三ノ巻22話  勝軍地蔵


「勝軍、地蔵……だと」

 鈴下はつぶやき、それから頬を歪めた。

「だからどうしたというのだね、地蔵が鎧着たからってなんだ! 未だ君は危機の只中にいるのだよ! 囲い、潰せ……【婀娜あだめく水神の裳裾もすそ】!」


 長い袖に隠れた手で斉藤を指す。すると、斉藤を囲んでいた水壁が水音も高く噴き上がり、斉藤の背を越える濁流となった。さらにはその動きを速め、その水流に触れるもの、草、竹、小石、あらゆる物を切断しあるいは砕き飛ばしながら斉藤に迫る。

 今やその円は斉藤の身を、半歩も動けぬ直径にまで捉えていた。


 袖で口元を押さえ、鈴下は身を反らせて笑う。

「くふふはは! 少しのケガで大人しくしておいてもらおうと思ったが……やめだ、つまらぬ抵抗などしたからね! 最大の水力で――」


 言っているうちに、斉藤は歩いて出てきた。鎧をまとった石地蔵の体をまとって、大きな足取りで。変わらぬ足取りで、ゆっくりと。頭上に被さるように伸びた竹をも今も切り落としている水流の中を。


「な……」

「いいスね、これ」

 動きを止めた鈴下に、斉藤はそう言った。音を立て、地蔵の体を軽く叩いてみせる。

「全然濡れない、ス」


 何度も口を開け閉めした後、鈴下は言う。

「な……て……雨合羽かっぱ着た感想じゃねえんだぞオイ! ……いや、そんな馬鹿な、なぜ無傷で――」

「……先輩は、カレーにかけたいもの、何スか」

「……あ?」

 大きく口を開けた鈴下は、一瞬の間を空けて顔を歪め、唾を飛ばしながら言う。

「知るかそんなもんウスターソースだろ、いや、そんなもの関係が――」

 地蔵の仮面のまま斉藤が言う。

「オレは。カレー、ス。カレーと、ご飯、ス」

「……は?」


 また口を開ける鈴下に、斉藤は言う。

「ご飯の上にまたご飯、カレーの上にまたカレー……これは、そういう力、ス。石地蔵の上に鉄の鎧。防御力の上に、また防御力」

 鎧に覆われた胴体を、重い音を立てて叩く。

「さっきの水壁に。あらゆるものを弾き飛ばすような、防御力があるのなら。それをも越える過剰な防御力で、正面から潰す……それが、解、ス」


 鈴下は頬を吊り上げ、歯を剥いて斉藤を指差す。

「そんんなっ、そんんな美しくない解があってたまるかボケぇ! 喰らえ、【八重やえに連なる水神の裳裾もすそ】!」


 轟音を上げ噴出する水が、言葉のとおり縦に八つ並んで斉藤へと向かう。

 が、打ち当たったそれらもわずか、鎧にかき傷をつけるのみで。まるで洗われてでもいるだけ、といったように、変わらぬ足取りで斉藤は、水の壁を全て通り抜けた。


 竹林に重く足跡を残し、進みながら斉藤は言う。

「あの、ス、けど。さっき、言った、ス、先輩。弁才天……川のせせらぎが象徴する、水と、言葉と、音楽の神、って。それって、つまり。きれいな声や音楽みたいな、きれいな音の川、スよね」

 足音を重く響かせ、変わらず歩みながら言う。

「じゃあ。そもそも、激流とか滝とかの、神ってわけじゃない、スよね」


 鈴下は歯を食いしばり、斉藤を指差す。

「あああうるせえ喰らえ、【妙音みょうおんなる水弾の楽譜がくふ】!」


 指先の空間から放たれる大量の水弾、それを受けながら斉藤は変わらぬ足取りで歩く。

「て、ことは、水流で攻撃するような技は。たぶんそれぐらいで精一杯……ス、よね」


 鈴下は口を閉じたが。その口の端が、ひく、と動く。

 その一瞬後。無言のまま背を向け、逃げ出した。


 斉藤はその背に、手にした大振りな錫杖を振るう。

「【地蔵道鉄縄縛てつじょうばく】」

 滑るような音を立てて錫杖の先端、金輪のつらなる部分が射出された。それは細かな針金が編まれたワイヤーで、杖の部分とつながっている。

 それが伸び、孤を描いて鈴下へと絡み、巻きついた。


「ひい……っ」

 鈴下が声を上げる間にも斉藤は杖とワイヤーをつかみ、地面へと彼女を引きずり倒した。


 足音も重く、倒れた鈴下の頭の方へ歩み寄る。

「さて……ス。まず、あの二人にかけた、術? みたいなの、解いて欲しい、ス」

 杖を持ち上げ、いつでも突き下ろせる体勢で続ける。

「それ、と。……先輩が、黒幕、スか、こういう……色々。オレ、や、黒田くんのことも……」

 仮面の下から鈴下をにらむ。杖を持つ手が震える。


 ややあって、かぶりを振ってから言う。

「とに、かく。話してもらう、ス、その辺――」


 長い髪を地面に散らし、その上に横たわる鈴下は。口を開けて聞いていたが。

 不意に、にぃ、と笑ってみせた。


「そうだね、その辺も話す必要があるだろう。聞きたいだろう君は聞きたいだろうしね。いや見事だ少年、よくぞ私を捕らえた。ごほうびに、いいことを聞かせてあげよう」


 優しく笑って続けた。地に倒れたまま、見下ろすように。

「知ってのとおり我が怪仏は弁才天、様々なご利益りやくのある神仏かみだが。逆に聞いたことはないかい、カップルで弁才天に参ると弁才天に嫉妬され、別れるはめになる、なんて。一方では縁結びの神仏かみともされる、つまり――」


 優しく優しく、ごく小さく、笑って言った。だんだんと声を潜めながら。

「スキなんだろう。分かるよ、分かる。君の気持ちも見てたら分かるし、そうなる気持ちも接して分かる。そう、彼女はいい子だよ。少し話しただけでも分かる。誰だってスキになるさ……そう誰だって」


 表情を消した。

「そう、誰だって。……彼女がスキな、彼だって。きっとね」

 眉をひそめ声を潜め、斉藤の目を見て言う。

「そうだ、そうそう、そうなるんだ。放っておけばそうなるんだ。嫌でもそうなる、君が嫌でも。だがそう――」


 ぬた、と笑い、舌を見せて続けた。蛇のそれのように閃く、赤い舌を。

「私なら変えられる。変えてあげる、君のために。我が怪仏の力を以て。縁を切ってはつないで結んで。だからそう、気にするな――」

 優しく優しく笑って言う。

「そう、気にするな彼のことは。そう気にするな彼のことは。その気になるなら彼のことなど、私がいつでも変えてあげよう。彼女の中から彼の中から」


 声をわずか、上げた。

「そう、気にするなだからもういい、彼女のことなど彼のことなど。そう重く気に病むな、石の如く鉄の如く。ああ、だから気にするな、だからもういい、気にはするなよ」


 ぱち、と鈴下の指が鳴る。拘束されたままの姿で。

「大丈夫、そう、気にしなくていい、そう。ありのままの君でいい、重い荷物を下ろすといい。なのにそうほら、また君は気にした。淡い想いを彼女に持って、重い思いを彼にぶつけたくて。でもいい、そう、重い荷下ろして。よろう気持ちを肩から下ろして」


 リズムを取るように、誘うように。鈴下の指が鳴り、声が響く。

「大丈夫、そう、なのに気にする。君はどうしてそんなに気にする。それはそう、彼女を思うゆえ、だからそう、気になる彼女の、視線の先、その先、その先――」

 地に倒れたまま斉藤を見上げ、その先にある空さえ見上げ。言う。

「ああ、だからゆだねてその先、君の想い、その向く先をこの私に。だから聞くがいい――そう、聞け」


 貫くような目が斉藤を見る。

「聞・け。私はお前の名を知っている」

「聞・け。私はお前の目を知っている」

「聞・け。私はお前の欲を知って――」


 斉藤は、無言で。鈴下の腹に、杖を突き下ろした。


 舌を突き出した形で鈴下はうめいた。

「――ぃおごっ!? が、がぁ……っ! がっ!」

 咳き込んだ後、唾を吐き出し。顔を歪めて言う。

「なぜ……だ、なぜ聞かない、私の言葉を……なぜ効かない、我が【詩情、温情持つ女神の音声おんじょう】が……!」


 斉藤は言う。地の底で石が擦れるように、重く。

「言ったはず、ス。聞く耳持たない、ス。響かない、ス、薄っぺらな声。ただ――」


 自らの胸を叩く。心臓の辺りを親指で指す。

「もし、戦ったのが崇春くんなら。きっと――ぶち破ったス、こんな防御もの


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