二ノ巻11話  その少し前に


 ――その少し前。

『すぐに来てほしい』

 そんな電話を受けたのだ、かすみは百見から。

『大事な用だ、必ず来てほしい。もちろん崇春もいる、用件はその場で話す、僕たち三人でやろうじゃないか。場所は――』


 だからやってきた、とうに日の沈んだ町の中を、息せき切って走って。

 そんなかすみの目の前に、その現実は突きつけられた。


「おう、来たか谷﨑! すぐに手伝ってくれい!」

 家族世帯用の古いアパート、その玄関を開けてすぐの台所で。電子レンジが唸りを上げ、ガスコンロの上では二つの鍋が絶えず湯気を吹き出し続けている。

 熱気と湯気に包まれた中、その床の上では。エプロンを着た崇春――体にサイズが合っておらずはきちれそうだ――と、かっぽう着を着た百見が座り込み。床を埋め尽くすボウルと鍋、皿や茶碗の中身を、必死の形相ぎょうそうで押し潰し続けていた。薄黄色を帯びた、ほくほくとゆで上げられたジャガイモを。


「な……。ん? ……え?」

 玄関を閉めるのも忘れて、かすみは立ち尽くしていた。


 湯気に眼鏡を曇らせた百見が声を上げる。

「ええい、君は何をしている! 大事な用だと言っただろう! 早く上がって、手を洗って! 手伝ってくれ!」


 とにかくドアを閉め、手を洗う。とにかくまだ潰されていないジャガイモを、近くにあったフライ返しで――もっと使いやすいものはないのか――、潰しながら言う。

「で。……大事な用って」

 作業の手を止めずに百見が答える。

「見て分かるだろう、これだよこれ! 崇春が業務用の店で買い込んできたんだ――」

 背後のドアを片手で開け、中の部屋を示す。そこには段ボール箱に一杯の、ジャガイモがあった。十箱近く。

「――勝手に! ジャガイモ! 六十キロを!」


 その光景と数字に軽く目まいを覚える。何で買ったんだ、人間一人分の重さほども。


 ゆで上がったジャガイモの皮を剥きながら崇春が言う。

「ふ……何言うちょんじゃ、知らんのか? イモ類は保存が利くんじゃ」

「限度がありますからー!!」


 潰したジャガイモの上にマヨネーズを長々と絞り出しつつ、百見が長く息をついた。

「安く買えたとは言うが……まったく、限度がある。当分主食はジャガイモだな。……というわけで、谷﨑さんには調理を手伝って欲しい。というか、調理法も色々教えて欲しい」


 崇春がジャガイモを押し潰しながら強くうなずき、頭を下げる。

「是非とも頼むわい! 出来上がったら、今日は三人でポテサラパーティーじゃあ!」


「パーティーはいいんですけど……」

 手伝うのはいい。調理法もおいおい考える、それはいい。けれど、そんなことよりそもそも――


 調理の手を止めて言った。

「――これって。怪仏を、平坂さんをどうにかするために呼ばれたんじゃないんですか?」


 崇春と百見は何度か瞬きし、互いに目を見合わせた。

「むう? そんなこと言うたんか?」

「言ってはいないね」


 崇春はかすみの方を向く。

「だいたいほれ、約束しちょるじゃろ。今回のことは渦生さんに任せると」

 百見もうなずく。

「加えて言えば、平坂さんとも約束はしている。今夜一晩、あの神社には近づかない、とね」


「それはそうですけど……大丈夫なんですか、それで」

平坂の言葉からすれば、あの神社で今夜何かが起こる――怪仏に関わること、その口ぶりから逆に考えて、人死にの出る可能性すらある何かが――。

 言ってしまえば身もふたもないが。本当に、約束なんか守っている場合なのか。


 崇春は表情を変えずうなずいた。潰したジャガイモを粗く混ぜながら。

「なに、渦生さんほどのおとこなら心配はいらん」

 崇春のボウルにマヨネーズを絞り出しながら百見も言う。

「僕らと違って、渦生さん自身は平坂さんと約束したわけではないしね。怪仏が何度か来たあの神社で、一晩張り込んでおく予定だと聞いている……場所的にも合っている」


 確かに、渦生一人でどうにかできるならそれでいいのかもしれない。けれど――


 考える間に百見が言う。

「谷﨑さん自身がどうであるかは問わないが。少なくとも、僕と崇春は仏教徒だ。それなりに熱心な、ね。仏教における戒律『十善戒じゅうぜんかい』には『不妄語ふもうご』――嘘をついてはならない――というものがあってね。だから――」


 その言葉をさえぎるように、音を立てて。手にしていたボウルとフライ返しを、かすみはその場に置いた。

「あの」

 床の上で正座して、姿勢を正し。深く頭を下げた。

「すみません。けど、お願いです。今日だけ、破ってくれませんか……その戒律」


 崇春はボウルを抱えたまま手を止め、何度も目を瞬かせた。

「むう……? じゃが、その。渦生さんとも平坂さんとも、おとこおとこの約束をじゃな……」


 言いたいことは分かる。けれど、それでもしも渦生がやられたら。そうでなかったとしても、大きな怪我でもあったら。

 それに、崇春たちの目的は『怪仏事件を収めること』――強さを競うことではなく、それと同様。約束や戒律を守ることではないはずだ。


 そう考えたが、言葉に出してしまっていいのか分からず。

かすみはとにかく、立ち上がった。

「無理なら……行きます、私だけでも」

 一人で行ってどうなるものでもない、それは分かっている。けれどどうにか、手当てだとか――


 思う間に、百見が突如声を上げた。棒読みのような間延びした声を。

「おおっと! あーいけない、これはいけないなー!」

 見れば。ジャガイモの上に絞り出していたマヨネーズが、すっかり空になっていた。

 ぺちん、と自分の額を叩き、わざとらしい口調のまま続ける。

「これは参ったなー、ポテトサラダに最も重要な調味料であるマヨネーズ、それが空になったのではねー。このままではポテサラパーティーなどとても無理だなー」


 立ち上がり、かっぽう着を脱ぎ捨てた。それをきちんと畳んで言う。

「何をやってる崇春、早く支度をしないか! マヨネーズを買いに行くぞ!」


 床に座ったまま、崇春は目を瞬かせる。

「む、むう? 分かったわい、では近くのスーパーに――」

「ええい、君は馬鹿かっ! 僕のマヨはいつもカロリーハーフ! しかもこだわりの銘柄があると言っているだろう!」


 崇春はさらに目を瞬かせた。

「む、そ、そうじゃったかのう……?」

 腕を組んで百見が言う。

「ああそうさ。そして近くの店には置いていない……少し離れたコンビニに買いに行くぞ! 例の神社に近いコンビニに! まったくの偶然だが!」

「む? それは――」


 さえぎるようにかすみは言った。

「そうですね、そこにしかないならしょうがないですよね! それとも――」

 崇春の目をのぞきこんで首をかしげる。

「――誰かと約束しましたっけ。マヨネーズを買いに行かない、なんて?」


 崇春はぎこちなく目をそらす。

「それは……してはおらんが」


 百見が一つ手を叩く。

「よし、決まった! ひとまず片づけて、すぐに行こう! 買い物に!」


 言われてのそのそと立ち上がり、エプロンを脱ぐ崇春。


 それを見ながらかすみは息をついた。

 まったく、百見が調子を合わせてくれて良かった。けれど、どういうつもりだろう。急に気が変わったというわけでもないだろうし――


 思っていると、百見が傍らに立ち。食器を片付けながらつぶやいた。

「君なら、そう言ってくれると思っていたよ」

「え?」

「嘘をつかせたくないんだ――彼には」

 そう言ってラップを手に取り、調理途中のボウルに被せた。


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