三ノ巻23話 魔王
「さて、ス」
ごす、と音を立て、斉藤は杖を突き立てた。鈴下の口の真横、その地面に。
「さっきも、言ったス、けど。あの二人の術、解いてもらう、ス」
鈴下は頬を引きつらせ、頭の横の杖と斉藤を見比べていたが。やがて、おもねるような笑みを浮かべた。
「やだなあ、解くも何も。そもそも術は成立していない……君のご活躍で、途中で邪魔されたからね。ちょっと体の自由を奪えたぐらいで、あの術はあれからが本番。まったく、たっぷりたぷたぷと脳みそに、染み込むほど私の洗脳言語を流し込んでやるつもりだったのに――」
斉藤は、じり、と杖を地ににじる。
鈴下の頬が再び引きつり、早口に話し出す。
「いや何、ホントに成立してないんだ君だって見たろ、君が私の足を握り潰してくれた時点で彼女らは自分で動こうとしてた。そろそろ動けるようになってるはずさ」
そのうちに、背後から笹を踏む音がした。
振り返れば。未だ具合が悪いのか、ひどくうつむいてはいたが。賀来が、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってきていた。
その向こうには、竹に寄りかかりながら歩を進める、かすみの姿も見えた。
鈴下は横たわったまま、歯を剥いて喋る。
「そら、愛しい姫のご帰還だぜ騎士殿よ、いや武者殿の方が合って――」
どす、と重い音を立て、口の反対側の地面に杖を突き立てられ。それきり鈴下は口を閉じた。
やがて。斉藤の目の前まで、賀来が来た。変わらずゆるゆるとした足取りで、顔をうつむけていたが。
下を向いたせいと、前髪に隠れて目元が見えないまま。賀来は赤い唇を開いた。
「その……者は、
地蔵の仮面を額へ押し上げ、斉藤はうなずく。
「……ウス」
変わらぬ姿勢のまま、賀来が低くつぶやく。
「でかした」
斉藤は無言で。ひざまずき、頭を下げた。
その横を通り過ぎ、鈴下の方へと歩く。
見下ろされながら、先に口を開いたのは鈴下の方だった。
「黒」
言われた賀来は身じろぎもしない。
薄ら笑いを浮かべ、鈴下はさらに言う。
「実にいい眺めだ、なかなかシックな色の下着をお召しだね」
傍らで斉藤はわずかに震えた。
笑ったまま鈴下は目を細める。
「いや、見せパンなのかなこれは、ちょっとよく見えないが……まあいい、そんな不確かなことはどうでもいいんだどれぐらいどうでもいいかというとたとえるなら箱に詰め込んだ放射性物質の原子核崩壊を検知して毒ガスを発生させる装置と猫を――」
その言葉はさえぎられた。賀来の手によってではなく、斉藤でもなく。未だよろめきながら賀来の後を追ってきているかすみによってでもなかった。
賀来がかざした手の向こう。その手から立ち昇る黒いもやが集い、腕を――青黒い素肌をした、筋骨たくましい前腕を――形作った。
それが拳を握り、音もなく下へと飛び。鈴下の胸を突き打っていた。
「が……!」
唾を飛ばしながら息を詰まらせた鈴下には目もくれず。賀来は胸の前で、もやの上がる右手を握る。
その動きに合わせて、宙にある青黒い腕が、鉄板のように分厚い爪をそなえた手を拳に握る。
斉藤は腰を浮かし、口を開けて。賀来と、宙に浮かぶ腕を見比べていた。
うつむいたまま賀来は言う。
「……
黒いもやは燃えるように、賀来の腕を上り肩、体や左腕、脚や頭にまで広がり。今やその全身から、炎のように立ち昇る。
そしてそれが、宙に浮かぶ腕とつながる。
斉藤は立ち上がっていた。突き立てた杖から手を離し、両の手を浅く開き、わずかに前へ出していた。賀来へ呼びかけようとするように、あるいは身構えるように。
鈴下は目を見開いていた。眼鏡がずり落ちたままで地面から賀来を見上げ、両足は落ち葉の積もる地面をかいていた。まるで、その場からすぐにでも立ち去りたいといった風に。
かすみはただ立ち尽くしていた、かたわらの竹にもたれたまま、目を見開いて。
燃え上がるような勢いで昇ったもやは賀来の体の上で渦を巻き、それが宙に浮かぶ腕の方へと流れ込む。
やがてそれは賀来の前に、一つの形を取っていく。浮かんだ腕の根元から向こう、賀来の背丈を大きく越える人影。よく焼き戻された鉄にも似た、青黒い色の肌をした鬼神の姿を。
その威容は一面
がちり、と小揺るぎもせぬ、まさに
賀来は手に印を結び――両手の指を、互いの掌の内に差し込むように組み、そこから両の中指のみを立てて合わせる形――、うつむいたまま、真言を低く唱え出した。
「ノウボウ・タリツ・ボリツ・ハラボリツ・シャキンメイ・シャキンメイ・タラサンダン・オエンビ・ソワカ。我こそは
唱えるうち、奇妙なことに。姿を現した鬼神は、その輪郭を再び揺らめかせた。もやのような、炎のような、半ば透き通った姿となり。そして浮き上がり、賀来の方へと漂うと。彼女の体を透過し、その巨体の内に賀来を包み込んだ。
かすみが声を上げる。
「賀来、さん……!」
その声が聞こえた様子も、自らを取り込んだ鬼神を気にした様子もなく。賀来は言い放つ。いつもの澄んだ声をひどく低めて。それでも、確かに彼女の声で。
「――我こそは。怪仏にして荒野鬼神大将、魔王たる神霊……アーラヴィーの地の『アーラヴァカ』」
顔を上げた、その目は。鬼神のそれと同じく、金色に輝いた。
とたん。彼女を覆い漂っていた鬼神の姿が、渦を巻くように彼女の中へと吸い込まれた。
「おおお……おおおぁぁっ!」
一度苦しげに背を丸めた後、胸を反らし天へと
やがて姿勢を戻したとき。二つに分けてくくった賀来の髪は、その瞳と同じく。金色の輝きを帯びていた。銀に染めた幾筋かの部分を残して。
さらにはその手、か細い賀来の両腕を包んで、青黒い光がわだかまり。質量あり密度ある実体として、形を成していた。鍛え打ち上げた
それだけではなかった、鬼神のそなえた六本の腕。残り四本もまた実体と化していた。同様に武器を携えて。
その一本――賀来の腕の入っていない、投げ縄を手にしたもの――が滑らかに動き、近くの竹をつかみ。めぎり、と音を立てて握り潰した。
「さて。誰ぞ、このアーラヴァカの
賀来の開いた唇からは。二本、尖った牙がのぞいた。
斉藤は立ち尽くした。ただ小さく口を開けて、その光景を見ていた。その指先だけが――あるいは本人の意思とは無関係に、何かに備えるように――ぴくり、と曲げては伸ばされた。
鈴下の脚は地を擦ることをやめていた。ずり落ちかけた眼鏡の下、目は見開かれ、その口は歯を剥いていた。なぜだかひどく、顔をしかめるような形で。
未だ離れた場所にいたかすみは、竹に体を寄りかからせていたが。よろめきながらも足を継ぎ、駆けようとするように賀来の方へと向かった。
首をめぐらせる賀来の目は、それらの光景を映したはずながら何の感情も見せず。
その様子をただ竹林の隅、笹の間から、野ネズミだけが見守っていた。
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