13.お前ら全員悩みの種。

 翌朝、最悪の気分で夏休みが始まった。学校へ急がなくていいから、まひるはいつまでも起きてこない。

 親父と関わりたくなくて、俺はそっと家を出た。出かける前に、仏壇の母さんに手を合わせる。

 ペットは暗殺者、父親はエージェント、祖母は総裁。相談できそうな友人にはこちらの話を信じないし、連絡先をくれたカウンセラーは俺を狙う暗殺者。学校の先生にも、相談はできない。彼らの中に、内通者がいるらしいから。

 この環境の中で俺が縋るのは亡くなった母さんだけで、信じられるのは自分しかいない。


 炎天のうだるような暑さで、くらくらする。親父から逃れるための散歩のついでに、昼飯用に惣菜を買うことにした。流石に毎食作るのは面倒なので、時々こうして全品出来合いにする。

 商店街に入り、陸の家の惣菜屋「うなばら」に立ち寄った。店に入る直前で、声をかけられた。


「おお、咲夜じゃん! いらっしゃい」


 店の前の掃除を手伝わされる陸だ。彼は持っていた竹箒を店の外壁に立てかけるやいなや、俺の背中をバシンと叩いた。


「だるそうだな。ハッピーが飽和状態か?」


「そんなふうに見えるか?」


 俺は寝不足の目でどろりと陸を睨んだ。親父のせいで頭がぐちゃぐちゃで、あまり眠れていなかったのである。そんな俺の不機嫌も、陸はポジティブに受け取った。


「さては春の訪れに心が踊って、眠れなかったな?」


「夏だろ」


「そういう意味じゃなくて、お前の頭が春なんだよ」


 俺のどこが春だというのだ。むしろ凍えているくらいである。悩みが大きすぎて、押し潰されそうだ。陸は再び箒を手に持ち、穂先をアスファルトに押し付けた。


「俺がこの噂に気が付かないとでも思ったか。お前、ついに美月ちゃんから花火大会に誘われたんだってな?」


「あ!」


 言われて思い出した。そうだった、日原さんは大人数で遊びたくて、陸やまひると一緒に行こうと言ってくれたのだった。親父が帰ってきて大騒ぎになったせいで、すっかり抜け落ちていた。


「そうそう、そうなんだよ。あー、まひるにそれ言うの忘れてた」


「妹にまで自慢すんのかよ」


 陸が今度は箒の柄で、ドスッと背中を殴ってきた。結構痛い。


「陸にもちゃんと言うつもりだったよ。陸も一緒に行きたいって言ってたから、ちょうどいいなと思ってた」


 まさしく陸の希望どおりになったのだ。しかし陸は訝しげに声を低くした。


「バカか。なんで俺がそこに混ざるんだよ」


「お前が行きたいって言ったんじゃん!」


「流石に邪魔しねえよ!」


 陸がなにを言いたいのか分からず、俺は隣でオロオロしていた。陸ははあと長めのため息をつく。


「なんだかなあ。まさか咲夜が出し抜いてくるとは思いもしなかったけどなあ……。人畜無害カップルの誕生だな」


 その呟きに、俺はハッとなった。そうだ、噂を聞きつけてこんなことを言うのだから、日原さんの友人勢と同じで、デートだと思われているのだ。


「あのね、陸」


「でも俺は割り切るよ。誰だか知らねえ奴だったらむかついたかもしれないけど、咲夜なら諦めがつくよ。お前いい奴だもんな。いい奴すぎてしんどいだけで」


「おい陸、聞け」


 出たぞ、このパターン。勢いだけで生きているせいで、一度思い込んだらこちらの話を聞かないという陸の悪い癖。

 日原さんは決して俺を選んだのではない。青春の思い出として、友達を集めて遊びたいだけなのだ。その窓口として、俺に声をかけてくれたというだけ。


「人の話聞けよ! そうじゃないってば」


「はいはい! お前はいい奴だから、美月ファンクラブを怒らせないためにそうやって隠そうとするんだよな。もういいんだよ、誰も怒んねえよ。美月ちゃんが選んだんならな。破局しろと念を送るだけだ!」


「陰湿だな」


「冗談。ほんとは、咲夜に春が訪れたのを見て、俺もちょっと前向きになれたんだよ」


 陸がふふっと諦めに似た笑みを浮かべた。


「ずーっとこそこそと遠くから眺めて、様子窺ってるだけじゃなんにもならないんだなって。言わなくても分かることもあるけど、そんな都合のいいことばっかりじゃない。気持ちって、ちゃんと言葉にしないと届かないんだよ、きっと」


 急に開いた陸の悟りを、俺は黙って聞いていた。陸は上空の白い太陽を見上げた。


「よし……俺、ラルちゃんに告白する」


「やめろ」


 俺は間髪入れず止めた。陸がぎゅんっと振り向く。


「なんで!?」


「なんでじゃねえ! あいつに近づくなって言っただろ!」


 まさかここでラルの名前が出てくるとは予想外だった。油断した。ラルが「陸が靡かない」と言っていたから、ここは大丈夫だと思っていた。折角決意したところ申し訳ないが、あの暗殺サキュバスだけはやめた方がいい。しかし陸は納得がいかず怒った。


「なんで止めるんだ! 咲夜には美月ちゃんがいるだろ。止める権利はないはずだ! 欲張るんじゃねえ!」


「そうじゃないってさっきから言ってるし、たとえそうだったとしても絶対だめだ!」


 ギャーギャー揉め出した俺たちを、商店街を歩く人々が振り向く。そんなことはお構いなしに、俺は陸の邪魔をした。


「大体お前、ラルより日原さんの方が好みとか言ってなかった? 妥協みたいなのは失礼だぞ!」


「そうじゃねえよ。たしかに最初は、好きとかそういう感情はなかった」


 陸が額を押さえる。


「でも、なんか心配で仕方ないんだよ。危なっかしくて、秘密に満ちてて、それでいて助けを求めるような目で笑う。気がついたらあの子をなんとか助けてやれないかって、そればっかり考えるようになってた……!」


「毒だ! 毒が回ったんだよ!」


 なんということだ、最初の手応えさえ微妙だったものの、ラルは長い時間をかけてじわじわと陸を毒していたのだ。陸の意識が自分に向くように仕掛け、恋愛感情と錯覚させる。これがハニートラップを極める暗殺者の本領発揮か。


「絶対やめろよ、それこそラルの思う壷なんだから!」


「えっ、つまりラルちゃんは俺の告白待ちだったのか?」


 嬉しそうに目を丸くする陸を、鞄で殴る。


「おめでたいなお前は! あながち間違ってないけど、ラルのそれはそんな美しいもんじゃない」


「そうだったのか……期待されてたんなら確実に伝えないと。シチュエーションは花火大会でいいかな?」


 こんなにきらきらした目をされたら、応援したくなってしまう。でもこいつが騙されているのは明らかだ。


 陸を想っての俺の助言もむなしく、陸は全部聞き流して箒を片付けに店の裏に消えた。

 このままでは陸がラルの策略に嵌り、ラルは陸を手のひらで転がすだろう。暗殺者だと思われている陸は、なにかと利用される。もしかしたら日原さん暗殺の駒として使われるかもしれない。そうなる前に、陸とラルが接近するのを阻止しなければならない。


 最悪だ。心配事がまた一つ増えた。

 ただでさえ寝不足で死んだ顔つきをしていた俺は、更にげっそりとして店に足を踏み入れようとした。

 途端に、鞄の中でスマホが光った。見ると日原さんからメッセージが届いている。


「おはよー! 花火大会の件で話したいです」


 シンプルなのにかわいらしさが漂う文面に、一瞬だけ疲れが吹き飛んだ。よかった、まだ生きてる……。真っ先にそう思った。

 やる気を出したキルがいつ襲ってきてもおかしくはない。サニに対抗するべく、彼女は今まで以上に全力でかかってくるのだ。

 親父はその活動を支援しているし、ばあちゃんもキルの味方だ。誰にも止められない。


 死んだ魚の目でのそのそと返事を打とうとして、途中でやめた。本当に生きているか確認しよう。そう思ったらいても立ってもいられなくなり、電話していいかと確認のメッセージを打つのも時間が惜しくて、すぐさま彼女の電話番号を押した。


「朝見くん! おはよう」


 メッセージを送ってきた直後なので、日原さんも携帯を見ていたのだろう。すぐに応答してくれた。元気そうな声を聞いてほっとした。生きている。


「急に電話してごめん。この方がはやいと思って」


 ミーンミーンと、商店街に蝉の声が響く。店の壁に背中を預けて、俺は蒸したアスファルトを眺めていた。


「花火大会の件、まひるちゃんに話してくれた?」


 日原さんが高い声で尋ねてくる。


「それが……話し損ねちゃって。今日にでも言うよ」


 自分でも情けなくなるくらいひ弱な声が出た。自分の命が狙われているとは気づいていない彼女と話すのは、罪悪感で息苦しくなる。日原さんは気にせずに続けた。


「そっかあ。昨日陸くんにも、スマホのメッセージで声をかけてみたんだけど、『恥ずかしがらずにふたりで行ってこい!』って返ってきたんだよ。陸くんも栄子と同じ勘違いしてるみたい」


「はは……それは日原さんから誤解を解いてよ」


「私は栄子にも陸くんにも、皆で遊ぼうって言ってるもん!」


 無邪気に笑う彼女の声を耳にしていると、どんどん罪悪感が広がっていく。小さな頃からお嬢様として育てられてきた彼女が、殻を破って楽しい夏を過ごそうとしている。それなのに、彼女の楽しみを奪い命も奪うキル、そしてフクロウの存在。そのトップに君臨するのが、俺の血筋、朝見家。

 日原さんの声が、まともに聞けなくなった。


「でもまあ、誤解されててもいいかなって気がしてきたよ」


 日原さんがえへへと照れ笑いを入れてくる。俺は黒いアスファルトを見つめて下を向いていた。


「朝見くんだったら、付き合っても楽しいかも。なんてね。今のが誰かに聞かれてたら、また面白がられるところだった」


 なにか言っているけれど、頭に入ってこない。

 ミンミンジワジワジワと、蝉の声が溢れかえるようにあちこちから聞こえる。お前に日原さんと、話す資格なんてあるのか。夏の音がそう問いかけてくるように聞こえた。

 彼女の命を狙う人間の仲間内である俺が、素知らぬ顔で彼女の傍にいるなんて、許されるはずがないではないか。


「朝見くん、聞いてる?」


 日原さんのあどけない声が鼓膜を擽るたびに、ぐっと心臓が潰れそうになる。


「……ごめん」


 ようやく声を絞り出す。電話から流れる日原さんの声は、へ? と間抜けに裏返った。


「どうしたの?」


「花火大会さ、やっぱりちょっと考えさせて」


 前からずっと、彼女の隣にいられる人間ではないと自覚していた。それでも最近は少しずつ仲良くなって、彼女からも友達と認識してもらえる程度にはなった。

 だが、そもそも根底が間違っていたのだ。出生の段階で、傍にいられないことが決まっていたのだから。

 日原さんは少し、慌てた口調になった。


「え、なんで? 嫌だった?」


「嫌なわけないだろ。ただちょっと……」


 上手く言えない。星を見に行った日に「はっきり言え」と言われたのに、この気持ちをどう言葉にしていいのか分からなかった。

 自分が暗殺者集団の幹部の血を引いているだなんて、言いたくない。


「ごめん。でも日原さんだったら、もっと楽しめる友達いると思うから」


 それだけ言うと、日原さんは数秒無言を貫き、やがて明るい声を出した。


「しょうがないな。無理強いするつもりはなかったから気にしないで。ただし来年はよろしくね!」


 日原さんの朗らかな声を受けて、俺も作り笑いができた。


「ほんっとーにごめん! 今度ちゃんと理由を話す!」


 親父ほどではないがテンション高めにそう結んで、通信を切った。切った後で、肺がカラッポになりそうな大きなため息をついた。

 今度理由を話すだなんて言ったけれど、今度っていつだよ。来年はよろしくねと言われたけれど、来年だって、俺に流れる血は変わらない。エージェントミスター右崎の息子でフクロウ総裁の孫で暗殺者の飼い主が、日原さんと一緒になんていられない。いちゃいけない。


 これでよかったはずだ。

 午前の夏の空を見上げると、こちらをバカにしているみたいにぬけぬけと青かった。


 *


 買い物を済ませて、だらだらと家に帰ってきたときだった。


「ただいまー」


「おかえり咲夜くん、待ってたのよ」


 真っ先に玄関に迎えに来たのは、まさかのラルであった。


「うわ……なにしに来たんだよ」


 こいつがいるとろくなことがない。そんな直感が顔に出てしまった。まだ靴も脱いでいない俺の頬に、ラルはそっと手を這わせた。


「そんな顔しないで。キルからミスター右崎が来てると聞いて遊びに来ただけよ?」


 そしてニヤリと、ラルが目を細める。

 

「これもキルから聞いたんだけど……咲夜くん、ミスター右崎のご子息なんですって?」


「う……そうだけど」


「素敵な血が流れてるのね」


 そろりと腰に手を回してくる。薄着の上から撫でられて、ぞわっとした。ラルは俺の肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。


「咲夜くんにそんな優秀な遺伝子が流れてたなんて、知ってたらもっとかわいがったわよ?」


「放してください。暑い」


「簡単に放すわけないじゃない」


 ラルの胸がぎゅっと押し付けられてくる。夏場の暑さに加えてラルの体温が重なり、俺の体も熱くなってくる。

 なるほど、と俺は目を泳がせた。


「さては俺に取り入って、親父から質のいい仕事回してもらうつもりだな」


「勘のいい子ね。そういうところも嫌いじゃないわ。ミスター右崎は奥さん一筋だから、落とせないのよ。咲夜くんはちょうどいい素材なのよね」


 吐息が耳たぶにかかって、ぞくぞくする。体が痺れてきた。

 極秘事項である総裁の存在についてはラルは聞いていないようだが、エージェントの息子というだけでも、充分価値があるのだろう。先日まで「殺す価値もない」とまで言っていたくせにすごい手のひら返しだ。そして生憎、俺はラルの思い通りになるつもりはない。


「俺は親父の仕事とは無関係だから、なにをしても無駄だよ。本当に迷惑だからやめてくれ」


 ラルの肩を掴んで引き離し、俺は気丈に拒絶した。


「ていうかラル、陸に近づくんじゃなかったのかよ。こういうことしてるって陸に告げ口するぞ」


 先程、店の前の掃除をしていた、陸の会話を思い出す。


「陸がラルと花火に行こうかって言ってた。折角思惑どおりなのに、こんなのばれたら水の泡だぞ」


「うん、ついさっき連絡があったわ。ようやく私の手中に落ちたの。でもそれとこれとは別でしょ? 陸くんはミッション、咲夜くんはツール」


「堂々と言ってんじゃねえ! お前になんか利用されないぞ! 陸の目も覚ましてやるからな」


「やあん、男の人にそんな怖い顔されたの初めて。ドキドキしちゃう」


 なかなか離れようとしないラルに必死に抵抗しているとこへ、キルの声が飛び込んできた。


「サクの声がする! 帰ってきたんだな。サクー、お願いがある!」


 キルが階段をダダダと滑り落ちるように降りてきた。飼い主が帰ってきて興奮する犬みたいな現れ方だ。そして玄関で広がる光景を目の当たりにして、おっとどよめく。


「びっくりした、よせよラル」


 第三者からの冷静な反応を受けて、ラルはようやく離れた。


「キルはいつも邪魔してくるわね。ケチなんだから」


 離れてくれると空気がすうっと通って、やけに涼しく感じた。まだ頭がガンガンして、目眩がする。


「いくらミスターに優遇されたいからってサクに媚びるのはだめ! こいつは私が使うんだ!」


 キルがカッと牙を見せると、ラルはにんまり笑った。


「あら、かわいい顔。じゃあキルがいないところでいたずらしよっと」


「もうラルは黙ってろ! それよりサク、お願いがある」


 キルはラルを押し退けて、いまだ靴を脱げていない俺にぴょんと飛びついてきた。くらくらする額を押さえてキルを見下ろす。


「どうした。なにか食べたいものでもあるのか?」


「真っ先に食べ物に結びつけやがって! 違うぞ、今回私はサクに頑張ってほしいんだ。君の幸せのために!」


 俺の左腕にしがみついて、瞳をきらきらさせる。こいつが俺の幸せを願うだなんて、胡散臭いにもほどがある。


「なにを企んでいる?」


 訝る俺を、キルは純粋な子犬のような目で見つめ返した。


「サク、美月を花火大会に誘い出して!」


 一瞬、思考が停止した。キルの頼みは一応耳には届いたが、その意味はいまいち理解できなかった。

 ちょうどさっき、断ったところだぞ。


「誘……え? どういうこと?」


 困っている俺を見て、ラルがニヤニヤしている。キルは純粋ぶったきれいな目で甘えてきた。


「まひるに聞いたんだけど、この町の花火大会ってかなり大きなイベントなんだってな」


 キルは興奮で頬を染めて説明した。


「さあサク、皆のマドンナ日原美月を誘うんだ。お前、あの子にほんのり恋心を寄せてんだろ?」


「寄せてねえよ! 存在価値の大きさが釣り合わないことくらい自分で分かってる!」


 勝手な解釈に頬が熱くなる。振り払おうとしたが、キルはまだ俺にしがみついて靴すら脱がせてくれない。


「知ってる知ってる、サクには料理がそこそこ上手くらいの取り柄しかない。でも私はサクを応援したいんだ、君にかわいい彼女を作ってほしい」


 妙に愛嬌のある笑顔が却って怪しい。なにか裏がありそうだ。


「なんでそんなこと言い出す? またよからぬことを考えてるんだろ。もう一度聞く。なにを企んでいる?」


 腕にぶら下がるキルに低い声で問う。キルはスッと黙った。俺はキルを振り払って靴を脱ぎ、玄関を上がった。背後のキルは、急にいつもの暗殺者の顔に戻る。


「チッ……勘のいい奴だぜ」


 彼女はかわいげのない舌打ちをして、開き直った。


「分かってんなら話は早い。花火大会は大イベントでむっちゃくちゃ混むらしいから、人混みに紛れて美月を殺したいんだ。そこで、確実に美月を花火大会に連れ出してほしかったんだよ。行かないんならチャンスはないけど、誘われれば出てくるかもしれないだろ?」


「やっぱりな。そんなこと考えてると思ったよ」


 こいつが俺にかわいい彼女を作ってほしいだなんて、思うはずがないのだ。あっさり見抜かれたキルに、観察していたラルが笑いを堪えた声をかけた。


「あらら。折角かわいくおねだりしたのにあっという間だったわね。あわよくば、咲夜くんに美月ちゃんを殺しやすい状況に誘導してほしかったのにね」


 キルは親父の話を聞いて以降、サニへの対抗心を募らせている。花火大会を利用して、今度こそ日原さんを殺すつもりなのだ。


「どうせまたあらゆる攻撃を避けられて終わりだよ。諦めろ」


 再び腕からキルを振り払う。キルはそれでも粘った。


「今回は勝算がある! 人混みで美月の動きは鈍くなるし、花火に注目している間はそっちに気を取られてくれる。今度こそ仕留める!」


 ちょっと、なるほどと思ってしまった。たしかにそれなら隙ができやすいかもしれない。しかしそんなことを言われたら、尚更こいつの言いなりにはなれない。


「キルの思いどおりにはさせない」


「なんだよ、あんなかわいい子を花火に誘えるんだぞ」


 キルはカーッと牙を剥いて怒り、それから急に諦めた。


「でもそうだよな。サクなんかに美月はハードル高すぎか。誘えたとしても一瞬で振られるのが関の山だ。美月が花火大会に出てきさえすればこっちはOKなんだから、あいつが行く気なら別に誰と一緒でもいい。お前は女の子ひとり誘えずに、妹の面倒でも見てな」


 露骨な挑発にカチンときた。そこまで低く見積もられるのは心外である。


「そうやって非モテ扱いするけどな、日原さんの方から俺を誘ってきてたんだからな」


 黙っていればよかったのに、ついムッとしてこの事実を喋ってしまった。ラルが唇に指を当てる。


「あら! そうなの? やだー、咲夜くんも隅に置けないわね」


 それから彼女は楽しげにキルに視線を移した。


「だそうよ。どうする、キル」


 キルは一度口を三角にして怪訝な顔をし、遠くを見て、またこちらに向き直った。


「聞き間違いか? 美月がサクを誘ったと聞こえたんだが」


「聞き間違いじゃない。日原さんの手違いでもない。一緒に行きたいって言われたもんね」


 こちらもアホな意地を出してしたり顔をする。キルはそれでも納得できないようだった。動揺した顔つきでこちらを窺っている。


「意味が分からないよ。なんで美月ほどの美少女がサクを……?」


「お前……俺のこと舐めすぎだろ」


「だって、サクなんてただ料理が上手なだけじゃん」


「うるせえな。お褒めに預かり光栄だ」


「どういたしましてバカ野郎。でもなんで? サクのそういう魅力は、ここで飼われてる私がいちばん知ってるはずで、美月はサンドイッチくらいしか食べたことないだろ」


 俺の魅力は料理だけとでも言いたげである。いや、自分でも日原さんにああ言ってもらえて驚いているけれども。

 疑問符をたくさん浮かべてはいるが、キルはやがて考えるのをやめた。


「なにはともあれ好都合だ。美月がその気なら、あいつは自分の墓場となる花火大会に自ら現れる。私の任務完了も決まったな」


「させるものか! もう断ったんだよ。だから俺とは来ない」


「断った!? お前なに様のつもりだ。あの日原美月だぞ」


 キルがぎょっと目を丸くする。それから頭を捻り、続けた。


「まあいい、美月が行くつもりでいるんなら、同伴者がサクじゃなくても他の誰かと出てくるはずだ」


 そうだ。自分も先程、日原さんにそう言った。他にもっと楽しめる友達がいるだろうと。だが、昨日教室で話した内容を思い出した。


「いや、日原さんは周りに俺が振ったと思わせないために、俺が断るんなら花火大会には行かないで家で過ごすって言ってた。だから出てこないぞ」


 言い返して、それからあれっと立ち止まった。日原さんは花火大会に出かけるのは初めてだと言っていた。あんなに嬉しそうに行きたいと言ってくれたのに、こんなの酷すぎないか。

 まひる込みOK、陸も熱望、日原さんの友人たちの誤解を解消した上で巻き込んで行ける、ラルも見張れるなど何拍子も揃った好条件。俺の判断で未来の人間関係が変わる。

 なにより、厳しそうな家庭に縛られる日原さんが、怒られるのを覚悟して楽しもうとしていた花火大会だ。俺が断れば優しい彼女は俺を気遣い、行くのを躊躇してしまう。

 しかし、俺はこんな生まれの汚れた人間だ。一緒に行けばキルの狙いどおりになる。


 重要な判断を担う重圧がのしかかってきた。

 周囲の目を気にして日原さんが出られなくなってしまうのなら、俺の方に行けない理由があることにすればいい。こちらが行くのをやめれば、日原さんは遊びに行けるはず。だが、まひるとの約束がある。これは破れない。日原さんには行けないと言っておいて実際は行っていたら、うっかりクラスメイトとすれ違ったりしたときにややこしいことになる。

 考えれば考えるほど、分からなくなる。

 固まる俺を、キルがじーっと眺めている。


「美月、花火大会来ないのか?」


 混乱する脳内を一つずつ整理した。いちばんシンプルな部分に絞る。

 日原さんが花火大会に遊びに行けば、キルに狙われる。行かせないのはかわいそう。

 これに加えて周囲の目やまひるの約束、俺の生まれ持った立場による気持ちなどと、問題が膨張していくのだ。

 俺はキルの瞳に視線を返した。


「なあキル。今回だけは、仕事を忘れてくれないか」


 よいしょ、と玄関マットに座る。キルは黙っていた。ラルは壁に寄りかかってニヤニヤしている。俺はキルに向かって続けた。


「日原さんに、花火大会だけはどうしても行かせてあげたいんだ。ね、キル。なにか好きなもの作ってやるから」


 日原さんに花火大会来るなというのはあまりにもかわいそうだが、だからといって死なれるのはもっとだめだ。

 彼女が俺に変な気を遣うとか、誰がどう思うとか、そんなことは後で考える。とにかく、一旦だけでも暗殺計画は止めてもらいたい。キルはもちろん、眉を顰めた。


「このチャンスをみすみす逃せというのか。こっちは今回こそ決めなくちゃならないんだよ」


「霧雨サニなんてどうでもいいだろ。親父だって今は使えてないって言ってたし、サニがいないならキルがいちばんなんじゃないの?」


 適当に褒めてキルの気分をよくすれば、気が変わるかもしれない。


「現役で動いてない奴なんて気にするなよ。俺はキルを二番目だなんて思わない。俺のペットはお前だけ。『ひとり目の生島キル』だと思ってるよ」


 無言で見ているラルが一層にやつく。キルはしばらく口を結んでいた。数秒後、キルが俯いた。


「……そうか」


 よかった、大人しくなった。これで日原さんは安全に花火大会に行ける。あとは俺とまひるがどうするかだ。と、そう思ったのも束の間、キルはバッと顔を上げた。


「そうかそうか! お前は私がこんなに必死でも美月優先なんだよな! サクにとっていちばん大事なのは美月なんだな!」


「あれ!? なんだこの流れ!?」


 惣菜の入った袋を落としそうになる。キルは牙を剥き出しにして、頬を熱くした。


「私の真剣な頼みより、美月が花火大会を楽しむ方が大事なんだろ。なんかむかつく! なんでか分かんないけどすんごくむかつく! 絶対美月ぶっ殺す!」


 却って火がついてしまった。どうしてだ、どこで間違えた。俺は慌てて、キルの向こうのラルに目配せした。しかし彼女は一連の流れを楽しそうに眺めるだけである。

 キルが声を張り上げる。


「じゃあもういい、サクなんか使わない! 私は私だけの力で、サニを超える!」


 怒っているというより、泣きそうなのを堪えているようにも聞こえた。呆然と立ち尽くす俺を見上げ、それからキルは感情を呑み込むように下を向いた。


「……すまんな、熱くなりすぎた。とにかく、サクがそのつもりなら、私はサクの世話にはなれないな」


「協力はしないと、初めから言ってたはずだ」


「そうだったね。うん。そうだった」


 キルは自嘲気味に言って、小さな靴に足を引っ掛けた。


「花火大会に向けて、美月暗殺の準備を整えてくる」


 彼女はこちらにくるっと背中を向けて、玄関の扉を開けた。


「待て。会場になにか仕掛ける気か?」


「秘密」


 ニッと笑うキルに、なんだか妙に嫌な予感がした。咄嗟に引き止めようと手を伸ばしたが、ようやく届いたのは後ろに靡いていた尻尾型ポーチだけ。指先にふわっと毛が触れただけで、引っ張ることもできなかった。キルは振り向きもせず、出ていってしまった。


 なにかよからぬことを企んでいる……ということ以上に、なんだか胸がざわついた。最後こそ笑っていたけれど、あんな思い詰めたように訴えてきたのだ。追いかけて、ちゃんと話を聞くべきだとも思った。

 だが追いかけたとしてもあいつの足の速さに追いつけるわけがないので、俺は半開きの扉から顔を出して呼びかけた。


「昼飯までに帰ってこいよ!」


 覗き込んだときには、もうキルの姿はなかった。めちゃくちゃすばしこい。扉を閉めて振り返ると、ラルが玄関マットの上でしゃがんでいた。上目遣いで睨んで、ぽつんと零す。


「最低」


「なに……お前に言われたくないぞ」


「あんた、ペットを外に逃がすなんてそれでも善良な飼い主?」


 冷ややかに言われて、こちらも眉間に皺を寄せた。


「花火大会の会場は今準備中で、関係者以外が入り込んでたらつまみ出される。大丈夫だと思う」


「そうじゃなくて、楽しいイベントの息吹を感じたから……女の勘でね」


 楽しいイベント、とは皮肉な言い方である。ラルはキルが傷ついたとでも言いたいのだろう。女の勘でもなんでもない。キルが傷ついたのは、俺にだって分かった。ただ、分かっててもフォローしてやらなかっただけだ。


「知らねえよ、あんな奴。勝手に住み着いて勝手に人を利用しようとして、なんの罪もない人を殺そうとしてるんだぞ」


 ちょっとくらい落ち込んで、反省してもらいたいくらいだ。


「自分より日原さん優先なのがむかつくだと? なにも悪くないのに狙われてる日原さんが優先、それは当たり前だろ。あいつが俺の世話にならないって言うんなら結構。こっちは初めからあいつの言いなりになるつもりはない」


 ラルは静かにこちらの言い分を聞いていた。


「キレたいのはこっちだよ。好きでこんな家系に生まれたわけでもないし、なんでこんなに悩まなきゃならないのか分かんないし。その上なんで俺があいつのご機嫌を取らなくちゃならないんだ」


「それもそうね」


 ラルはあっさり納得した。


「ただ、キルがあそこまで直情的になったの初めて見たのよ。いっぱいいっぱいだったのかもしれないわね」


「そんなこと言って同情誘っても無駄。なんと言われようが協力なんかしない」


「つれないわね。そんなんだから、女の子の繊細な気持ちに気が付かないのよ」


 いちいち腹立つ言い草だ。俺はラルを放置して、買った惣菜を冷蔵庫へしまいに、キッチンへ向かった。


 *


 それから二時間くらい経って、親父とばあちゃん、いつの間にか起きたまひるがリビングに集まっていた。そこに当たり前のようにラルが混ざっている。


「ラルお姉ちゃん、この前は心配かけてごめんなさい」


 家出まがいを起こして以来になるラルに、まひるがぺこりと頭を下げた。ラルはまひるの丸い頭をぐりぐり撫でた。


「いいのよ。お兄ちゃんが気が利かないのが悪いんだもの」


「え、なになに。なんかあったの?」


 親父が食いついて、ラルとまひるはあの日の出来事を親父に話しはじめた。あの現場で総裁らしさを発揮したばあちゃんは、自分から触れるようなことはせず黙って微笑んでいる。俺はソファに座ってスマホを弄りながら、その光景に静かに馴染んでいた。

 暗殺者とエージェントと総裁が集まっている状況ではあるが、傍から見たらどこにでもある普通の家族みたいだ。というか、エージェントと総裁の職に気づくまでは、当事者である俺自身も、ありふれた家庭だと思い込んでいた。


 リビングに広がる平穏な日常風景を眺めていると、平穏なのに、どこか物足りなさを感じた。ちらとスマホの画面右上の時計に目をやる。もう十一時も半を回って昼食時だというのに、キルが戻ってきていない。一応確認したが、屋根の上にもいなかった。

 まひるが脱走した話を聞いていると、今いなくなってしまったキルに重ねてしまう。思ったより戻りが遅い。暗殺の準備と言っていたからただ買い出しにでも行ったのかと考えていたが、違うのか。でも会場に罠を仕掛けていることはないはずだ。

 いや、ひょっとして花火大会を待たずして日原さんを殺そうと、直接日原邸を訪ねたとか。

 セキュリティが強固で家にいる日原さんを狙うことは不可能とされていたが、彼女と顔見知りとなった今、キルは正面から堂々と訪ねられる。

 慌てて画面をスイスイつついて、キルの通信機の番号を呼び出した。もしそのつもりなら、少しでも時間稼ぎをしてあいつを取り押さえなくては。


 カーペットの上で脚をぺたんとW字にするラルと目が合う。電話を耳に添えている俺を見て、キルにかけていると気づいたらしい。会話は親父に向けつつも、目線だけは興味深そうにこちらに送ってくる。

 俺はソファから立ち上がり、ラルの視線を背に部屋から出た。涼しい廊下で壁に寄りかかる。しばらくコールしたが、キルは応答しなかった。

 もしかしてもう遅かったか。今度は日原さんの番号を呼び出す。日原さんの方は、すぐに反応してくれた。


「もしもし、どうしたの朝見くん」


 元気そうな高い声に、ほっと胸を撫で下ろした。


「よかった……」


「なあに? あ、もしかして、花火大会一緒に行けそう?」


 きらきらした声に、胸がぐっと苦しくなった。日原さんはこんなに俺を信頼してくれているのに、俺は日原さんの命を狙う奴らの身内なのだ。まるで日原さんを騙しているみたいだ。


「ごめん、それはちょっと」


「なんだ……じゃ、他に約束してる人もいないし、いつもどおり家で過ごすよ」


 しゅんと、日原さんの声が萎む。俺はもさもさと付け足した。


「そうだよ。日原さんは、花火大会は行かない方がいいと思う。家からでも、花火はきれいに見えるだろうし。下手に人混みに行ったら、危ないからさ。ナンパする奴とかいるしさ、酔っ払いに絡まれたりするかもしれないし」


 なにより、人混みの中には君を狙う暗殺鬼がいる。

 親の目を気にして好きなように遊ぶことができず、花火大会も初めてだった彼女に、こんなこと言いたくはないけれど。


「そっかあ。花火大会行ってみたかったけど、そんなに危ないならもう少し様子見ようかなあ」


 日原さんが俺の言葉を素直に受け止めている。俺はひと呼吸置いて、問うた。


「日原さん、今家にいるの?」


「うん」


「もしキルが訪ねてきたら、上げないですぐ俺に連絡して」


「どうして?」


「えーっと……大スケール鬼ごっこの最中だから。建物の中に入るのは禁止ってルールなんだけど、キルの奴、逃げ切るためにルール破るかもしれないから」


 最近、息を吐くように嘘をつけるようになってしまった。でもこれはセーフだ、「暗殺者だから」と本当のことを言ったって、信じてもらえないのだから。罪意識をかき消すために、胸に言い聞かせた。


「あははっ、それじゃルール違反させないためにも、家には入れないで朝見くんに通報するね!」


 素直な日原さんは、本当に俺がキルとくだらない遊びをしていると受け止めた。


 電話を切って、ふう、と息をついた。彼女の声を聞くだけで、罪悪感に苛まれる。なんだかずっと、騙し続けているような気持ちになるのだ。

 星の夜に日原さんが怒ったのが、今になって突き刺さる。「大事なことを言ってくれない」……今となってはまるで、俺がこの血筋であると話していないのを、見透かされたみたいに感じるのだ。


 電話を下ろしてリビングに戻ろうとしたら、先にドアが開いてラルがこちらに出てきた。


「キルとは連絡ついた?」


「キルにはついてない。日原さんのとこには行かせないように先手を打ったつもりだけど……あんなんで大丈夫かな」


 もっと他に方法があったかもしれない。だが日原さんの声を聞くと無性に胸がざわついて、頭が回らなくなってしまう。


「美月ちゃんの家に訪ねる線は、考えにくいわ」


 ラルが人差し指を立てた。


「日原邸の守衛は、たとえ美月ちゃんのお友達ですと名乗ったって、簡単には通さない。だからキルは、今までも潜入作戦は取ってないんだもの」


 なるほど。これが日原邸のセキュリティ。


「それにね、これは私が調べた美月ちゃんの精神衛生上の問題なんだけど……美月ちゃんはどうも、小さい頃にヤンチャな子と遊んで怪我をしたことがあったみたいでね。お友達がその子のご家族からこっ酷く叱られて謝りに来たようなの。それ以来、先に『友人が訪ねてくる』とパパかママに伝えて、その友人がパパママのお眼鏡にかなった人物でないと、あとで大変なことになると思ってるみたい」


 聞かされて驚いた。日原さんの家がお金持ちで育ちがよく、厳しく躾られているのは聞いていたが、もはや彼女に植え付けられているのは強迫観念といってよさそうなほどだ。

 そういえば、日原さん本人も「友達を選ぶのも親の顔色を窺っていた」と話していた。あのときはあまり深く考えずに聞き流してしまったが、こんなに自制していたとは。

 それなら、親の目を無視して好きに遊びたくなる気持ちは、きっとすごく強かったはずだ。その思いを、俺は踏み躙ってしまった。結局そこに行き着いて、また自己嫌悪に陥る。


「複雑だけど、そのお陰でキルが侵入しないんだもんな……今は感謝しておくか」


 日原さんの安全を確認したところで、俺はリビングに向かって声をかけた。


「そろそろ米が炊ける頃だ。お昼にしよう」


 昼の支度を始める俺に、まひるがきょとんとして問いかけた。


「キルちゃんは?」


「キルは自主的に散歩してる。すぐ戻ってくるから気にすんな」


 キルもきっとそのうち、お腹を空かせて戻ってくる。雑な返答をすると、親父がキャラキャラした裏声で割り込んできた。


「わんちゃんのお散歩は、リードを付けて飼い主さんがついてなきゃだめなんだよ。ねー、まひる」


 電話をかけたり相手方にも注意を促したり、キルの行動を制限するという意味では、ちゃんとリードは握っているつもりだ。


「昼飯、ラルも食べてく? ちょっと多めに買ったんだよ」


 ラルにも振ると、ラルは首を傾けて微笑んだ。


「ありがと。でも今日は買い物のついでに行きたいカフェがあるから、辞退するわ」


「ふうん」


 今の発言は暗殺者らしさがまるで感じられない、普通の女の子みたいだ。ラルはそんな「いるいる女子」の顔で語った。


「浴衣見に行くの。ほら、もう花火大会まであと二日でしょ」


 言われて気がついた。土曜日の花火大会が、こんなに差し迫ってきているとは。日原さんの問題に、あと二日で対策を練らなくてはならない。


「今年は気合入れて選ばないと! どんなのにしよっかな」


 うっとりしているラルも、課題の一つだった。陸がこいつに取り込まれてしまわないよう、対策しないといけない。

 頭が痛い。とりあえず考えるのをやめて、昼の準備を始めた。


 *


 その夜になっても、キルは戻ってこなかった。

 キルがいないせいで、多めに買った惣菜は昼だけで食べきれず残ってしまった。夕食に作ったチキンのソテーも、冷蔵庫に残した。ちゃんとキルの分まで皿に取ったのに、あいつは帰ってこなかった。


 再び、キルの通信機に連絡してみる。なかなか応答がない。それでも俺は十コールくらい粘ってかけ続けた。やがて諦めたように、キルの声に切り替わった。


「しつこいな、なんだよ」


 気だるげな声を聞くなり、俺はくたっと頭を垂れた。


「そっちこそ、いつまで外ほっつき歩いてるんだよ。暗殺の準備ってなに? そんなに大掛かりなのか?」


「言ったら邪魔するだろ。もうサクは使わないって決めた」


「俺は一度たりともキルに使われてなんかいないぞ」


「バカ。自宅で暗殺者飼ってる時点で利用されてんだよ……」


 気だるげではあるが、怒っている感じではない。

 出ていく直前の、感情を咬み殺すような顔を思い出す。ごめん、と謝ろうとした。傷つけてしまったのなら謝るべきだ。でも上手く言葉に出せなくて、躊躇して、結局別のことを言った。


「なんの仕度してんだか知らねえけど、今日の夕飯、チキンソテーだったんだぞ。ソースがめっちゃおいしくできた」


「わー、やめろやめろ。悔しくなるだろ」


 慌てているような口ぶりだが、声色は至って落ち着いていた。


「で、今どこにいるの。いつ戻ってくる?」


 尋ねてみたが、キルは言い淀んだ。


「まあ、適当に」


「なにか食べた?」


「食べたよ。ホー・カードに残ってたなけなしの五百円を切り崩してる」


「……キルの分のチキンソテー、取っといてあるから」


 それだけ伝えてから、通話を切った。

 準備をしていると言っていたが、やはり具体的になにをしているのかは分からなかった。電話から聞こえたのはキルの声だけで、周囲の音はなにも混じっていなかった。なんのヒントも得られなかった。

 なんとなく分かったのは、キルにあまり元気がなさそうだということくらいだ。


 スマホを下ろして布団に体を投げ出す。仰向けになると、白い天井がぺったり俺を見下ろしていた。一先ずキルのことは置いておき、二日後……つまり明後日の夜に迫った花火大会の対策を考える方に、思考をシフトする。頭の中で当日をシュミレーションしてみた。


 俺がキルの尻尾型ポーチ、そして中のホー・カードを隠してしまえば、キルは暗殺を行えない。つまり花火大会当日、俺があのポーチを没収してしまえば、あいつはなにも手出しできないのだ。

 もっと言うと一生でも預かっていればキルは暗殺なんかできなくなるわけだが、流石にそうなる前にに奪い返されるだろうから、最低でも花火大会の間、と見積もっておく。


 で、花火大会までキルの動きを封じたとして。そうすれば日原さんは、友達なり誘って無事に花火を見に行ける。……いや、そうなったら、ラルが動くのではないか。陸も利用される。

 ならば俺がまひるを連れて、陸とラルと行動を共にすればラルを見張れる。しかしそれだと、日原さんの耳に入ったときに、日原さんを一緒に連れていかなかったことが疑問視される。


 では、日原さんも同行してもらうか?

 そう思った瞬間、きらきらと眩しい可憐な笑顔が脳裏を過ぎった。

 まるで世界のきれいな部分しか知らないような、穢れない微笑み。美しい煌めきだけを集めて詰め込んだ、宝石箱のような。


 日原さんがいつしか、朝見家が暗殺者集団の中核とも言える存在だと知ったら、どんな顔をするだろう。

 きっと宝石箱はひっくり返って、中のきらきらしたものは全て、汚れた地面に叩きつけられて割れてしまう。粉々になってしまったら、きっと二度と修復できないものなのだ。

 それを見ると思うと、死にたくなる。


「どうしたらいいんだよ……」


 寝返りを打って、枕に顔をうずめた。悩んだってこたえが出てこないから、もうこのまま眠って明日考えようかとも思った。だが、全然眠れなかった。


 考え事をぐるぐる頭の中で回した夜は、気がついたら眠りに落ちていて気がついたら朝だった。明日の夜には花火大会が始まってしまう。


「咲夜ー! 今日はお外にブランチ行こう! 近くのファミレスでフェアが始まったよー!」


 親父がなにか騒いでいてうるさいので、部屋から出る気にならない。


「俺はいいから、まひるとばあちゃん連れてって」


 粗雑にあしらっても、親父はしつこくドアを叩いた。


「夏バテか!? パパがスタミナつくもの食べさせてあげよう」


「大丈夫だから。俺はここで待ってる」


 待ってる、と発言したら、親父は急に静かになった。しばらくはまひるの甲高い声が聞こえてきたが、そのうち足音一つしなくなった。言われたとおり、俺を放っておいて出かけてくれたようだ。家の中は、自分ひとりになった。

 寝転がりながら、花火大会事案を解決する策を考える。頭を捻ってみると、そういえば陸はキルの攻撃を全て受け止めて無効化できるのだったと思い出した。日原さんの護衛を、陸に任せるなんてどうだ。

 我ながらなかなかの妙案だ。早速メッセージアプリで陸に相談した。


「明日の花火大会、キルが暗殺者ごっこで日原さんを狙ってる。陸に日原さんの護衛をお願いしたい」


 シンプルな文を送ると、陸はすぐに返事をしてきた。


「無理! この前も言ったけど、その日はラルちゃんと行動する。護衛役は咲夜に譲る」


 そうだった。俺はばたっと布団に顔をうずめた。もう一粘り、画面をつつく。


「ラルはやばい奴だから、近づくなと言ったはずだ」


「咲夜にラルちゃんのなにが分かるんだよ」


 困ったな、危なっかしい少女を演じるラルに、陸は変な使命感を持ってしまっている。なにをどう伝えたら、ラルの危険性に気づいてくれるのだろう。

 打つ手がないので、諦めてラルの連絡先にかける。この前まひるを探したときの通話記録に、彼女の番号が残っていた。キルにかけたときも聞いた、ホルルという変な呼び出し音が鳴る。ラルはワンコールで応じた。


「おはよう咲夜くん。あなたから連絡くれるなんて珍しいわね」


「おりいって相談がある」


「あら。なにをおねだりしたいの?」


 電話越しなのに、吐息で耳を擽られているみたいだ。この無意味な色気を無視する。


「花火大会、陸に近づくのやめてくんない?」


「だーめ。折角陸くんが乗り気なのに、こっちからキャンセルなんてできないわ」


「そこをなんとか! 俺に貸しを作ると思って!」


 しつこく頼んでみると、ラルはうーんと唸った。


「貸しは作りたいけど……折角浴衣買ったからなあ」


「陸には写真送るとか!」


「生で見てもらってこそ意味があるのよ。それに、有能そうな暗殺者を手玉にとるチャンスなのよ? 咲夜くんに頼まれたなんて理由で手を引いたら、キルに怒られちゃうわ」


 だめだ、こちらも梃子でも動かなそうである。


「キルといえば、キル帰ってきた?」


 ラルに聞かれ、俺はしばし黙り込んだ。起きてから部屋を出ていなくて、キルの帰りを確認していない。

 ふいに、親父の誘いが止まった瞬間を思い出した。「待ってる」という言葉を、親父は「キルを待っている」と受け止めたのかもしれない。出かけようとする声の中に、キルの声はなかった。


「帰ってきてない、みたい」


「そうよね。私も連絡してみたんだけど、考え事してるって言われただけで、居場所すら特定できなかったわ」


 ラルがふうと息をつく。俺は寝転がったまま疑問を呈した。


「考え事? 花火大会に向けて、なにか準備してるんじゃなかったのか」


「知らないわよ。私だってあの子の考えてること、全部共有されてるわけじゃないんだから」


 ラルはターゲットについては徹底して調べるくせに、友人のひとりであるキルのことはあまり詮索しない。


「見かけたら咲夜くんに報告するわ。あ、それより私が独自に入手した、耳寄りな情報を教えてあげる」


 彼女はふふんと不敵に笑った。


「私が浴衣を買った店でね、一週間前に美月ちゃんも浴衣を買いに来てるのよ」


「えっ!」


 俺はバッと布団から上体を起こした。日原さんが、浴衣だと。ちょっと期待していた日原さんの浴衣姿。期待で終わると思っていたのに、まさか本当に着てくれるとは。


「白い浴衣にピンクの帯。すっごく似合ってたわ」


 ラルがニヤニヤ声で煽ってきた。こいつ、友人のひとりであるキルのことは詮索しないくせに、ターゲットである日原さんについてはここまで調べているのか。

 それにしても、日原さんの浴衣。見たい。真っ先に思ったのはまずそれだったが、また思い直す。俺はそれを拝める立場ではない。


「キルの作戦どおりに美月ちゃんとデートすれば見れるわよ。じゃあね」


 ラルは一言添えてから電話を切った。俺は耳にスマホを当てた姿勢でしばらくカーペットを見つめていた。

 日原さんの浴衣姿を一目拝みたい……というのはただの欲だ。問題は、浴衣を買って待つほど彼女が楽しみにしていた初めての花火大会に行かせてあげられないことだ。浴衣を着られなくしてしまったことだ。


 酷い罪悪感が再び襲いかかってきた。最低だ。なにやってんだ俺。彼女を傷つけるような自分の生まれを貶しつつ、頭の半分くらいは「日原さんの浴衣姿が見たい」で占められている。本当に最低だ。


 *


 昼時になり、いい加減腹が減ってきたのでキッチンに下りた。夏の自然な日差しが窓から入って、電気をつけなくても明るい。冷蔵庫を開けて、手軽な食糧を探す。暑くて怠いから、適当に摘めるものだけでいい。程よい魚肉ソーセージを見つけ、冷蔵庫の扉を閉める。振り返ると、背後にダイニングのテーブルと椅子が見えた。


 なぜだろうか、一瞬、椅子に座ってこちらを眺めるキルがいるような気がした。「いいもん持ってんじゃねえか、私にもくれよ」と言ってきそうな、そんな気がする。

 でも実際にそこに広がっている光景は、誰もいないがらんとした空間だった。


「……キル」


 独り言を呟く。いるような錯覚を起こすだなんて、あいつがここにいるのに慣れてしまった証拠だろう。そういえば、こんなに顔を合わせなかったのは、キルが現れて以降、初めてかもしれない。


 あいつがこの家に住み着いたせいで、全てが狂った。あいつが日原さんを狙うせいで、日原さんは楽しみにしていた花火大会に行けない。あいつのせいで俺はこんなに悩まされているのだ。

 それなのに、ここにあいつがいないと、異様な虚無感がある。天然の日差しでほんわり光るテーブルが、やけに寂しく見えるのだ。


 魚肉ソーセージを持って、リビングに向かった。リビングのソファに寝転がって、ソーセージの包装のテープに爪を立てる。テープを引っ張るのに失敗して切り口を作り損ねた。上手く開けられない。


 やはり花火大会は、俺が出かけるのをやめて家でキルを見張るのがいちばんいいのではないだろうか。ついでにラルも拘束する。暗殺ツインズを花火大会に近づけなければ、日原さんも陸も安全で、日原さんに関しては別の友達を誘って初めての花火大会に出かけられる。

 ただ、キルとラルを見張るために俺も家にいなくてはならないので、まひるとの約束は守られなくなる。少し胸が痛むが、もうそれは仕方ないと割り切るべきな気がしてきた。まひるとは来年でもまた行けばいい。今年の夏も、どこかに連れて行ってやればいいだろう。親父もいることだし、遊園地なんかにも行こうと思えば行けるではないか。

 この際まひるを犠牲にしてしまおう、そう決断したときだった。


「ただいまー! お兄ちゃん、見て見て」


 玄関のドアが開く音と、まひるの甲高い声が同時に聞こえた。ドタドタと玄関から上がってきて、リビングに飛び込んでくる。


「お兄ちゃん、パパがアイス買ってくれたよ」


 まひるが両手で掲げたのは、茶色と黄色のパッケージの箱アイスである。


「チョコバナナ味のアイスだよ。お兄ちゃん元気ないから、冷たくておいしいもの買ってあげよってパパに言って買ってもらったの」


 俺は、いまだに開けられていない魚肉ソーセージに視線を落とした。

 犠牲にしてしまおうなんて、そんなことを思った直後にこれだ。こんな心優しい子をまた悲しませるのかと、揺らいでしまう。まひるはそんな俺を他所に目をきらきらさせる。


「花火大会、チョコバナナ食べたいな。それと、リンゴ飴とフランクフルトと焼きそばと……あとチョコバナナと」


「チョコバナナ二回目」


 突っ込みながら、目を伏せた。こちらもめちゃくちゃ楽しみにしているではないか。この子を裏切るなんてできそうにない。


「あれ……お兄ちゃん、キルちゃんまだ帰ってきてないの?」


 まひるが辺りをキョロキョロ見渡した。


「心配だなあ……やっぱり、わんちゃんのお散歩はひとりぼっちでさせちゃだめだったんだよ」


「大丈夫、帰ってくるから」


 ぽつんと返すと、まひるはへにゃっと頬を緩めた。


「帰ってきたら、キルちゃんも花火大会一緒に行くんだー! すっごく楽しみだね!」


 そんな風に嬉しそうな顔をされたら、今年はやめようなんて言えない。

 どうするんだ、もう花火大会は明日なのに。


 *


 なにも決められないまま、その日の夜を迎えた。キルはまだ戻らない。


「キル。いつまで外にいるんだよ。まひるが心配すんだろ」


「まひるには会いたいけど、こればかりは仕方ない。忙しいんだよ、私は」


 電話をすれば、出てはくれる。ただ、どこでなにをしているのかは教えてくれない。

 寝る準備を整えて、ベッドに横になりながら電話をする。うつ伏せになっているせいで、やたら低い声が出た。


「日原さんはまだ無事なんだろうな」


「まだなにもしてない。てか、なにもできない。今下手に動いて日原サイドの駒に取り押さえられたら、全部パアだ。最良のチャンスを狙うさ」


 キルはどこかぼうっとした声で言った。俺はしばしシーツの皺を見つめた。


「……日原さんには、行くなって言ったよ」


 それを聞いてキルは意外そうに感嘆した。


「へえ! 美月、楽しみにしてたんじゃなかったの? それを奪うなんてサクは酷い奴だな。それでも善良な市民かよ」


「根源はお前だろ……」


 暑くて、ずるっと布団を蹴る。


「本当、俺もキルも酷いと思うよ。日原さんは友達と花火大会に行くという普通のことをした経験がないんだ。今年初めて、勇気を出して行こうとした。浴衣まで買って、楽しみにしてたんだ」


 情に訴えてもキルが応じるとは思えなかったが、一応伝えた。


「俺と……っていうと自意識過剰だけど、まあ陸とかまひるも含めて、一緒に行きたいって思ってくれたんだよ。そのためなら親の反対だって振り切ってやるって、悪い子にでもなってやるって」


「ふうん……あいつは本当に、不便な生き様してるな」


 キルはやはり他人事のように返してきた。それから、はあとため息をついた。


「で、そんな生きづらい環境なのに真っ直ぐいい子な美月ちゃんを殺さないでください、と」


「そうです」


「悪いな、こればっかりは仕事だから」


 ぼんやりした声色だったが、言っていることはキッパリだ。仕事だからと割り切るというのは、ラルや古賀先生と同じスタンスである。フクロウはそういう教育でもしているのだろうか。


「サクは美月を死なせたくない、それはよく分かる。でも同じくらい、私は美月を殺さなくちゃならない」


「そんなことないだろ。キルはこの仕事を逃すだけで、もっとまともな別の仕事に就いて取り戻せばいい。日原さんは死んだら終わりなんだぞ」


 語りかけたが、キルは揺らがなかった。


「用事はそれだけか? もう切るぞ」


 俺を振り払おうとする彼女に、慌てて付け足した。


「待って、いい加減もう帰ってこいよ。まひるが心配してる。親父も、俺がキルを待ってるんだと思ったら余計なこと言わなくなったし。あと、アイス買ってもらったから食べに戻ってこい」


「やっぱミスターはカッコイイな!」


 キルは捨て台詞みたいに言い放って、通話を切ってしまった。俺は通信を終えたスマホの画面を眺めた。電池残量が二パーセント。今の俺も、そんな感じだ。

 なんだか、キルがこのまま戻ってこないような気がしてくる。

 そもそもキルの計画では、日原さんを暗殺したらここからいなくなるはずである。この家を拠点にする必要がなくなるからだ。よく考えたらいないのが当たり前なのだからそれでいい。……もっとも、日原さんを死なせるつもりはないが。

 いずれにせよ、キルがいなくなると考えると胸にぽっかり穴が開くような気がした。まるで昼に見た、カラッポのダイニングのような。


 キルの殺意、日原さんの決意。まひるのお願い、陸の偽物の恋、ラルの罠。俺の葛藤。

 去る日を暗喩するかのように姿を消したキルへの、奇妙な喪失感。

 なにもかもが俺の頭を掻き乱す。大体、なんで俺が全部まとめて受けきらなくちゃならないんだよ。


 一旦頭を冷やしたくて、水でも飲みに部屋を出る。キッチンのある一階に下りようと廊下の電気を付けたが、照らされるのは二階周辺だけで階段の先は真っ暗な闇に飲み込まれていた。

 暗闇の中に自ら降りていく。足を踏み外さないように、そろりそろりと階段を下りた。


 突如、パッと一階が明るくなった。

 驚いて立ち止まると、階段の下の方からひょこっと、ばあちゃんが顔を出した。


「あら咲夜。起きてたのね」


 穏やかな微笑みに、体の力が抜けた。心臓に刺さる無数の小さな棘が、ひとつだけ、ポロッと取れたような気分だ。


「……眠れない」


 ぽつんと甘えたようなことを抜かすと、ばあちゃんはうふふっと笑った。


「随分バテた顔してるのね。そうね……まひるもお父さんに内緒で、アイス摘み食いしちゃおうか」


 この柔らかな言葉遣いを聞いていると、いつもの癖で悩みを打ち明けたくなった。この人はいつも、聞いてくれた。

 水を飲みに来ただけだったが、ばあちゃんの誘いに乗ってこっそりアイスを貰うことにした。一緒にキッチンに入り、冷凍庫にしまってあった箱アイスを取り出す。バナナ味のアイスにチョコレートをコーティングした、棒付きアイスである。夕食後にまひるが一本食べたので、箱は開いていた。

 ばあちゃんはアイスを二本取り、片方、俺に差し出した。俺はそれを無言で受け取る。透明の個包装から透けて見える棒を掴むと、ひんやり冷たくて気持ちよかった。

 ばあちゃんがアイスの包装を剥き、ダイニングの椅子に腰を下ろす。


「またひとりで抱え込んでるでしょ。ちゃんと人に甘える癖をつけなさい」


「話せるまともな人がいないんだよ……ばあちゃんだって総裁だしさ」


 俺も、ばあちゃんの向かいの椅子に座った。

 静かでぺったりと蒸し暑い夜が、部屋じゅうを包んでいる。話しても、声が反響しない。


「キルが今請け負ってる日原さんの暗殺、失敗したらどうなる?」


 総裁に直に聞く。


「以前、失敗したら依頼人や組織に迷惑がかかるってキルから聞いた……処分とかあるのか?」


 この人がフクロウ総裁なのは分かっているのに、悩みを打ち明けたくなるような包容力に負けてしまう。ばあちゃんは優しい目をして、口を開いた。


「命をもって償え。……とまではいかないわ」


 一瞬驚かせたのは、わざとだろうか。ばあちゃんは淡々と、それでいて柔らかい口調で続けた。


「政治家の安井議員が力をつけてのし上がってしまったら、依頼人に大打撃を与えてしまうのだけど、事実、金銭は未発生。それにたとえ安井議員が賄賂で地位を上げたとしても、依頼人の足元まで辿り着くまでには時間がかかる。よって急ぎの案件ではないから、たとえキルちゃんが美月ちゃん暗殺に失敗して使えなくなったとしても、右崎が他の暗殺者を遣わすだけね」


 俺はアイスの茶色いコーティングに口を添えた。ビターチョコレートがじわりと舌の上で溶ける。


「でも先日も言ったとおり、この案件はフクロウの因縁の課題の一つ。これをクリアした暗殺者がいたとしたら、伝説のサニを超えたアサシンとなる。報酬は弾む上に、今後の仕事も質のいいものがたくさん来るようになるわ」


 ばあちゃんの説明で、俺は間抜けな白い犬娘を思い浮かべた。キルはそのおいしいポジション欲しさに、この案件に固執するのか。それにしても、あれが伝説超えの伝説になるというのは不思議でならない。


「失敗してもせいぜい現状維持か、ちょっとミソがつくだけなんだな。そんなら、あいつを止めるのがいちばんか」


 どうにかしてキルをこの案件から下ろしたとして、どうせまた別の暗殺者が狙うのだろうけれど。根本的な解決にはならないが、一先ず花火大会くらいはクリアできる。問題はどうやってやめさせるかだ。

 どうすればいうことをきくのか、見当もつかない。なにと天秤にかけたらやめる選択をするだろう。考えてみたら、俺はキルをなにも分かっていなかった。あいつが今どこでなにをしているのか、なにを思っているのかも、全く分かっていない。


「あいつ、どこにいるのかな……」


 ぽつっと呟くと、ばあちゃんはアイスを頬張ってちらとこちらを見た。


「キルちゃんが心配?」


 そっと問われて、俯く。心配、といえば心配だ。なにをやらかしてくれるのかという意味でも心配だが、ちゃんと食べているのかとかどこで寝泊まりしているのかとか、元気がなかったが本当に大丈夫なのかとか。気になって眠れない。


「丸一日いないなんて、今までなかったのに……」


「大丈夫よ。暗殺者なんて基本放し飼いなんだから」


 ばあちゃんは冗談っぽく言った。


「暗殺者は自由に動けた方が本人たちも楽なの。帰る場所があると温もりを知ってしまうから、彼らは次のターゲットを求めて彷徨う。本来、暗殺者なんてそういうものなの。少なくとも、フクロウ所属の暗殺者はね」


 暗殺者の生態についての説明を聞きながら、俺はまた一口アイスを齧る。バナナアイスの甘味がとろりと解けた。ばあちゃんもアイスを口に運ぶ。


「でも、それは物理的な話ね。暗殺者というのは大体、頭のネジが外れて倫理観念が狂ってしまっている。殺しを仕事と割り切っているから、殺めることを恐れない。正気を保っていない彼らを統率するには、あの子たちがいくら暴れても切れないほどの強い手綱が必要なのよ」


 アイスを食べながらふわふわした口調で、ばあちゃんは全く不似合いな言葉を並べた。物々しい単語の羅列が、蒸し暑い空気の中にするりと吸い込まれていく。俺が理解する前に、言葉一つ一つが消えてしまうようだった。


「咲夜はキルちゃんを、ちゃんと見張ってる。けど、リードが細すぎるの。今の咲夜はその細いリードを離してしまった状態……かもしれないわね」


 ばあちゃんは暗殺者集団のボスとは思えないほど、優しい声で語った。


「私はそのリードを再び握りなさいとも、リードを強くしなさいとも言わないわ。キルの綱は右崎が握ってるから、暗殺者としてのコントロールは利く。ただそれでは、キルは右崎の操作にのみ従うことになるけどね」


 この喩えはつまり、俺がキルの取り扱いを諦めたらキルの邪魔をする者がいなくなってしまう、ということだろう。


「……明日帰ってこなかったら、捜しに行くよ」


 俺がそう言うと、ばあちゃんはくすっと笑った。


「咲夜はもっと無責任でもいいと、私は思うわよ?」


「無責任にキルを放した方が、総裁にとっては都合がいいもんな」


 笑い返したら、ばあちゃんは誤魔化すような笑みを浮かべて黙った。


 *


 冷たくて甘いチョコバナナアイスのお陰で頭がすっきりしたのだろう。その後部屋に戻ったら、案外すぐに眠ってしまった。


 翌朝、起き抜けのぼうっとした頭のまま玄関を見に行った。キルの靴はまだ戻っていない。あのバカはとうとう、二晩も帰ってこなかったのだ。少しの間、掃除をしながら待機してみた。しかし戻る気配はない。


「ばあちゃん、ちょっと出かけてくる」


 洗濯物を干すばあちゃんに声をかける。適当に着替えて適当に鞄を持って、俺は昨晩の宣言どおりに町へ繰り出した。

 午前十一時。定期的に三食食べているとしたら、あいつのことだから腹を空かせておいしいものがある店にでも現れる頃ではないだろうか。


 今夜は花火大会だというのに、空はどんより曇っていた。分厚い灰色の雲に覆われて、太陽が弱々しく光を洩らしている。それなのに気温も湿度も高いものだから、空気がべたついてムシムシしていた。

 屋根の上の秘密基地にいないのを確認し、商店街の方へと歩き出す。スマホでキルの連絡先にコールしてみる。相変わらず反応が遅いが、しつこく鳴らし続けると、諦めてあいつは応答する。


「なんだよ、まだ私は準備中だ」


「日原さんは花火大会には行かせないって言っただろ。なんの準備してんだよ」


「なんの準備でしょうね」


 キルは俺をからかうような口調ではぐらかした。


「俺の目の届くところにいてもらわないと、なにしでかすか分かんなくて怖いんだよ。ペットってそういうもんだろ」


 ばあちゃんの言葉を思い出す。散歩をさせるのなら、きちんとリードを付けること。飼い主は目を離してはいけない。


 分厚い雲が空を覆い尽くして、夏の昼間とは思えないくらい薄暗い。これは一雨来そうだ。雨の中では花火大会なんて行えないし、延期になるかもしれない。

 湿り気で生臭いアスファルトを踏んで、早足で歩く。他人の家の屋根や建物の影をちらちら見て、白い外套を捜した。


「どこにいる?」


「秘密。まだ教えない」


「いつ戻る?」


「さあね。美月を殺すのに成功したら、別にサクのとこにいる意味ないし、戻らないかもな」


 カラッポのダイニングの光景が、ふっと頭に蘇る。今夜、日原さんの殺害に成功したら、このまま戻ってこない。


「いや、日原さんは死なせない。花火大会には来ない」


「そう言うけど、サクもまだ諦めきってないだろ。なんとかして美月を花火大会に連れ出したい気持ちが残ってるんだろ」


 腹が立つことに、見破ってくる。日原さんを連れ出したいのに、連れ出すとキルが殺そうとする。だからこんなに困っているのを、キルは理解の上で俺を悩ませているのだ。

 殺さないでほしいと頼んでも聞いてくれなかったし、この応酬も無駄だ。俺はすたすた歩を進めて、見慣れた町並みからキルを捜した。


「なにか食べたいものある?」


「気にしなくていいよ、自分で勝手に食べるから」


「カードの残高、底をつきそうだったくせに」


 飢えているところをまひるに拾われたというくらい、こいつは金欠である。

 ぽつっと、頬に生温い水滴が落ちてきた。見上げると、ぱらぱらと細かい雨粒が降ってくる。ああ、この調子なら花火大会は延期だ。頬の雫を腕で拭って、引き続きキルに話しかける。


「チョコバナナのアイスあるぞ」


「え、おいしそう……」


「お昼に、夏バテ対策の肉料理でも作ろうかと思ってる」


「うっ……サク、やめろ……!」


 食べ物の話で誘惑すると簡単に揺らぎ出すのだから、キルは本当に単純だ。

 ぱらぱら降る雨が徐々に強くなってきた。降りそうなのは分かっていたのだから、傘くらい持ってくればよかった。さっさとキルを見つけて、帰りたい。


「ほら、どこにいるか吐け。たっぷり食べさせてやる」


「やめろ。会いたくない」


 キルは絞り出すように言った。俺はスマホを耳に当てたまま立ち止まった。


「え?」


「会いたくないんだよ。サクにだけは」


「まだ怒ってんのかよ。日原さん優先……っていうか、人命を優先したのは当然だろ。それは謝んねえぞ」


 再び歩き出す。住宅街から商店街に向かう間にある、団地の建ち並ぶ地区に入る。キルが電話越しで噛み付いてくる。


「分かってるよ! サクの性格じゃ融通利かないから、一般常識優先だよな」


「俺に限らずそうだと思うけど!?」


 つい、語尾を尖らせた。キルがなにを言いたいのか、よく分からない。また、ばあちゃんの言葉が脳裏を過ぎった。

 頭のネジが外れて倫理観念が狂った暗殺者は、手綱を引くのが難しい。なにを考えているのか分かってあげないと、操ることなんてできない。


「なんだよ、会いたくないって。これだけ甘えておいて、そんな言い方ないだろ」


「本当だよな! 私だってそう思うよ!」


 キルは自分が言ったことに対して怒りはじめた。


「でも会いたくないんだよ。話すのだって本当は躊躇した。躊躇したけど、電話を鳴らされたら出たくなる。出たくなるけど出たくなくて、結局出ちゃうんだよ。意味が分からなくてむかつくよ!」


「自分にキレてる」


 団地と団地の間に、団地に住む子供たちのための公園がある。アスファルトにできた小さな水溜まりを踏む。汚れた水がぴしゃっとはねて、足首まで濡れた。


「私も分からない。なんなのか、なにがしたいのか」


 キルの声は雨の音の中に消え入りそうだった。

 雨足が一気に強まってきた。髪から雫が伝って顔に張り付いてくる。スマホが防水タイプではないのは知っているのに、この通話を切りたくない。


「本当に、美月を殺せば全部解決するのか? 迷いなんかないはずなのに、なんでこんなに動けないの?」


 それは、キルが無意識のうちに蓄積していた不安が、突然はち切れて溢れかえったみたいに聞こえた。


「もしかして『準備中』って、ぐちゃぐちゃになった頭の中を整理する時間、って意味だったのか?」


 聞いてみたが、キルはこたえなかった。

 普段あっけらかんとぬけぬけとしてなにも抱え込まないくせに、バカのくせに、いきなり一丁前に考え込みやがって。

 横目に見えた公園に、ドーム状のアスレチックがある。薄黄色のお椀をひっくり返したみたいなそれは、天辺と側面に人が入られるほどの穴が空いている。俺は直感的に、それに近づいた。


「迷ってるんなら、日原さん殺すのやめろ。彼女を殺したところで、悪い人間はまた他の手段で悪さをする。いたちごっこになるだけだ」


 交渉してみると、キルは言い返してきた。


「サクはなにも分かってないだろ。政治も院長も、霧雨サニもフクロウも……私の立場も!」


「知らねえよそんなこと! 教えてくれないし知りたくもないし! でもこれだけはお願いしたい!」


 俺はドームのアスレチックの窓に手を引っ掛け、覗き込んだ。


「雨宿りさせてください!」


 中で膝を抱えていたキルは、俺を見上げて目を丸くした。口を半開きにしてぽかんと見上げる顔は、暗殺者とは思えないくらい間抜けで、隙だらけだった。

 俺は電話を切って窓から上半身を突っ込み、アスレチックの中に滑り込んだ。天井の穴から雨と微かな光が洩れている。薄暗い中に縮こまるキルは、本当に子供のようだった。


「マジで降ってきた。シャツが張り付いてベッタベタ」


 泣き言を零して、俺もキルの向かいに座る。アスレチックの中は、湿った空気が篭ってじめじめしていた。天井の穴に続く梯子がある。陸の身長だったら梯子に足をかけなくても顔を出せるかもしれないな、というくらいの高さで、幅はその二倍くらいである。大人の体格になってからこんなところに入ったのは初めてだ。随分と狭く感じる。


「サク……なんでここに」


 まだぽけっとしているキルに、俺はシャツを絞りつつこたえた。


「帰ってこない犬を飼い主が捜して、なにがおかしいんだよ」


「本当だな……当然の義務だ」


 キルは間抜け面で納得した。俺は霧みたいな雨にやられて、全身がびしょびしょに濡れている。濡れた体が重くて、座り込むと疲れがどっと襲ってきた。


「なんでここが分かった?」


 キルが膝を抱いて聞いてくる。俺は手の甲で額を拭った。


「分かんないけど、なんとなく勘で」


「暗殺者の潜伏先を、勘で突き止めたのか……やはり総裁とエージェントの血を引くだけはあるな……」


「それ言わないで。俺史上最大のコンプレックスだから」


 俺は向かいに座るキルを睨んだ。


「それで、さっきの続き。日原さんを殺すのはやめるべき。日原さんは悪くない」


 説得を再開してみたら、キルは牙を覗かせて言い返した。


「日原さん日原さんって、そんなに美月が好きか!」


「だめかよ! 俺はどうしても、あの子を救いたいんだよ!」


 昨晩、ばあちゃんと話しながら気づいたのだ。

 暗殺者の手綱を任されたのは、自分なのだ。総裁の祖母がいて、エージェントの父がいて、ラルの正体を知っていて、キルを飼い慣らす立場にあるのは、俺だけなのだと。


「よく考えたら、日原さんを守れるのは俺だけだったんだ!」


 近づくのは彼女を騙すみたいで気が引ける、なんて言っていられる立場ではなかった。


「日原さんの、楽しく遊びたいというささやかな願いも、俺にしか叶えられない。だから日原さんには花火大会に来てもらう! そんで、キルから守り抜いてやる!」


 宝石箱みたいなあの笑顔を守る方法は、逃げることではないのだ。狙う暗殺者どもから、そして彼女を利用しようとする汚い大人たちから、全力でかばい切ることだったのだ。

 ばあちゃんは俺の気持ちを見抜いて、総裁のくせにそう助言してくれたのだ。

 キルがきゅっと目尻を吊り上げる。


「私だって仕事だ! これがこなせなかったら、私が死ぬ!」


「死なない! 総裁に確認したぞ、日原さん殺害は失敗しても命で償うほどではないって!」


「それは知ってる! そういうことじゃないんだよ!」


 キルは俺の語尾に被せるように叫んだ。


「言ったろ! サクは私の立場を理解してない。延々と殺し続けなくちゃいけない理由を!」


 キルの言葉を受けて、俺はとっさに口を噤む。キルははあ、と一呼吸おいてから、地面の砂利を見つめた。


「私は暗殺者として、暗殺だけを生業としてる。暗殺をすれば、報酬が出てミスターが褒めてくれて、依頼者や同業者からすげー奴がいるぞって言ってもらえる」


 キルはまた、短く言葉を呑んだ。アスレチックの真ん中に降り注ぐ雨粒を、つまらなそうに眺めている。


「逆に言えば、私は人を殺すことでしか認められない。それだけが私の生きる意味なんだよ」


 さああ、と静かな雨音が降り注ぐ。

 ばあちゃんの言葉を思い出した。この仕事で失敗したら、殺されはしないが暗殺者として経歴に傷がつく。暗殺者としての華麗な活躍、そしてそれに対する評価だけが生き甲斐だというのなら、その小さな傷は致命傷となる。


 キルは小回りが利く素早い動きで、なんでも器用にこなす。人の懐に潜り込んでくるのも上手いし、変な小道具で罠を仕掛けたりもする。

 でも、こいつは俺が思うよりずっと、不器用なのかもしれない。

 ラルや古賀先生みたいに、上手にガス抜きができない。甘え方も知っているようで実は下手。それってきっと、ものすごく鈍臭い。


「だから、美月を殺すのに躊躇なんてない。私を生かすために死んでもらう。でもサクは私が仕事に失敗して生きられなくなるのより、美月が死ぬ方が嫌だって言うんだ。理屈は分かるよ。人間は皆そう。心が死ぬのより、体が死ぬ方が悲しいことだとしてるから」


 キルが俯いて話す。俺は膝に肘を乗せ、頬杖をついて聞いていた。


「分かってるよ……殺らないとミスターや総裁から呆れられる。でも殺るとサクが私を軽蔑する。私の生命線に直結するのは仕事の方だから殺すべきだとは思うのに、お前と話してると分からなくなってくるんだ」


 バカのくせに、というより、バカだからだろう。キルはバカだからおかしな世界にいるし、バカだから感覚が狂っていて、バカだから自分の気持ちさえ理解できない。


「殺すことだけで生きてるなんて、虚しいな」


「仕方ないだろ、それがいちばん手っ取り早く認めてもらえるんだ」


 キルがもそもそと、膝を抱き寄せる。


「サクがご飯作るのとおんなじだよ」


 なるほど。それなら仕方がない。俺はぼんやりと、はねる雨粒を見ていた。俺も料理するのを止められたら困るもんな。……と、思ったところで気がついた。


「いや、全然違うぞ? 俺は人から認められたくて作ってるんじゃない。作りたいから作ってるんだ。一緒にしないでいただきたい」


 危うく納得させられるところだった。反論されたキルは裏返った声を出した。


「あ、そ、そうなのか。マジか」


「そうだよ! そんなふうに思われてたのか。うちの人たちは出来合いの惣菜でも怒らないのに、俺が勝手に食べさせたくて作ってるだけだよ」


 実際、面倒だと感じた日には作らないのだ。

 キルはまだ驚いた顔をしている。俺は濡れた髪を掻いた。


「だからさ、キルも暗殺やりたくなければやめたら? ラルや古賀先生は他の仕事と兼業してんじゃん。キルも多分、他に得意なことあるんでしょうし、仕事変えたらいいよ」


 キルは目から鱗みたいな顔をして、しばらく硬直していた。やがて彼女は、こたえに行き着いたように息を吸い込んだ。


「なるほど。そうか!」


 閉じ込められていた部屋から開放されたみたいに、キルは晴れやかに目を上げた。


「ありがとうサク、目が覚めたよ!」


 今度は俺がぽかんとした。

 キルが、あのキルが改心した。ついに暗殺者から足を洗う気になったか。キルらしくないが素晴らしいことだ。よかった、と声をかけようとした瞬間だった。


「私も、殺したいから殺してるって言えるようになるよ!」


 キルはきらきらと輝く瞳で、不意打ちみたいに裏切ってきた。

 俺はしばらく言葉を失い、数秒、キルの晴れ晴れした笑顔を眺めていた。


「そうだよな! 天職ってのは向いてる仕事というだけじゃない。楽しむのだって才能だよな! そしたらサクがなにを言おうと気にならなくなるはずだ」


「そういうことが言いたいんじゃなくてね!?」


 勝手に納得するキルに、ようやく切り込む。しかしキルは、自分なりにしっくりきてしまったようだ。


「落とし込んだらお腹空いた! サク、帰ってご飯にしようぜ!」


 キルはよいしょと中腰になり、それからアスレチックの真ん中にできた濡れた円に目を剥いた。


「あれっ?」


 そして天井の穴に繋がる梯子に飛びつき、上っていく。


「いつの間にか晴れてるぞ!」


「えっ、本当に? なんだ、通り雨だったのか」


 俺もアスレチックの側面の窓から顔を覗かせた。外は先程までの雨が止んで、柔らかく日が差している。水溜まりがあちこちにあるし雲はまだ残っているけれど、青い画用紙みたいな空には夏の太陽が浮かんでいた。


「花火大会は決行だな」


 頭上でキルの声がした。


「よーっし! サクは美月を花火大会に連れ出すって決めたんだもんな。私は絶対、美月を殺してみせる!」


 なんだかもう、疲れきって反論の言葉が思いつかない。諦めるしかないようだ。


「……分かった。じゃあ絶対にキルから目を離せないな。上着の中の暗器もポーチも全部没収して、花火大会の間ずーっと監視してやる」


「やれるもんならやってみな! 言っとくがこっちはプロの暗殺者だぞ」


 キルは余裕綽々に笑った。これはかなり神経を尖らせる必要がありそうだ。

 重たいため息と共にアスレチックから這い出て、天辺に座るキルを見上げた。


「で、そんなに考え込んでて、ちゃんと食べてたのか?」


「食べた。頭使うとお腹が空く」


 キルはこくんと頷いた。


「お腹が空くから、肉まん買って食べた。でも食べても味しないし、全然お腹いっぱいにならないし」


 頷いた姿勢のまま、むうとむくれる。


「おかしいんだよ。サクに会う前いつも買ってた、いつもコンビニのいつもの肉まんなのに、全然満たされないの」


 それからキルは、ドーム状のアスレチックの斜面をツツッと滑り降りてきて、ちょこんと俺の隣に立った。


「そんで、今目の前にサクが現れて、ちょっと分かった。多分私、心がお腹空いちゃってたんだ」


 頭の弱いキルにしては、まずまずの比喩表現だ。


「今までこの感覚知らなかったから、分かんなかったけど。おうちがあって家族がいて、サクがいると、お腹いっぱいになるみたい。サクは私を混乱させるから会いたくないって思ったけど、話してみたら案外平気だった」


 へらっと笑うキルは殺し屋のくせに無邪気で、なぜか俺まで笑えてきてしまった。


「そういう奴のこと、寂しがり屋っていうんだよ」


 ちょんと頭に手を乗せたら振り払われた。


「濡れた手で触るな」


「お前のせいで濡れたんだよ!」


 日原美月の命をかけた攻防が約束されているのに、この和やかさはなんなんだ。

 あっけらかんと現れた太陽が、諦めた俺を嘲笑っていた。

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