三ノ巻29話  黒く生れ出たものは


 ひびが走る、ひびが走る。黒い宝珠に黒くひびが。


 どくりどくりと鼓動が走る、まるでそれに合わせるように。まるで胸を引きちぎるような。こめかみを、頭蓋ずがいし割りそうな鼓動が。

 それでもかすみは目を開けていた。額から垂れて目に入る血も、流れ出る涙もそのままに。歯を食いしばって。鈴下へ、刺し殺すような視線を向けて。

 視界がどこか赤かった、いや黒くさえあった。それは目に流れ込んだ血のせいか、あるいはこの動悸で血が、あるは酸素が足りないせいか。

 鼓動と、自分の荒い呼吸音。それだけが鼓膜に響く。


 あざけるように――いや違う、ただ困惑したように、あるいは面倒くさそうに――鈴下が眉根を寄せる。

「何を言ってるも何も、当然のことを言ったまでだが。何度も言わせないで欲しいね、彼女は殺す。君の方は生きててもら――」


「あ……ぁあああ! あぁああああああああ!」

 気づかなかった。それが自分の口から、喉から胸から腹からほとばしった叫びだと。

 分からなかった。なぜ自分の手が新たな印を結んでいるのか――両手の小指を互いの掌の内へ差し込み、薬指は手の甲を押さえるように組む。中指は立てて先を合わせ、人差指は伸ばして外へ開く。親指は伸ばして揃える――。まるで力強い手で有無を言わせず、その形に手を組まされている感覚。


 そして何も分からぬまま、血が目に流れ落ち、涙が頬へ流れ落ちるまま。

「――ぁああああ、あああああああああぁ…………っ!!」

 叫び声を吐き切って、肺も頭も空っぽになって。それでも涙は流れ落ちて。

 かすれるような声で、口は真言を唱えていた。頭のどこかで聞こえたそれを。

「オン・シチロクリ・ソワカ――オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ!」


 叫んだ、空っぽの胸で。ひび割れるような声で。いざなうように心に聞こえた、その名を。

「来て……壊して! 何もかも! 帰命頂礼きみょうちょうらい――『毘沙門天びしゃもんてん』!!」


 割れた。黒い宝珠が。ぱきり、と軽い音を立てて。

 そこから溢れ出た、黒い何か、墨の色をした空気の流れが。それは音も無く辺りを吞み込み、一瞬にして吞み込み、全てを黒に変え。

 そしてそれは集った、一つの形に。かすみの倍ほども背丈のある、巨大な姿に。黒い甲冑かっちゅうをまとった怪仏に。

 未だその姿形さえ定まり切らぬまま、体の端に黒い流れを残したまま。片手に持った三叉戟さんさげき――三又の槍――を高々と掲げ、鈴下に向けて振り下ろす。待ち切れぬように、全てを壊そうとするかのように。


「え。……お、おおおおおっっ!?」

 鈴下は口を開け、自分に迫る戟を見上げていたが。すんでのところで、地に転がるように身をかわす。その十二ひとえに似た衣の、長い裾が引きちぎられる。


 いきどおっていた。いきどおっていた、その怪仏は。いきどおっていた――歯を食いしばるかすみと同じに。

 叩きつけたげきは未だその刀身を地面にめり込ませ、長い柄を震わせきしませている。その柄にひびが入るほどに。

 黒い甲冑かっちゅう――光沢などどこにもない、光の全てを吸い込むような黒――に覆われた体は荒く上下し、ふうぅう、ふぅうう、と燃えるような、内からぜるのをようやくこらえているかのような息を吐いている。

 髪は丸く結い上げられ、いかめしい顔は歯を食いしばり震えている。げきを持たない片方の手には奇妙にも、小さな塔のような物が載せられていた。


 鈴下は怪仏を見上げ、口を開けていた。今しがた、一歩間違えば死ぬところであったろうことも忘れたように、目を見開いていた。

 目を瞬かせる。両手は長い袖の中に隠れ、だらりと垂らされていた。

「こ……れ、は……」

 鈴下の目がなおも見開かれる。口の両端が持ち上がり、震えながら頬が緩む。声を上げた。

「……毘沙門びしゃもん……てん! 毘沙門天、毘沙門天だ間違いなく! そうだよ片手に宝棒ほうぼうもしくはげき! もう片手には全ての経典その数八万四千を納めたといわれる宝塔! この造形! まさに! 毘沙門天だよ!」


 その名は――自分で呼んだ名を今さらだが――かすみにも聞き覚えがあった。百見が何度か口にした、四天王最後の一尊。北方の守護者、多聞天たもんてんこと毘沙門天。

 ――そんなことはどうでもよかった。


 未だ涙を流しながら、かすみは叫ぶ。

「早く! 壊して! ――毘沙門天っ!」


「――ォオオ……オオオオオォ……ッ!」

 毘沙門天もまた涙を流していた、見開いた目から。震える体を持ち上げ、歯を食いしばっていた口を開き声を上げ、再び戟を振り上げる。


 後ずさりながら――毘沙門天を見上げ、両手を広げ、顔中で笑いながら――、鈴下が言う。

「よくやった、よくぞやってくれたよ谷﨑くん! いやあ良かった、やればできる子だと思ってたんだ君のことは! 全く私のにらんだとおりだ!」

 眼鏡がずり落ちたまま背を反らせ、高らかに笑う。

「あっははははは! これで! 揃った! 叶うぞあの人の――私たちの望みが!」


 毘沙門天は身を折り曲げ、片手の戟を振り下ろす。重く空を切る音を上げて。


 頬を引きつらせながら――しかし笑ったまま――鈴下は声を上げていた。

「【命運ぶ運河の流れ】、【模糊もこたる雲霞うんか緞帳どんちょう】!」

 とたん吹き上がった、鈴下の足下から河のような流れが。それは鈴下の体を押し上げ浮き上がらせ、その体勢を崩させつつも押し流し運んでいく。振り下ろされる武器の届かぬ場所へ。


 結果、毘沙門天の戟は――人の頭などその自重だけで押し割れそうな、巨大な刀身を持つそれは――鈴下がいた場所を打ち、水飛沫しぶきを高く上げたのみだった。

 そして、いつの間にか。辺りは白く霧に覆われていた。先ほどから鈴下が使っている力、【つかみどころ無き言葉の壁】のそれではない。辺り一面、目の前を覆う、自分の手さえも見えないほどの濃霧。


 分厚い霧の向こう、そのどこかから鈴下の声が聞こえた。

「あああよくやった、本当によくやってくれた! 感謝してもし切れないよ! そうだごほうびだ、君の望みを叶えて差し上げよう――そう、賀来くんの命。それを保証してあげよう」


 荒い音を立てて呼吸するかすみの、肩の動きが止まる。


 鈴下の声は続いた。

「あああもちろん斉藤くんもだ、二人のことは放っておこう! さ、君はいったん毘沙門天を納めてだね、私と一緒にあの人のもとへ――」


 霧の向こう、鈴下を――どこにいるのか分からないまま――にらみながら。かすみの頬が震える。

 放っておく? 二人を? 放っておく? 怪仏に乗っ取られたままの賀来と傷ついたままの斉藤を、放っておく? 

 ――助けるつもりなど、ないではないか。


 引きちぎれそうな頬を震わせ、霧の向こうを指差し、叫んだ。

「毘沙門天! やりなさい!」


「――オオオオォオ……!」

 うなるような声を上げ、未だ涙を流しながら。毘沙門天は振るった、その戟を横殴りに。かすみが指差した、鈴下の声が聞こえた方へ。

 だがそれは幾本かの竹をなぎ倒したのみで、鈴下の姿はそこになかった。


 嘲笑う声が聞こえた、白い緞帳どんちょうの向こう、四方八方から。

「おやおや、どこを狙ってるんだい」

「私はここだ、残念残念」

「いやいやこっちだ、ここを狙いたまえ」

「こっちだバーカバーカ」

「我が怪仏は言葉と水の神仏かみ……これぐらいの芸当は朝飯前だよ」

「おとなしく来るならそれでいいが……面倒だ、また洗脳詩ことばを流し込んでやるか」


 次々と降る声の方向をにらみながら、かすみは思っていた――何だこれは、何だこれは。毘沙門天、四天王、崇春すしゅんたちと同じ力。なのに。

 ――これでは、同じだ。怪仏の力が無かったとき、何の力も無かったときと。


 振り絞るように叫んだ。涙が飛び散った。

「毘沙門天っっ! 何をしているの、それでいいの!? 四天王でしょう、崇春あの人たちと同じ! どうするの、あなたが――私がそんなことで!!」


 もっとだ、もっと力が要る――あの人たちのような力が。

 地獄の幻にも惑わされず道を進んだ、百見の――広目天の――ような力が。この霧の先をも見通す力が。


 応えるように。毘沙門天が空を仰いだ。

「――オオオ……ォ、オォヲヲヲ、ヲ――応……ッ!」

 みちり、とやわい音がした。肉の音、血を滴らせ肉の皮の裂ける音が。


 声が聞こえた。霧の向こうから鈴下の、押し殺した声。生唾ごと、息を呑んだような声が。

「ぃ……え……?」


 みちりみちりと裂けていた。毘沙門天の肉体は。

 両頬が首が赤黒く血を流しながら裂け。その傷口から、引き裂く音を立てて何かが生え出る――顔が。

 いかめしく、かつ怒りに歪んだ同じ顔が、血に濡れてその傷口から。赤黒く生え出ていた、みきみきと折るような音を立て、元の顔を押し退けながら。

 今や毘沙門天のその顔は。横に四つ並んでいた。その顔のどれもが血に濡れ、その目のどれもが涙を流しながらも、四方八方を見据える。霧の奥まで視線で貫き、見透かすように。


 同じく涙を流しながら、かすみは思う。

 そうだ、もっと力が要る。あの人たちのような力が。

 怪仏すら反応できない速さで振るい、その威で阿修羅をも退けた、平坂の――持国天の――ような力が。縦横無尽に斬り裂く刀が。


 四つの顔が答えてうなる。

「――ヲヲォ応ッ……、応、応、応ッッ!」


 めぎり、と割れる音がした。毘沙門天のその腕から、脇から肩から。

 押し割られたような傷口から、めちりめちりと生え出ていた。震える腕が。

血にまみれるその腕の、思い思いの方向に新たに生える八本の手には。それぞれ、刀が握られていた。血に濡れてなおも妖しく光る、刀が。


 歯を食いしばったままかすみは笑う。荒れた髪を乾く血で顔に張りつけたまま。

 そうだそれでいい、けれどもっと力が要る。あの人のような力が――強さが。

 何ものに負けず、くじけず。そして己を省みず、傷つくこともいとわず闘う、崇春あの人の――増長天の――ような力が。何より純粋で、大きな強さが。


 四つの顔が深くうなずく。ただ、無言で。

 八つの腕が刀を振るい、刀身に残る血を飛ばした。

 元々の腕二本は高々と、肩の上に塔を掲げ戟を掲げ。

 その全身に、めぎりめぎりと力がこもる。にじみ出るようにこぼれ出るように、黒いもやが溢れ出る。


 鈴下は口を開け、両手を垂らし。唇の端からよだれを垂らし。焦点の合わない目でそれを見上げてつぶやいた――今ならそれが見える、八つの目をそなえた毘沙門天には、そしてかすみには――。

「……そんっ、な、聞いてないぞ……なんっ、だよ……何なんだよ、これぇ……」


 それは討つ者、全てをる者。

「あなたこそは討伐する者……何もかもを打ち壊して」

 かすみは歯をきしらせる。


 そうだ引き裂いて、こんな霧。

 そうだ叩き潰して、どんな悪意も企みも。

 そうだ斬り裂いて、全ての敵を。

 そうだ叩き壊して――何もかもを。阻む全てを。


 胸の内に響く名を、叫びはせず。ただ眼差しに、咬み殺すような視線にその思いを乗せた。

 ――きなさい、私の怪仏。

 私の『刀八毘沙門天とうばつびしゃもんてん』。

 ――全てを、壊して。


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