二ノ巻23話  三天、相討つ


「え……?」

 かすみは目を瞬かせ、百見が印を結ぶのを見ていた。

 なぜかその光景はゆっくりとした動きに見えた、水の中であるかのように、あるいは処理落ちした映像のように。脳がその光景を、映すのを拒んでいるかのように。

 それでも時は進み、その光景は動きを止めない。


「オン・ビロバキシャ・ナギャ・ジハタ・エイ・ソワカ。龍蛇ナーガの首領にして水神たる広目天こうもくてんよ、今こそ示せその力。駆けよ……【墨龍撃屠ぼくりゅうげきと】!」


 広目天は筆を大胆にふるい、あるいは細やかに走らせ、空間に黒く描いた。蛇のように長い体をくねらせ、牙を剥いた龍のを。

 描き上げたそれが、むくり、と、雲が起こるように立体となって身をよじらせる。

 実体となった墨の龍は瞬き一つ、長い舌で口を湿すと、百見の指す方へ飛び出した。持国天へ向かって、牙の並ぶ口を大きく開けて。


「――!」

 持国天は身をかわした。が、龍は大きく身をくねらせ、再びその身へと向かう。

「――くっ……!」

 腰に差した刀をとっさに抜く。噛み締める牙と刃がぶつかり、甲高い音と火花を上げた。


 倒れたままの円次が瞬きする。

「おい……なんだよこりゃ……」


 かすみは百見へと声を上げた。

「ちょ、何……何やってるんですか!!」

 おかしかった、全てはもう終わったはずだ。なのになぜ攻撃なんて、しかも味方してくれた方に。


 だいたいそうだ、四天王というなら仲間ではないのか? 前にも言っていたはずだ、怪仏事件の解決と並行して探しに来たと。四天王の残り二尊、東方の守護者『持国天じこくてん』と、北方の守護者『多聞天たもんてん』、またの名を『毘沙門天びしゃもんてん』。

 それが見つかったのに、なぜ? 


「まさか……」

 ふと思いついて、かすみの顔から体温が引く。

 探していたというのは、仲間にするためではなく。

 倒すために、探していた? 


 思う間にも広目天は筆を揮い、新たな龍を空間に描く。その龍が大きく口を開けた。

「受けよ、【墨龍瀑吐ぼくりゅうばくと】!」

 龍の口から炎のように、黒く墨が吐き出される。それはうねる波となって、持国天へと向かっていった。


「待って……待って下さい!」

 かすみの叫びも届かないかのように、百見の表情は変わらない。

 黒い波は飛沫しぶきを上げて、龍ともつれ合う持国天の背へと向かっていく。

 かすみが目をつむりかけた、瞬間。


「ぐ……オン・ビロダキシャ・ウン!」

 絞り出すような声と共に、地面に低く響く音がした。

 見れば。崇春が伏したまま、花の開くような印を結び。それを地面に叩きつけていた。

「【芽立がりゅう……増長ぞうちょう】!」

 その震動が地を伝って、地面を隆起させたかのように。黒い波が向かう先、持国天のいる手前の地面で。まばらに生えていた草が、ざわり、と音を立て、見る間に茎を伸ばし葉を広げる。一塊の茂みとなったそれが、壁のように立ちはだかる。さらには辺りの木々も枝葉を伸ばし、横から上からその壁を支える。ぼこり、と地を割る音を立て、太い根もその身を曲げて盾となった。

 打ち辺り砕ける水音を立て、枝葉を散らし。黒い水流もまた、飛沫となって散った。


「な……崇春! 君は何をやってるんだ!」

 顔を歪めて百見が言った。

 崇春は地面に手をつき、震えながら身を起こす。

「何も、糞もあるかい……争う必要などないはずじゃ」

「そうじゃない!」

 叫ぶと崇春の方に駆け、その前にしゃがみ込む。真っ直ぐ目を見て言った。

「なぜ使った、その力!」


 ――え? 

 かすみは目を瞬かせた。

 何かおかしい、というか、明らかに論点が違う。

 崇春は――かすみも――百見が持国天を攻撃したことを批難した。なのに百見は、崇春が力を使ったこと自体を批難した。攻撃を妨害してきたことではなく。


 どういうことか考える間もなく、百見が崇春の胸ぐらをつかむ。

「以前使ったときは仕方なかった、三階から叩きつけられるよりましだった! だが今回は――」


 崇春は百見の手をつかむ。引きはがそうとするのではなく、ただ、そえるように。

「今回も大したことじゃ。友が、友を倒そうとしておる。それを止める、こんな大事なことがあるかい。つまりはのう……」

 百見の手を取ったまま、震えながらひざに手をつき、立ち上がる。


 大きく息を吸い込み、胸を張り、境内に声を響かせた。

「わしらぁもう皆、親友マブダチじゃと! そういうことじゃい! ……それに見い、平坂さんとて友と戦いながら、友を傷つけることはなかった。結局わしらの助けもなく、の。それを、わしらが傷つけてどうするんじゃい」


 ――つまり、どういうことなのだ。

 救いを、あるいは説明を求めるように、かすみは渦生の方を見たが。

 渦生は腕を組み、何か考えるような顔をしたまま、顔をそむけた。


 崇春と共に立ち上がっていた百見は目をつむった。肩を落とし、長く長く息をついた。

 持国天に未だ絡みつく、墨の龍の姿がかき消えた。広目天と、もう一体の龍も同様だった。

「……分かった」

 目をつむったまま、平坂へ頭を下げる。

「……平坂さん、突然申し訳なかった。今回の件については後日改めて謝罪し、説明させていただきたい。今はそれより……互いの親友の、手当てが必要なようだ」


「――……」

 持国天は何も言わず、手にした刀と共にかき消えた。

 円次もまた何も言わず、眉根を寄せて百見を見ていたが。立ち上がると黒田のそばへ行き、揺り起こす。

 黒田は指を震わせ、すぐに目を開けた。


 崇春が一つ手を叩く。

「おぅし! 今度もこれで、一件落着じゃあ! がっはっはっはっは!」

 腰に手を当て、背をそらせ、天へと笑い声を響かせた。


 かすみは何も言わず、目を瞬かせて。辺りの光景を、ぼうっと見ていた。

 折れた枝葉、斬り倒された木。崩れた鳥居と石灯篭。砕けた石畳。ようやく立ち上がろうとしている黒田と平坂、眼鏡に手を当て、うつむいた百見。顔をそむけたままの渦生。決して全てを照らしはしない、やしろの薄明かり。一人、朗らかに笑う崇春。


 思わず、小さく握った手を胸に当てる。胸騒ぎがした。本当にこれは、解決だろうか。あるいは、新たな事件の――


 そう思っているかすみの肩に、誰かが、ぽん、と手を載せる。大きな手。

 その人物は太く声を上げた。黒く焦げたひげを揺らして。

「――何、案ずるでない娘御むすめごよ。お前たちが力を合わせれば、必ずや何事も乗り越えられようぞ。此度こたびの試練のようにな」

「……いや、誰なんですか!?」


 帝釈天。先ほど広目天の攻撃を受け、ちょっと光って消えた怪仏が再びそこにいた。

 髭をなでながら満足げに笑う。

「――ふむ、それにしても頼もしき仲間たちよな、四天王とは。伝承上は帝釈天この我の配下なだけあることよ」


 たちまち渦生が声を上げる。

「てめえまだいやがったか! 百見、こいつも封じとけ!」

 百見も顔を上げ、うなずく。

「確かに、こっちの方が先決ですね――」

「――え、えぇ!? ちょ、待っ、我は何も――」

 百見が印を結び、真言しんごんを唱えかけたとき。


 遠く、サイレンの音が聞こえた。警察か消防か――あるいは、この場所での騒ぎが通報されたのだろうか。


 渦生が大きく舌打ちする。

「クソが、撤収するぞ全員! 見つかると面倒だ、忘れ物はすんなよ!」

 言いながら自ら率先し、猛烈な速さで駆け出した――確か、脚を怪我していたはずだったが――。


 平坂が黒田に肩を貸しつつ、竹刀袋や木刀の類を拾い、石段の方へ急ぐ。百見が錫杖を拾い、帝釈天がちょっと光って姿を消す中。


 崇春が再び印を結び、地面にそれを叩きつける。

「オン・ビロダキシャ・ウン……! 南贍部洲なんせんぶしゅう護王ごおうたる増長天ぞうちょうてんの名において深く謝す……還り給え、【還元供養かんげんくよう】」


 それは以前も見た光景、怪仏・閻摩天えんまてんを倒した後に。

 今回もそれと同じく、まるで時が戻るように。割れた石畳は引かれ合うようにくっついてそのひび跡さえ残さず、倒れた鳥居や灯篭は浮かびか上がって組み合わさり、本来あった位置に還る。

 だが、戻らないものもあった。打ち落とされた枝葉、黒田に斬られていた木。


 崇春は印を結ぶ手を再び掲げ――百見が止めようとしてか手を伸ばすが、届きはしない――、地面を叩く。

「還らぬものはせめて、新たな芽吹きを……【芽立増長がりゅうぞうちょう】!」

 それはわずかな変化だった、何も起こらないかにすら思えた。ただ、目をこらせば。

 折れ、斬られた枝や幹から。小さく新たな芽が、頭をもたげていた。

そして、先ほど不自然に伸びた枝葉は、役目を終えたように枯れ落ち。元あった程度の大きさ、長さに――余分な分が枯れ落ちただけだ、完全に同じ形ではないが――なっていた。


 百見が強く顔をしかめる。

「君はまた……!」

 崇春は取り合わずに走り、百見とかすみの背を叩く。

「これで一件落着じゃあ、走らんかい!」


 駆けつけた人たちが何の異常もない境内を――枝葉が散乱してはいるが――見て何と思うだろうか、それは分からないが。

 とにかくかすみたちは駆け。その夜はそれでしまいとなった。


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