三ノ巻24話 その種はもう、すでに
――その頃。
生徒会室の椅子――何のことはないパイプ椅子――に脚を組み、玉座にそうする如く深々と座り。生徒会長、東条
その掌から上がる黒いもやの中には、地面から見上げるような角度で――まるで地にうずくまる、ネズミからの視点のように――竹やぶの情景が映し出されていた。
その中に姿を現した、青黒い鬼神の姿を見て。紫苑ははっきりと眉間にしわを寄せ。親指の爪を噛み締め、その端整な顔を歪めた。
「ふん……外した、か」
――アーラヴァカ、またはアタバク。最古の仏典『スッタニパータ』にも記述が見られる古き神霊。荒野、山林に住まい、人の血肉を喰らう悪しき夜叉。釈迦その人との問答を経て仏法に帰依したと伝えられ、後には『明王』の一尊ともされた存在。
強大な神霊であり、決して外れなどとはいえない――少なくとも怪仏に『力』を求める者なら、『
それでも紫苑にとっては外れといえた、ほぼ全ての怪仏が。
今やただ一尊、『毘沙門天』を除いて。
爪を噛み締めた手を開き、上に向ける。そこには様々な怪仏の姿が浮かんでは消えていたが。やがて、一つの姿が浮かび上がり、その姿を宙に留めた。
古代中国風の衣を華やかにまとった、ふくよかな女性。その左手は赤子を優しく抱きかかえ、右手には
怪仏の名は『
――伝承上での
あるとき人々の窮状を知った釈迦は、彼女の数多くいる愛児の一人、末の子を連れ出しその身を隠した。
我が子を失い悲嘆に狂う
子を失う悲しみを知り、釈迦に諭された彼女は人喰いをやめ、仏法に帰依したという。その後の
俗説には
無論、実際の
だが、東条紫苑はこう考える。
そしてこう理解する――怪仏・
今、賀来が発現させた怪仏はその成果だった。彼女には
「ふん……」
小さく息をつき、椅子の背にもたれかかる。
思えば多くの手順を踏んだ、ここまで歩を進めるために。自らの操る怪仏の視点と、紫苑自身の怪仏『大暗黒天』の分霊たるネズミ――大黒天の使いと語られるそれに擬した分霊を多数、紫苑は町中に放っている――の耳目から情報を集め。
それを帝釈天の報告と併せ『崇春の仲間、賀来がある種の悩みを――執着を――抱えていること』を知った。そして、『それを逆手に取り、谷﨑らが黒幕を探し出そうとすること』も予想された。
ゆえに。逆に堂々と彼女らの前に現れ、疑念の網から自らの立ち位置をずらした後に。『彼女ら自身から怪仏を創り出させた上で、鈴下の力で彼女らごと操る』――それが紫苑の策だった。
それによって現れた毘沙門天を自らのものとする、そのつもりだったが。
「…………」
無言で椅子を軋ませ、黒くもやを上げ続ける手の爪を噛む。
かたわらで低く声を上げる者がいた。
「落ち着かれませ」
静かに目を伏せる、彫りの深い顔をした偉丈夫。その高く結った髪と
帝釈天が、肩幅の広いその身をスーツとネクタイに押し込めてそこにいた。
変わらぬ面持ちで帝釈天は言う。
「落ち着かれませ。まだ、駒は残っております故」
紫苑は爪から口を離し、鼻で長く息をつく。
「分かっているさ。ただ、少し気分を害しただけだ」
この策を実行したことにはいくつかの理由がある。
まず一つ、敵対する崇春らの仲間から怪仏を生み出し操ることで、内部から彼らを攻撃すること。
二つ、単純に、業となりうる深い悩みを持つ者――少なくともそれを
そして三つ。怪仏は業と因果の塊、そのため伝承の影響を受け、関連ある他の怪仏に引っ張られる。
故に。四天王のうち三尊と、それを束ねる帝釈天が集ったこの地、この時でなら。四天王の残り一尊、紫苑の望む『毘沙門天』。それが現れる可能性が飛躍的に高まっている。
だからこそ、正体を探られる危険を冒してでも。今この時に、怪仏を創り出す必要があった。
黒くもやを上げ続ける手の上、揺らぐ
――もしもあのとき、あの人の手に、この怪仏があったなら。紫苑がこのようなことをすることなど――
「……ふん」
鋭く鼻で息をつき、片手を握り締める。潰されるように黒いもやと、怪仏の姿はかき消えた。
自分でも分かるほど険しく寄った眉根を、その手でもみしだいた後。紫苑は机に肘をつき、拳を頬に当てた。
意識して頬を――だらしないと見えるだろうほどに――緩め、笑って言う。
「いや、ありがとう。君にも気を遣わせてしまったね。そうだ、もう一つすまないが。いつものを二つ頼めるかい。僕と、君の分を」
「承知
横の机に並べた、ぶどうとみかんの粒入りジュースを取り。カップに移し、正確に七対三に量った後。帝釈天はそれらを透明なグラス――使い捨てのクリアカップ――に移し、マドラーで軽く
そう、焦る必要はない。手にしたグラスを揺らしながら、紫苑はそう考える。
種は、吉祥果はもう一つ
帝釈天からの報告によれば――紫苑が分霊のネズミによって、隠れて見聞きした情報も含めて――。崇春の仲間、賀来だけではなく。
谷﨑かすみ。彼女もまた、ある種の悩みを――業を――抱えている。
ゆえに与えた、同様に――すでに怪仏を宿したことのある斉藤は除いて――、彼女ら二人に、吉祥果を。
軽く声を上げて紫苑は笑う。
「まったく、大変だったよ。品ノ川先生に与えていた観音に騒ぎを起こさせ――馬頭観音の力を宿した、先生自身の抵抗はあったが――、彼らがその騒動に対応するうち、彼女らに接触。
グラスを置いて背を反らせ、片手で伸びをする。
「いや、実際相当上手くいったよ。勝軍地蔵を仕込まれていたのは予想外だったが――」
表情を消し、再び頬杖をつく。開いた片手の上に揺らめく映像を見ながら思う。
鈴下は倒されたが、それは大きな問題ではない。弁才天による洗脳はできずとも、毘沙門天が出現さえすればそれでいい。後で紫苑自身が倒し、回収すればいい――その手の内にしている、多くの怪仏と同様に――。
鈴下自身のことは心配はしていない。多少の怪我はするかも知れないが、無事なはずだ。それは、紫苑自身がそうであるのと同様に。鈴下紡は死にはしない。
そこでもやの先の映像、勝軍地蔵に目をやり、ふ、と笑った。
いぶかしげな視線を向けた帝釈天にほほ笑んでみせる。
「いや。実に、醜いと思ってね」
「は……?」
不審げに眉を寄せる、帝釈天にまたほほ笑む。
「地蔵が醜いのではない。人間が醜いのさ。無論斉藤のことではない……ある種の美しささえ感じさせてくれる。彼はそれでいい、だが、人は――」
手の上に昇るもやを、ブランデーグラスのように
「慈悲慈愛、自己犠牲の仏たる地蔵菩薩。六道輪廻全ての世界において、代わってその身に苦しみを受けてさえ、人々を救わんとする無尽蔵の温情。……それだけ受けて、そこになおも。人は甘えようとする」
はっきりと眉根を寄せ、続けた。
「秘仏『勝軍地蔵』……全てを差し出そうとする仏になおも、鎧を着せ刀槍を押しつけ。戦にまでも駆り出そうとする……人は、あまりにも業に満ちている」
頬杖を解いた。姿勢を正し、もやの先を見据え。真っ直ぐに斬るような声を上げた。
「故に。救わねばならない、この僕が」
帝釈天が深く頭を下げ、長くそのままでいて。場に沈黙が満ちた頃。
紫苑は笑顔を作り、息をつく。肩をすくめてみせた。
「なんて、ね。まあそれも決して夢物語じゃあない、谷﨑さんの分が上手くいけば」
グラスを取る。帝釈天にそれを向けた。
「乾杯しよう。今から創り出されるであろう、毘沙門天のために――いや」
四天王のうち三尊、帝釈天。そして無比力夜叉ことアーラヴァカ――毘沙門天配下、八大夜叉大将のうち一尊――。
これだけの条件が揃えば、毘沙門天が創り出されるはず。そして紫苑が毘沙門天を手にしたとき、揃えたとき。
ようやく叶う。その先が。
紫苑は静かに、帝釈天とグラスを合わせる。
「――乾杯。これから救われる、世界のために」
漂う黒いもやが帯びた、妖しい光の下。薄く
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