二ノ巻21話 比良坂心到流(ひらさかしんとうりゅう)
円次は値踏みをするように、刀と持国天の背を見る。
「……言わねェんだな。『
歩みを止めず持国天が答える。
「――
円次は手にした武器の刀身を眺め、打ち返し眺め、具合を確かめるように軽く振って。切先を鞘の口につけると、流れるような動作で音もなく
その鞘を道着の帯へと差し込む。
唇の端を吊り上げ、笑った。
「ありがたいね、仏のくせに日本刀とは。折れず曲がらずよく斬れる。最高じゃねェか」
持国天は離れた所で立ち止まり、振り向く。腕組みをして近くの木にもたれた。
「――鋼としては折れにくく、鉄としては曲がりにくく。刃物としては
円次はなおも唇を吊り上げる。
「最高だ」
阿修羅が声を上げた。
「――チィィ、何をゴチャゴチャと! 何だか知らんが、手出ししねえんなら好都合よ! まずは平坂、てめえを――」
六本の腕が頭上に掲げられ、竹刀を上段に構える――
――ことは、できなかった。
踏み込んだ、円次の刃がもうそこにあった。抜き放たれつつ
表情もなく円次がつぶやく。
「六つ」
「――……え?」
言われてようやく、阿修羅の目がそちらを向く。裂かれた腕がこぼれる火の粉のようにかき消え、そこに刀があることを初めて認識したように目が見開かれる。
「――なっ、てめェェ!」
残る手が竹刀を握り、振り下ろす――その動作より先に、円次は身を
右斜め前へと踏み込み。今まで自分がいた場所に、竹刀が振り下ろされるのを横目に。自らの振り下ろす
「七つ――八つ」
言う間にも手を返し、刃を阿修羅の腕の下、腹へ、ひたり、とつける。かき斬るようにそのまま、相手の向こうへと駆けた――手を緩めて刃を離したはずだ、そうでなければ
円次は駆けた先で間合いを取り、向き直る。刀を額の上に掲げた。血を払うように剣を振るい、切先を鞘の口に沿わせて。刀を横に倒し、流れるように納刀する。
口の端を吊り上げてつぶやく。
「悪くねェ」
右手を柄、左手を鞘に添えたままわずかに姿勢を低める。おそらくは全身のバネを利かせて、いつでも斬りかかれる体勢。
表情を消し、阿修羅の目を見据える。
「さて。やってみろよ、さっき言ったことをよ。無理だって教えてやるからよ」
「――な、ァ、ァ……」
阿修羅は口を開けたまま、その場で身じろぎもしなかったが。
不意に何かに気づいたように、目を瞬かせる。歯を剥くと、
「――なるほどなァァ。居合とやら、確かに速ェェ。だが、こいつはどうだ!」
肩口から粒子が吹き上がり、再び腕を形成する。六本の腕が竹刀を握り、上段から振り下ろす。竹刀が粒子に輝く他は、何の変哲もない面打ち。
円次は表情も変えず刀を抜き、しかし打ちはしなかった。
刀身に震えだけを残し、的を外された竹刀が外へと滑る。その隙に円次は両手で柄を握り、手を返して阿修羅へ振るう。その肩口、輝く粒子でできた腕の根へと。
が。阿修羅もまた動いていた。竹刀をいなされて体勢は崩れ、反撃は不可能のはずだった。事実、その動きは反撃ではなかった。
突き出していた、首を。円次の斬撃の先へ。
「ぐッ!?」
びくり、と震えて円次の手が止まる。刃が阿修羅の――黒田の――首へと当たる、その寸前で。
阿修羅は目尻を緩ませ、あごを上げ。刃の下で、むしろ見下ろすように笑ってみせた。
「――オイオイどうした、ご自慢の居合は。勝負を決める大チャンスだったじゃねえかよォォ」
ぐい、とさらに首を突き出し、動きを止めた刃に自ら押しつける。
「――どうしたよ、斬ってみせろよ、この首をよォォ。イヤだキャー、ヤメてェェ!
ボクの首を斬らないで円次ィィ!」
見ていたかすみの頬が引きつる。
「な……!」
なんてことを言い出すのか、どこまで卑怯なのか。そう思い、知らず拳を握り締める。
が。
円次の表情は変わらなかった。いや、表情は消えていた。
無言のまま手をひるがえし、刀を黒田の首から離す。音も立てずに刀を寝かせ、納刀した。
溜めを作っていたひざを、わずかに丸めていた背を伸ばした。決して姿勢を正したのでなく、ただ自然に伸ばした。手を柄から、鞘から離して垂らした。わずかにうつむけた顔が月明かりから隠れる。
全身にバネを利かせ、力をみなぎらせていた先ほどとはまるで違って。全てを放り出してしまったかのような、何の力もない姿だった。
阿修羅がのどを鳴らして笑う。体から吹き上がる粒子がそれにつれて揺らいだ。
「――ククク、チャハハハ! お利口だなオイ、あきらめやがったか! なァァにが居合だ、なァァにが刀だ! そんなもんでオレと立ち合おうなんざ――」
円次が斬撃を繰り出す、それはかすみにも見えた。
見えなかったのは。円次がいつ柄を、鞘を握ったのか。いつ刀を抜いたのか。
気がつけば幻のように、白く光る
それは黒田の身につけた道着に吸いつけられたかのように。ひたり、と当たるかどうかの位置で止まり。
かと思う間に振りかぶられた、円次の頭上、額の上に拳を寄せる格好で。
振り下ろされるそれは、阿修羅の頭上、黒田の髪に触れた位置で。やはり吸いつけられたように止まる。その勢いに黒田の髪が、押し退けられるようになびき。立ち昇る粒子は、斬り分けられたかのように左右へ吹き飛ぶ。
つぶやく円次の声が聞こえた。
「さっきが九つ、
「――あ……?」
阿修羅がつぶやく間、しかし身動きもできない間に。円次は再び刀を振り上げ、斜めに
「十二、【
「――なあっ……!」
ようやく阿修羅が表情を変え、身を引きつつ竹刀を体の前に構えるが。
それにぴたり、とついていくように円次もまた身を寄せる。剣先は竹刀をかわし、みぞおちへと突きつける。
「
「――ぐ……おォォっ!」
顔を歪ませた阿修羅が、六本の腕で竹刀を握る。円次へ真っ向から振り下ろした。
円次は左手を柄から放し、刀身の真ん中より先、刀の峰に添えた。阿修羅の斬撃を両手で受け止めつつ、
同時。刀身を支える左手を押し込み、切先を相手の首筋――その刃の内に
「十四、【
「――ぬ……!」
阿修羅が竹刀を払い、刀を押し退けようとする、その動きを読んでいたかのように。
円次は身を沈ませ、刀身をひるがえしつつ。阿修羅の空いた脇の下をくぐる。かついだ刃を、その脇へと押し当てながら。
「十五、【脇
そのまま駆け抜け、間合いを取って向き直る。納刀した。
「――な……あ……?」
小さく震えていた阿修羅は、思い出したように歯を噛み締める。
「――何をしてやがる、いや、なんで何もしねェェ……そうか」
阿修羅は笑うが。その頬は震え、引きつっていた。
「――何にもできねぇんだな、大事なお友達を斬れねぇもんなァァ……そうか、そうだな、チャハ、ハ……」
笑い声は乾き、震える奥歯の鳴る音さえ聞こえた。
「そうだ」
変わらぬ表情、力の無い姿勢のまま円次はつぶやく。
「そうだよ、斬れねェよ、友達だからよ。そンで――」
駆け出す、それは横で見ているかすみにも見えた。左下から斜めに斬り上げる斬撃が、阿修羅の胴の寸前で止められた、それも見えた。いつ柄を握りいつ抜いたのか、それが見えなかった――おそらくは、斬りつけられる阿修羅にも。
「十六――」
手を返し、振り上げる刀が月明かりを反射して
と見る間に刀は振り上げられ、今度は左斜めからの
「十七、十八――」
さらに振るう刀は右斜めから胴を裂く、その寸前で引き止められて。左真横へひるがえり、横一文字に腹をかっさばく、その寸前でやはりぴたりと止まる。
「――あ、あ……」
阿修羅が身動きもできぬうち、唇だけを震わすうち。
円次は両手で柄を握り、大上段に刀を振りかぶる。
「かあああぁッ!!」
体重の全てを乗せ、叩き斬る一撃が。黒田の頭を断ち割るまさに寸前で、止められていた。
しかしその剣勢だけが、阿修羅を二つに裂いたかのように。黒田の体から上がる粒子の群れが、左右に斬り分けられて。火の粉のように散って消えた。
刃を向けたそのままの姿勢で、円次は震えながら息を吐く。長く。
「……今ので、二十一……
阿修羅は動かなかった。震えさえしなかった。目を見開いて瞬きもせず、
もはやその体は輝く粒子もまとってはおらず、その粒子が形作っていた腕も消えていた。ただその目だけがわずかに、
「――……あ……ぉ……ぁ……」
円次は刀を引き、ゆっくりと納刀する。
「二十一本。確かに取った……二十一回、てめェは死んだ。言っといてやる――」
再び柄に手をかけながら、ささやく。
「黒田の奴だってなァ、オレが十本取る間に一本は取り返すンだよ。だがよ、てめェは……オレに一本しか取ってねェ。二十一本取られといてよ」
ずい、と顔を寄せ、黒田の目の奥、阿修羅をにらむ。
「黒田はなァ。てめェよりかずっっと強ェんだよ! クソ弱ェ雑魚がいつまでも取り憑いてンじゃねェ、黒田の邪魔してンじゃねェ! 出てけッ!」
その語気に押し出されたかのように。
「――ひ……ィィいいっ!?」
黒田の瞳から
無言で抜き放つ、円次の刀が斬り裂いた。
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