14.緊張感と平和ボケの狭間で。

「えっ、花火大会行ってもいいの!?」


「ごめん! やっぱ行こう! 一緒に!」


 リビングの固定電話で日原さんに連絡した。当たり前だが、彼女はちょっと怒っていた。


「もう! 二転三転して土壇場で『やっぱ行こう』だなんて、無責任すぎ!」


「ごめんって! 危ないって思ったけど、やっぱり会場から花火見てほしくて!」


 帰ってすぐに日原さんに連絡しようとしたが、スマホが壊れていた。防水タイプでないスマホは、雨に打たれて死んでしまったのである。かなりショックではあったが、一旦風呂に入って雨を流し、昼食にして、冷静になった。

 キルが日原さんの情報を集めているのだから、電話番号は分かる。彼女に教えてもらって、固定電話からかけた。


「行っちゃだめって言われたとき、すごく悲しかったんだから」


 日原さんは電話越しで俺を叱った。


「だからその分、今すごく嬉しい。今度はもう変えないでよ。これで約束破ったら叩く!」


「うん。お詫びになにか奢る」


「まひるちゃんも来る?」


「そうなるけど……いい?」


「やった。楽しみにしてるね」


 すっかり弾んでいる彼女の声を聞いて、ほっとした。電話を切って、肩に引っ掛けたタオルで額を拭う。

 暗殺者は俺が止める。止められなくて攻撃が当たってしまったら、なんてことは考えるのをやめた。なにがなんでも絶対、最初から最後まで安全に過ごさせる。


「お兄ちゃん! 花火大会、美月お姉ちゃんも一緒なの!?」


 電話を聞きつけたまひるが飛びついてくる。


「うん、まひるにまだ言ってなかったね」


「先に教えてよー! 嬉しい! わー! おしゃれしなきゃ!」


 まひるはふっくらした頬を紅潮させて両手を添えた。キャッキャと大喜びして、お気に入りに着替えに部屋に戻っていく。

 まひるの面倒を見ながら、キルの攻撃から日原さんを守りながら、日原さんになにの違和も感じさせずに楽しませる。尋常でなく大変な仕事になるのは察するが、それでももう後戻りはできない。

 タオルで髪をくしゃくしゃやっていると、また声をかけられた。


「あら、シャワー浴びておくなんて随分準備がいいのね」


 びくっと跳ね上がった。ラルの声だ。俺が風呂に行っている間に遊びに来ていたのだろう、全く気が付かなかった。俺は首にタオルを掛けて、振り向いた。


「いつの間に背後に立っ……」


 しかし、言おうとした言葉は途中で忘れてしまった。後ろに立っていたラルの姿に、息を呑む。

 淡い空色の浴衣に、白い蝶の柄。ほんのり桃色がかった白っぽい帯がふんわり腰に巻きついている。桜色の長い髪は高く結い上げて、色白なうなじが露になっていた。


「やだ。美麗すぎちゃって言葉も出ない?」


 口から出る台詞はいつもどおりなのだが、装いは普段の様子からは想像できないほどの大和撫子である。日頃は自慢げに放り出していた胸元や脚は清楚に隠して、体のラインがくっきり出ないように、あくまで和服らしい美しい着こなしをしていた。


「嘘……もっと下品な着方するかと……」


 本音を零すと、ラルは満足げに俺の頬に触れた。


「こういう格好はきちんとしてる方が、却ってそそるでしょ?」


 計算され尽くしている。ラルがそういう奴なのは身に染みて分かっているつもりなのに、見慣れているラルとの高低差があまりに大きくて、どうしても目を奪われる。


「最初は陸ちゃんに見せようと思ったんだけどね、先に咲夜くんに見てもらって反応チェックしといたのよ。咲夜くんでもそんな顔するんなら、結構似合ってるのかしら?」


 ラルはニタニタ笑って覗き込んできた。幼馴染みだから分かる。これは陸の好みドンピシャだ。元々、日原さんファンを名乗るほど王道清純派に惹かれやすい陸だ。ラルがこのギャップを持ってきたら一撃だろう。


「頼むから陸に近づかないで」


「ごめんね、独り占めしたくなっちゃったかもしれないけど、これは陸ちゃんのための浴衣なの」


 ラルはわざとらしく意地悪を言って、俺をからかう。このままでは陸が暗殺者の闇に取り込まれてしまう。

 陸に、ラルに騙されないようにもう一度手を打っておかなくては。俺は下ろした受話器を再び取って、子供の頃に暗記した陸の自宅の番号をプッシュした。しかし察したラルが、後ろから俺の手を握ってそれを遮る。


「私の邪魔をするなんていけない子ね。こっちはプロのハニートラッパーの威信にかけて失敗できないの」


「陸を仲間にしたって役に立たないぞ。あれは暗殺者じゃない」


 抵抗して番号ボタンを押そうとしたら、今度はわざとらしく胸を背中に押し付けてきた。手が止まった俺の耳を、ラルの吐息を擽る。


「役に立たなくてもいいの。落とせないのが面白くないだけ」


「陸を誑かして面白がってるだけじゃねえか!」


 ラルの手を振り払って、電話の数字を押した。ラルはようやく手を離し、ニヤニヤしながら着崩れた浴衣を直していた。


「もしもし、海原です」


 陸の声が、受話器から流れてきた。


「俺です、咲夜です。スマホ壊れたから固定電話から失礼するぞ」


 陸のスマホの番号は覚えていなかったが、小さい頃からよくかけていた固定電話は覚えていた。


「花火大会当日にスマホ壊したのか。間が悪いな」


 後ろを見ると、ラルがいつ邪魔をしようかと身構えていた。そんなこちらの状況など露知らず、陸はのほほんとした声で聞いてくる。


「んで、なんの用事?」


「今日、お前、ラルとデートの予定だよな?」


 こうしている間も、ラルが受話器を奪おうと手を伸ばしてきている。


「うん。ほんと、晴れてよかった」


 悠長に天気なんか気にしている陸に、本題を突きつけた。


「この前、ラルが人馴れしてないのを心配して、日原さんとかまひるとかキルも一緒に花火大会行こうって言ってたよな?」


 後ろで聞いていたラルが、手を引っ込めた。

 ラルは陸に対して、突然不登校になって悩みを人に言えない繊細でミステリアスな少女というキャラ付けで迫っている。陸の良心を利用しているのだ。でも陸が、自分のために大勢で花火に行こうと考えていたのまでは、知らなかったみたいだ。

 俺はラルを横目に続けた。


「お前は俺と日原さんが付き合いはじめたみたいに思ってたようだけど、日原さんもできれば大人数で遊びたいだけなんだよ。で、俺と陸らへんがちょうどいい距離感だったから、声かけてきたってだけ」


「あっ、そうなの?」


 やっと、ここの誤解が解けた。


「まあそうだよな、美月ちゃんがあえて咲夜を選ぶなんておかしいと思ったんだ」


「それは余計な一言だ。ともかくそういうわけだから、ラルにもっと素直に自分を開示できるようになってもらうためにも……」


 そこまで言えば、付き合いの長い陸は勝手に察した。


「分かった。ラルちゃんは誰かと付き合うようになる前に、もう少し他人に心を開けるようになったほうがいいもんな。今日はラルちゃんと一緒にお前らと合流する」


「助かるよ陸。悪いな、折角のデートなのに」


 その「折角のデート」をぶち壊す方が本来の目的だったのだけれど。

 受話器を戻し、ラルを振り向く。ラルは眉を寄せてこちらを睨んでいた。


「陸ちゃん、私の心配してたの?」


「私の、っていうか、ラルが演じてた『打ち明けられない悩みを抱えた転校生』の心配をしてた」


「本当にバカなのね。そういう女が現れたときは、他人に心を開かせるより自分だけに依存させたいと思うものでしょ?」


 ラルが見てきた世界の人たちは、そうだったのかもしれない。


「んー。心から人を好きになったら、手に入れたいって思うより、幸せでいてほしいって思うものなんじゃないか?」


 つるっと小っ恥ずかしいことを言ってから、俺は慌てて首を振った。


「あ、いや、知らないけど。そこまで人を好きになった経験ないから分かんない。今の知ったかぶり」


 必死に誤魔化そうとしているのを見て、ラルは却って面白そうににやついた。


「純愛を貫くthe・童貞。今の録音しておけばよかった」


「やめて、今のノリなかったことにして」


 俺の方がラルを追い込んだはずなのに、なんで俺がからかわれているのだろう。


「キルに言っちゃお。一緒に笑ってこよっと!」


 ラルはきれいな浴衣の裾をひらひらさせて、キルのいる二階へと上がっていった。陸を騙すためのデート作戦を俺に妨害された復讐なのだろう。引き止めたところでやめてくれる相手ではないので、もう放っておいて好きなだけ笑わせておくことにした。

 すぐに上の階からキルの笑い声が響いてきた。そんなに面白くないだろと思うのだが、心の汚れた暗殺者たちにはきれいごとなんて滑稽にしか映らないのである。

 ひとりでリビングのソファで不貞腐れていると、扉からひょこっと親父が顔を覗かせた。


「人気者だな、咲夜ー。聞いてたぞ、好きな人の幸せが大事なんだって? いいこと言うー!」


 こいつまでバカにしてくる。


「別に普通だろ! 面白い発言でもなんでもないと思うけど?」


 やけくそになって開き直る。親父はヘヘヘッと笑いながら、ソファの傍まで歩み寄ってきた。


「いやいやいや、照れるなって。素晴らしい感性をお持ちだと思うよん。パパ感動しちゃったよ」


 それからちらっと、仏間の方に目線を投げた。


「そういう発言するところ、ますます母さんそっくりだ」


 はたと、俺は言葉を呑んだ。うざったく絡まれると思ったのに、ここで母さんの話を引き出してくるとは思わなかった。


「恋愛感情に限らず、愛情ってそういうもんなんだって。母さんはよく言ってたんだよ。だから母さんは、亡くなる直前までずっと、咲夜とまひるのことばっかり気にしてたんだ」


 冗談を言うときと同じ声色で、親父は懐かしそうに言った。


「『なにがあっても、あの子たちだけは心優しい子に育ってほしい』って。『優しい人間になれれば、周りの人も優しくなれる。皆を幸せにできる人は、幸せな人だから』ってさ」


 なにか、言おうと思った。でもなにも思いつかなかった。

 母さんは、「命あるものを大切にしなさい」と口癖のように言っていた。それは正しい倫理観を持った子供を育てて、周りから愛される幸せな人生を送ってほしいという気持ちからだったのだ。


 自分がどうかは、自分では分からない。でも母さんを真似て躾したまひるは、たしかに暗殺者たちからも日原さんや陸からも、かわいがられている。


「俺の嫁なのに、明子ちゃんは俺より咲夜とまひるばーっかり気にしてるんだもん。パパ嫉妬しちゃう」


 アホ面でアホな発言をする親父に、俺はようやく返事をした。


「そんな母さんなのに、母親であるばあちゃんはフクロウの総裁で旦那はエージェント。皆して騙してたんだな」


「人聞き悪いな」


 親父はまたへらっと笑って、逃げ出すようにリビングからいなくなった。

 親父と入れ違いに、キルが一頻り笑い終えた様子で突入してきた。


「サクのJ-POPみたいな台詞は所詮戯言にすぎない。お前がどんなにいい人だろうと、近づいてきてくれた美月はお前の身内に殺されるのだ。ははは! 無様だぜ」


 父から聞いた清らかな母さんの言葉を聞いた後で、こいつのこれである。美しい世界の裏で泡立つ汚れきった醜き闇が、声を上げて笑うようだ。


「殺させない。お前の行動パターンなんか読めてるんだよ」


 ハッタリをかましてみたが、キルは悪魔のように笑うだけで全く怯まなかった。


「最終決戦だぜ、サク」


 キルがテクテク近づいてきて、ソファに座る俺の隣に腰を下ろす。


「私は今夜、美月を殺すからな。仕事が終わったら拠点は変わる。ここのペットとして世話になる必要がなくなる。美月が死んだことに対して世間が騒ぐ前にサッと姿を消さなきゃならないから、花火大会直後にはいないものと思ってくれ」


「あ、そんな感じなのか」


 キルのいない二日間を思い出す。分かっていたことだし、そして暗殺者なんか家に置いておきたくないのだが、いざ本人がこんなふうにあっさりした口調で言ってくると、胸がチクリとする。


「まず大前提として日原さんを死なせるつもりはないんだが……」


 俺はキルの方を向かず、正面の壁だけ見つめた。


「百歩譲って、仕事が終わったとする。でもキル、まひるに恩返ししたいって言ってなかったか?」


 空腹で行き倒れたキルを、まひるが犬と間違えて保護した。お陰でキルは宿にありついた。キルは助けてくれたまひるに恩を返すため、まひるが殺してほしい人を代行で殺してやると不穏なことを言っていたはずだ。キルは隣で、考えながらこたえた。


「まひるが他人の死を望むようになるまで、かなり時間が必要そうだから……。いつかそういう日が来たときに、呼ばれたら行こうかなって思ってる」


「その『いつか』はいつになるんだろうな。まひるのことだから、一生ないと思うぞ」


 兄の俺でも想像できない。キルはまだ粘っていた。


「そんなことないね、人間誰しも、いつかは殺意を持つ」


「それは殺意じゃなくて、殺意に似た感情にすぎない。たとえまひるが他人に嫌な感情を持ったとしても、本当に殺されそうになったら泣いて嫌がると思う。まひるはそういう子だ」


 嫌がることをしてしまったら、泣かせてしまったら、結局恩返しになんてならない。キルも素直に受け入れた。


「育ての親といっても過言じゃない兄貴が言うと、説得力が尋常じゃないな」


「キルだって、まひるの性格見てきただろ?」


「うん、正直私もそんな気がしてる。幼いせいもあるけど、あの清らかさはサクの善良を更に上回ってるからな」


 キルはむーっと唸って、考え込んだ。


「それじゃ、殺人以外でもそれに相当するほどの願望を叶えてやることで、恩返し完了としちゃおうかな」


「殺人代行に相当する願望ってなに?」


 遠くの壁からキルに視線を移す。キルは首を捻って眉を寄せた。


「例えば……うーん、都合のいい男連れてこい、とか。いい感じのを捕まえてきて、私が金を出してまひるの彼氏として雇う。……いや、これもまひるは望まなそうだな」


 自分で言って納得できなかったようで、キルが難しそうに唸る。


「私にできることって、意外と思いつかないな。まひる、あんまりわがまま言わないし」


 キルは暗殺者のくせに、人命をなんとも思っていないくせに、変なところで義理堅い。受けた恩は忘れない。従うと決めたまひるにはとことん忠実。そういうところは、本当に犬みたいだ。


「じゃ、なにか大物の『お願い』が出てきたら報告してやるよ」


「よろしく」


「てか、今日も日原さんを死なせるつもりないから、まだしばらくペットだと思うけどね」


「言ってろ」


 言いながら、俺は心のどこかで思っていた。きっとこんなふうに隣で悪態をつきあうのも、もうそんなに長くないのだろうと。

 総裁が言うには、仕事に失敗したらこの案件からおろされてしまう。まだそこに至るほどの失敗はしていないものの、花火大会という場で大騒ぎを起こして、それでしくじろうものならきっともう使い捨てられてしまうのだろう。だからキルは、あそこまで悩んでいたのだ。

 だが、今俺の隣でにやつく死神からは、葛藤の表情は消え去っている。


「地獄を見せてやるぜ、日原美月」


 こちらだって負けるつもりはない。キルが暗殺に失敗して、もしこの仕事からおろされてしまって干されてしまったとしたら……別に、もう少しくらいならペットとして置いてやってもいい。

 ちょっと、そんなことを思ったりもした。


 *


 夕方、五時半。

 花火大会に出かける前に、仏壇に手を合わせた。線香の細い煙の糸が、母さんの遺影の前を通り過ぎていく。

 暗殺者集団に囲まれた環境の中で育てられた俺とまひるに、辛うじてまともな人の心を遺してくれた母さんだ。この人に貰ったものを誇りに、俺は今日こそキルを止める。


「お兄ちゃん早く早く!」


 こういうときのまひるはせっかちで、お気に入りの黄色いワンピースで俺の周りをチョロチョロする。


「行く行く。その前に、日原さんを迎えに学校寄るよ」


 待ち合わせ場所は学校の正門だ。ここで陸も含めて合流するつもりである。


「じゃ、そろそろ行こうか」


 仏間から出てリビングに顔を出す。キルがなにやらトゲトゲした武器をコートの中に仕込んでいた。


「おい、今のはなんだ」


「よそ行き用のモーニングスター。未使用品をおろしてきた」


 キルはやる気満々でにやけている。見ていなかったまひるが首を傾げる。


「なに? キルちゃんなに隠したの?」


「まひるには秘密!」


 まひるとキルがやりとりする後ろで、親父が大量の酒瓶を運んできた。


「パパは総裁と一緒にベランダで酒盛りしながら花火見てるね!」


 へらへらしている親父に、キルが真剣な目を向けた。


「ミスター右崎。今日こそ決めるから」


「肩の力抜いて冷静にな。ミスター、頭の片隅で時々応援してるよ!」


 片隅で時々なのかよ。と口を挟みたくなったが、この人の小ボケにいちいち付き合っているとキリがないのでなにも言わないでおいた。


「あれ? ラルは?」


 ふと周りを見ると、あれだけ妖艶な存在感を放っていたラルがいない。親父がああ、とあっさりこたえた。


「ラルならもう一足お先に出かけたよ。『誰より先に陸ちゃんに浴衣を見せたかったの』って言いに行った」


「あいつ! 陸より先に俺で反応試したくせに!」


 こうしてはいられない。一秒でも早く、ラルと陸をふたりきりの時間を奪わなくては。


「行くぞ、まひる」


 慌てて鞄を引っ提げて、玄関に向かって駆け出した。まひるはなにも知らずに無邪気に大喜びしている。


「わーい! 会場に着いたら最初に焼きそば食べようよ!」


 まずはラルと陸を回収して、日原さんと合流。そこまで計画したところで、俺はふと、まだリビングでじっとしているキルに気がついた。リビングの扉から出る手前で、振り向く。


「……罠だな? 俺がラルに気を取られて先に陸の方へ向かってる間に、日原さんの家に先回りするつもりだろ」


 彼女は今回、厳しい家族に黙ってこっそり家から抜け出してくる。花火大会で車の流れが悪いこともあり、運転手にだけ話して連れてきてもらうとも考えにくい。とすると、彼女はひとりで待ち合わせ場所まで来ることになる。つまり、道中はキルが狙い放題なのだ。


「俺が学校で待ってる間に、向かってくる日原さんに先回りするつもりだったんだな」


 言い当てられたキルは、口角をニヤリと吊り上げた。


「冴えてるじゃねえか」


「汚いぞ、ラルも使って二対一なんて」


「なにが悪いんだよ。こっちは命懸けで仕事してんだ。片やお前は趣味で美月ちゃんを警護してるんだろ」


 キルは本気だ。俺も真剣に向き合わないと、出し抜かれる。いや、元から真剣だったけれど。

 俺は改めてスイッチを切り替え、まひるに言った。


「まひる、お惣菜屋さん分かるよな! 俺は日原さん迎えに行くから、まひるは先に陸と遊んでて。まひるがひとりで来たら、陸の奴きっと甘やかしてお菓子くれるぞー」


「やったあ! まひる、りっくんのとこ行ってくるー!」


 こちらも負けじとまひるを利用し、二対二に持ち込んだ。無邪気なまひるを便利に使った俺に、キルが舌打ちした。


「小賢しい真似しやがるじゃねえか」


 しかし、彼女はそれでも落ち着いて座っている。


「だが今慌てて行っても美月はまだ家から出てないぜ。逆算すると、美月は後五分後くらいに家から出発する。待ち合わせ場所で待っていられなくて家まで来ちゃったストーカーくんになりたいならお好きなようにどうぞ」


 こいつ。日原さんに張り付いて調べ尽くし、行動パターンをここまで計算できるようになったのか。


「調査を重ねた上で出したこたえなんだろうが……今回はその計算は狂うぞ」


 俺はリビングで寛ぐキルに冷ややかに笑んだ。


「日原さんは浴衣を着てくるんだよ。知ってるか、浴衣というのは着るのが難しい。自分でやらずに誰かに着付けをお願いする可能性だってある。よって、いつもどおりの行動パターンと違った時間配分で行動する」


「なんだって!? 浴衣だと!?」


 キルが目を剥いて叫んだ。


「その可能性は考えてなかった」


「ラルから聞いてないの?」


「聞いてないぞ! あいつ、私とサクの戦いを面白がってわざと情報流さなかったな!?」


 ラルは自分さえ楽しければいい性格なのだ。


「美月の性格を考えると、遅刻はしない。ということは間に合うように早め早めに着付けする。いやでも、着てから家で時間潰すか……?」


 キルが考えはじめた。俺はそれを眺めて、返す。


「浴衣姿をご両親に見られたら、こっそり出かけるのがばれる。一度着たら戻らないんじゃないか?」


 キルも真顔で首を捻った。


「とすると……異常に早く待ち合わせに来てしまう可能性が高い」


「てことは……もしかしてもう来てるかも……」


 生憎スマホが壊れて、今どこにいるか確認ができないが……。

 俺とキルはしばし顔を見合わせて、同時にダッとリビングを飛び出した。

 相手を待たせるスタートは格好悪い。こちらがより早めに出て待っているべきだった。


 キルも俺を追いかけて向かってくる。俺より先に日原さんと合流し、ひとりで待つ彼女を狙うつもりだ。

 一秒でも時間を稼ごうと、キルが出てくる前にリビングの扉を閉める。それをキルは悠々と突破し、狭く短い廊下でせめぎ合いになった。玄関口へは俺の方が先に着き、突っかけるだけのサンダルに足を引っ掛けた。武器を仕込んだブーティをサッと履いたキルがすぐ背後につけてくる。俺は外に出るや否やバンッと扉を閉め、キルの鼻先に扉を叩きつけた。


「痛あっ! わざとだろ今の!」


「ごめん! ちょっとわざと」


 扉の向こうから聞こえる悲鳴に雑に謝って、外に停めてある自転車の横に屈む。鍵が煩わしかったが、一刻も早く日原邸に向かうためには徒歩よりこちらの方が都合がいい。しかし、鍵を合わせる途中で違和感に気づいた。


「タイヤが凹んでる」


 すると少し遅れて玄関から出てきたキルが、余裕げに目を細めた。


「バカめ。お前がチャリを使おうとすることなど予測の範囲内だ。先にタイヤの空気を抜いておいたんだよ」


「小賢しい真似しやがるじゃねえか」


 キルの台詞をそのまま打ち返してやった。キルはニイッと笑って、俺を通り越してお隣のブロック塀に飛び乗った。


「じゃ、お先に!」


 キルがブロック塀の上をタタタッと軽やかに走り出した。俺も自転車を外壁に放って、徒歩で駆け出す。もちろん塀ではなく歩道を走る。キルはブロック塀の細い足場を忍者のように駆け抜ける。

 俺もそこそこ、全力を出せばキルと競り合うだけの脚力が出た。キルがおおっとどよめいて余裕げに笑う。


「意外と足速いな」


「キルとは脚の長さが違うからな」


「なんだと!? 私がチビだとでも言いたいのか!」


 息の合間にこたえる俺に、キルはブロック塀から怒りの飛び蹴りをかましてきた。お互い、住宅街の静かな路上に崩れ落ちる。アスファルトに倒れて、俺はバッと顔を上げた。


「あっぶねえ! 周りに人がいたら巻き込んでたぞ!」


「いもしないオーディエンスの心配してんのかよ」


 キルは俺の言葉をバッサリ斬って、反対側の民家の塀に飛び乗った。


「足がそこそこ速いのは認めてやる。だが、サクが普通の通路を普通に進んでるうちに、私はアサシンらしく三次元で移動する。それでも追いつけるか?」


 白い死神が塀の上から俺を見下ろす。アサシンらしく三次元で移動、というと、多分他人の家宅の屋根に乗ったりして縦横無尽に道程をショートカットするつもりなのだ。俺をおちょくるように再び駆け出すキルを、必死に追いかけた。コンパスの長さのせいで一歩あたりの歩幅が小さいキルだが、この身軽さを活かして最短距離を取る。こんなの追いつけるはずがない。


 せめて出かける前に、日原さんにキルに気をつけるよう電話しておけばよかった。今すぐにでも伝えたいのにスマホが壊れているせいで不可能である。

 なにか策はないかと考えはじめたときだった。


「うあっ!」


 キルの悲鳴が聞こえ、顔を上げた。見ると、キルと同じくブロック塀の上を歩いてくる茶トラのデブ猫と、真正面からエンカウントしているではないか。


「なんだお前、道を譲れ!」


 猫に威嚇するキルに、猫もシャーッと威嚇し返す。猫との真剣な喧嘩で立ち往生するキルを、俺は今だとばかりに追い抜かした。ちらと後ろを見ると、抜かれたと気づいたキルがぴょんとジャンプして、猫の頭上を通り越していた。


「お前に構ってる暇はないんだよ、このシマシマタヌキ!」


 だが、猫は太っているくせに、野良のたくましい運動能力で機敏にキルに飛びかかった。


「わあ! なんだしつこいな!」


 キルの悲鳴が上がる。キルはともかく猫の方は喧嘩を売られたと思ってしっかりキルに挑んだのだ。狭い足場で猫と格闘し、キルはよろめいて塀の向こう側へと落っこちた。

 俺は気にせず走り去った。大丈夫だ、あいつはブロック塀の高さくらいから落ちたって受け身を取る。


「うぎゃああ! サク! 助けっ……」


 キルの断末魔と、ブロック塀の向こうの家の犬の吠える声が聞こえるが、キルなら大丈夫だろう。俺は彼女を見捨てて、日原さんの待つ学校へと急いだ。


 *


 住宅地から学校の方面へ向かうにつれて、人が多くなってきた。親子連れやカップル、ヤンチャそうな中高生のグループやらが、花火大会会場となる河原の橋に向かって、楽しそうに歩いていく。中には浴衣を着た人もいて、これから始まる花火大会の雰囲気を盛り上げていた。

 そのぱらぱら出てきた人の群れを追い越すように、俺は走っていた。楽しそうな人々の中で、俺だけが緊迫の形相で全力疾走している。


 と、突然足がなにかにつんのめった。派手にビタンッと転ぶと、余計に周囲からの注目を集めた。一瞬、なにが起こったか分からなかった。なにもないところで転んだ自分が信じられない。

 すっ転んだ姿勢のまま振り向いてみると、サンダルの踵にナイフが突き刺さっているのが見えた。薄っぺらい靴底を貫通して、アスファルトにまで縫い付けられている。


「やっと追いついた……!」


 頭上から声がする。声の方を見ると民家の屋根の上にキルがいた。先程の猫にやられたらしく、頬に引っかき傷がある。道を歩いていた人々もキルに気がついて見上げ、目を丸くしていた。


「この私を置いてけぼりにするなんて、生意気だぞ」


 キルがダガーナイフを構え、不敵に笑う。俺は夕空の下で笑むキルを見上げた。


「お前……アスファルトに突き刺さるって、どんなナイフだよ」


「角度と速度と材質。これがプロの仕事だよ」


 キルがナイフをこちらに向けて、民家の屋根を飛び降りてきた。


「もう片方の靴も突き刺してやる。残念だったな、貴様はここで終わりだ!」


 傍で見ていた人たちがざわつく。俺も歯をギリッと噛んだ。両足を縫い止められたら、ナイフを抜く手間は二倍。的がずれて直接足に刺さったらいよいよ走れない。

 俺は刺された靴を脱ぎ捨て、飛びかかってくるキルを転がって避けた。そして反対の靴も脱いで利き手に持ち、キルの手のナイフに叩き込む。パシッと軽い音がして、キルのナイフは彼女の手からはね飛ばされた。


「危ねえな! 足に刺さったらどうすんだよ!」


 くわっと憤る俺を、キルは驚きつつも感心していた。


「すごい! 本当に反応速いな」


「お陰様でな!」


 脚がズキッとする。思い切り転んだせいで膝を擦りむいたようだ。服に血が滲んでいる。


「ほら、キルのせいで怪我した!」


「ははは! これで走れないなあ! 美月の命は貰ったぜ」


 キルは謝るどころか俺を茶化し、再び学校の方へと走り出した。


「させるか!」


 俺は靴をキルの後頭部に投げつけてやった。見事に命中してフードの後ろ頭が微かに汚れる。


「うひゃっ。なにをする!」


 一瞬立ち止まったキルに向かって、俺も駆け出した。串刺しにされたサンダルはもう放置だ。裸足で焼けたアスファルトを踏むと、土踏まずまで熱い。花火の見物のために出てきた町の人々が驚きつつも可笑しそうにこちらを眺めている。

 脚の痛みを堪えてキルを追いかけ、彼女のフードの付け根を掴む。首根っこを取られたキルはバタバタ暴れた。


「放せ! もう学校まですぐそこなんだから」


「だからこそ放さないんだよ!」


「放せええ!」


 キルが後ろ頭で頭突きしてくる。勢いでうっかり手を離した。着地したキルが待ち合わせ場所にダッシュする。周りのくすくす笑いなんか気にしていられない。俺も裸足で追いかけ、やがて学校の正門が見えてきた。


 瞬間、俺は息を呑んだ。

 門の前で真っ直ぐ立つ、白い浴衣の少女がいる。遠くからでも分かる麗しい佇まいに、全ての思考が止まる。ひと目で日原さんだと分かった。


「ひとりでいるなんて不用心だぜ。自分の置かれた立場を分かっていないようだな!」


 前方でキルが加速する。俺も我に返って追いかけた。暗殺者は日原さんに突進しながらナイフを手に構える。このまま奇襲をかけるつもりだ。こちらもなりふり構っていられない。


「だめっつってんだろ!」


 後ろからキルのフードを引っ張って、こちらの懐に引き込む。そのまま腕の中に抱き込んで止めようとしたが、キルが屈んだせいでお互いバランスを崩した。


「ああああ!」


「ぎゃあああ!」


 互いに間抜けな悲鳴を上げながら、俺とキルは一緒に転げて一緒にべしゃっと地面に突っ伏した。

 キルが握っていたナイフはスコーンとすっ飛んでどこかへ消える。俺の胸元に包まれていたキルは、かわいそうに俺の下敷きとなった。

 日原さんがこちらに気がついて、ぎょっと目を剥いた。


「えっ、朝見くん!?……と、キルちゃん!? どうしたの、大丈夫?」


 下駄をカラカラいわせて、こちらに走ってくる。俺はキルにのしかかったまま、顔を上げた。視界に広がるのは、いつにも増して一段とかわいい日原さんの姿だった。


 白をベースにした浴衣には淡い桜色の花柄がふわっと浮かび、腰に桃色と夕空色のグラデーションの帯を締めている。帯には町で配られている花火の写真入りの団扇が刺さっていた。唇はほんのり色づいて、傾いた日を受けて潤む。艷めく髪を高い位置で縛って、ふんわりした花飾りを添えていて、目の当たりにした俺はまたしても呼吸も思考も止まってしまった。

 呆然とする俺に潰されて、キルが低い声を出す。


「サク、重い」


「あっ、ごめん」


 うつ伏せの体を起こすと、ぺしゃんこになったキルが、顔だけじろりとこちらを向いた。


「気づかれちまったじゃんか……折角ひとりだったのに」


 つまらなそうにこちらを睨むキルに、俺は安堵した。一先ずは奇襲を食い止めた。当の日原さんは目の前にしゃがんで、事態を呑み込めずに目をぱちぱちさせていた。


「ふたりとも怪我してるし、朝見くん靴履いてない。一体なにがあったの?」


「キルが日原さんにいたずらしようとしてたから、ちょっとむきになって止めただけ」


 可憐な日原さんに苦笑いする。日原さんはベストコンディションといっていいほど完成されたスタイルでいるのに、俺とキルときたら怪我はあるわ汚れているわでボロボロである。


「それより日原さん、ごめん!」


 俺はキルを抱えてしゃがんだ姿勢で、頭を下げた。


「花火大会、楽しみにしてるの分かってたのに、行くなとか言って、本当にごめん」


 本人を前に、きちんと謝っておきたかった。日原さんはしばらく黙り、やがて言った。


「顔上げて」


 穏やかな声色に、そろりと顔を上げる。その直後、額をぺしっと団扇で叩かれた。


「楽しませてくれないと、許さないからね」


「ご、ごめんなさい……」


 もう一度謝ったが、しどろもどろになった。怒り方もかわいい。キルが俺を見上げて怖い顔をしているのも、気にならないくらいだ。


 本当は、今日はこれからあなたの命を本気で狙う奴がいると、きちんと話しておきたかった。その方がいいとは思ったが、言えなかった。

 日原さんがこれほど楽しみにしていた花火大会に、不安な思いを抱かせたくない。暗殺者なんて、俺が止めればいい。所詮はキルなのだ。


「待たせちゃった?」


 聞くと日原さんは首を振った。


「全然。それより、怪我は大丈夫?」


「平気。もう血は止まってるから」


 擦りむいた膝はもう乾いている。それにはキルが驚愕した。


「嘘だろ!? そんなに早く止まるものか!?」


「俺は怪我の治癒が早いんだよ」


「なんだそれ、まるで……」


 なにか言いかけて、キルは途中で言いたいことが変わった。


「そんなことより会場に急ごう! りっくんとまひると合流しよ」


 どうやらひとりでいる日原さんを狙うのに失敗したのを開き直り、次の作戦に切り替えたようだ。陸たちと合流して人混みの中に紛れ込み、日原さんを殺すつもりだ。

 それは察したが、合流すべきなのは同意である。


「今頃まひるが陸のところに着いたんじゃないかな。行こっか」


 見苦しい格好だが仕方ない。俺はむくりと立ち上がって、日原さんの隣に立った。同時に、キルの手首を引っ掴む。日原さんの隙を窺うキルを、先に拘束しておきたい。掴まれたキルは一瞬こちらに鋭い視線を突き刺してきたが、負けを認めたのか振り払おうとはしてこなかった。日原さんが心配そうに眉を寄せる。


「本当に大丈夫……? なんで靴がなくなるの?」


「なんでもないよ。靴は陸に借りるから気にしないで」


 日原さんの当然の疑問を受け流して、陸の元へと歩き出す。日原さんも戸惑いながらついてきた。

 日原さんがきれいなせいで、俺とキルのみすぼらしさが際立つ。横顔があまりにも可憐で、緊張してしまう。少しの無言が焦りになって、思い出したように会話を投げる。


「今日はラルも来てくれたんだよ」


「ラルって……あの、隣のクラスに転校してきたあのラルちゃん? いなくなっちゃったって聞いたけど、来てくれたんだね!」


 日原さんはぱあっと無垢な笑顔を見せた。


「よかった。元気だったんだ。あれから一度も会えなかったから心配だったの」


「なにか事情があったみたいだよ。でも病気とかではないみたいだな。今は陸と仲良くなったし、キルやまひるとも打ち解けてる」


 事情というのは日原さん暗殺が原因だし、キルとラルは最近打ち解けたのではなく旧知の関係なのだが、そこは誤魔化しておいた。日原さんは心から嬉しそうに微笑んだ。


「よかった! 今日はいっぱい思い出作ろうね」


 花火大会に来ないように言ったのが本当にバカみたいだ。こんな眩しい笑顔を、奪おうとしてしまっただなんて。

 しかし、今まさにこの笑顔を潰そうとしている奴がいる。低い位置から視線を突き刺している暗殺者は、一瞬でも目を離せない。気を抜いたら、今にもナイフで日原さんを襲いそうなオーラを醸し出している。

 俺はキルの手首をぎゅっと握り、そちらに気を配りつつ日原さんとはなにの変哲もない会話をした。


 花火大会会場に向かう見物客たちが、ちらちらとこちらを見て訝しげな顔をする。きれいな装いの日原さんに対し、怪我をしている上に裸足の俺と、汚れた犬耳フードのヘンテコな少女の組み合わせだ、視線を集めてしまうのも無理もない。

 どう見ても釣り合わない奇妙な三人でしばらく歩き、商店街に入る。惣菜屋の前のベンチに、こちらに負けず劣らず目立つ三人がいた。やたらと長身の男と、小さな女の子と、妖艶な色香を漂わせる浴衣の美女。他人のことを言えた立場ではないが、相当アンバランスな組み合わせである。


「お兄ちゃん! こっちこっち」


 まひるが真っ先に気がついて、こちらに手を振り上げた。それから陸とラルが同時に振り向いた。日原さんが苦手なままのラルは、少し苦い顔をしていた。日原さんはその面持ちの理由も知らず、心底嬉しそうに目を輝かせた。


「ラルちゃん! よかった、元気だったんだね」


 タッと駆け寄って、ベンチに座るラルに抱きつく。久々の美女の共演、それもばっちりスタイリングされた浴衣姿である。俺と陸は長めのまばたきをした。まばゆい。

 ラルは心のきれいな日原さんに嫌悪の表情を垣間見せたが、すぐに猫を被った。


「心配かけてごめんね美月ちゃん。放課後遊ぶ約束も、結局流れちゃって……」


「そんなの気にしないで! 私、ラルちゃんが元気でいてくれただけでとっても嬉しいから」


 日原さんが脱力してラルの首筋に顔をうずめる。このあまりにも澄んだ日原さんの言葉に、ラルが早速嫌気が差した顔をしていたのを、俺は見逃さなかった。

 華やかなふたりの浴衣美人を眺めつつ、陸に声をかける。陸もこちらを振り向かずに返事をした。


「なあ陸、靴貸して。履いてたんだけどなくした。もしよろしければ傷を洗わせてほしいし、消毒液とかも借りられると嬉しい」


「なにがあったらそんなボロボロになるんだよ?」


 陸は困惑しつつもベンチから立ち上がって、惣菜屋の裏に回った。俺もキルの手を引いて陸の背中を追った。

 外のホースで足の傷を洗う。陸が玄関からサンダルを持ってきてくれた。サイズの合わないそれを俺に突き出して、それから陸は真剣な目でこちらを見据えた。


「ラルちゃんの浴衣が見られると思ってなかったな。しかも美月ちゃんまで着てくれたし、ふたりとも楽しそうで良かった」


「あ、うん、似合ってたよな」


 あのふたりの、というかラルの水面下の悪意を除けば、ふたりともとってもきれいだった。日原さんファンであることに加えてラルに騙されている陸にとっては、夢の光景だっただろう。


「前に咲夜に、『美月ちゃんと隣の席になれたら死ねる』って言ったの覚えてる?」


「そういや言ってたな」


「今、死ねるを超えて成仏した」


「そうか……安い人生だったな」


「幸せでした」


 陸はニヘニヘ笑いながら消毒液を取りに奥へ消えた。キルが傷口を水で流しつつ、陸の後ろ姿を見送ってにんまりする。


「いい感じにラルに惑わされてるな。このままラルにりっくんを操作してもらって、三人がかりで美月を陥れようじゃないか」


「そうはさせない。先に陸の目を覚まして、あいつにも日原さんを守るのに協力してもらう」


 俺が言い返すと、キルはポコッと俺の背中を小突いてきた。


「りっくんは美月を狙う暗殺者だもん、私たちに力を貸すに決まってる」


「なわけあるか! あいつは暗殺者じゃなくて俺の友達なんだから、俺に力を貸すに決まってんだろ」


 デコピンでやり返す。キルは余計に噛み付いてきた。


「サクなんかよりラルだもん!」


「陸はそんな奴じゃありませんー!」


 ポカポカとお互い拳で拳を突き合わせているところへ、陸が戻ってきた。


「なにやってんの!? まだ怪我増やしたいのか」


 陸はキルの腕を掴み、消毒液をキルの頬に塗った。猫の引っかき傷に沁みたらしく、キルがギャッと短く叫ぶ。俺はそのちょっと手際の悪い陸の仕草を、隣で見ていた。


「悪いなあ、こいつの手当までしてもらって。それに、ラルとふたりきりのところに、まひるが邪魔しに来たんじゃない?」


 謝ってみると、陸はギロッとこちらを睨んだ。


「本当だよ! ラルちゃんにぴったりの褒め言葉が出てこなくて詰まってるうちにまひるが突進してきて、結局なにも言えなかったんだからな」


 どうやらまひるは、俺の思いどおりにラルを阻んでくれたようだ。


「まあ、まひるは俺の妹みたいなもんだからいいんだけどな。飴あげたらすごく喜んだよ」


 陸の面倒見の良さも上手く働いた。陸はキルの頬に絆創膏を貼り付けて、今度は俺に消毒液を向けた。


「お前も脚の怪我、消毒しとこうな。どうせもう治りかけてるんでしょうけど」


 俺の謎の治癒力の高さを知っている陸は苦笑いしていた。キルが怪訝な顔をする。なにか言いたげにしていたが、頬の消毒がまだ沁みるらしく口元をピクピクさせて黙っていた。俺は陸から消毒液を受け取った。


「なあ陸。日原さんは花火大会の会場に行くの今年が初めてなんだって。ラルもだけど、ふたりともナンパされそうだからなるべく離れないで見守ってくれや。陸はタッパあるから、俺より迫力ある」


「仕方ねえなあ、これは俺の使命だよな! 咲夜は子守りに専念してな」


 ご機嫌な陸は俺の頼みをすんなり呑んでくれた。キルが頬が痛むついでに顔を顰める。彼女は陸のガード力を思い知っている。陸が日原さんの守護神になるのは、分が悪いのだ。


「待てよ、りっくん。私もサクよりりっくんと遊びたいぞ」


 陸を取り込もうとしているが、陸は嬉しそうに笑ってキルの頭を撫でるだけだった。


「分かった分かった。一緒においしいもの食べような」


「おいしいもの! わーい!」


 キルは食べ物の話題を前に、一瞬で目的を忘れて喜んだ。


 *


 外に戻ると、日原さんはまひるを膝に乗せてラルとお喋りしていた。ラルも楽しそうに笑っているので、本当に仲が良くなったように感じた。だが、よく見たら左手に毒針のようなものが見える。まひるを含め周りにぱらぱら人がいるから手出しできないだけで、ラルは今でも日原さんの命を狙っていた。ついキルに気を取られて迂闊にふたりを残してしまったことに、今更ヒヤッとした。


「お兄ちゃん、早くしないと花火大会始まっちゃうよ」


 まひるが急かしてくる。


「花火始まる前に焼きそば食べるの。りんご飴とフランクフルトもだよ」


 並べられた名前に、キルが唾を飲む。


「屋台の食べ物ってなんであんなに魅力的なんだろうな。よし、最初に腹ごしらえだ」


 キルの興味は食べ物に傾いている。キルがおいしいものに集中している間は、攻撃の手は止まると考えていいだろう。それには少し安心した。


 まひるとキルが会場の橋の方へ走っていくのを、日原さんが追いかける。ラルは陸の隣にピタッとついた。俺は履きなれない陸のサンダルで、しんがりをつとめた。仲のいいきょうだいを見ているような、妙に穏やかな気持ちになってくる。

 しかしこれは、悪夢の花火大会の始まりだった。

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