終章.暗殺者はペットに向かない。
「逮捕されたのは、改民党第四選挙区、安井幸高事務所の元事務員、秋山春之容疑者で……」
「おいおいおい、随分豪快にねじ曲げてくれたな」
ダイニングのテレビで夕方のニュースを観ながら、キルがブーイングする。
「折角ラルが無常組に突入して、証拠掴んできたのに。安井氏が無常組と金で繋がってたって話が、なんで安井が雇用してた経理の事務員が個人的に繋がってたという話になるんだ? しかも横領で捕まってるじゃんか」
「スケープゴートだね。かわいそうに、この事務員のおじさんは、騒動を隠すために犠牲にされたんだ」
親父がキルと一緒に、テレビに不貞腐れた。
「容疑を認めてるところを見ると、この人も金を握らされて協力してるんだろうね」
「くっそ……安井って奴は最悪な野郎だな」
キルが舌打ちする。親父はそんなキルを宥めるように笑った。
「まあまあ。安井の致命傷になる攻撃はできなかったけど、奴の事務所にイメージダウンの大打撃を与えることはできたじゃないか。この報道のねじ曲げや揉み消しに忙しいから、しばらくは大人しくなるでしょうしね」
「そうだけど胸糞悪い」
怒涛の花火大会が幕を閉じ、平穏な夏休みの日曜日が訪れた。
あのあとラルは逃げ出すようにいなくなり、ひとり落ち込んでいるのかと思ったのだが、実は早くも立ち直って無常組へ潜入捜査に入っていた。そしてあっという間に政治家の安井氏と無常組の黒い繋がりの証拠を掴んで、翌日の夕方にはニュースとして報道された。しかし、キルが不服をぼやいているとおり、内容はねじ曲げられている。
難しいことは分からないが、安井氏が事務員に罪を着せて、自分へのダメージを最小限に留めたというのだけは分かった。
「日原さんも、暗殺者に狙われてるって一瞬は信じてくれたけど……結局また冗談だったと思い込んじゃったしなあ」
俺はボウルの中で挽肉を捏ねつつ、ぽつんと呟いた。あんなにあからさまに命を狙われていたのに、日原さんはまだ暗殺者ごっこだと思っている。恵まれた環境で蝶よ花よと育てられた日原さんは、ちょっと頭がお花畑なのだろう。
ため息をつく俺に、親父が目を細める。
「それは好都合だよ。美月ちゃんが暗殺者を警戒しないで、平然と元の生活を送ってくれるのは、フクロウサイドとしてはありがたい」
そして彼はぐっと伸びをして、言った。
「パパも安心して出かけられる」
「親父、今度はイタリアだっけ?」
俺がキッチンから聞くと、親父は大袈裟に項垂れた。
「そうなんだよお。暗殺先進国の技術はどこの国も勉強したいってのは分かるけど、急すぎなんだよね。あーあ、この夏はもっとゆっくり咲夜にベタベタするつもりだったのににゃー」
「にゃーじゃねえよ気持ち悪い。さっさと去れ」
玄関には既に、キャリーバッグが置かれていた。昨日の夜、ベランダで酒を飲みながら花火を見ていた親父のスマホに入電があったらしい。明日の朝の飛行機に間に合うように、今夜、家を出ていくそうだ。
ダイニングテーブルに放置してあった俺のスマホが、ブブッとバイブ音を立てた。親父が気がついて手に取る。
「咲夜のスマホ、こんなんだっけ?」
「それは代機。見るのやめろ」
壊れたスマホをショップに持ち込んだのが今日の昼。借りている代機は、一昔古いタイプの無骨なデザインのものだ。親父が画面を覗き込んでいる。
「メッセージアプリの通知来てるよ。読んでいい?」
「やめて、勝手に見ないで」
「遠慮しなくていいよ。シャイな咲夜の代わりに、パパがお返事を送っておいてあげよう」
「やめろって!」
「でもなあ。この子、返事を待たせて怒らせるの、よくない気がするぞ」
親父が画面をこちらに向けてくる。
「無常組の娘さんとあれば、怒らせたら怖いんじゃないかにゃー?」
画面にポップアップしている「枯野栄子」の名前を見て、彼は不敵に笑った。
*
「なんで朝見が、私の家の事情を知ってんのよ」
それが枯野さんが送ってきたメッセージの第一声だった。
花火大会から帰る途中、枯野さんの連絡先を手に入れた。今後遊ぶときに一緒に連絡を取れるようにと、日原さんを介して本人から調達したのである。その翌日である今日、俺は枯野さんとのトークルームにメッセージを書き込んだ。煩わしいやりとりは全て省いて、ド直球に切り出した。
「無常組の件で、話があります」
それに対する彼女の返信が、先程の冷ややかな印象の一声だった。
*
クラスメイトの枯野栄子が一役買っている可能性があるということは、キルが親父に報告した。無関心そうに「へえ、なるほどねえ」なんて言っていたが、やはり気にしてはいるようである。
「咲夜は今お肉捏ねるのに忙しくて、手が離せないでしょ。パパが代打ちしたるぞ」
「余計なこと書きそうで嫌なんだけど……分かったよ。頼む」
ロック画面の解除番号を伝えると、親父はすぐに、メッセージアプリの枯野さんの文章を読み上げはじめた。
「どこで聞いたんだか知らないけど、私のお父さんはたしかに無常組の若頭だよ。美月と親しくしてるのは、うちの組が美月のお父さんの病院にお世話になってるから」
知りもしない枯野さんの真似をしているつもりなのか、無意味な裏声で音読している。
日原さんは、付き合う友達も親に選ばれていた、とを話していた。枯野さんも、そのひとりだったのようだ。
「お父さんからは、美月の状況を報告するように言われてる」
「やっぱり娘を使ってやがったんだな」
キルが口を挟んだ。俺もそう思い、挽肉を捏ねる手に力が入った。しかしその直後に、親父の声が付け加える。
「日原家にはお世話になってるから、美月になにかあったらすぐに動けるようにって。小さい頃から習慣化されてる」
「政治家と病院と暴力団の癒着……とか、そういうことまでは、知らないみたいだな。単に、家族ぐるみで世話になってる病院の娘を見守ってるだけか」
ボウルの中の手を止めて言うと、親父が地声に戻って返した。
「キルと咲夜の暗殺計画に関わると自覚してたら、もっと咲夜に近づいてるだろうしね」
「そっか……」
構図が見えてきた。枯野さんがなにも知らずに、日原さんの日常を若頭に報告する。枯野さんの父親すなわち若頭は、娘からの情報を暗殺計画を踏まえて、古賀先生やそのエージェントに内通する。古賀先生サイドはその情報の中からキルの来襲や俺との繋がりを見つけ、計画を固めていた。
俺は止めていた手を、再びボウルの中で動かした。
「じゃ、枯野さんは日原さんを騙して見張ってるんじゃないんだな。仕組まれたとはいえ、上辺だけじゃない本当の友達なんだ」
「なに? ほっとしてんの?」
親父が頬杖をつく。
「この女をぶち殺せば、向こうさんを精神的にも情報流通的にも追い詰められるよ。美月ちゅわんの心の友だろうが上辺だけだろうが、関係なくない?」
「仕事熱心な暗殺者集団のエージェントはそう思うのかもしれないけど、俺は日原さんが裏切られてなくてよかったと心から嬉しかったよ」
皮肉をたっぷり込めて言うと、親父は唇を尖らせて拗ねた。
「意地悪なこと言うねえ。『栄子たん今度デートしようね! ちゅっ』って返信してやろ」
「おいふざけんな、夕飯抜きにするぞ」
ギロッと眼差しで突き刺すと、親父はテヘへと笑ってスマホを伏せた。
「まあいいさ、栄子ちゃんが生きてても今は問題ない。どっちにしろ、安井氏はしばらく大きな動きはできないからね。安井さえ大人しければ市長選は安泰、現市長と経済的にパイプを持っている草壁大臣も……」
「ミスター、喋りすぎじゃないか? 私を含め、それあんまし聞いちゃいけないことだと思う」
キルが親父の言葉に被せて言う。親父はスッと黙った。俺は無言で挽肉を成形していた。
なんか今、キルでさえ聞かされていないという依頼主の影が、今の親父の発言から洩れ出しそうになっていた気がする。この案件、もしかして意外と壮大なスケールの問題なのかもしれない。
親父は自分の発言を揉み消すように切り替えた。
「とにかくさ、安井氏はこのまま転落してくれれば政治家人生は終わったようなものだ。まあ、何度でも蘇ってくるのがあいつの嫌なところなんだけどね。とはいえ今後あいつが再浮上してくるまでは、美月ちゃんを殺す必要はなくなったわけだ。依頼人からも、一先ずは任務の停止を指示された」
「お。ということは、私は一仕事終えたってことだな」
キルがニッと牙を見る。俺は小判型に丸めた挽肉の塊をフライパンに並べた。フライパンからじゅわーっと雨音みたいな心地よい音がする。
「キルは任務完了、日原さんは死なずに済んだんだな」
ラルはしばらくは陸に近づくのを躊躇するだろうし、古賀先生もカードが再発行されるまでは大人しい。
もしかしてこれ、案外ベストな結果なのではないか。
「よっしゃあ! それじゃ、私は次の依頼にシフトだな」
キルが両手を振り上げた。俺はフライ返しを片手に、そうだったな、と真顔になった。
日原さんが死ななかったとはいえ、キルは任務を終えたのだ。彼女がここに寄生する意味はなくなった。まひるへの恩返しがどうのとか言ってはいたが、他の依頼で遠くに出向くのなら、ここに居続けることはできない。
いや、別に寂しくはない。そもそもいきなり住み着いた迷惑な客だから、いなくなってくれるにこしたことはない。
頭の中で呪文みたいに、そう呟いた。
「これで私は、霧雨サニを超えたんだな」
キルは満足げにニンマリしている。親父がそんなキルの頭をぽんぽん撫でた。
「んー、日原や安井を根絶やしにしたわけではないから超えてはいないかな。相手の動きを長期的に止めた、という意味ではサニと同等レベルのダメージを与えてはいるけどね。超えてはいないよ」
「なんでだよ。ミスターはサニを贔屓目で見てるんじゃないか?」
キルがむっとむくれる。親父はあははと開き直った。
「そりゃあ贔屓してるさ。大事な妻だからね」
「へ?」
「え?」
俺とキルが親父に注目したのは、ほぼ同時だった。
「親父、今……サニのこと『妻』って言った?」
確認を取ると、親父はこちらに目を向けて両手で口を押さえた。
「あちゃ、口が滑った。まあいっか、伝説のカリスマアサシン霧雨サニは、私の妻、咲夜のお母さんなんだよ」
猫撫で声で言われるには、あまりにも衝撃の大きい事実である。事態が呑み込めなくて、頭の中が宇宙になった。
「えっ……? そんなはず……」
だって、母さんは誰よりも、命あるものを大切にする人だ。
その母さんが、喜んで人を殺す暗殺者であるはずがない。絶対に有り得ない。はずなのに。
「サニはやたらと怪我の治りが早いから、無茶しがちな心配な性格ではあったけどね。それ故にどんな危険な仕事でも、自分ならできると言い切って臨んでくれるから、戦績の良さが他の暗殺者の比じゃないんだよ」
親父が懐かしそうに語る。怪我の治りが早いというのは母さんの体質は、ばあちゃんから聞いていた。遺伝したのか、俺も自然治癒が早い。結びつけたくないのに、その微妙に特殊な能力がどうしても直結する。
「だから残念だったよ。日原の病院に潜入して、相手方に捕まってしまったときは」
親父がテーブルに視線を落とす。キルが戸惑いながらも問うた。
「もしかして、サクの母ちゃんが亡くなってるのって、その病院で敵方に拘束されて殺されたのか?」
「いや、直接の死因はそれじゃない」
「でも、暗殺者として使い物にならなくなってしまったって言ってたよな? なにか毒でも飲まされたんじゃ……」
「違うんだ。暗殺者として働けなくなったのは精神的な問題だ。恐ろしいことに、日原院長の部下たちは、サニを狭い部屋に押し込んで……」
親父は珍しく真剣な面持ちで、慎重に言葉を選んだ。
「感動系ドラマから畜産農家のドキュメンタリー、小学校の道徳の授業で使われるようなアニメ映像まで、延々と鑑賞させたんだ……」
「なっ……なんだって!? そんなの暗殺者には耐えられない拷問だぞ」
キルが真っ青になった。ついでに俺も完全に血の気が引いた。
母さんはその「任務失敗」のときに、心をザブザブ洗われた。だから、俺やまひるに命の尊さを説くようになったというのか……?
「サニは心を入れ替えてしまった。総裁の娘でありながら、最強の暗殺者でありながら、その能力を自ら封じたんだ」
親父が寂しそうにゆっくりとまばたきした。
「でも、記憶が消えたわけではないから、仕事への理解はあった。総裁の仕事にもパパのエージェントの仕事にも、文句は言わなかったよ。ただ自分だけは引退しちゃったんだ。それから更に一年くらい経って、別に関係ないところで病気にかかった。まだ若かったのに亡くなってしまった」
頭が回らないような、考えたくないことだけが支配するような、不思議な感覚に陥った。
母さんが暗殺者。それも、伝説として語られるほどの戦歴を持つ暗殺者。仏壇に置かれた優しい微笑みの写真が脳裏に浮かぶ。あの穏やかな笑顔の女性が、何人ものターゲットの息の根を止めてきた暗殺者……。
だめだ、この世の森羅万象全てのものを信じられなくなりそうだ。
キルも青ざめた顔で、視線を彷徨わせていた。
「なんてことだ。それじゃサクは総裁の孫であり、エージェントとカリスマ暗殺者のサラブレッドだったのか」
キルの声が耳に入ってきてぞっとする。そうだ、俺にもその血が流れている。親父がふふっと笑う。
「そうだね。特にまひるはパパに似て奔放で、咲夜は母さん似なんだよね」
「だからサクは、私の動きに素早く反応できるのか。持って生まれた才能だったのか……。治癒力の高さがすごいって聞いたとき、サニに似た能力持ってるなとは思ったけど……」
キルがわなわなと震える。俺は死んだ目でフライ返しを見つめた。
そういえば、何度か言われたな。「暗殺者向いてるんじゃない?」と。
「い……いや、俺は違う。俺は暗殺者とは違うぞ。善良な市民のひとりだ、俺は」
自らに言い聞かせるように繰り返す。キルがテーブルに頬杖をついた。
「もう諦めろ。善良な市民としての朝見咲夜は、昨日の晩にぶっ壊れたんだよ」
そしてグローブを嵌めた人差し指を立て、ピンッとこちらに向けてくる。
「銃を人に向ける迷いのない目。あれは完全に殺し屋の目だったぜ」
そう言われて、なにか言い返そうとした。でもなにも言葉が出なかった。
日原さんの無事が確保され、本人は何事もなかったかのように平穏な日々に戻っている。ラルが恥ずかしがっているうちは陸も安全。そう、上辺だけはなにも変わらず、全てを守りきったように思えた。
だがキルの言うとおり、俺の中のなにかが壊れたことは自覚していた。
日原さんを守るためなら、キルを殺す。そんな、まるで。
「仕事だから仕方ないじゃないか」と割り切る暗殺者みたいな思考回路だ――。
茫然自失の俺の耳に、キルの呟きが届いてくる。
「なるほどね。私が嫉妬しながらも憧れていたサニの遺伝子を持ってるんなら、私がサクに惹かれてしまうのも無理もなかったんだな」
「えっ? なになに、キルって咲夜のこと、気になってたの?」
親父が急にいつもの調子に戻って、放課後の中学生みたいに食いついた。
「胃袋掴まれてるなとは思ってたけど」
「だから、たった今解決したって。これはミスターが思うような淡い桃色の感情ではなくて、暗殺者としての才能に引力を感じてだな……」
キルがごにょごにょ喋っているけれど、ほうけたままの俺の脳には響いてこない。
肉の焼ける匂いがふわふわ鼻腔を擽る。匂いがダイニングの方まで流れたのか、キルがぴくんと顔を上げた。
「この匂いは!」
ぱあっと目を輝かせたキルを見て、親父がニーッと口角を釣り上げる。
「そうだよね、キルはそれが食べたいために、花火大会で追い詰めた美月ちゃんから手を引くくらいだ。そっかそっか、そんなに咲夜のことが気に入ってたんだなあ」
「違うって言ってんだろ。私はな、サクがどうしても食べさせたいって言うから、あまりにも哀れだったから、仕方なく美月を後回しにしたんだよ! 勘違いしてんじゃねえよ」
「やーん、照れ隠しが乱暴でかわいい」
キルの暴言キャノンにも親父は全く屈しない。やはり暗殺者を遣わせるエージェントは、精神力が違う。
キルがおずおずと、こちらに紅潮させた顔を向けてくる。
「全く……サクも勘違いすんなよな。私は例の案件をクリアしたから、すぐにでも次の依頼に移る。そしたらここから離れる。サクなんてどうでもいいんだからな」
親父に茶化されて怒っているのか照れているのか、フードを手で引っ張って深く被ってしまった。
俺はようやく頭の整理が追いついてきて、顔の見えないキルに言う。
「そうだったな。これでお別れだな」
長かったような短かったような。キルの白いフードを見ているとちょっとだけしんみりしてしまい、俺は目を逸らすようにハンバーグに目線を移した。
だが、親父がきょとんと首を傾げる。
「次の依頼に移る? いやいやキル、君はホー・カードお釈迦にしただろ」
「んっ!」
キルが伏せていた顔を、再びバッと上げた。親父は容赦なく続けた。
「しかも任務は『停止』であって、成功はしてないから。報酬入んないよ」
「マジかよ!? ちょっと、待っ……けほっけほけほっ」
キルが盛大に噎せた。俺も、手に持ったフライパンの蓋を落としそうになった。
「じゃあキルはカードの再発行が完了するまで、残金も使えなくて、復旧しても報酬は入ってないってこと? つまり今、文無し?」
「そうなるねえ。でもほら、咲夜が責任持って甲斐甲斐しくお世話するんでしょ?」
親父は面白そうに、カラカラ笑った。
「ペットは最後まで面倒見ないとね!」
「なっ……」
キルが声を詰まらせた。俺もなにも言えなかった。
ということは、キルはホー・カードの再発行が済んで次の案件が回ってくるまで、引き続きここに住まうことになる。思わず、キルと顔を見合わせた。キルも口をぽかんと開けて、目をまん丸くしている。
解放される……と、思ったのに。
異様な沈黙の中、フライパンから発されるじゅわわーという間抜けな音だけが空間に満ちている。
解放されると思っていたのに、まさか、まだ俺は自宅で暗殺者を飼わなくちゃならないのか。マジかよ、もう懲り懲りだよ……。
そう思う反面、なぜだろう。心のどこかの片隅の、ほんの欠片の欠片くらいでは、ちょっとだけほっとしている自分がいた。そんな自分を殴りたくなる。
「およよよよ……満更でもないって顔だねえ」
親父がニヤニヤと俺たちを交互に見る。我に返って、俺は親父を睨みつけた。
「なに言ってんだよ! 親父がエージェントなら、親父がこいつの面倒見ろよ」
「それはエージェントの仕事の範疇じゃありましぇん! 飼い主のつとめですーう!」
親父はいたずらっ子なガキみたいにキャッキャとひとりで盛り上がって、上機嫌でダイニングから立ち去った。
親父がいなくなって、俺とキルだけが取り残される。
「……ま、そういうことだ」
キルは急に開き直った。
「私としてはありがたいね。まひるへの恩返しがまだ中途半端だし、これから味方につけたいりっくんとも接近できる。ミスターや総裁が近くにいる安心感もある」
それから、フライパンから漂ってくる香ばしい匂いに、ニヘッと頬を赤くする。
「ついでにおいしいご飯も食べられるしな!」
「ついでにって……俺の唯一の取り柄を」
まあでも、その嬉しそうな顔は、案外嫌いじゃない。
「よーし! 依頼人から再び美月暗殺のGOサインが出るまで、じっくり作戦練ってやるぜ。次こそ殺すぞ、日原美月!」
キルが元気よく両手を上げた。俺はその鮮やかな笑顔にカッとフライ返しを向ける。
「させるか! 絶対殺させねえからな!」
「よく言うぜ、サクはもう立派な『こっち側』の人間なんだよ」
「違う! 一緒にすんな!」
そこへ、ピンポーンとインターホンの元気な音色が重なった。
「コンバンチャース! お届け物でぃーす!」
聞き覚えのある声である。フクロウが抱き込んでいる、運送業者のものだ。
「あっ、来た。頼んでたブツが届いたようだ」
キルが部屋から逃げ出すように玄関へ飛び出す。なんだあいつ、また危険な物でも取り寄せたのか。金がないくせに余計なことを。警戒しながらしばらく待つと、キルはなにやらダンボールを抱えて戻ってきた。
「サク、これお前にやるよ!」
ダンボールをキッチンまで運んできて、俺に差し出してくる。俺はまだ当惑気味だったが、とりあえずフライ返しをフライパンに立てかけて、そのダンボールを受け取った。やけに軽い。ガムテープを剥がし、開けてみる。
「ん? なんだこれ」
箱の中には、淡い茶色地に立ち耳の白い犬の模様がプリントされた布が詰まっていた。引っ張り出してみると、枕にしたらちょうどいいくらいの大きさの、丸いクッションだった。ふかふかの生地に手指が沈む。もっちりした感触で、手触りが気持ちいい。
「ほら……美月が勉強会に来る前、リビングに火薬を仕掛けまくっただろ。そのときソファに乗ってたクッションを爆破しちゃったからさ。一応その、お詫びっていうか。カードが割れる前に、ツケで作ってもらったんだ」
キルがもじもじと床を見つめた。
「ちょうどよかったよ。なんていうか、えっと……これからも、よろしくね」
俺はその、犬耳フードの頭を見下ろして、ちょっとくすっと笑った。
なんだよ、かわいいとこあるじゃないか。
そう思った直後だった。
「そのクッション、中に薄くて軽いのになにも貫通しない超合金の板が入ってるから。私のナイフが飛んできたら、それで防御してくれ」
「これからもナイフが飛び交う前提なのかよ!」
クッションを支える手に力が入って指がめり込む。奥にたしかに、固い金属の感触が隠れていた。
やっぱり、暗殺者なんて飼うもんじゃない……。こんなにペットに向かないものはない。
そんな当たり前のことを思い知った、高校二年の夏だった。
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