三ノ巻25話  その種は今、芽吹いて


 辺りに煙る白いもやの中で。かたわらの竹に身を寄りかからせ、かすみは目を瞬かせていた。

「え……」


 わけが分からなかった。そうだ、わけが分からない、下校中に鈴下と会って、話を聞いていたら妙な音がして気が遠く――。思い出そうとしても、拒むように頭が痛むばかりだったが。

 そんなことはいい。それより、今。


 斉藤が――かつてその身を変えていた、地蔵の姿をした怪仏の姿で。今はなぜか武者鎧をまとって――、賀来に――その身から黒いもやを上げ、鬼神のような六本腕をそなえた姿の彼女に――斬りかかられていた。

 いや、それはもはや斬るなどという行為ではなかった。賀来は――おそらく、彼女を乗っ取った怪仏は――斉藤を、砕こうとしていた。


 斉藤は腰を落とし両脚を広く踏ん張った上で、まるで頭を抱えるように、両の拳を額につけていた。両腕の間に小さく隙間を開け、その間から賀来に、あるいはその怪仏に視線を向ける。

 それはボクシングなどでいえば、頭部を中心に防御に徹しつつ逆転の一打を狙う姿勢とも思えたが。この場合、斉藤が何を思っているかは分からなかった。

 いや、そもそも何か思う暇などがあるのか、彼を砕こうとしている敵の前で。


 今、賀来が振るう剣が鎧を打ち、鋭いかき傷を残しながら火花を上げ。続けざまに打ち込まれる短剣が手に握られた宝輪が石の肌を穿ちつつ火花を飛ばす。さらに彼女は身をひねり繰り出す、次の腕、次の腕。そしてまた次の、次の、次の。

 斉藤を襲っているのは、まるで。賀来の姿をした、六本腕の竜巻。暴雨の代わりに火花を伴った、青鉄あおがね色の嵐。


 燃えるような金の目をした賀来が口を開く。

「受けよ――【刹那飛鳥落せつなひちょうらく】」

 同時、地を割るような足音を立て、叩きつけたような踏み跡を残し――信じられない、いつもの厚底靴を履いたか細い脚、賀来の脚だ――斉藤の眼前へ跳び込んだ。


 賀来は体を横へとひねる。頭の両側でくくった金の髪をなびかせて、回転のまま横殴りに。二本の剣を目と腹の辺りへ叩きつける――目を狙ったものは斉藤の構えた腕に阻まれ、それを覆う小手から火花を上げ。腹を狙ったものは胴鎧に大きなかき傷をつけた――。

 同方向へさらに回転、斉藤へ身を寄せつつ勢いを増して突き打たれたのは短剣、そして手に握られた宝輪――頑丈そうな金属でできたそれはちょうど車輪のように、中心の小さな円盤から八本の軸が周囲の輪に向けて走っている――。

脇腹と喉へ向けられたそれらも火花を散らすのみで、斉藤の体を揺るがすことはできなかった。


 あきらめたのか、賀来は横回転しつつ身を引いたが。

違った、レースで縁取りしたスカートをひらめかせつつ、しゃがむように姿勢を低めて体重をかけ。長い三叉戟さんさげき――三又の槍――を斉藤の足下へ振るう。

 だが、それは突くのでも斬るのでもなく。足首の後ろへ、枝分かれした刃の根元を引っかけ。体重をかけて、手前へと引いた。


「……!」

 斉藤がわずかに体勢を崩した、そこへ。六本腕の一つが振るう、金属の輪のついた投げ縄が飛ぶ。それは斉藤の片腕へ絡みつき、引き落とし。頭部を固めていた防御の、一角が崩れる。


 賀来は声を上げた。

穿うがつ――【鉄牙重条鑚てつがちょうじょうさん】」

 とたん、地に伏すように身を低めていた賀来が跳んだ。二本の剣を牽制けんせいするように突き出し、斉藤の両腕をそれぞれ押さえる。

 防御の空いたそこへ、石地蔵の顔面へ。のみを打つような短剣の一撃。さらにはその上から、短剣の柄へ。つちで打ち込むような追撃。


 果たして、硬い音を上げ。石地蔵の仮面は割れ落ち、斉藤の顔があらわになった。

「……!」

 斉藤は腕を振るい、絡みついていた縄をどうにか払う。後へ下がり、距離を取った。


 賀来は間合いを詰めはせず、その場で構えを取った。左側三本の腕を上、中、下段に分けて前方に突き出し、右側三本の腕はそれぞれ腰の辺りに引く。左足は軽く前に出し、右足に重心を乗せる。

 まるでそれは、自らを弓とし、矢として。いつでも打ち出せるようにつるを引き絞ったかのような姿。

 それは剣術というか、ある種の拳法を思わせて。か細く小さな彼女の体に、今は一分の隙も見い出せなかった。


 斉藤の巨体をむしろ見下ろすような目で、賀来は言葉を放つ。

「アーラヴィーの地の『アーラヴァカ』……非業の死を遂げた武将が化したと伝えられる、武辺武門そなえたる鬼神おにがみこそ我。我が武力攻技こうぎの前に、うぬの防ぎ護りなど何の役にも立たぬ」


「……」

 斉藤は何も言わず、ただ再び防御の構えを取る。


 斉藤の後ろ、地に転がったものを、六本腕の一つで指差す。

「命惜しくば。その者をにえとして差し出せ……我を縛そうとしたその者を」


 そこには、ワイヤーで縛られた――その端はなぜか錫杖につながっている――鈴下がいた。


 かすみは目を瞬かせ、頭の中で状況を整理する――まず、鈴下が何らかの怪仏の力で襲ってきた、おそらくその力でかすみたちを操ろうとして。それをどうやら斉藤が防いでくれた。なぜ怪仏の、地蔵の力を取り戻しているのかは分からないが。

 だが、賀来がなぜか怪仏の力に目覚め。そしてなぜか、鈴下を襲おうとしている。明らかにいつもの賀来と違った様子で、おそらくは彼女でなく、怪仏の意思で。


「ちょっと、ちょっと待って下さい! 賀来さん!」

 寄りかかっていた竹から身を離し、かすみは声を上げた。賀来の方へ近寄ろうとして、斉藤の手に制される。

 その位置から賀来へ声を上げた。

「待って下さい! やめましょう、こんなこと! 鈴下さんが何かしようとしたみたいですけど、斉藤さんが止めてくれたみたいですし、これ以上は――」


「黙れ」

 賀来の目が鋭く、金色の光を帯びる。

「魔王たる我に意見するか、力無き人の子よ。貴様から我がにえとしてやってもよいのだぞ」


「賀来さん……!」

 かすみの目が一瞬、泣きそうに歪む。

 それでも歯を噛み締め、目の端を拭って。ポケットをまさぐり、スマートフォンを取り出した。今すぐには無理でも、崇春たちに連絡さえつけば。必ず助けに来てくれる。


 だが。その画面には無情にも、圏外との表示があった。

「え……」

 妙だった。いくらこの町が田舎とはいえ、携帯ぐらいどこでもつながる。少なくとも今まで、圏外になった覚えはなかった。


 地面の方から声がした。

「【つかみどころ無き言葉の壁】……悪いね、これは弁才天わたしの力さ」

 鈴下は縛られたまま、辺りに漂うもやを視線で示す。

「このもやの内から外へは、どんな言葉も届かない……声であれ何であれ、もちろんメールの類もね。正直、助けを呼ばれると面倒なのでね」


 かすみが目を瞬かせていると鈴下は言った、かすみと斉藤の顔を見回しながら。

「で、この場で出すべき解だが。彼女の――怪仏の――言うとおりにするのが花マル。私を置いて二人で逃げたまえ」


「え……?」

 かすみの視線を受けて鈴下が笑う。歯を見せて。

「ああ大丈夫、お気になさらず。大丈夫、私は死なないんだな……たぶん。何となれば、隙を見て洗脳詩ことばを流し込んでやってもいいし。それより谷﨑くん」

 笑みを消して続ける。

「すぐに逃げてくれ。困るんだ、君にもしものことがあったら」


 かすみは口を開けたが返す言葉は出ず、ただ眉根を寄せた。

 どういうことだ? 助けを呼ばれるのは困る、だがかすみに何かあっても困る? 


 真上から顔を寄せ、にらむように。鈴下の目をのぞき込んで言った。

「どういうことです。……だいたいこうなってるのは、賀来さんがああなってるのは。あなたのせいでは? なのに今さら逃げろだとか――」


 口いっぱいに歯を見せて笑い、目を剥いてみせて。さえぎるように鈴下が言う。

「ノー・コメント。喋ってやる義理も必要性もないね」


 構えを維持したままの斉藤が重く口を開いた。

「あの、ス。先輩の案は案で、いいんスけど。オレ、護りたい、ス……あの人、を」

 賀来を見据えたまま続ける。

「それで、何より。あの人に……誰かを、傷つけてほしくない、ス。だから。……谷﨑さん、先輩、連れて逃げてほしい、ス」


 じり、と足を擦り、賀来の方へと進みながら言う。

「で、助けを。……百見くんなら、怪仏を分離して封じられるはず、ス……オレに、そうしたみたいに」


 鈴下が地面から口を挟む。

「名案だね、やめときたまえ。やってもいいが私は発生させ続けるぞ、【つかみどころ無き言葉の壁】を。この場にも、谷﨑くんの周りにもだ。スマホが使えない中、学校までダッシュで助けを呼ぶ気なら試してみるといい。間に合うか見ものだよ」


 斉藤が歯噛みして、鈴下をにらむ。


 賀来が重く声を上げた。

「相談は終わったか。誰が我がにえとなるのだ……決まらぬのならうぬからでもよいぞ、地の宝蔵クシティ・ガルバよ」

 地を擦る音を立て、厚底の靴が斉藤へとにじり寄る。


 かすみは強く唇を噛んだ。

 ――まただ、また私は何もできない。こんなとき、何とかしなければいけないこんなときに。あるいは友だちの命がかかっている、こんなときに。何も、できない――。


 思ったとき。不意に強く、心臓が脈を打った。いや――心臓の外で、かすみの心臓ではない何かが、重なるように脈を打った。どくん、どくん、と打ち響くように。

 まるで何かがかすみの中の、扉を叩いているかのように。何かがかすみの内側から、その殻を破ろうとしているかのように。



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