三ノ巻28話 生れ出たものは
体を内から砕くかのように響いた、その鼓動に。かすみは胸を押さえていた。
「あ……あ……!」
みりみりと内から押し割るような痛みすら伴い。かすみの胸から、その中心から光が洩れた。それは見る間に強まり大きくなり。
「な……」
かすみは手を顔の前にかざし、目をつむる。
やがて光が弱まるのを感じ、細く目を開ける。手を下ろした。
そこには怪仏がいた。かすみが
人の――女性の――姿をした、花のような。
茎のように――たやすく
豊かな黒髪に紅い髪飾りを挿し、古代中国風の衣をまとったその姫君は。袖の先で奥ゆかしく、
目を覆い、何歩か下がっていた賀来が口を開く。
「これ……は」
かすみは呼んだ。頭の中に響いた、その怪仏の名を。
「あなたは……『怪仏・
吉祥天は袖に顔を半ば隠したまま、目を伏せて、こくり、と小さくうなずく。
かすみは目を瞬かせる。
けれど。ここからどうしたらいいのだ、そもそも力を、全てを終わらせるほど強い力を求めたはずなのに。現れたのはか弱い姫君。
どうしたら――
思案する間に、声を上げた者がいた。離れた地面の上で。
「吉祥天……吉っっっ祥ぅぅ天んんん!? はああぁあぁあ!?」
鎖に縛られたまま大口を開けた鈴下は、そのままなおも口を動かす。唾を飛ばしながら。
「吉祥天、って、吉祥天ってそんなワケあるか! どういうことだ、なぜあの怪仏が出ない! 何でだっ!」
脚を何度も地面に叩きつけ、何度も何度も叩きつける。
「ん何でだっっ! そんなワケあるかどれだけ準備したとどれだけ待ったと思ってるんだこの時を! なのにそんななのにそんな、あああああああ吐きそうだ!」
ずり落ちかけた眼鏡の下、涙さえ垂らしてそう言った。
目を瞬かせた後――鈴下が言っていることの全ては理解できなかったが――、かすみは言った。
「先輩……鈴下さん。準備したとかって、つまり……要は。あなたが賀来さんを――」
言う間にも自分の顔が歪むのを感じる。頬が震えるほど奥歯を噛み締め、それからやっと言った。
「――賀来さんを、こんなにした。あなたが……黒幕」
「ぅるせえっっ!!」
ずれた眼鏡を振り回すかのように、激しい動きで顔を向ける。唾を飛ばしながら言った。
「それどころじゃないそれどころじゃないよ台無しだ台無しだよ畜生! ああああ、そうだよ黒幕っていうんならそうだよそう、ただ彼女が今暴れてんのは知らないよ私のせいじゃない、あああそんなもんどうでもいい!」
聞きながらそして聞き終えていっそう、かすみの頬は堅く震える。
彼女は確かに黒幕で――どうやったのかはともかく――賀来に怪仏を
なのに、自分のせいじゃない? どうでもいい?
引きちぎれるほどに、頬が引きつる。
「……吉祥天っ!」
鈴下をにらんだまま叫んだ、自らの守護仏――怪仏――の名を。それでどうさせたかったのかは分からない。けれど、なんとかして欲しかった。どうにかしてしまいたかった、怪仏の――自らの業、その一部とつながった者の――力で。
けれど。吉祥天は身動きもせず。ただ、辺りを見回した。それからかすみの顔を見、小首をかしげる。どうしたらいいのか尋ねるように。
その姿が何だか、自分の姿に重なって見えて。戦う力のない、何もできず見ているしかない自分自身を見るように思えて。
かすみの頬が、ひどく引きつる。
「吉祥天っっ!!」
叱るような声をかすみが上げると、吉祥天は跳び上がるように身をすくませた。
「あなたの力で、この――」
束縛されたまま地面に転がる鈴下を指差して、そこでかすみの動きが止まった。頬にこもった力が行き場をなくして消える。
そうだ、何をしているんだ。いくら黒幕とはいえ、縛られて転がっている人に。
怪仏の力で、助けを呼ぶのを妨害しているとはいえ。もう捕らえられているこの人を、さらに攻撃していいとは思えない。
だったら何ができる、他に――。
顔を上げ、辺りを見回す。
吉祥天を見据え、構えを取り直す賀来。
針山にもたれかかり、うなだれたまま動かない斉藤。
斉藤を指差し、かすみは声を上げていた。
「助けて! 何とかして、斉藤さんを! できる!?」
吉祥天は――そこでようやく――強くうなずいた。髪飾りから下がる金の鎖が、触れ合って音を立てる。
わずかに地面から浮かびあがったまま宙を滑り、斉藤のかたわらに寄り添う。思いつめたように唇を引き結び、強いまなざしで斉藤を見ながら。その、花びらのような袖に隠れていた物を取り出した。
それは掌に乗るほどの透明な石。水晶球のように見えたが完全な球体ではなく、まるで水滴のように、球体のてっぺんをつまみ上げたかのように、上部が小さく
それを、そっ、と斉藤の額にあてがう。
なぜだか同じ感覚が――ひやり、と額に何か当てられた感覚が――かすみにもあり。同時、頭の中に言葉が浮かぶ。取るべき手の形も。
両手の指を組み、親指を伸ばす。人差指と小指も伸ばし、それぞれ互いの先端をくっつけた。
頭の中、導くように浮かんだその言葉を、なぞるようにつぶやいた。
「オン……マカシリエイ・ソワカ……【
吉祥天が、こくり、とうなずく。そして斉藤の額につけた宝珠、その反対側に唇をつけた。まるでその額に、宝珠ごしに口づけるように。そして目を閉じ。まさに口づけの音を立てた。食らい合うように長く吸う、その音を。
すると。透明な宝珠の中、墨がこぼれ出たように。斉藤の額から吸い出されたように、黒いものが流れ出て。宝珠の上、突起の辺りに溜まる。そして突起の先から、蒸発していくように。黒いもののうちいくらかがもやとなって空中にこぼれ出て、消えた。
「これは……」
つぶやきながらかすみは気づいた。打たれ続け、歪むように
かすみは自分の胸に手を当てる。
これは。吉祥天のこの力は。癒しの力。
良かった、そう思う間に。
みり、と音がした気がした。
気づけば、ジッパーが開くように。かすみの唇が裂けていた。
「え」
思う間に、めぎ、と音を聞いた。打ちつけるようなめり込むような衝撃がかすみの顔面を何度か襲う。体にも何度か。
「ぅ……っ」
思わずうずくまり、片手で胸を押さえる。もう片方の手は顔を触った。
唇に触れた指先には、針で刺したほどの血がついている。頬には痛みが走っていたが、腫れ上がってはいないようだ。
【
そう、いくらか。全部ではなく半分ですらない、そのまた半分ですら――そうらしかった。
斉藤を見るも、未だ顔面のいくつもの箇所が腫れ上がり、鼻から血を流している。目は閉じられ、荒く肩を上下させている他、体のどこにも力はなかった。
かすみはすぐに言い放つ。再び指を組み合わせて。
「オン・マカシリエイ・ソワカ、【
わずかに黒ずんだ宝珠を斉藤の頬に当て、吉祥天が口づける。
黒いものが吸い出されると同時、かすみの腹に丸太を打ち込まれたような衝撃が走る。
「ぁ……ぼっ……」
指でつまめる程度の量の
胃液の苦酸っぱさを舌に感じながら言う。
「オン……マカシリエイ・ソワカ、【
黒さを増した宝珠を別の箇所に当て、また吉祥天が口づける。
正面から顔を打たれたような衝撃を受け、かすみは背をのけ反らせて。
どうにか姿勢を戻し、片方の鼻の穴からこぼれる血を、印を結んだまま両人差指の先で拭う。
「オン……マカシリエイ……ソワカ、【
吉祥天がまた口づけ、宝珠がさらに黒ずんで。
かすみの両腕に、弾き飛ばされるような痺れが走り。
かすみはまた口を動かす。
「オン……マカシリ、エイ――」
その言葉をさえぎるように。目を見開いた賀来が――怪仏・アーラヴァカが――声を上げた。
「待て、何を……何をしておる!」
かすみは胃酸の混じる唾を吐き、答えた。
「何って……見てのとおり――オン・マカシリエイ・ソワカ【
言う間にも頭を肩を振り打たれた衝撃が走り、膝が崩れて地面に手をつく。
「な……」
牙の伸びる口をただ、アーラヴァカは開けていた。
「何をやっておる、何をやっておるのだ! その力、いや違う、なぜ貴様が、その者の傷を……代わって受けてやる必要が、どこに――」
「黙れっ!」
「あなたこそ! 何をやってる、何をやってる! 私の友だちの中で! 私の友だちを傷つけて! そんなこと、そんなことやる必要がどこにあった!」
牙を剥くように頬を歪めながら、頭のどこかでかすみは思った。
今なら分かる。平坂や斉藤の気持ちが。友だちを、好きな人を怪仏に乗っ取られ、それでも戦い続けた気持ちが。
平坂の気迫は阿修羅を斬らずして
なら。かすみには今、何ができる。
立ち上がり、胸に手を当て。肩が上下するほど荒い呼吸を繰り返した後、叫んだ。
「吉祥天っっ!」
吉祥天はかすみを見つめ、こくり、とうなずいた。その眼差しは、全く揺らいではいなかった。
かすみは賀来を――怪仏・アーラヴァカを――突き刺すように指差す。
「なんとかできる!? あれを!」
吉祥天は賀来の方に向かって宙を滑る。
そして、かすみの頭の中に声が響く。使うべき力の名と真言が。
それをかすみは口にした。
「オン・マカシリエイ・ソワカ――【
これしかできないのか、とも思ったが。それでいい、と思った。おそらく何らかの力を吸い出せるのだろう、それで賀来を、あの怪仏を止められるのなら。それでいい。
全体に墨を含ませたように黒ずむ宝珠を捧げ持ち、吉祥天は賀来の元へと飛ぶ。
声が上がった。地面に転がる鈴下から。
「吹き上がれ。【
賀来の足下から、その体を切り裂くように。
「な……」
賀来が口を開き、目を見開き。縦一文字に口を開けた胸と腹の傷から。血が吹き出す。
言葉も忘れて、口を開けて、かすみは鈴下の方を見る。
鈴下の横からも同じく水流が吹き出し、その体を縛りつけるワイヤーを切断していた。その腕に血をにじませながら。
その血を気にした風もなく立ち上がり、鈴下は頬を歪める。
「たくさんだ。もうたくさんだよそんな茶番は笑えないコントは」
うつむき、粗く波打つ髪の伸びる頭をかきむしる。
「悪いが君はここで殺す、いつまでも持っていられては困るのでね……外れクジに『吉祥果』を」
賀来が――アーラヴァカが――血のこぼれる胸を押さえ、牙を軋らせる。
「おの……れ……! 魔王たるこの我に、傷を――」
「何度も言わせるな」
顔を上げた鈴下が眼鏡をかけ直す。同時、水流が賀来へ向け吹き上がる、いくつも。
「がぁ……!」
血を流しながら、水流に打ち倒されて賀来は倒れる。
「賀来さん!!」
叫びながらかすみは走った、倒れた賀来の肩をつかんだ。
「お……の、れ……」
賀来は、怪仏はつぶやき、顔を歪めながらも。その目の焦点が遠く、揺れていた。
歯を食いしばった後でかすみは叫ぶ。
「吉祥天っ! 【吉祥――」
その言葉の途中で。鈴下が駆け寄り、靴底でかすみを蹴り倒す。
倒れたまま顔を上げる。鈴下と目が合った。
何の感情も――険しい目元にいら立ちが現れている他は――見せず鈴下は言う。
「彼女は殺す、その必要がある。『彼』とて自らを本地としない怪仏を使いこなせるわけじゃあない、『吉祥果』は二つきり――一つは回収させてもらう」
「な……」
かすみが口を開けていると鈴下は言った。
「ああ、君の方はいい、むしろ生きてて欲しい。吉祥天は『毘沙門天』の妻、もしくは妹とされる神仏……関連が強い怪仏は必要なのでね」
「な、にを……」
倒れたまま頬を歪める、かすみの体から。血が吹き出る、胸から腹から細く、幾筋も。
顔を向けるまでもない、吉祥天はよくやってくれている。かすみが声を上げるまでもなく、その望みどおりに。傷ついた賀来に【
吹き出た血が顔を染める。頬を震わせ、奥歯を軋らせるかすみの顔を。
「何を、何を言ってる……何を言ってるんだ、あなたは……お前は……っ!」
さらに吹き出る血に、顔はまた赤く染まり。
吉祥天の口づける宝珠は黒く染まり黒く染まり、それはすでに夜より黒く、ヘドロより黒く闇より黒く、救いようなく黒く。
その宝珠に今、ひびが走る。
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