ。その表面にわずかな傷を残したのみで、高い音を立てて弾かれた。
シバヅキは残ったナイフを小脇に抱え、両手の指を組む。そこから両の人差指を、伸ばして先だけを合わし。親指、小指はぴたりと合わせて伸ばした。
「オン・マケイシバラヤ・ソワカ……!」
その真言と共に、人差指の先、そこが青く光を宿す。見る間に光は強まり広がり膨れ上がり、張り裂けるように放たれた。真っ直ぐ、紫苑へではなく、落ちたナイフへと。
ナイフに打ち当たった光は地を揺らし、その周りの土を
しかし、その
壁の陰で紫苑が笑う。
「いい加減つき合いも長いんだ、種は割れているさ。破壊神たる
言った直後、紫苑は足をよろめかせた。まるで見えない手で、横から突然押されたかのように。
「え……」
壁に手をつき、こらえようとするも。その手もまた押されているかのように壁の横腹を滑る。紫苑自身の体も同様に押され、何歩も足を継いでこらえる。
そのときにはもう、音がしていた。暴風の音、落ちたナイフを中心に渦巻く気流の音。
それはナイフのある壁の外側も、紫苑のいる内側も関係なく。横殴りの――いや、巨大な渦を描く――嵐と化していた。
「おぉ……お、お、おおぉっ!?」
転ぶのをこらえて駆けるように、壁に手をつきながら何歩も足を継いだが。やがて紫苑は、風に足をすくわれて倒れ。
その体を猛風が、小石のように転がして運んだ。黄金の壁の外へ。
「ぶ……!」
頭から転んだ紫苑が土にまみれた顔を上げた、そこへ。
吹き荒れる風の中、何の抵抗も受けていないかのように。シバヅキが歩み寄っていた。一人、彼だけを風が避けて通っているかのように、コートをゆるやかにはためかせて。
うつむいたまま、もう一振りのナイフを頭上へと振りかぶる。
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