二ノ巻12話  噓も方便


 例の神社――の近くのコンビニ――への道を、急ぎ足に三人で行く。

 錫杖を手に前を行く崇春の背を見ながら、かすみは百見と並んで歩いていた。

「あの。聞いてもいいです? さっきの――」

 崇春には嘘をつかせたくない――その言葉が妙に引っかかった。


 前を向いたまま百見が言う。

「ダメだね」

「ダメ、って」


 百見は目だけをこちらへ向けた。

「君にだって聞かれたくないことぐらいあるだろう、僕の場合はこれがそうさ。……とはいえ」

 顔をこちらへ向けて続ける。


「ただの言葉のとおりさ。彼には嘘をついて欲しくない、少なくとも彼の意思に反してはね。もちろん、全ての戒律を全ての局面で守れるかといえば難しいところだが……それでも、彼には、なんと言うか。自由に戒律を守って欲しいんだ」


 自由に、戒律を。それは何だか矛盾した言葉に思えて。だが同時に、崇春の在り方そのものに近いようにも思えた。


「彼が自由に戒律を守ってくれるからこそ、僕は自由に戒律を破れる……彼の分までね」

「いや、そういうシステムじゃないですよね? 戒律って」


 分かっているさ、とでも言いたげにうなずき、百見が微笑む。

「ともかく。崇春には嘘をつかせたくない。もし嘘が必要なら、彼の分まで僕がつくさ」


 はっきり言って都合のいい話だ、そうは思った。けれどそれが、彼ら自身の自然な在り方にも思える。

 とにかく。百見は本当に、崇春には在るがままに在ってほしいのだろう。その在るがままが、あるいはたまたま、崇春に取っては仏法者であることなのだろう。


 かすみは息をつく。それから人差指を立て、百見の顔へと突きつける。

「百見さん!」


 思い切り、笑ってみせた。

「――崇春さんのこと、好き過ぎ」


 百見は目を瞬かせ、それから息をつく。かすみを見返して笑った。

「ああ。君もそうだろ」


「な……っ」


 息を詰まらせたかすみが、口をぱくぱくと開け閉めしているうちに。

 百見は話題を変えた。

「まあ、とにかく――渦生さんが何とかしてくれていれば理想的だが――、結果としては崇春に、例の約束を破らせてしまうかもしれない。だがまあ、それはそれで問題ない。仏教を由来とする――」


「仏教を由来とする言葉。『嘘も方便ほうべん』……でしたっけ」


 百見は嬉しげに笑う。

「おっと、どうやら君にも仏教精神が根づいてきたようだね」


 かすみは小さくため息をつく。

「それはどうか知りませんけど。そもそも矛盾してません、これ。嘘をつくな、って戒律があるのに、嘘も方便って。『嘘をつくと閻魔えんま様に舌を抜かれる』なんて話もありますけど」


 百見は表情を変えずに言う。

「なに、僕の舌なら二枚ある。一枚ぐらい問題ないさ」

「自分で言わないで下さい!」


 百見は微笑んでかすみを見ていたが、不意に表情を消す。

「とはいえ。君の言うこともっとも。確かに矛盾しているんだ。だがそれでいい、矛盾していいんだよ、仏教は。そう、こういうたとえ話もある――」


 小さく咳をして続ける。

「――ある男が帰ると、家が火事になっていた。そして中では、幼い子供たちが火事に気づかぬまま遊んでいた」

「大変じゃないですか!」

「そう、大変だ。そしてさらに厄介なことに、子供たちは幼く、火が恐ろしいものだということも分かっていない。もちろん目の前まで火が迫れば分かるだろうが……そうなってからではもはや、逃げることもかなわないだろうね」

「とにかく助けないと……」

「そのとおり。だが、外に出ろと言っても、子供たちは遊びに夢中で聞きもしない。火の恐ろしさを今さら説明している暇もない。子供たちは何人もいて、男が中に行っても全員をいっぺんには助けられない」

「じゃあどうしたら……とにかく、何とかしないと」


 百見はうなずき、声を高めて続けた。

「そこで男はこう言ったんだ――『外におもちゃがあるよ!』と」

「え? ああ、なるほど」

「『みんなの欲しがっていた車のおもちゃだ、三つもある! 一緒に外で遊ぼう!』と、ね。それを聞いた子供たちは皆外へ出て、危ういところで火事の難を逃れた――。さて、このたとえ話をした後で、お釈迦様は弟子にこう問うた。『この男は嘘つきだろうか』と。弟子は答えた、『いいえ、この嘘は方便ほうべん――目的を達成するための手段――でございます』と」


 かすみは言う。

「それが『嘘も方便』、と」

 百見は微笑む。

「お後がよろしいようで……と、言うようなものでもないか。これは『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』のうち、第三章に当たる『譬喩品ひゆほん』。その中の『三車火宅さんしゃかたくたとえ』と呼ばれる説話だ。そして――」


 そこで百見は眼鏡を押し上げ、かすみの目を見る。

「何が言いたいかといえば。つまり、そういうことなんだ」


 結局のところ。目的は戒律を守ることではなく、救うこと、ということか。

救うためなら、矛盾があってもどうということはないと。救うための手段としてなら、戒律も嘘も同様に使う、と。

 それはちょうど――仏教の意味するところでの『救い』というのは何なのか、それは知らないが――、今のかすみたちの状況に近いとも言えた。


 かすみは小さく息をついた。

「まあ、何となく分かりましたけど……」

とはいえ。それにしても、言い訳が長い。


 気にした風もなく百見は続ける。

「無論、その辺の解釈は様々だ……論理として矛盾すべきではないだとか、厳格に戒律を守るべきだという考え方も、解釈として有ってしかるべきとも言えるね。他に、一応つけ加えておくと『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』、通称『法華経ほけきょう』は釈迦の死後五百年後ほどの成立と見られている、大乗仏教の経典だ。原始仏典にこの説話はなく、歴史上の釈迦自身がこの教えを説いたとは考えにくいが……まあ、仏教精神でもって語られていることは間違いない。それこそ『嘘も方便』といったところかな」

「方便が! 方便が多すぎますからーー!!」


 かすみが思わず声を上げた、それを合図にしたかのように。

 遠く行く手、神社の方角から、だいだい色の光が見えた、炎のような。そして音が聞こえた。遠く轟くような音、何かが爆発したかのような。


「あれは……」

 かすみがつぶやき、百見が口を開きかけたところで。


 前を行く崇春が振り向き、声を上げた。

「いかん! ありゃあ渦生さんの……急ぐぞ!」

 言うなり、返事も待たずに走り出す。


「あのっ、いいんですか、約束とか」

 後について走り出しながら、思わずかすみはそう尋ねた。


 振り返りもせずに返事が来る。

「何言うちょんじゃ、ケガ人を見捨てる約束なんぞした覚えはないわい! 渦生さんのあれを喰ろうて、無事でおれるもんなぞおらん!」


 かすみの隣を駆けながら百見が言う。

「ね。あれでいいんだ、彼は」


 かすみは駆けながら――百見のまねをして――肩をすくめてみせる。


 百見はつぶやいた。

「しかし。あれほどの技を出したとなると、よほどの敵……渦生さんも無傷では済んでいないだろうね」


 崇春はさらに速度を上げ、かすみらもどうにかついていこうとするが、だんだんと距離が開く。

 例の神社までは、まだ遠い。



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