三ノ巻30話  刀八毘沙門天


 ――その頃、斑野高校生徒会室で。


 帝釈天たいしゃくてんはその大きな目を見開き、東条紫苑しおんの手の上に揺らぐ情景を見つめていた。

「何と……!」


 東条紫苑はとうに席から立ち上がっていた。谷﨑かすみが毘沙門天を――求めていたまさにその怪仏を――発現させた、その瞬間から。

 食い入るように、目でかぶりつこうとするかのように、自らの手の上、黒いもやの中に揺らぐ情景を見つめていた。目を見開き口を開け、笑っていた。鈴下つむぎと同じ表情で。

「く……ははは、ははははは! やってくれる、やってくれるな谷﨑さん! まさに、まさに毘沙門天! しかしまさか、『刀八とうばつ毘沙門天』までぶとはね」


 帝釈天が視線を向けると、察したように紫苑は喋った。満面の笑顔のまま、若干息荒く早口に。

「ああ、秘仏『刀八とうばつ毘沙門天』――読み方としては『とうはつ』『とうはち』『とばつ』などともいわれるが――そのルーツは毘沙門天像の別バリエーション、『兜跋とばつ毘沙門天』にある。かつて中国西域、兜跋とばつ国と呼ばれたトルファンに現れ、敵軍から城塞を守護したという姿を模した像だが。その姿は高い冠と長いコートのような鎖鎧を身につけたもの……あのような異形とは程遠い」


 そこで息を継いで続ける。

「これもまた業だよ、人の。ただでさえ武神とされた毘沙門天に、兜跋とばつの音をもじり、八本の刀を持たせた――それだけの業を、さらなる欲望を押しつけた、それが刀八とうばつ毘沙門天。その像容は多様であり、一面八の他四面十あるいは十二のものなども見られる――彼女のそれも四面十か」


 ため息をついた。大きく、あざけるように。

「まさに不気味、異形異相。まるで戦闘と勝利と、力への渇望そのものを、無理やり神仏かみの姿に押し込めたかのような。そうしてそれが押さえ切れず、自らの器すら打ち破り。満ち満ちてあふれ出たかのような姿。実に――醜い」


 再び息をつき、首を横に振った。

 その後、思い出したように言う。

「しかし。まさかあれほどの『力』への渇望が、彼女の中に眠っているとはね」


 帝釈天はそこで口を開いた。

「……けして不可思議なものではないかと。かの娘御むすめごは怪仏との戦いを間近に見ておりました。仲間らが戦う中、無力な者として、ただ一人」


 谷﨑かすみは誰よりも力を欲していた。おそらくはその優しさゆえに。友を守り、敵対する黒幕を倒し、全てを終わらせる力を。

 帝釈天はそれを察していた、平坂や崇春らの戦いを見守るかすみの様子から。それゆえ再びまみえたとき、彼女を勧誘した。『戦い』の怪仏たる自らの本地として。

 ふと思う。あのとき本当に、無理やりにでも、かすみを本地としていればどうなっただろう? 

 彼女はそれを受け入れただろうか。そして彼女がこちら側に来ただろうか、それとも帝釈天があちら側に――


 そこまで考えて息をついた。目を閉じてかぶりを振る。――せん無いことだ、今さら。

 あのときの勧誘を冗談で終わらせたのは、巻き込みたくはなかったからだ。谷﨑も賀来も気持ちの良い者たちだった――それは平坂や、崇春たちも。

 それが、今や。巻き込んでいる、その渦中、それも中心へ。


 紫苑が言う。その口調はいつもどおりの速度に戻っていた。

「しかし、だ。あれほどの怪仏になると、つむぎ一人の手には余るか……彼女なら、死にはしないとはいえ。ならば、僕が――」


 考えていたことを追い払うように小さく咳をし、帝釈天は言った。

「その必要はありませぬ。御身おんみにもしものことがあれば一大事……手勢はすでに差し向けております故」


「さすがだな。しかし今動けるのは本地のない怪仏ぐらいのはず、どこまで戦力となるか――もちろん本地がないとはいえ、君自身は別としてね――。いや、そうか。彼を動かすか」


 帝釈天は頭を下げた。無言で、深く。

 詮無いこと、詮無いことだった、全ては。紫苑の望み、彼のやり方でこの世を救う、そのことの他は。


 紫苑は満足げにうなずく。

「まさに当意即妙、電光石火の用兵といえよう。見事だ帝釈天、さすがはたけ戦神仏いくさがみ……そして僕の片腕だよ」

 そうしてすぐ、再びもやの向こうの情景を食い入るように見つめた。握り潰さんばかりの力を八本の腕に込め、刀を構える毘沙門天を。まるで手に入ったばかりの宝物を――あるいはクリスマスか誕生日のプレゼントを――見るような眼差しで。


 帝釈天はその様子を眺め、小さくうなずく。

 それからもやに浮かぶ情景に目をやった。その場の誰もの――紫苑ばかりでなく、もやの向こうの鈴下もかすみも――視線が刀八毘沙門天に注がれる中。

 ひっそりと、倒れた賀来と斉藤を守るように。たおやかな肢体に華のような裾をひらめかせ、吉祥天が二人のそばにいた。


 帝釈天は眉をひそめる。

 奇妙だった。怪仏の本地となり得るほどの業、それは一人が一つしか持ち得ない。一人の人間が複数の怪仏を扱うことなど不可能だった。

 無論、同体とされる神仏であれば複数の怪物を扱うことも可能――様々な観音菩薩が同時に複数在ったように、あるいは斉藤が閻摩えんま天から地蔵菩薩、勝軍地蔵へと怪仏を変化させたように――だが。

 毘沙門天と吉祥天は夫婦神仏めおとがみ、あるいは兄妹きょうだいとされる存在。決して同体などではない。それをどうして、一人の人間がんでいる? 


 帝釈天はなおも眉を寄せ、にらむような眼差しを毘沙門天と吉祥天、そしてかすみへと向ける。

 いったい何なのだ、あの怪仏は――いや、あれらは。

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