四ノ巻1話  戦い済んで、まだ夜は明けず


 ――それよりも以前、昨日・・のこと。

 谷﨑たにさきかすみが怪仏の力に目覚め、帝釈天らと戦い、至寂しじゃくと名乗る僧に助けられた、その後のこと――。





 ――駆けていた、駆けていた。谷﨑たにさきかすみは息を切らして。視界の全てを重たく覆う、白い霧の中を。

 駆けていた、駆けていた。制服のブレザーをはためかせ、スカートの裾が乱れるのも構わず。何かを追って懸命に――だがしかし、何を追っていたのだったろうか――。


 思う間にも見えた、霧の向こうを駆けてゆくその人が。大きな背をかすみに向け、何かを追うように走っていく崇春すしゅん

 そしてその先。怪仏事件の全ての黒幕――と思われる者――、東条紫苑しおん。と鈴下つむぎ――そうだ、そうだった。追っていたのだ、崇春と一緒に彼らを――。


 追いつこうと足を速めたそのとき。かすみの中から、その背から、それらは出た。ぬぅ、と引きずり出されたように――ぬらつくぬく内臓はらわたを、体の底から引き出されるように――、現れた。かすみの、二体の怪仏は。


 花弁のような裾をひらめかせ、緩く宙に舞う吉祥天きっしょうてん

 かすみの倍ほどもある背丈、柱のような脚で地を揺らし、駆けていくのは毘沙門天びしゃもんてん――歯を食いしばる顔は怒りに歪み、二本の腕にはげきと宝塔。そう二本、あの多腕多頭の異形とは違う――。


 自らの意思でんだものではない――どころか、多分今ここは。ぬるま湯のような脂のような、もったりとした時の流れるここは。おそらく夢の中だ――とは分かっていたが。それでもかすみは命じていた。

「吉祥天、毘沙門天! あの人たちを――黒幕を捕らえて!」


 けれど、黒幕の背を指差す甲斐かいもなく。吉祥天は宙をたゆたい、地に背を向けて、ぐるりぐるりと飛ぶばかり。

 毘沙門天はといえば、黒幕をにらんではいたが。その目が不意に、天へと向けられる。


 白い霧の立ち込める中、そこだけ不思議に明るい雲――淡く光を帯びた、夜明け前のような日暮れ後のような、どこかセピア色の一面の雲――から。つ、と筆が差し出された。たとえるなら海をすずりに地を半紙に、世界自体に書をしたためるかとさえ思える、巨大な筆。


 それが毘沙門天へと差し出され、その体へと下ろされる――押し潰すでもなく打ち落とすでもなく、墨壺すみつぼへ浸けるように、す、と――が。

 筆先が触れたその体の上。弾けるような焦げるような音を立て、黒い電撃のような光がぜた。まるで、その身のうちに入ろうとした筆先を、毘沙門天が拒んだように。


 怒ったように振り回す、毘沙門天のげきにその毛をいくらか斬り払われつつ。筆は引き、今度は吉祥天へと向かっていった。

 が、やはり同じだった。大きな目を瞬かせ、小首をかしげる吉祥天の体に触れた筆は、同じく黒い電光を上げて弾かれた。

 吉祥天は気分を害したように頬を膨らませると、目の下を指で引き下げ、んべぇ、と舌を出してみせた。筆へ向けて。


 次に筆が向かってきたのは、かすみの方だった。

 す、と淀みない動きで差し出された筆先は、視界の全てを覆うような毛の群れはかすみの胸へ、その内側へ沈むかと思えたが。同じだった、黒い電撃が弾いた。筆の穂先も、かすみをも弾き飛ばすように。


「あっ……!?」

 しびれるような痛みに顔を歪めたとき。


 毘沙門天もまた、その顔を――いや、その姿を――歪めていた。

 肉を裂く音を上げて生え出る、新たな三つの顔。血のしたたる音を立てて伸びる、新たな八本の腕。

 四面十――四つの顔に十本の腕――の荒ぶる異形が、黒く体液をこぼしながら。頬を震わせ歯を剥き出し、八振りの刀を振るいに振るった。巨大な筆へと跳びかかり斬り散らし、毛の舞い落ちる中で天を向き、えるような声を上げた。


 そして四つの顔、その目の一つが別の敵をとらえる。すなわち黒幕、紫苑たちを。

 四つの顔は唇を吊り上げ歯を剥き出し――怒りに顔を歪めたか、それとも笑ったのか――、八つの腕は刀を振り上げ、残る二腕は宝塔とげきを掲げ。二本の脚は地を踏み締め、跳んだ。


 空を裂く音を立て、その巨体ごと叩きつけるように振るい下ろした剛刀の群れは。

 斬り裂いた、確かな手応えをその手に返して――その感触は本地ほんじたる、かすみの手に腕に走っていた――。

 東条紫苑しおんを、鈴下つむぎを、裂いた、いくつもの肉塊に。

 血を噴き出させて裂いていた。崇春さえも、もろともに――。





「ぅ……わああああぁぁっっ!!」

 叫びと共に毛布を払いのけ、畳の上で身を起こしたかすみは。


「大丈夫か谷﨑たにさき――っぐはあぁ!?」

 ものの見事に打ち倒した。様子を見ようとしてか、顔を近づけていた崇春を。自らの額で。


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