15.いっそぶっ壊していこうぜ。

 日が落ちるのが遅いこの時期だけれど、六時を回ると空の色がほんのり薄暗くなっていた。橋に近づくにつれて、ひとけが多くなって屋台が増えはじめる。

 日原さんが子供みたいにはしゃぐ。


「すごい、こんなに屋台が並ぶんだね。やっぱり家にいるよりずっと楽しい」


 暗殺者の存在は気になる。でも、こうしてきらきらと喜ぶ日原さんを見ていると、やはり来てもらってよかったなと思ってしまう。


 今のところは、キルより俺の方がリードしている。キルは食べ物に意識が逸れているし、陸が日原さんとラルを見守ってくれているからだ。キルがある程度腹を満たしてしまってからが勝負だろう。

 今のうちにポーチを奪ってしまおうと隙を窺っているのだが、キルがひょこひょこ動き回るためなかなか手が届かない。


「焼きそばのお店あった!」


 まひるが甲高い声を上げて、人だかりの中に飛び込んでいく。俺は慌ててまひるのポシェットを掴んだ。


「こらこら、迷子になるから勝手に行かない」


 まひるとキルは背が小さいせいで、人混みに混ざるとすぐに見失いそうになる。


「もしはぐれたら、橋の袂の神社で待ち合わせしよう。知らない人について行っちゃだめだからな」


「うん!」


 まひると約束していると、陸が苦笑した。


「咲夜のスマホ壊れてるもんな」


 そんな陸の横にいたラルが、そっとこちらに寄ってきて、耳打ちしてくる。


「ただし、私と陸ちゃんがふたりで消えたら、捜さないでね。野暮は厳禁よ」


 ぞっと背筋が凍った。だがここで死ぬ気で捜すぞなどと言ったところでラルはやめないので、黙って睨んでおいた。


「じゃ、焼きそば買ってくるよ。混んでるからまとめて買う。欲しい人は挙手」


 自分も手を上げながら言ったら、見事に全員手を上げた。六名分を買いに並ぶが、キルだけはこちらに引き寄せた。


「焼きそば六パックも持ちきれないから、手伝って」


「仕方ないな」


 キルから目を離さないためなのだが、焼きそばの匂いに浮き立つキルは、素直に一緒に並んだ。

 ちらと振り向くと、俺がいなくなった隙にラルが陸により接近している。腕に絡みついて、陸を戸惑わせていた。日原さんはまひると話していてそちらを見ていない。このままでは先程陸が呟いたとおり、はぐれたふりをしてラルが陸を連れ出してしまうかもしれない。こちらも全く油断できない。


「まひる! 陸とはぐれないように陸の鞄でも掴んでなよ!」


 列からまひるに向かって叫ぶ。まひるは素直に陸にひっついた。阻止されたラルが、つまらなそうに俺を睨んでいる。その様子を横目に、キルが呟く。


「ファインプレーだな」


 俺も我ながら上手くやっているなと思う。上辺では遊んでいるふりをして、内心全く穏やかでない。自分にだけ異常な緊張感が常に走っていて、既に疲れはじめていた。

 焼きそばの列を進み、自分の番が来た。人数分を買って、半分キルに持たせようとしたときだった。

 隣にいたはずのキルがいない。


「あれ? キル!?」


 しまった。食べ物を与える前は大人しいだろうと、油断してしまった。気を抜いたつもりはなかったが、相手はプロの暗殺者だ、俺の一瞬の隙だって見逃さない。

 焼きそばをひとりで六つ抱えて、人混みをかき分けた。一刻も早く日原さんの元に戻らなくては。一際背の高い陸が目印になるのでそれを頼りに、犇めく人の間を縫った。


「あっ、朝見くん戻ってきた。焼きそばありがとう!」


 日原さんの高い声が聞こえてきて、ほっと胸をなで下ろす。橋の袂の芝の上で、土手の柵に寄りかかる友人たちが見える。陸とラルもいるし、こちらも無事なようだ。


「キルちゃんは?」


 日原さんが真っ先に気がつく。君を殺すために行方を眩ませたんだ、と言いかけて呑み込む。


「見失った。大丈夫、あいつ変な格好してるから目立つし、すぐに見つかるよ」


 キルが現れはじめたばかりの頃、学校で日原さんを狙っていたときを思い出した。どこにいるか全く分からない状態で、突然奇襲をかけてくる……その状況に近いものがある。ただ今回は学校という空間ではなく、野外の、しかも人が多すぎて却って身を隠せるというキルにとって好都合な現場だ。こんな中であの上着の力で姿を消されたら、見つけられる気がしない。

 絶対に、日原さんから離れるわけにはいかない。


 気がついたら、かなり日が落ちて空が暗くなっていた。花火の打ち上げ開始を伝えるアナウンスがかかっているが、ざわめきで殆ど聞こえない。


「でもキルちゃんまだ小さいんだし、捜さないと」


 自分が狙われているとも知らず、日原さんが本気で心配している。本当に危ないのは日原さんの方なのに、彼女は純粋だ。


「キルに電話かけてみようか?」


 陸がスマホを取り出した。そうだった、陸はキルの通信機の番号を知っている。しかし見ていたラルが、先にわざとらしくスマホを耳に当てた。


「もしもしキル? どこにいるの? あ、友達と合流したのね! その子たちと遊ぶの? 分かった、伝えておくわ」


 スマホを下ろし、こちらに向き直る。


「友達と回るから気にしないでって言ってたわ。水差しちゃ悪いから、ほっといてあげましょ」


「と、友達?」


 俺が繰り返すと、ラルは頷いてからスッとこちらに近寄ってきた。俺の手から焼きそばを引き取りながら、耳元に唇を寄せてくる。


「騙されやすいのね、咲夜くん。私はキルに自由行動させるために、手助けしてあげたのよ」


 俺にだけに聞こえるくらいの声量で、ぼそっと囁いてきた。ラルはキルの味方なので、電話をかけたふりをして、キルにとって都合がいい嘘をついたのだ。


「キルが満足いくまで食べてから攻撃に移ると思った? 甘いわよ。お預け状態で仕事に臨んだ方が、ベストを尽くせるに決まってるでしょ?」


 やられた。絶対にキルから目を離さないと、誓ったつもりだったのに。

 日原さんが素直に微笑む。


「そっか、お友達と合流したんなら安心だね。花火どころじゃないって思っちゃったよ」


 君に関しては花火どころじゃないぞ、と本音が出かかった。が、言葉にする前に、ヒュルルルと腑抜けた音がした。ドン、と胸を殴るような音が空から響いてくる。同時に、日原さんの顔がパッと照らされた。わあ、という歓声があちこちから上がる。明るく光った彼女の顔が、夜空の方を振り向いた。


「見て、一つ打ち上がった!」


 一瞬、暗殺者のことなんか忘れた。

 ドン、パラパラ、と、光の粉が弾ける。俺もその大輪に目を奪われた。まだ明るさが残る空に、それでも色がはっきり分かるほどの炎が破裂する。

 まひるが初めて見たかのように目を輝かせた。


「すごいすごい、きれい!」


「おおー、すげえ」


 陸も感想を呟く。割り箸で焼きそばを掴んだまま、ぼんやり空を見上げていた。ラルですら驚いた顔をして、空中に目を向けている。


 ドン、とまた赤い火花が打ち上がる。光を宿す日原さんの瞳がきれいで、また息が止まった。

 直視できなくて、手元の焼きそばに視線を落とす。パックからはみ出した無骨な姿を見ていても、まだ動悸がする。キルの分だった焼きそばは、袋にくるんだまま鞄に突っ込んだ。自分の分のパックの、蓋を止めてある輪ゴムを外す。バンッと、自動的に全開まで開いた。口に割り箸を咥えて割った、そのときだった。


 ペラペラのプラスチックの蓋に、プスッと小さな刃が刺さった。

 ヒヤリ、背中が寒くなる。カッターの刃を折ったものみたいな、小指の爪ほどの刃だ。斜め上からものすごい速度で降ってきた。今この焼きそばの蓋が開いていなかったら、日原さんの首筋に突き刺さっていた……そんな軌道に乗っていた。


 刃の飛んできた空中を見上げる。人混みがあり、屋台があり、更にその上だ。橋の天井に、白い影が見える。暗闇の中にぼんやりと、犬のような耳が白く浮かんでいるのだ。

 複雑に組まれた橋の柱同士の間に上手く収まって、拳銃型の武器を手に握っている。あんなところ、どうやってのぼったんだ。


「お兄ちゃん、花火そっちじゃないよ!」


 まひるがシャツを引っ張ってくる。ドン、とまた花火の音がした。橋の高いところにいるキルの影が、カラフルに反射する。

 俺に気づかれたと、キルも分かったのだろう。ひらひらと手を振って挨拶してきて、それからまた容赦なく武器を向けてきた。向こうは俺に気づかれていると自覚している。こちらがガードしてくるのを視野に入れた上で、攻撃してくるだろう。どう防御しても、キルの計算どおりになってしまう気さえした。

 俺は咄嗟に、開けた焼きそばをキルの方に向かって突き出した。近くにいた花火の見物客が怪訝な顔をする。陸が振り向いて不思議そうに問う。


「どした?」


「思ったより熱くて……」


 適当に誤魔化しながらも、俺はしっかりキルを見据えていた。焼きそばを目にしたキルが、妙な銃器を引っ込めたのを見逃さなかった。俺はキルから目を離さず、背後で花火を眺める陸をつつく。


「ちょっとスマホ借りていいか? キルに電話する」


「ん? いいよ」


 兄弟みたいに気の知れた陸は、あっさりスマホを貸してくれた。画面は既にキルの通信機の番号を開いている。発信ボタンをタップして、キルに直接コンタクトをとった。

 橋の高いところでこちらを見ていたキルは、すぐに反応した。


「もしもし。なんの用だ」


「交渉だ」


 俺は周囲のざわめきに紛れるように、声を潜めた。


「日原さんを殺してから屋台の食べ物を楽しむつもりなんだろうけどな……考えてみろ、屋台でカード払いが利くと思うか?」


「うあ!」


 自分の所持金の状況に今更気づいたキルは、間抜けな悲鳴を上げた。俺は引き続き、緊迫した声色で脅した。


「日原さんを殺さなければ、俺がこの焼きそばでも隣のたこ焼きでもそこのポテトでもなんでも買ってやる。だが殺したりしたら、なににもありつけないと思え」


「汚いぞ!」


「お前の方が汚いよ。コソコソしやがって」


 ドン、ドンと、花火が連続で打ち上がる。周りの見物客が歓声を上げる。まひるの声も混じっていた。俺は花火と逆の方向にいるキルばかり見ていた。音と、キルに反射する色だけは分かる。


「おいしい屋台飯をお腹いっぱい食べたかったら、日原さん殺害を諦めろ」


 改めて交渉を持ちかける。キルはふっと笑った。


「いつもいつも、サクは私の邪魔ばかりする。そうやって惑わしたり、直接妨害したり。でもな、私には他に道はないんだよ。美月の暗殺だけは、外せないんだ」


「キルの存在価値は、暗殺の出来不出来で決まるわけじゃない」


「好きで殺してるんだ。……って、お前が言わせようとしたんだろ?」


 俺が「好きで料理を作っている」と言ったのを引用してきた。キルの変なスイッチを押してしまった言葉だ。


「違う。そうじゃない!」


「はい交渉決裂ー! 即行殺して、花火大会が終わる前に一旦ミスターの所に戻って、お小遣いもらって出直してやるー!」


 キルは悪知恵を働かせた。暗殺を止めさせるどころか、却って手早く殺す目標を掲げさせてしまった。


「あばよ美月!」


 電話を通して聞こえてくるキルの声は、明るく高揚していた。橋の上にいる白い暗殺者が、スチャッと銃器を構える。俺は即座に、日原さんを庇おうと彼女の背に自分の背を寄せた。トンと背中に彼女の帯が当たる。日原さんの声がすぐ耳元で聞こえた。


「ねえ朝見くん、花火見ないの?」


 キルから目を離せない。スマホからブツンと、通信が途絶えた音がした。なにも知らない日原さんが尋ねてくる。


「花火そっちじゃないよ?」


「見てる見てる」


 雑に返事をしながら、より日原さんを自分の影に入れるべく背中を寄せた。

 土手の柵に肘を乗せて背伸びしていたまひるが、焼きそばのパックをカラにする。


「食べ終わった! お兄ちゃん、次はリンゴ飴食べたい!」


 傍にいた他の見物客たちも各々がぱらぱらと移動をはじめる。最初の花火を見て一段落した人々が、再び祭りの屋台を見に歩きはじめたのだ。人混みが流れていく。


「リンゴ飴の屋台、さっき見かけたよ。行こうか」


 日原さんの声が耳元で聞こえる。彼女に動きがある度に、キルが銃の角度を変える。俺はヒヤヒヤしてキルから目を離せない。まひるの声が弾む。


「リンゴ飴、リンゴ飴! チョコバナナも食べるの」


「あっ、こらこら。ひとりで行っちゃだめだよー」


 楽しそうな日原さんの声がして、背中に触れていた体温がふっと遠のいた。ちらと目だけ向けると、人混みの中に呑み込まれて流されていくまひると、追いかける日原さんの帯が見えた。

 日原さんに逃げられたキルが、パシッと刃を飛ばしてきた。日原さんを庇いに駆けつけたかったが人混みで思うように動けない。焦った俺の前を、陸が遮る。


「スマホ、もういい? 俺も焼きとうもろこし買いに行ってくる。咲夜も食べる?」


 俺からスマホを取り返して、悠長に尋ねてくる。俺は全身が凍ったみたいに声が出せなかった。今、キルの飛ばした刃が向かってくる先に陸が立った。こいつに刺さっていても不思議ではない。

 しかしよく見たら陸が手に持っていた団扇に、キルの刃は突き刺さっていた。こいつはこいつで、なんてディフェンス力だ。今のはわざとなんじゃないかと思うようなタイミングだった。キルも「してやられた」と言わんばかりの顔で固まっている。


 隣にいたラルは刃の存在に気づいたらしい。俺に目配せして半笑いを浮かべながら、そっとその刃を抜き取っていた。俺は衝撃を堪えながら、ようやく陸に返事をする。


「あっ……とうもろこしはいいや……」


 すると狙ったかのように、ラルが陸に擦り寄った。


「じゃ、私たちだけで行こ!」


 言うやいなや、ラルは陸の腕を引っ張って人混みの中に紛れ込んでいった。しまった、あのふたりを放してしまったらラルの思う壷だ。しかしそちらに気を取られているうちに、まひると日原さんがどんどん遠くなっていく。橋の上にいたキルも、一旦銃をしまって追いかけはじめた。


 ドン、とまた花火が打ち上がった。音が心臓に直接響いてくる。焦燥で血の気が引いていく。

 落ち着け、ラルは陸を殺しはしない。利用する目的で近づいているだけだ。キルが日原さんの命を狙っている方が重い。


「日原さん! まひる!」


 名前を呼んで、ふたりの方へと駆け出す。花火のために集まっている人々の隙間に体をねじ込んで、荒波に呑まれるように日原さんの帯を追いかけた。

 いつの間に劣勢になっていたのだろう。このまま俺は日原さんを見失って、キルが日原さんを仕留めてしまうのか。こんな人混みの中で、誰がなにをしたのか分からないような状況の中で、ただ楽しみに来ているだけの日原さんは訳も分からず殺されるのか。

 そうなったら、知っていて連れてきた俺のせいじゃないか。


 他人の背中や肩にぶつかりながら、歯を食いしばる。日原さん、と、もう一度呼ぼうとしたときだった。


「おい。なんつー顔してんの」


 突然、襟首を掴まれた。どきんと心臓が跳ね上がる。振り向いて、もう一度心臓が飛び出しそうになった。


「古賀先生!?」


 くしゃくしゃの癖っ毛に眼鏡、ウサギのシャツ。一時的に、俺の中で全てが吹っ飛んだ。


「生きてたんですね! ……じゃなくて、なんでここに」


「本当に迷惑したよ。カード使えなくて、手持ちの現金カツカツで……洋ちゃんに借金しながら再発行完了を待ってるとこ」


「よかったです。あ、あの俺、今急いでるので」


 日原さんを追いかけなくては。ばたばたもがいたが、先生は襟首を握ったまま離してくれない。むしろ引きずって、射的の屋台の裏に連れ込んだ。射的の景品を並べた棚の裏には、向こう側の雑踏から殆ど遮断された空間があった。


「この人混みの中で君を見つけたっていうのが、どういうことか分かるか?」


 テンションの変わらない淡々とした声が、雑踏の中にしっとり沈む。俺はもがくのをやめた。肉食動物に見つかったウサギって、多分こんな気持ちだ。


「カードを割られた私怨で、殺意が止まらないんだよねえ」


 カチャッと、こめかみに冷たいものが触れた。それが黒くてずっしりした、拳銃であると気づく。背中につうっと、変な汗が流れた。


「大人しくしてはいるけど、情報は集めてるからさ。今夜、君が美月ちゃんを連れてここに来ると、学校の女子生徒たちが話してるのを内通者から聞いてたんだ」


 たしかに学校の女子たちは、俺と日原さんが一緒にここに来ると噂していた。学校内に内通者がいるというのなら、それが古賀先生に洩れていてもなにも不思議はない。古賀先生が銃口を俺の頭に押し付ける。


「俺、お祭り騒ぎ嫌いなんだけどなあ。わざわざこのために来てしまったよ」


 日原さんの命を守ること、それが俺の役目のはずだった。だがこの状況はどちらかというと、まず自分の命を守らなくてはならない。


「身分証、ないんですよね? 今ここで俺を殺したら、手続きが面倒になるんじゃないですか?」


 恐る恐る、小声で制する。先生はふふっと笑った。


「そうだね」


「じゃ、この銃……」


「この射的の屋台のオヤジと友達だから、借りて遊んでるだけ」


 たしかに連れ込まれたのは射的の屋台の裏である。柄の悪そうなスキンヘッドのおじさんが、景品のウサギのぬいぐるみを子供を手渡しているのがちらっと見えた。俺はほっと安堵のため息を洩らした。


「じゃ、それおもちゃの銃なんですね」


「いや? この射的屋のオヤジはこの辺の組の一員でね。あいつのところの組長が他の組織に狙われてたんだけど、あの人の依頼でその敵方を俺が暗殺した。そういう経緯があって、こうやって本物貸してくれるんだよ」


「え、結局本物なんですか?」


「うん」


 あっさり頷かれて、声が詰まった。言われてみれば、射的屋台のおもちゃの銃とは形が違う。目を回す俺の腕を、先生がぐいと引っ張る。今度こそ殺されるかと思ったら、先生は手に持っていた銃を俺の手に押し付けてきた。


「これで生島キルを殺せ」


「へっ?」


 俺は素っ頓狂な声を出した。先生は襟首を掴んだまま命令する。


「俺の目的は美月ちゃん暗殺を止めることだ。そこは君と変わらない。でも今の俺には暗殺者としての身分を証明できるものがない。君が代わりに、その銃であのしゃらくせえ暗殺者を殺してくれ」


 本物の銃を直に手で触れたのは、初めてかもしれない。重くて冷たくて、手が震える。


「一般人である朝見くんが人を殺したとなって問題になれば、父親のミスター右崎もただじゃ済まされないし……お、つい本音が出てしまった。今のは聞き流して」


 先生がわざとらしく笑う。花火の音が連続して空をぶち抜いている。子供の歓声が聞こえてくる。屋台の向こうの平和な光景が、やけに遠く感じる。


「とにかく、キルちゃんを制するのに丸腰というのはあまりにも無謀だよ。だからね、貸してあげる」


 正直、俺もそう思った。あんなに身軽に動いて、どこから来るかも分からない奴が、訳の分からない武器を用いてくる。なんの能力もない俺に対抗できるわけがないと。遠くから日原さんに狙いを定めるキルを先に撃ち落とせたら、日原さんの安全は確保できる。


「……素人でも当てられるものなんですか?」


 尋ねる声は震えていた。先生は微笑みながら首を捻った。


「簡単には当たらないさ。ま、最低限関係ない人を撃っちゃわなければセーフだよ」


 手の中で銃が鎮座する。これさえあれば、少しはキルの動きを制限できる。頭のどこかではそんなことを考えてしまっていたが、感情が追いつかない。


「やっぱり、だめです。要りません」


 俺は銃を先生に突き返した。先生はへえ、と試すように笑った。


「なんで?」


「殺すための道具は、持ちたくないから……です」


 返事は、たどたどしくなった。


「死んだ母に言われてるんです。命あるものを大切にしなさいって。相手は暗殺者でも、俺の大事な人の命を狙っていても、それでも殺す理由にはならない」


 だってキルは、キルだ。

 あいつは暗殺者だし疎ましい存在ではある。だが、だからといって、こんなものを向けてやりたくはない。

 先生はまるで心理テストのこたえを言う直前みたいな、いたずらな笑みを浮かべた。


「これがエージェントミスター右崎の息子だなんて、笑っちゃうね」


「どんなに不利でも、その荒い手段だけは取りません」


「その人の良さが、命取りになるんだよ?」


 先生は、あくまで冗談を言うみたいな微笑に乗せて言った。


「信念というのは自分の軸になるものだ。君が正しいと思うものを信じてるのは、間違ってない。だが、時にそれは足枷にもなる」


 少しだけ、ぐらっときた。日原さんを本当に守りたいと思ったら、キルとの攻防はお遊びではすまされない。


「例えば、君が人を殺したとして……それでも父親があの子煩悩でエージェントの右崎なのなら、揉み消してくれそうじゃないか」


 実際親父は、キルが暗殺者になる前の人殺しを揉み消している……と、キルから聞いた気がする。


「『いい人』でいることと、日原美月を守ること、どっちが大事?」


 ドン、と花火の音が空気を振動させる。

 俺のお人好しは、自分を守るための殻に過ぎないのか。悪い人になってでも、日原さんを助けるためにキルを殺せと、先生はそう言いたいのだろうか。

 銃の乗った手が、汗で濡れていく。


「……分かりました……」


 は、と息を吸い直して、俺は震える手で銃の体を握った。

 その瞬間だった。先生は突然、掴んでいた襟首を放して背中を突き飛ばした。俺の手から銃を抜き取り、斜め右上に向けた。ドン、という花火の音に共鳴して銃声が響く。何事かと俺はよろめきながら銃口の方向を見上げた。発砲された辺りには見慣れた白い影。

 屋台の骨組みを器用に渡り歩く、キルの姿があった。

 白い外套を翻して銃弾を躱し、回転しながら落下してくる。そして俺の頭を蹴り飛ばして軌道を変え、ナイフで先生の首筋を攫おうとした。先生はあらかじめ動きを読んで、後ろに一歩下がって避けた。キルがスタッと着地する。


「またサクに絡んでやがったか。大人しくしててくれないか。私は今、美月に集中したいんだ」


 キルがギロリと先生を睨む。先生はあははと笑った。


「美月ちゃんに集中したいのに、朝見くんが俺に絡まれてると、こうやって助けに来るんだね」


 それから眼鏡のブリッジを指で押し上げ、楽しげに言った。


「計算どおりだった。こうやって君をおびき寄せたかったんだよ」


「うるせえ殺すぞ」


 キルが直球な暴言で吠える。だが花火の大きな爆発音にかき消された。

 俺はかくんと膝を折った。屋台のすぐ向こうではたくさんの市民が祭りを楽しんでいるのに、一歩裏側では暗殺者同士の睨み合いが火花を散らしている。この異様な境界線を越えてしまった俺は、言いようのない憔悴で腰が砕けそうだった。

 キルがナイフで先生を切りつけに突っ込んでくる。先生は銃を再び俺に持たせて、自分は後ろに飛び、屋台の表側に転がり込んだ。


「朝見くん、折角おびき寄せてやったんだからその犬コロ捕まえとけよー。俺は帰るね! じゃ、右崎によろしく!」


 身分証を持たない先生はやりすぎることができず、身軽に人の波の中に飛び込んでいった。キルがチッと舌打ちする。


「とりあえず追い払ったからいいけど……美月を見失ったじゃねえか」


 屋台の表側を流れる人々を、キルが気だるげに睨む。


「この中から捜すのしんどいな。リンゴ飴の屋台を見つければ近くにいるか」


 日原さんの追跡に戻ろうとした彼女を前に、銃のグリップを握った俺の指はピクッと疼いた。そろりと腕を上げ、銃のマガジンに左手を添える。

 キルがこちらを振り向いて、少し目を丸くした。


「おお……似合わないな」


 銃口を向けられているというのに、彼女は落ち着いてそう言った。


「いい子ちゃん、使い方分かるか?」


 逃げようとするでも、対抗する武器を持ち出すでもなく、俺を煽ってくる。こちらは真剣な目で、彼女を見据えた。


「分かるよ。助けに来てくれた恩を仇で返すようで悪いんだけど……これ以上、日原さんを追い回すっていうのなら、この引き金を引く」


「やってみ。当てられたら褒めてやるよ」


「この距離なら当たる」


 一つの屋台の裏側なのだ。屋台の横幅に収まってしまう距離感で、外すことはない。きっと、表の射的ゲームより容易いはずだ。

 こんなに恵まれている環境はない。人が大勢いるから大混乱にはなってしまいそうだけれど、俺に武器があり、すぐに殺せる距離にキルがいる。先生の言うとおり、ここでキルを殺す……とまでいかないにしても、怪我を負わせて足止めすれば安心は得られるのだ。

 分かっているのに、手が震えて、引き金に添えた指が動かない。


「どうした。怖気付いたか」


 キルがニヤリと笑う。俺に自分を撃てないことを分かっている。ドン、ドンと花火の音が空気を震わせている。無邪気な歓声が聞こえてきて、心臓の辺りがヒリヒリした。

 キルの顔が、花火の逆光で陰った。


「サクに私を撃つなんてできない。お前には、こっち側に来る覚悟なんかないからだ!」


 フードの影が落ちた中で瞳だけがキラッと光って、背すじが冷たくなる。急に銃が重くなって、かくんと腕が垂れた。

 そうだ。俺には覚悟なんかない。母さんに言われたように真面目な人間でいたいとか、日原さんを守るためには仕方ないとか、そういう葛藤以前に、俺に人を殺す覚悟なんかないのである。


「じゃあな! 私は引き続き、美月を追いかける」


 キルは立ち去ろうとしたが、ふと足を止めた。


「なんかお前、いい匂いするな」


 テクテク歩いてきて、俺の匂いを嗅ぐ。なにを言ってるのかと思ったが、思い当たる節があった。


「さっき買った焼きそばか?」


「それだ。銃の火薬の匂いが混じって、余計香ばしい匂いになってる」


 たしかに、程よく焦げ臭くて食欲をそそる匂いである。

 暗殺者のキルから食いしん坊のキルに切り替わった。俺は鞄の中に入れておいた焼きそばを取り出して、彼女の方へ向けた。


「早く食べないと冷めちゃうな。これ、食べてから動いたら?」


「うっ……」


 途端にキルの顔色が変わった。今までの勝ち誇った態度はどこへやら、いきなり余裕を失った。


「お前さ、銃向けられても揺らがないのに、食べ物向けられると一気に動揺するんだな……」


 呆れた俺にキルは複雑そうに眉を寄せ、悩み、やがてこちらに手を差し出してきた。


「頂戴」


 よし。内心、拳を握りしめた。これで時間稼ぎができる。キルが焼きそばに夢中になっている隙に、尻尾ポーチを奪おう。そうすればキルは日原さんを狙うより先に俺を捕まえなければならなくなる。

 焼きそばをキルに渡し、腰のポーチにそっと手を伸ばす。しかしポーチはスッと、俺の手をすり抜けた。


「食べながら美月を捜す!」


 キルは焼きそばを持って、ダッと人混みの中に溶け込んでいったのだ。ポーチも当然、彼女の腰にぶら下がったままだ。

 俺はしばらく愕然としていたが、数秒で我に返ってキルを追いかけた。


「待て! 食べながら歩くのはやめろ!」


 折角接近できたキルを、再び野放しにしてしまった。なんなら今度は、餌だった焼きそばまで取られてしまった始末である。咄嗟に、手に持っていた本物の銃を鞄に突っ込んだ。

 ごちゃつく土手の人波の中に、白いコートがたなびいている。周りの人々は不思議な外見の少女に驚いて少し道を開けた。俺はその後ろ姿を全力で追いかけた。


「危ないからやめなさい! 割り箸が喉に刺さったらどうするんだ!」


「さっきまで銃口向けてきてた奴がなんの心配してんだよ! このお人好し!」


 キルが怒鳴り返しながら、タタタッと人と人の間を駆け抜ける。まひるが食べたがっていた屋台フードののぼりを見つけては、行列の中にまひると日原さんがいないか探る。俺もキルより先に日原さんを見つけようと、キョロキョロしながらキルの後を追っていた。


 こんなことをしているうちに陸はどんどんラルに取り込まれているのではないか。最悪、ラルが陸を利用して既に日原さんを殺しているとか。そんな嫌な発想を振り払う。そうだったら、とっくにキルの通信機にラルから連絡が入っているはずだ。

 その時、耳に慣れた声が響いてきた。


「朝見くん!」


 凛と澄んだ声に、思考回路が千切れたような感覚がした。

 振り向くと、白い浴衣をふわふわさせる日原さんの姿があった。二、三メートル程の後ろで、キルのお陰で空いた土手の道で手を振っている。よかった、見つけた。安堵と同時に、彼女の声がキルにも聞こえてしまったことにまた焦り出す。

 ちらと目だけキルの方を向く。キルはチャッとニードルガンを構えた。この人混みの中で日原さんを狙い撃つつもりなのか。俺はニードルガンから日原さんを遮るように立ちはだかって、日原さんの方へ向かった。


「日原さん危ない! 離れるぞ」


「え、なに!?」


 戸惑う彼女の背中を攫って、キルから逃げ出す。


「待って朝見くん、危ないってなにが!?」


 俺に引っ張られて一緒に走りながら、日原さんが目を白黒させる。俺はとにかくキルから距離をとるために必死で土手の人混みをかき分けた。


「キルが日原さんを毒針で狙ってる。あいつの射程距離から離れて、河川敷に出る。あいつの隠れる場所がない、ひらけた芝生に逃げよう!」


「待って、キルちゃんは友達と合流して遊んでるんじゃなかったの?」


「それはラルの嘘の供述だ。キルはずっと日原さんを狙ってた」


「狙ってたって? キルちゃんが暗殺者ごっこが好きなのは分かってたけど、まだ続けてたの?」


「ごっこじゃないんだよ!」


 もう、濁すのはやめた。


「あいつは正真正銘本物の暗殺者だ。日原さんを取り巻く環境が原因で、日原さんの暗殺を依頼されてる」


「朝見くん? なに言ってるの?」


 日原さんはまだ狼狽している。俺はそれでも構わず続けた。


「最初から、ごっこじゃないって言っただろ。最初からキルは、日原さんを狙う暗殺者。俺は暗殺者を匿ってたんだ!」


 俺はいい人でもお人好しでもない。

 陸や日原さんに、遊びではなくて本当に暗殺者なのだとしっかり伝えなかったのは、暗殺者を家に置いている人間だと思われたくなかったからだ。キルが暗殺者であると知りながら受け入れていたのは、見張っているつもりだったから。そのつもりだったけれど、憎めないあいつに心を許してしまっていたのは紛れもない事実だ。

 それらをそうやって全部曖昧にしてきたのは、多分、俺がただの狡い人間だからなのだ。


 日原さんは雑踏の中を駆けながら、大きな瞳をぱちくりさせた。


「暗殺者って……そんなバカな」


 苦笑して流そうとしてから、俺の顔色を窺う。俺はなにも言わなかった。日原さんはもう一度、まばたきをした。


「……本当なの?」


「じゃなきゃ今こんなに慌ててない!」


 日原さん相手に怒鳴るような口調になってしまう。日原さんはびくっと肩を縮こませ、目を伏せた。数秒の沈黙ののち、日原さんが頷く。


「分かった! そんなことより朝見くん、大変なの」


「そんなことより!?」


 思わず、彼女のきれいな顔面を振り向いた。


「自分の命が暗殺者に狙われていると言われたんだよ? それを『そんなこと』と言ってのける?」


「その話は後で聞く。それより大事なことがあるの」


 日原さんは真剣な顔で俺を見据えた。


「まひるちゃんとはぐれた!」


「え、あっ!」


 言われて気がついた。日原さんと行動を共にしていたはずのまひるがいない。


「嘘だろ……こんな中で迷子になるなんて、あいつ、今頃泣いてるんじゃないか」


「ごめん、私が目を離しちゃったから……」


 日原さんが謝ってくるのを、俺は首を横に振って制した。


「まひるの面倒見るのは俺の役目なんだから、日原さんは悪くない。むしろ任せちゃって申し訳なかった」


「はぐれたときの集合場所は、橋の袂の神社って言ってたよね。まひるちゃん、神社に行くんじゃないかな」


 日原さんは、おろおろする俺よりずっと落ち着いていた。


「河川敷より神社に行こう。私、自分より今、まひるちゃんがひとりぼっちで不安でいる方が我慢できない!」


 信じられない。暗殺者に狙われる自分の命より迷子のまひるの方が大事だなんて、こんなことをこの状況下で言える人、この人以外にいるのだろうか。


「行くよ、朝見くん!」


 真っ直ぐな瞳で神社の方向を目指す彼女に、俺の気持ちも流されてしまった。キルは俺たちを見失ったのか、振り向いても近くには見当たらなかった。


 *


 土手の外れにある古びた神社は、隠れた休憩スポットである。手入れがされていない汚らしい神社で、周りの木々が鬱蒼としていて薄暗い。お陰で人が寄り付かないのだ。

 俺と日原さんは苔むした鳥居を抜けて、石畳の地面を踏んでいた。賽銭箱の手前に短い石段がある。走り疲れて息を荒らげる日原さんを、その石段に座らせた。


「まひるちゃん、いないね」


 日原さんが息切れしながら言う。着慣れない浴衣で走ったせいだ、襟の辺りや腰から下がちょっとだけ着崩れて、髪もくしゃっと歪んでいた。


「まひるどころか、誰もいないな」


「いないけど、ここで待ってたら来るかな」


「うん、自分が迷子になってると気づけば来ると思う。ちょっと休もう。話したいこともあるし……」


 ひゅるるる、ドンと、空中で火花の割れる音がする。日原さんが石段から空を見上げた。俺もその目線を追った。赤い炎の粒が弾けて、金色に変わりながら消えていく。日原さんが、柔らかな声で感嘆した。


「ここ、なかなかの穴場スポットだね。人混みから外れて、涼しいところで静かに花火を独り占めできる」


 本当だ。土手から少し外れただけで、祭り騒ぎから切り離されたような感覚に陥る。


「花火もだけど、朝見くんも独り占めだ! なんちゃって」


 日原さんが、照れ笑いで冗談を言う。

 ドンドン、パラパラパラという花火の音を背に、俺も彼女の隣に腰を下ろした。


「キルが暗殺者だって話、ちゃんと言ってなくてごめん。信じてもらえないからって、こんな大事なこと説明してなくて本当にごめん。日原さんを不安にさせたくなかった」


「やっぱりね。朝見くんはなにか隠し事してるなって思ってたんだよ。まあ、朝見くんのいうとおり、信じなかった私が悪いんだけど」


 日原さんはふふっと静かに空気を震わせた。俺は下を向いた。花火の光で石畳の色がちらちらと変わる。


「あっさり信じる人の方がいないよ。信じた上で、そんなに余裕のある人も」


「だって慌てても仕方ないもん。それに」


 日原さんは隣から、俺の顔を覗き込んできた。


「朝見くんが、なんとかしてくれるんでしょ?」


 心臓が苦しくなる。日原さんはこうやって、俺を信頼してくれるのだ。嬉しくなる反面、騙しているような罪悪感に苛まれる。突き刺さる罪の意識から解放されたくて、俺はまた一つ覚悟を決めた。親父やばあちゃんのことも、話してしまおう。今度こそ嫌われても、もうこうして会えなくなっても、今まで築いてきた関係をぶっ壊してでも、洗いざらい話すべきだ。


「実は、まだ言えてないことがあるんだけど」


 話そうとしたら、ドン、と花火の音がした。日原さんがこちらをじっと見ている。メイン会場から離れているせいで、歓声は聞こえてこない。日原さんの吸い込まれそうな瞳を前に、心臓が爆発しそうで上手く言葉にならない。


「俺、というか、うちは……」


 言い淀んでモゴモゴやっていた、そのときだ。

 俺と日原さんの頭の間を、ヒュッと冷たい風が通り抜けた。トンッという軽い音と、金属が撓むビイイという振動音が鼓膜を微かに擽る。俺は言いかけていた言葉を呑み込んだ。

 背後の賽銭箱に、手のひらに収まるくらいの薄いナイフが突き刺さっている。俺と日原さんの間をすり抜け、真後ろの箱が代わりに受け止めているのだ。


「えっ、これ……」


 日原さんは驚く暇もなかったのか、頬に微笑みを残したまま硬直した。俺もしばらく脳の働きが止まる。

 そしてゾッと、体じゅうに悪寒が走った。こんなものを飛ばしてくる奴なんか、ひとりしかいない。


「でかしたぞサク。こんなひとけのない場所に、日原美月を誘い出すなんてな」


 鳥居の上に、白い影が立っていた。花火の上がる夜空を背負い、夜風でふわりと裾が舞う。

 音もなく現れて、小動物を攫うように、鋭い爪を突き立てる……まるで本物のフクロウみたいだ、と俺は陳腐な感想を浮かべた。

 日原さんが鳥居の上を見上げて呟く。


「キルちゃん……?」


 くそ、見つかった。俺は月影に立つキルを睨み、歯を食いしばった。キルは容赦なく、左手にナイフを煌めかせる。


「人混みの中から狙う作戦も良かったけど、私にはやっぱり邪魔が少ないほうが性に合ってる。今はサクのせいで外しちゃったな。次こそ楽に死なせてやるから、大人しくしてな」


 キルの手から再びナイフが投擲された。俺は咄嗟に日原さんの帯から団扇を抜き取り、彼女の首より手前に突き出した。

 トスッと紙が破れる音がする。ナイフは団扇の真ん中を突き破り、プラスチックの骨組みに柄がつっかえて止まった。


「日原さん、逃げて!」


 俺は鳥居の上の少女を見上げたまま、背後の日原さんに叫んだ。


「あいつは俺がここで止める。日原さんはもう、早く帰った方がいい!」


「でも……」


 振り向いて確認すると、日原さんは石段から動かず呆然としていた。この状況が分からないほどバカではないはずだ。もしかして、腰が抜けて動けなくなってしまったのか。キルがニイッと笑んだ。


「哀れだな。楽しい楽しい花火大会は、お前の墓場だったんだよ」


 またナイフが飛んでくる。周りにひとけがないからといって、キルは真っ向から堂々と攻撃してくる。俺はナイフが刺さったままの団扇を、飛んできた二本目に叩きつけた。パンッ、カランと二本目のナイフが石畳に落ちる。軽やかな音を聞いて、キルがほうと感嘆した。


「脚を怪我してて、合わない靴履いてて、よくそこまで動けるよな……」


「ほんとだよ。なんで俺の方が弱いのに、俺の方がハンデ背負ってるんだよ」


 大声で助けを呼んで、花火の見物客や近所の住人を気づかせようかとも考えた。しかし、この神社は切り離されているかのようにひっそりしている。近くに民家もない。叫んだところで誰にも届かないだろう。キルが可笑しそうに笑った。


「遠くから狙うと面白いね。さて、どこまで避けきれるかな?」


 あいつは一体、何本ナイフを備えているのだろう。また利き手にナイフを装備し、少しだけ後ろに引いて、フッと投げてきた。

 団扇はもうボロボロで使えない。俺は団扇を放り捨てた。同時に、直に日原さんに覆い被さる。きゃっと短い悲鳴をあげた彼女を抱き寄せて、石畳に転がる。日原さんがいた辺りをナイフが通過し、賽銭箱に突き刺さった。

 日原さんを抱き込んだ腕を、そっと緩める。


「大丈夫?」


「うん……」


 日原さんは石畳に仰向けになって、驚いた目で俺を見上げていた。髪が余計に乱れて、俺が掴んだせいで浴衣も気崩れていた。帯が緩んで胸元が少しはだけている。

 異様な艶めかしさにビクッとした。気がついたら、日原さんを石畳に押し倒すような姿勢を取っていた。


「うわっ! ごめん!」


 慌てて起き上がる。仕方なかったとは、いえとんでもないことをしでかした。仰向けでこちらを見上げる日原さんの艶っぽさは、暗殺者の存在を脳から消し去るほどの破壊力である。キルがケタケタ笑ってはやし立ててくる。


「積極的だな! どう? 柔らかかった?」


 ドン、ドンと花火の音が続いている。焦げ臭い匂いが、風に運ばれてくる。キルがまた新しいナイフを手に構えて、野次を飛ばしてきた。


「ふはは、ラッキースケベの現場、生まれて初めて見たぜ」

 

 キルのバカにするような口調に、どこかでプツンと、静かなのに確実な音が聞こえた気がした。

 こっちが真剣に、必死に、全力で、日原さんを守ろうとしているというのに。あいつは。

 俺の中で、なにかが切れた。


「……ふざけんじゃねえぞ」


 もしかしたら、これが「殺意」という感情なのかもしれない。


「俺がお前を甘やかしすぎたのが悪いんだよな……。お陰でお前は調子に乗りすぎた」


「おっ、マジギレ……」


 キルがひゅっと声を窄めた。鞄の中に潜めていた銃を掴む。躊躇がなくなってしまったのはきっと、大事にしていた自分の理想像がぶっ壊れた証拠だ。


「いい加減にしないとハンバーグ作ってやらねえぞ!」


 銃口をキルに向けたとき、もう先程のような手の震えはなかった。

 尻餅をついたみたいな座り方のまま、腕を真っ直ぐ伸ばして、キルへと突きつける。

 銃を目の当たりにした日原さんが、石畳から上体だけ起こした体制で目を剥く。


「えっ、それ……銃?」


「ハンバーグ……っ」


 キルが裏返った声を出した。


「ハンバーグって、あの日のハンバーグか」


 あの日の、というのは、まひるがキルを拾ってきた日のことだ。食べることが大好きなキルが食にありつけず、行き倒れていた日。


「くっ……サクの料理はもう食べられないものと諦めてたのに、その名前を出されたら……!」


 焼きそばのときより更に動揺している。俺は銃の先を鳥居の上のキルに向け、威嚇した。


「日原さんから手を引けば、ハンバーグでもなんでも作ってやる」


 引かなければ、この引き金を引く。

 口には出さなかったが、キルはそこまで察したのだろう。こちらを見下ろして黙り込んでいた。花火の音と光を背に、キルのフードの犬耳が風で揺らぐ。


「あの日のハンバーグは、本当に世界一だった」


 キルがぽつんと呟く。


「まひるの表現が大袈裟だったんじゃない。あれがなかったら私は今、ここにはいなかったと思う」


 あの夕方、空腹という最高の調味料を加えたハンバーグは、余程深くキルの胸に刻まれたらしい。


「もう一度、食べたいか?」


「そりゃあね」


 花火が上がる。金色の逆光を浴びて、キルのシルエットが浮かぶ。


「食べたいんなら、そのナイフを捨てろ」


 銃で脅し、弱みに漬け込む。キルは鳥居の上でしばし固まり、やがてナイフを握った手を震わせながら胸の高さに上げた。

 このままキルがナイフを垂直に落とすと、確信したときだった。


 ヒュンと、冷たい風が頬の横を通り過ぎた。

 銀色のナイフが俺の髪を僅かに掠め、隣で脚を崩していた日原さんの首筋ギリギリを通り抜ける。彼女の乱れた髪の間を裂き、石畳にカロンと冷ややかな音を立てた。


 俺の勝手な決め付けは、呆気なく裏切られた。キルはナイフを捨てたりせず、こちらに向けて直線上を飛ばしてきたのだ。


「暗殺者を舐めるな」


 鳥居の上から、柔らかいのにドスの効いた声が降ってくる。


「たかが素人の家庭料理で釣れると思うなよ」


 キルは食べることが大好きで、一度おいしいものを与えたら夢中になって食べる女の子だ。

 暗殺者なのは分かっていたけれど、頭の片隅ではそんなキルの無邪気な姿が本性なのだと、信じたかったのかもしれない。ハンバーグで釣ったら仕事を放棄してしまうような、そんなバカさを期待していたのかもしれない。

 でも、目の前にいるのは、仕事に向き合う冷血な暗殺者だ。


 それを理解した途端、なんだか急に全ての手段を絶たれたような気持ちになり、なにも考えられなくなった。きっと今の俺は、酷く格好悪い顔をしていただろう。


「ねえ……朝見くん」


 耳元で日原さんの声がした。先程まで息を詰めていた彼女が俺の肩に寄り添う。


「朝見くん、これ貸して。見せて」


 凍りついている俺の手に、日原さんの体温が重なった。彼女は石になった俺の手指を解き、銃を横取りする。

 そして一切の躊躇いもなく、鳥居の上空に向かってパンッと引き金を引いた。銃声がべったりした夏の夜の空気をぶち抜く。

 鳥居にいたキルの影が、コロンと鳥居から落下した。


「日原さん!? なにやってんの!?」


 日原さんの行動にぎょっとして、俺の石化が解けた。日原さんは手に持った銃を掲げ、目をきらきらさせていた。


「すごーい! 結構、衝撃来るんだね。手がビリビリする。もう一発、撃ってみていい?」


 おもちゃを与えられた小さな子供みたいだ。


「いや、ちょっ……待って」


 乱れた浴衣と崩れた髪の美少女が、無垢な笑顔で銃を構える姿というのは、耽美なようにも不気味な悪夢のようにも見えた。


「えっ……キル、キル!? 無事か!?」


 戸惑いながら名前を呼ぶと、鳥居の下から潰れた声がした。


「まさか美月から撃たれるとは予測してなかった。避けようとして、足踏み外したじゃねえか」


「生きてた」


 安堵で息をつく。弾は避けたが、足場の悪い鳥居から落っこちただけのようだ。キルのことだから着地に失敗した心配もない。

 銃声がしたのに人が様子を見に来る様子はない。本当に、誰にも届いていないのだ。

 振り向くと、日原さんが楽しそうに銃を触っている。俺は慎重に手を差し出した。


「それ、危ないからこっちに返して」


「危ない? そんなに?」


 なにを思ってか、日原さんはきょとんとしている。俺はさらに手を突き出した。


「そんなにだよ! 日原さんが躊躇なくそんなことするなんて思わなかった!」


 銃を奪おうとしたら、日原さんはにっこり微笑んで、その銃口を俺の額に付けた。


「え……?」


 思考を奪われる。冷たい金属の感触に、背中につうっと汗が垂れた。


「え……ひ、日原さん?」


「どんな顔するかな、って思って」


 一瞬、サイコパスなんじゃないかと思ってしまった。

 凍りつく俺に、彼女はあっけらかんと言い放った。


「だってこれ、おもちゃでしょ?」


「いや、今たしかに撃ってみただろ!?」


 額を攻められたまま叫ぶ。日原さんはスッと銃口を離し、また地面に這いつくばるキルの方へ向けた。


「うん、まるで本当に弾が出たみたいだった」


「だから本物……」


 パンッと、また銃口から白い煙が上がった。弾がキルの影の真正面で、ピンッと石畳に跳ねる。

 俺は慌てて、日原さんの手首を掴んだ。


「危なっ……! さっきキルは本当に暗殺者なんだって話しただろ。それで信じてくれたんじゃなかったの!?」


「演技が上手すぎてさっきは信じちゃったけど、冗談だったんでしょ。これが本物だとしたら、朝見くんが持ってるわけないし、キルちゃんに向けるはずもないもん」


 日原さんは俺の性格を分かっているからこそ、その銃を偽物だと判断してしまったのだ。


「折角こんなおもちゃがあるんだもの! キルちゃんとたっぷり遊んであげないと」


「だめだめだめ、やめて!」


 俺だってキルにそれを向けた立場のくせに、必死に阻止した。向けたのは認めるが、引き金を引くことはできなかった。だが日原さんはおもちゃだと思っているせいでなんの躊躇いもない。

 キルは身の危険を察知して唸った。


「マジかよ……私は暗殺者だぞ。ターゲットに気づかれないように殺すことしか考えてない。的の方から攻撃してくるなんて、想定してない」


 動揺して諦めてくれるのではないかと、俺はうっすらと期待した。

 しかし、キルはむしろガソリンを注がれたように立ち上がった。


「なら、特攻で一撃で仕留めるしかないな!」


 キルは目に炎を宿して、石畳を駆け出した。

 着ぐるみ姿のナイフ使いと、はだけた浴衣のガンナー……見たことのない一騎打ちに、俺は石畳に座り込んだまま、口を半開きにしていた。

 キルは一度、教室で日原さんに特攻して抱きとめられたくせに、今度こそ切り裂くつもりのようだ。手に得意武器のナイフを携え、真っ直ぐ突っ込んでくる。

 そのキルの本気の特攻すら、間抜けな格好のせいか日原さんの目にはお遊びにしか映らないようだ。


「うふふ! ほらほらおいでー!」


 もう一発、パンッと銃声が響く。よく狙いもせずにいたずらっぽく発砲する。キルの足元にも掠らず、それどころかなぜか近くにいた俺が被弾しそうになった。


「日原さん、おもちゃだとしても危ないからそれ捨てて!」


「面白いね、これ。手がガクガクする」


 日原さんはあまりにも稚い笑顔で言った。この人、実はかなりバカなんじゃないかと、俺は思った。

 キルは燃え上がるように目をらんらんとさせて、日原さんの懐にナイフを突き立てて飛び込んでいく。


「遊びは終わりだ、美月!」


「きゃっ! キルちゃん、すごく足が速いのね」


 動じない日原さんは、冷静に引き金を引く。キルのナイフが弾を打ち返そうと翻る。弾はナイフの刃をすれすれで避けてキルのフードの耳にパスッと穴を空けた。

 流石のキルも、一瞬ビクッと怯んだ。俺も息を止めた。今のは少しずれていたら、キルの頭を貫通していたかもしれない。

 キルが飛び退く。ズザッと砂利の擦れる音がして、石畳に着地する。お陰で、ナイフは日原さんに刺さることはなかった。日原さんはゆっくり腰を上げ、浴衣を叩いて貼り付いた砂を払った。


「はあ、楽しい! こういうめちゃくちゃな遊び、初めて」


 命が狙われているのにも拘らず、日原さんは頬を赤らめて楽しそうにため息をついている。そんな彼女を、キルは低い位置から腰を屈めて見上げた。


「美月お前……」


 興奮で息が荒い。


「なにか特殊な訓練でも受けてるのか……!?」


 キルが語尾を掠れされた。日原さんはにっこり微笑んで銃口をキルに突きつける。


「さ、キルちゃん。おいで」


 俺まで少し疑ってしまった。キルをここまで追い詰めるなんて、日原さんは本当に、普通の女の子なのか?

 天使のような無垢な少女の皮を被った、悪魔なのではないか……。そう思った瞬間だった。


 カチ。

 日原さんの手元で、引き金が情けない音を立てた。


「んっ? あれ?」


 カチカチと繰り返し引き金を引く。


「ねえキルちゃん、これ壊れちゃったかも。音がしなくなっちゃった」


 あどけなく目をぱちぱちさせる彼女に、俺とキルはちらと互いの顔を見合わせた。


「……弾切れ?」


「だな」


 俺の立てた仮説に、キルが頷く。


「あれえ? なんで壊れちゃったんだろ」


 日原さんは弾切れの概念を持っていない。音が鳴るだけのおもちゃだと思っているのだ。

 ちょっとほっとしてしまった。やはり日原さんは、ド天然なだけで普通の女の子のようだ。特殊な訓練なんか受けていない。

 しかし、安心したのも束の間だった。


「ふふふっ。弾を使い切るなんて愚かだな。丸腰の美月なんか、ただの世間知らずのお嬢様だ」


 キルが左手の中で、キラッとナイフを輝かせる。

 俺は座り込んだ姿勢から、足のバネで立ち上がった。膝の怪我がズキンと痛んだけれど関係ない。サイズの合わない靴が片方脱げたけれど、それも拾わない。まだ銃をカチカチやっている日原さんの前に飛び出し、両手を広げた。


「キル! ハンバーグ!」


 我ながら間抜けな声掛けである。


「退きな」


 キルがくわっと牙を剥く。ナイフの刃先を振りかぶって、石畳をタタタと軽やかに突っ込んでくる。


「ハンバーグ! こんなことしたら二度と食わせないぞ!」


「家庭料理なんかで釣られないと言っただろ! 暗殺者を舐めるな!」


 タンッと軽やかに跳ぶキルを、俺は見上げて目で追った。俺を飛び越えて日原さんの首筋を切りつける、その動きが読める。


「そっちこそ……!」


 俺は裸足の右足をズリッと石畳に擦った。細かい砂利を踏みしめて、勢いよく左足を振り上げる。


「そっちこそ、家庭料理舐めるんじゃねえ!」


 辛うじて引っかかっていたもう片一方のサンダルが、スポーンと飛び抜けた。青いサンダルは斜め頭上を跳んでいたキルの額に見事に命中し、キルの小さな体ははね飛ばされるように宙返りした。

 キルの白い体が石畳に叩きつけられた。予想外の反撃に反応し損ねたあいつは、受け身を取り損ねて地面を二、三回コロコロ転がる。パキッパキッと不穏な音がして、彼女の転がった後に点々とナイフが落ちた。やがてぺしゃんと地面に横たわって、静かになった。


 サンダルはくるくると空中で回転しながら落下してきた。それが俺の後ろにいる日原さんの手元、観察していた銃にヒットする。日原さんがきゃっと短い悲鳴を上げ、指を離した。弾切れの拳銃が、カシャッと石畳に転げ落ちる。

 俺はまた、潰れているキルに視線を戻した。


「家庭料理ってのはな、おいしく食べてくれる人のために、味と栄養考えて真剣に作るものなんだよ!」


 家庭料理なんか、なんて、暗殺者なんかに言われるのは腹が立つ。


「ペットだろうが迷惑居候だろうが暗殺者だろうが、あんなにおいしそうに食べてくれるなら家族の枠組みとかどうでもいいんだよ。とにかく、そういう奴に『いらない』って言われるの、すげえ凹むからやめて!」


「さ、サク」


 キルがよろっと顔を上げる。


「お前、なににキレてんだ……?」


「分かんない」


 自分でもなにを言いたいのか訳が分からない。日原さんがひょこっと、俺の肩越しにキルに笑いかけた。


「朝見くんはね、キルちゃんにハンバーグ作ってあげたいんだって! よかったね!」


 あまりにもシンプルな言い回しだ。嫌味も毒も皮肉もない。もしかしたら俺は単純に、キルにハンバーグを食べさせたかっただけなのかもしれない……と、錯覚してしまうほどだ。

 日原さんの無防備な笑顔が、キルを苛立たせる。


「美月なんか……美月なんか私にかかれば……!」


 言いながらも、彼女は立ち上がらない。俺は日原さんを背中に隠して、しばらく様子を見ていた。

 そこへ、大きなため息が聞こえてきた。


「終わり?」


 物足りなそうな、続きを催促するような甘え声だ。俺は顔を上げ、声のする方向を探した。


「終わりなら、この場所空けてよ」


 見つけた。鳥居に寄りかかる、浴衣姿の女。


「ラル。いたのか」


 柱に背中を預けているだけなのに、無駄に色っぽい。名前を呼ぶと、ラルはちょこっと首を傾げた。


「こういうひとけのない場所は、恋人たちがこっそり逢瀬する場所なのよ?」


「神社は神社だろうが。んで、りっくんは?」


 キルが寝そべったまま、ラルに軽蔑の目を向ける。ラルは唇に指を当てた。


「なにが起こるか察したのかしら。『飲み物買ってくる!』って走ってっちゃったわ。心の準備? かわいいわね」


 それからラルは下駄をカラカラ鳴らしてこちらに歩み寄ってきて、スッと屈んだ。俺と日原さんの足元に手を伸ばし、落ちていた銃を拾い上げる。


「美月ちゃん、これはどこで手に入れたの?」


「朝見くんが持ってたの。でも壊しちゃったみたい……」


「咲夜くんはこれをどこで?」


 ラルはこちらを上目遣いで見上げた。俺はちらと日原さんを横目で見て、声を潜めた。


「古賀先生から受け取った」


「古賀ちゃんから?」


「古賀先生は、屋台出してるなんかやばそうなおじさんから借りたって言ってた」


「ふうん……」


 ラルは長い指で銃の背を撫で回し、舐めるように見つめた。そしてそれを持って、地面に寝ているキルの元へと近づく。


「ねえ……私、古賀ちゃんの雇い主、分かったかもしれないわ」


「えっ!?」


 それには俺が目を剥いた。日原さんはきょとんとして、まばたきを繰り返している。俺は神社の祠を指差し、日原さんにわたわたと指示した。


「浴衣が乱れてるから、あっちの裏で直してきた方がいいよ」


「わ、ほんとだ」


 日原さんは素直に受け止めて、浴衣の襟を引っ張りながら祠の後ろに逃げ込んだ。俺は彼女の目を盗み、キルとラルの元へ駆け寄った。


「古賀先生の雇い主って……どういうことだ」


 尋ねる俺を見上げ、ラルは倒れたキルの脇にしゃがんだ。


「この銃、この周辺をシマにしてる暴力団の『無常組』のフロント企業が輸入してる、特殊な加工の銃なのよ」


 サラッとした口調で、色々と突っ込みたいことをまとめて言われた。俺もラルの隣にしゃがむ。


「この辺、暴力団いたの? しかも銃を輸入してるとか……てかなんでラルがそんなこと知ってるんだよ」


「暴力団はどこにでもいるわよ」


 あっさり返すラルを見上げ、キルも石畳に頬をくっつけて言う。


「情報だって、そりゃ入ってくる。私らは暗殺者だからな」


 ふう、とキルが小さなため息を挟む。


「暴力団は、政治家や企業のトラブルを解決するのに役に立つからな……重鎮殺しを請け負う私たち暗殺者とは、切っても切れない関係にある」


「反社会的勢力と繋がってるんなら、うちではキルの受け入れは拒否します」


 俺が眉を寄せると、キルはべっと舌を出した。


「繋がってるわけじゃない。よく遭遇するってだけだ。古賀ちゃんだってこういうのの貸し借りができる関係にあるくらいだろ。でもって、今更善良ぶってんじゃねえ」


 今更って。俺はもはや善良な市民ではなくなってしまったのか。


「……もういいや。それで、その『無常組』っていうのが先生の雇い主なのか?」


「この銃を持たされているくらいだから、多分ね。無常組が暗殺者を雇ったんだとしたら、組の人間が学校に紛れ込んでる……或いは、学校での美月ちゃんの様子を、組の人間に密告してる人物がいる」


 しゃがむラルは浴衣に包まれた膝小僧に胸を押し付けた。


「咲夜くんが把握してる中にいるかは、分からないけど。そうね、学級、学年……いや、学校内。教員や、学校に出入りする全ての人物の中に……」


 ラルの瞳がちらと、俺の目を見つめた。


「『枯野』って名前の人はいる?」


 その名前を聞いた瞬間、俺は口をぽかんと開けて固まった。


「枯、野……?」


「あら、心当たりあるの?」


 心当たりも、なにも。


「日原さんの友達のひとりに、枯野って人が……」


 枯野栄子。いやでも、まさかあいつが。


「え、あいつの名前、枯野っていうのか」


 キルがバッと顔を上げた。


「モブだと思ってたぞ! でもそういや、組の若頭の娘は、サクと同い歳だった気がする」


「決まりね。案外近くにいたわね」


 ラルがニコッと、銃を胸に抱き寄せた。

 たしかにあの子の名前は枯野だけれど、彼女がハンシャの人間だなんて聞いたことがない。俺らとなにも変わらない、ありふれた高校生である。

 でも、今までだって、想定を裏切る奴が暗殺者だった。反社会的勢力も似たようなもので、掘り下げないと判断できない存在なのかもしれない。

 キルがラルを見上げる。


「となると、その美月の友達がカシラに学校での様子を報告してて、カシラが取りまとめて市とか教育委員会に報告してるってとこか」


「まだ断定はできないけどね。その可能性は高いわ」


 ラルが頷く。俺はまだ混乱していた。まさか、彼女が日原さんの友達として傍にいるのは、日原さんを監視するためだったというのか。そんなわけない。


「嫌だ……信じたくないぞ。枯野さんが暴力団の若頭の娘なんて」


「お前だって暗殺集団のエージェントの息子だろうが」


 キルがもっともな返しで俺を突き刺してきた。俺はそれでも思考をぐるぐる回して、否定できる要素を探していた。


「古賀先生がわざわざヒントになるような銃を渡してくると思うか? そこから辿られたら、自分を遣わした依頼人やエージェントまで割れる恐れがあるのに。こっちの推測をかき乱すための罠なんじゃないか」


「逆に言えば、痕跡になる銃を古賀ちゃんに預けてでも美月暗殺を阻止したいという、無常組側の強い意思と焦りもうかがえる」


 キルが寝そべった間抜けな体勢のくせに、丁寧に俺の反論を覆してくる。


「枯野とかいう小娘、調査する必要があるな」


「あら。今すぐ美月ちゃんを殺しちゃえば、そんなの関係なくなるわよ?」


 ラルが強かに言うと、キルは再び石畳に頬を貼り付けた。


「……まあね。そうなんだけど。今日は疲れたから、延期する」


「なにそれ。真正面から特攻しておいて、今になって急に、そんな気の変わり方するのね」


 からかうように笑ったラルに、キルはぷいっと目を背けた。


「そういうときくらいある」


「ふうん」


 ニヤニヤ笑うラルとバツが悪そうなキルを、俺は無言で見比べていた。

 枯野さんが関係しているだなんて信じたくないが、キルの興味はそちらに傾いた。一先ず、今日のところは日原さんは助かったということか。


「それじゃ、私は無常組の下っ端からでも惑わして、根っこを引きずり出していくわ」


 ラルが後れ毛を耳にかける。俺はラルにやんわり注意した。


「それが特技なのは分かったけど、あんまり体に負担かけるなよ? ラル自身傷だらけになるし、病気とかのリスクも……」


「だぁら、お説教いらんっちゅってるじゃ!」


 いつまで経ってもラルは気遣われるのに慣れない。


「言われなくても知っちょるけ! わっしはそんなんとっくに吹っ切れとるがじゃ!」


 ラルがカーッと機嫌を損ねて訛りまくった言葉を並べているところへ、聞き慣れた声が飛んできた。


「……ラルちゃん?」


 俺は顔を上げ、鳥居の向こうで呆然とする彼にあっと声を上げた。


「陸!」


「あ、咲夜もいるのか。なんだよ、皆ここにいたのかよ」


 水の滴るラムネ二本を片手に下げた陸がいる。途端にラルが押し黙った。口を押さえて目を見開いている。迂闊に放った方言を、ターゲットの陸に聞かれてしまった。

 珍しく焦っているのが面白くて、俺はフォローするでもなくラルと陸を交互に眺めた。

 ふと、陸がもう片手で手を引いていた小さな影に気がつく。


「お兄ちゃーん!」


 小さな手をぶんぶん振って、まひるが跳ねている。


「まひる! どこに行ってたんだ」


 俺が立ち上がると、まひるは陸の手を離してパタパタと走ってきた。ご機嫌な様子でぴょんっと飛びついてくる。


「あのね、リンゴ飴とね、チョコバナナ食べたの! チョコバナナはイチゴのチョコの、ピンクのやつ! バナナなのにイチゴなの、イチゴなのにチョコなの」


 興奮気味で喋るまひるに、俺はハイハイと頷いた。


「迷子になったらこの神社に来いって言っただろ?」


「まひる迷子じゃないもん。迷子になったの、お兄ちゃんたちの方でしょ」


 なるほど、そういう認識だったか。迎えに来てやったくらいの気持ちでいるようだ。寝転がっていたキルが、ぴょこんと立ち上がる。


「まひるが無事でよかった! しかも結構花火大会をエンジョイしてたみたいで私は嬉しいよ」


「キルちゃんはなに食べた?」


「悔しいことに焼きそばしか食べてない!」


 まひるとキルが盛り上がるのを横目に、陸がラルの隣に腰を下ろした。手に持っていたラムネを一本、ラルに差し出す。


「はい、ラムネ」


「……ありがと」


 ラルは口を片手で押さえたまま瓶に手を伸ばした。クリアブルーの瓶に水滴が滴っている。方言が余程コンプレックスなのか、ラルは陸の目を見ようとしなかった。というか、作戦に失敗した暗殺者の顔で、動揺で目線が地面に吸い寄せられている。折角目を逸らしているのに、陸が容赦なくラルの目を覗き込む。


「休みたいって言ってたけど、もう大丈夫そうだな」


 ラルのことだから、休みたいと言ってひとけのない場所に連れ出すのが目的だっただけで、多分実際は疲れてはいない。だが陸は素直にラルが疲労したと受け取っていたらしい。


「さっき元気そうに大声出してたもんな。よかったよかった」


 能天気な陸の横で、ラルは目を泳がせながらラムネを開けた。


「あ、あの、さっきの私の声、やっぱ聞こえちゃった……?」


 ラムネを口元に傾けて、ラルはまた目を伏せた。陸はちょっとだけ首を傾げ、それからへへへと笑った。


「純朴な感じがしてかわいい言葉遣いだったな。俺、そっちの方が好きかも」


 たちまち、ラルはけふっとラムネを噴きそうになった。


「かっ、かわいかないやけ!」


「そう? なんか素っぽくていいと思うんだけど……」


「うるしゃあ! やめんか! 調子狂うで、やめっしゃい」


 真っ赤になって顔を腕で覆うラルは、いつもの痴女らしさを完全に失って、田舎から出てきたばかりのうぶな女の子みたいだった。

 そこへ、浴衣を応急処置的に直してきた日原さんが戻ってきた。


「私も聞こえちゃった! ラルちゃんかわいいね」


「やめっ……なんなの! なんなのよお!」


 日原さんのニンマリにラルは顔を膝にうずめて震えた。

 ラルはどうも、素の彼女自身を大事にされると崩壊するようである。


「もう……もう帰るけ!」


 ラルは立ち上がり、半泣きで駆け出した。陸が追いかけるように立つ。


「送るよ」


「ついてくるなしバカっちょ! ひとりにさしてくりょ!」


 ひとりになりたいというラルを追いかけるのはやめて、陸はその場で立ち止まった。代わりに、ラルの後ろ姿に向かって叫ぶ。


「またな! 気をつけて帰れよ!」


 俺は爽やかな陸の笑顔に瞠目した。褒め殺しでラルを追い払うとは、流石はキルの攻撃を無効化する最強パンピーだけはある。陸が再びしゃがむ。


「俺、怒らせたかな……」


「大丈夫。照れちゃっただけだから」


 素直にしょげる陸を、俺はそっとフォローした。

 ちょっと照れちゃっただけ……というか、ラルはめちゃくちゃ強かだからすぐに復活する。陸は怪訝な顔で、俺の方に目をやった。


「ならいいけど。それにしても、咲夜がさっきより更にボロボロになってる気がするし、美月ちゃんはちょっと着崩れてるし、なにがあったんだ? お前まさか美月ちゃんが嫌がることしてねえだろうな」


「はあ!? 失礼な!」


 俺は、まひると両手を繋いで楽しそうにしているキルを指さした。


「日原さんに酷いことしてたのは、俺じゃなくてあいつ!」


「朝見くん! キルちゃんはじゃれてただけじゃない」


 日原さんがむっと眉間に皺を寄せる。あんなのがじゃれていただけなわけがあるか。キルの方も、真剣に挑んだのに「じゃれている」程度に受け取られ、悔しさで顔を真っ赤にしていた。


「美月、貴様は必ず殺す。見逃すのは今回だけだ。次は絶対殺す!」


 キルがくわっと牙を見せた瞬間、まひるが繋いでいたキルの手を離しフードの耳と耳の間をペチッと引っぱたいた。


「痛あ!」


 キルが頭を押さえる。まひるは小さな手を丸めて腰に当てた。


「こら! キルちゃん、殺すなんて言っちゃだめでしょ!」


「え、ええ……まひるに叱られた」


 予想外のお叱りに驚きながら、キルは頭を手で覆ってしょんぼりする。小学生に叱られる暗殺者という間抜けな光景を目の当たりにして、俺はハッと気がついた。


「そうだぞキル。お前は『まひるのお願いなら叶える』んだろ?」


「うっ!」


 キルがたじろぐ。俺はそっとまひるの肩に手を置いた。


「まひるが『だめ』っていうことはだめなんだよ」


 キルがこんなことで仕事をまるごと放棄するとは考えられない。でも、まひるへの恩返しに、お願い事があればなるべく叶えると言っていたキルだ。妨げるのにはかなり有効である。現にキルは面食らっている。


「そんな……殺しは私のアイディンティティなんだけど……」


 そしてあろうことか、キルに助け舟を出したのはターゲットの日原さんだった。


「まあまあ、そんなに怒らないであげて。遊んでただけだもんね、キルちゃん」


「お前が素直に死んでいれば、今怒られずに済んだんだ」


「それよりキルちゃん、なんかパキパキいってたけど、体は大丈夫? どこか怪我してない?」


 日原さんが健気に心配する。キルはううっと唸って威嚇した。


「私の心配してないで、自分の心配しろやボケェ」


 それからチーとファスナーの開く細い音を立てた。尻尾のポーチを開けて、中を探っている。

 そして。


「いっ……うわあああ!!」


 キルの断末魔が夜闇に反響した。


「うわっ、どうした」


 俺は咄嗟に日原さんを庇う。だが、キルは襲ってこないで、泣きそうな声で叫んだ。


「身分証が……ホー・カードが割れた!」


「あっ!」


 キルがポーチから取り出した手には、五、六枚のピースに分裂したカードが握られていた。

 地面に転げたときか。受け身を取れなかったキルはポーチを下敷きにして転がり、パキパキと妙な音を立てていた。あのとき割れたのか。俺はカードの無惨な姿にうわあと呟いた。


「マジかよ。これじゃキルは……」


「酷い……酷いよ美月。これじゃ私、仕事できない……」


 へろへろと力なく座り込むキルに、俺は同情もしなかった。


「自業自得だな」


 いや、同情しないどころか、ざまあみろである。

 暗殺者の身分証を失ったキルは、これで当分日原さんに手出しはできないのだ。ついにキルに勝利したといえる。

 キルは茫然自失で粉々のカードを手にぷるぷる震えていた。日原さんがあまり悪びれない顔で首を傾ける。


「ん? そのカードなに? 大事なものなの?」


「謝んなくていいよ。大したことじゃないから」


 俺はようやく、彼女に心からの笑顔で返事ができた。

 花火はいつの間にか終わって、空には静かな夜が訪れていた。

 暗殺者キルは燃え尽き、手助けに来ていたラルも追い払った。まだまだ気になることはあるけれど、一先ず日原さんを無傷のまま花火大会を乗り越えた。全身の力が抜けて、今すぐにでも眠ってしまいたい。


「ねえ、朝見くん」


 日原さんの柔らかな微笑みが、ふわりと月明かりに照らされている。


「今日はありがとう。思ってた花火大会とちょっと違ったけど、思ってた花火大会よりもっと楽しかった。やっぱり、一緒に行けてよかったよ」


 安心して温まった胸に、彼女の声が染み込んでくる。髪が乱れて浴衣も崩れてしまった日原さんの、あどけない笑顔がきゅんっと心臓を擽る。こちらは全く楽しめなかったけれど、そんなことを言われたら全てがどうでもよくなってしまいそうだ。

 この無防備な笑顔を守りきった……いや、俺はさほど役に立っていないから、彼女が自力で戦い抜いた。余計に体の力が抜けて、声にならず頷くことしかできなかった。


 夜空に見事な満月が浮かぶ。なにも知らずに全てを躱しきった、日原美月の大勝利を祝うような月だった。

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