二ノ巻10話(後編)  夜と炎と


 帝釈天たいしゃくてんは短双剣を突き出す。

「――今一度問おう、我が金剛杵ヴァジュラを取らぬか。さすればよし、さもなくば――」

 握り締める手が震え、刀身から上がる電光が耳障りな音を立てる。

「――神々の帝シャクロー・デーヴァナムたる我ばかりか……我が業を貴様に与えしあの御方に楯突たてつくということ……! 左様な所業、決して許せるものでは――」


 その言葉の途中に。帝釈天たいしゃくてんの肩に、ぽん、と手が載せられる。

「よお」


 土にまみれ、いくつも穴の開いたジャージは焦げ。額から血を流した渦生が背後にいた。

「喋ってるとこ悪ぃんだけどよ。――燃え尽きろや。オン・クロダナウ・ウン・ジャク。燃えろ、燃えろ……燃えろ! 【炎浄・爆焔破】!」


 烏枢沙摩うすさま明王みょうおうの赤い手が、炎を宿して帝釈天たいしゃくてんの肩をつかむ。その手がさらに炎を上げたかと思うと、爆ぜ飛ぶように炎が噴き上がる。二体の怪物をもろともに飲み込む、赤黒い爆焔が。


 明王に体をつかまれたまま、炎の中で帝釈天たいしゃくてんがもがく。

「――が……があああっ!」


 煤にまみれた渦生がつぶやく。

「悪いな、逃がす気はねえよ。このまま焼き尽くして――」


 言う間に、帝釈天たいしゃくてんは何かを放った。渦生へではなく、頭上へ。その手にしていたものを。


 回転しながら飛んだ短双剣――金剛杵ヴァジュラ――は、見る間にその回転を早め。やがて空気を、大気をかき混ぜ、その場一面に厚い雲を生んだ。時折走る稲光と、その内に支え切れずぽつぽつとこぼれ落ちる、雨をたたえた黒雲を。


「――脅雨おどしあめ旱魃龍殺しヴリトラ・ハン……」

 したたる雨足はたちまち強まり、つぶやく帝釈天たいしゃくてんの声をかき消す。桶を返したような水が、今や辺り一面に浴びせかけられていた。

 その雨勢の中に、燃え上がっていた炎はぶずぶずと音を立て、白い煙を上げてくすぶり消え始める。さらには、熱を帯びたような明王の赤い肌も、雨粒を受けるたびに湯気を上げて黒くくすぶり出し。苦しげに顔を歪めて、地に片膝をついた。地に突いた矛を杖に、その身をどうにか支える。


 にこりともせず帝釈天たいしゃくてんが言う。

「――雷神すなわち雨神。我を相手に炎で挑もうなどと、バターギイが火に挑もうとするが如き愚行」


 にこりともせず――明王と同じく、表情を歪めながらも――渦生がつぶやく。

「燃えろ」


 変わらず降りつける雨の中、その一言に再び炎が躍る。

「燃えろ。燃えろ。燃えろ燃えろ……燃えろ! 【炎浄・爆焔破】」


 くすぶる音を立てながら、滝のような雨に押されて揺らぎながら。それでも炎が勢いを増し、明王の肌が赤く熱を放ち。揺らめく火炎が再び帝釈天たいしゃくてんの体を飲み込む。


「――な……!? お、おのれ!」

 帝釈天たいしゃくてんが手をかざすと、金剛杵ヴァジュラはその回転を速めた。雨足は音を上げて強まり、さらには黒雲から弾けた稲妻が、細く幾本か地に落ち。地面に溜まる水の上を青く走ったそれが、くるぶしまで水に埋まった渦生の脚を駆け上がる。さらに幾筋かの電光が閃き、渦生の体を直接打った。


「ぎ……!」


 電撃に身を震わせた渦生は体勢を崩す。炎は低い音を立ててくすぶり、赤い明王の姿も火勢と共にかき消えた。

 大きくよろめく渦生はそばにあったものにかろうじて抱きつき、足を踏みとどまらせた。そばに立つ、帝釈天たいしゃくてんの体にもたれかかって。


 帝釈天たいしゃくてんが唇を歪めて笑う。

「――ふん。窮鳥きゅうちょう懐に入らば猟師もこれを殺さず、とは言うが。戦神いくさがみたる我に左様な慈悲を期待するならば……愚か!」


 その太い両腕で渦生の体を抱え、折り取るように力を込めた。


 が。渦生もまた、帝釈天たいしゃくてんの体を抱いていた。抱き締めるように、両手を相手の腰に回して。

 その背の向こうで組み合わせた指が、烏枢沙摩うすさま明王みょうおうの印を結ぶ。

「オン・クロダナウ・ウン・ジャク……燃えろ。燃えろ。燃えろ……【炎浄・爆焔破】!」


 渦生の手の上に重なるように、再び現れた明王みょうおうのヴィジョン。そこから轟音と共に焔が上がる。渦生と帝釈天たいしゃくてんとをもろともに覆って、赤く、黒く、燃え上がる。


「が……ああああああ!?」

 帝釈天たいしゃくてんは声を上げ、それでも渦生を抱える腕に力を込め。金剛杵ヴァジュラの巻き起こす脅雨おどしあめは強まり。


 それでも、渦生は声を上げた。そのたびごとに炎が強まる。

「【炎浄・爆焔破】、【炎浄・爆焔破】、【炎浄・爆焔破】! 燃えちまえ……【大・轟・炎・浄、爆焔覇】!」


 鼓膜も地も、降りしきる雨をも震わす爆音を上げて。帝釈天たいしゃくてんも渦生も明王も、白く爆焔に飲み込まれた。


「――な……あああがあああぁっっ!?」

 帝釈天たいしゃくてんの体を焔が覆い、黒く焦がし。やがてその身にひびが走る。そこから白く焔が吹き出し、噴き上げ。


 そして、ぴたりと雨はやんだ。

辺りに溜まる、小池のような水の中に。飛沫しぶきを上げて、帝釈天たいしゃくてんの体が倒れ伏す。そばに、金剛杵ヴァジュラも音を立てて落ちた。


 水の溜まる辺りから身を引き、立っていた円次は言葉が出ず。目を瞬かせて渦生の方を見た。


 もう炎は散っていた。明王の姿も消えていた。血とすすにまみれた、渦生だけがそこにいた。


 渦生は口の端だけ上げて笑う。

「無事か」


 何も考えられず、円次はただうなずいた。


 渦生もただうなずいた。

「なら……いい」

そうして水の中へ、膝から崩れ落ちた。


「ちょ、おい!」

 駆け寄る円次がその体を抱え、肩を貸す形で水の外へ引きずる。地面の上に渦生を横たわらせた。


 そうしていた二人の背後に。

 影が揺らめいた。六本の腕を持った影が。


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