12.あいつが帰ってくる。
七月も佳境を迎え、ついに明日から夏休みが始まる。
誰も話を聞いていない修業式を終え、教室は浮き立っていた。
「えーっ! 栄子もだめなの?」
ミーンミーンと蝉の声が降り注ぐ夏の窓際で、日原さんが悲鳴をあげる。
「ごめーん、部活の友達と行く約束してたから」
「そんなあ……」
笑う枯野さんとしょんぼり肩を落とす日原さんが、眩しい夏の日差しを全身に浴びていた。
今日もかわいい日原さんを見ていると、キルから聞く汚い金の話なんて全く関係ない世界のように思える。お姫様のようなこの少女の影に、入学の秘密や賄賂の流れが隠れているだなんて、信じられなかった。
暑い日が続いているので、最近は窓が開け放たれている。どう見ても隙だらけなのに、日原さんは今もこうして元気に生きている。キルが殺しに来ないのだ。
最初の頃は学校にまで潜入してきて日原さんを狙っていたのに、度重なる失敗で彼女を警戒し、ストレートに狙うのをやめた。あれからは、キルは学校には現れなくなっていた。
「遠くから狙っても届かない。近づいたらこっちが死にそうになる。どうしたらいいんだろうな」
キルが日原さんに対してぼやいているみたいな発言が、男の声で降ってきたのでぎょっとした。振り向くと、陸が俺の机の横で眉間に皺を作っていた。手には筒状に丸めた、艶のある紙を握っている。
「じわじわ攻めていけてるとは思うんだけどな。やはりここまでか。咲夜が協力してくれれば、もっと円滑に進むんだけどな」
遠くから狙うのも近づいて狙うのも失敗したキルと、同じようなことを陸が言う。キルが陸を、日原さんを狙う暗殺者のひとりだと確信していたのを思い出した。有り得ないとは思うが、本当にそうかと思ってしまうような発言である。
「陸……日原さんをどうするつもりだ」
有り得ないと思っているはずなのに、聞かずにはいられなかった。陸が咳払いする。
「どうするってなんだよ。やましい方向に持ってくのやめろ。俺はただ、グループぐるみでいいから美月ちゃんと花火大会に行きたいだけだ」
陸は手に持っていた筒状の紙切れを開いた。この時期になると町のあちこちに設置される、花火大会のリーフレットだ。
平和ボケした願望に、安堵のため息が出た。そうだよな、お前が暗殺者なわけがない。ただの愚かな男子高校生だよ。
この町の花火大会は、毎年七月の末の土曜日に行われる。町を東西に分ける川の土手で、打ち上げ花火で夏を迎える町の一大イベントである。十メートルはある橋を中心に道路を封鎖して、屋台がたくさん出てお祭り騒ぎになるのだ。
夏休みに入って最初の土曜日だから、今週末である。
「美月ちゃんも、誰かと行こうとして友達に声かけてるみたいだな」
陸がぽそっと小声で言う。俺は窓辺で枯野さんと話す日原さんに目を向けた。先程聞こえてきた会話の様子から推測するに、日原さんは枯野さんを花火大会に誘おうとして、断られたといったところか。「栄子“も”だめ」と話していたところを見ると、複数人誘って失敗しているようだ。
「陸、誘ってきたら?」
投げやりに言ってみたら、リーフレットで頭を叩かれた。
「軽いノリで言ってんじゃねえ! やれるもんならやってるよ」
「怖気付いてるわけね」
ラルがこいつを情けないと罵るのも分かる気がする。陸はもう一度、リーフレットで俺をはたいた。
「そんなに言うなら、咲夜が誘ってこいよ。さっきも言ったが、グループぐるみで行くんだ。だから誘うのが俺でも咲夜でもどっちでもいい」
「うわっ、自分が振られるのが怖いからって!」
「俺とお前と、美月ちゃんと、あとなんか平尾とか大介とか悠とか適当に誘ってさ。美月ちゃんの友達も交えてワイワイしようぜ」
陸は思い当たる友人の名前を雑に連ねて、一方的にGOサインを出す。しかし俺は首を振った。
「俺は今回はパスかな。まひると一緒に行く約束しちゃったんだよ」
「お前、青春の夏の一大イベントだというのに、妹の面倒を見てるというのか」
驚いてわなわなする陸に、俺は肩を竦めた。
「紆余曲折あって、まひるとのこの約束は厳守なんだよ。人混み嫌いで行く気もなかったから、特に誰かと行きたいと決めてたわけでもないし」
因みに、花火大会当日はまひるに付き合うと同時に、キルも見張らなくてはならない。キルが人混みに紛れて日原さんを殺さないように、目を離してはいけないのである。俺は忙しいのだ。
下を向く陸に、俺は逆に探りを入れた。
「因みに陸、ラルは誘ってきてないのか?」
花火大会なんて、ラルが食いつきそうなイベントである。先に陸を誘っているのではと思ったのだ。陸は少し真剣な顔をした。
「誘われたよ。一緒にどうだって」
「やっぱりか! ちゃんと断ったか?」
「実は、これも大人数で行きたい理由の一つでさ」
陸はやや声のトーンを落とした。
「ラルちゃん、学校来たがらないだろ。理由はしっかり話してくれないけど、もしかしたら学校で友達作るのが苦手だったのかなと思って。だから仲が良さそうだった美月ちゃんを含め、ラルちゃんが溶け込みやすそうな人を誘って馴染ませたいんだ」
ちょっとびっくりした。こいつ、ただ単にかわいい日原さんを誘おうとしているのではない。ラルを思いやっていたのだ。かわいそうに、ラルはお前を騙しているのに。
「咲夜にも事情があるんだろうけど、チャンスだということをもう一度胸に刻んでおくように。ここんとこ、いちばん美月ちゃんと仲良さげなの、咲夜なんだからな」
そんなことないと思う、と言い返す前に、陸は飲み物を買いに席を離れてしまった。俺の机には陸が置いていった花火大会のリーフレットが残されている。紺色の空に赤や黄色の火花が丸く打ち上がる、鮮やかな表紙だ。
それにしても、皆から愛される日原さんが友達を遊びに誘って断られるだなんて驚きである。日原さんの周りにはいつも人が集まっているのに、なぜ今回に限っては誰も一緒に行けないのだろう。皆が皆、他の人と行くつもりで空けていなかったなんて考えにくい。
「うーん……誰か一緒に行こうよお。私だけじゃ誘いにくいよ」
日原さんが枯野さんの腕を揺すって泣きついているが、枯野さんは首を縦には振らない。
「なに言ってんの。だからこそなんだけど?」
「違うってば。勘違いだよ」
聞き耳を立てているわけでなくても、ふたりの会話は耳に入ってきた。勘違いとやらはちょっと意味が分からない。日原さんはやがて諦めたように枯野さんの腕を離した。
「隣のクラスの八重子ちゃんに交渉してくる」
「OK、断るように根回ししとくわ」
枯野さんが露骨にいじわるを言うと、日原さんはむーっと膨れながら隣のクラスへと発った。枯野さんはスマホでなにやら打ち込んでいる。多分、宣言どおり隣のクラスの友人に根回ししているのだろう。日原さんがいなくなるのを見届け、彼女はちらと、俺の方を見た。
「で。そっちはどうなの?」
なんだか分からないが、唐突に話を振られた。
「なにが?」
「なにがじゃないよ。私たちがどれほど気を遣ってるか、気づいてないの?」
枯野さんは茶色いショートカットの後れ毛を耳にかけた。そう言われても全然ピンとこない俺は、窓辺に寄りかかる枯野さんをきょとんと眺めていた。彼女はしばし様子を見ていたが、やがて眉を寄せた。
「もしかして朝見、マジでなにも聞いてない?」
「マジでなにも聞いてないぞ」
「あんたからも、なにも言ってないの?」
「だからなんの話だよ?」
なんの心当たりもない。全く見えてこなくて困惑すると、枯野さんはようやく諦めたように、机の上のリーフレットを指さした。
「美月、花火大会は朝見と行きたがってるよ」
あまりの衝撃に絶句した。あの日原さんがなぜ敢えて俺を選ぶ?
「冗談だろ。俺、なにかからかわれるようなことした?」
「本当だって。でもあの子、そう言ったくせに私たちを誘おうとするのよ。ふたりきりになるのがまだ緊張するのかな」
枯野さんが俺を見下ろしてくる。あの日原さんがなぜ俺を。まだ理解できない。
「最近ちょっと仲良くはなったけど、そんなに親密になったわけじゃないぞ」
「だから。これから親密になるんでしょ」
枯野さんは腕を組んだ。
「美月はね。今までは両親の目を気にして男子と仲良くなろうとしなかったの。もちろん友達として平等な付き合いはするんだけど、特定の誰かと学校以外で会おうとすることなんてなかったんだよ」
本人も、俺に直接「友達でいてください」と言ってきた。なるほど、日原さんからしたら、今まで関わっていなかったタイプとつるむという挑戦の意志だったのか。
キルを理由に勉強会を提案したり、星空を見に行ったことは、親に隠れておこなった思い切った行動だったとは聞いていた。
しかし本当に、かなり覚悟のいる行為だったようである。なんにしろ、そこまで楽しんでいただけていたのならなによりである。
でも、あれは友達としてという意味ではなかったのか?
俺とか陸と関わるようになってアホな遊びの楽しさを知り、お嬢様脱却を決意したみたいな、そういう意味だったのではないのか。
枯野さんは、ため息混じりに続けた。
「私たちだって美月と遊びたいよ。でも美月の初めての恋をお手伝いするために、わざと誘いを断ってるの」
恋……。いや、あれはあくまで友人のひとりという意味のはず。
しかし、そんなことを言われたらもしかして思い違いをしているのは俺の方なのではないかと思えてきた。これはひょっとして、期待していいのか。
「全く、なんでよりによってあんたみたいな無個性のつまんない奴を選んだのか分からないけど……それが美月の趣味なら仕方ない」
枯野さんの毒舌が刺さっても痛くないくらい、頭がホワホワする。
「この私が、協力してるんだからね。感謝しなさい、朝見」
「よく分かんないけど、ありがとうございます」
陸を含む日原さんファンクラブにばれたら暗殺されそうな話だ。だがそんな影でこっそり見るしかできない奴らなんか気にならなくなるくらい、浮ついてしまった。
リーフレットに視線を落とす。夏の夜、鮮やかな花火を見上げる日原さんを想像してみた。絶対きれいだろうな。浴衣なんか着てたりしたら、心臓が止まるかもしれない。
頭をポーッとさせていると、日原さんが教室に戻ってきた。枯野さんの周到な根回しに阻まれたのだろう、やはり隣のクラスの友人も誘いに乗ってくれなかったようだ。ちょっとしょんぼりしている。
お節介な枯野さんは、俺の背中をバシッと叩いて自分の席に帰ってしまった。俺と日原さんの直接のやりとりをさせるためだ。
日原さんが俺の隣の席に腰を下ろす。先程の枯野さんの話を聞いた後だと、ドキドキしてしまってまともに顔を見られない。
「あの、朝見くん」
顔を見られないのに、日原さんが声をかけてきた。返事をしようとしたが、喉で絡まって声を出せなかった。日原さんが続ける。
「その反応、栄子から変なこと聞いたんでしょ」
栄子、イコール枯野栄子である。ドンピシャで当てられて、また返事に詰まった。
「ごめん、私のせいなの。私が誤解されるようなこと言ったから」
日原さんが机に頬杖をつく。俺は探るように彼女の方に視線を向けた。
「誤解?」
「実は私、花火大会の会場に行くの初めてなの。今までも行きたいって思ってたけど、お母さんが『人混みなんて行くものじゃない』って言うから、行ったら軽蔑されそうで……」
日原さんが苦笑いする。
「でも前に、朝見くんや陸くん含めて皆で遊びたいって言ったでしょ? 一緒に花火大会に行けたらなって思ってたんだ」
日原さんが申し訳なさそうに、ぽつぽつ言葉を並べた。
「私だけ混ざっても気を遣うだろうから、私も友達巻き込んで一緒に行きたかったんだけど……友達に、『朝見くんと行きたいと思ってて』っていう言い方しちゃったものだから、皆デート的な意味だと誤解しちゃったの」
ポーッとしていた頭がしゅうーっと冷えていく。そうだよな、やはりあくまで「友達」だったようだ。俺も一瞬はデート的な意味だと誤解したけれど、まあ分かっていたさ。どう考えても日原さんと俺では釣り合わない。
「栄子を含め友達が皆、私と朝見くんをふたりにさせようとしてるの。ごめん朝見くん」
両手を合わせる日原さんに、俺はふるふると首を振った。
「謝らないでよ、一緒に行きたいと思って貰えて光栄だよ」
恋心だったらもっと光栄だったけれど……。
「そもそも私、朝見くんの予定をまだ聞いてないのにね! 参加する人を集めてから申請するつもりだったから」
日原さんが屈託のない笑顔を見せる。
「朝見くん、花火大会一緒に行ってもいい?」
もちろん、と言おうとして、ハッとなった。
その日はまひると行く予定なのだった。流石にクラスメイトとの交流に妹を連れていくのは恥ずかしい。
「ごめん、それはちょっと……」
やんわり断ろうとすると、日原さんは少し傷ついた顔をした。
「そっか、これ以上変な噂になっちゃったら迷惑だよね」
「う、そうじゃなくて」
迷惑では全くない。むしろ事実でない噂でも自慢できる。
「あっ、でも朝見くんと私が一緒じゃなかったら、朝見くんが私を振ったみたいな構図になって栄子たちがまた誤解する」
日原さんが唇に指を当て、複雑そうに眉を寄せた。
「それじゃあ朝見くんが酷い人だと思われちゃう……私『やっぱり人混み嫌だから花火は例年どおり家から見る』って伝えとくね」
「そんな、気を遣わなくていいよ! 迷惑ではないから。ただ俺の方に先約がいるんだ」
妹を連れていくと先に決まっていたとなれば、枯野さんたちだって分かってくれるだろう。日原さんは首を傾げた。
「先約って、陸くんとか、そういう友達? だったらそこに混ざりたいな」
「まひるだよ。あとキル」
「ちっちゃい子を連れてお祭り回るの、楽しそうだね!」
ポジティブな彼女はぱあっと笑った。
正直、楽しみに行くつもりはない。人混みなんて嫌いだし、まひるのお願いだから仕方なく行くだけだ。
仕方なく、だ。でも、日原さんが浴衣姿で隣にいてくれたら仕方なくねえな。だったらそれを目的に嬉々として行く。……なんて、くだらないことを一瞬考えた。
「いや……でも、学校の友達と遊ぶのに妹連れてくなんて、恥ずかしいだろ」
しかし日原さんは無邪気に笑った。
「そんなことないよ。お邪魔じゃなければ、私も仲間に入れてね。私はワイワイしたいだけだから、まひるちゃんとキルちゃんも一緒だったらすごく嬉しい」
そうか、彼女がそう言ってくれるのならまひると日原さんと一緒にというのもアリなのではないか。それに日原さんがワイワイしたいというのなら、陸が願っていたグループぐるみでの散策も叶う。そうなれば枯野さんたちの誤解も解ける。ラルが絡んできたとしても、陸に下手に手出しできなくなるし、ラルに純粋な友達ができるきっかけになるかもしれない。大勢いればまひるも喜ぶ。日原さんが俺に気を遣って祭りに行かず、家で花火を見るという事態も避けられる。
「うん、まひるに言っておくよ」
俺も、ひとり占めではないにしても、日原さんと行けるのは喜ばしい。花火大会がちょっと楽しみになってきた。
*
その日、自宅に帰って玄関を開けたときだった。
「ただいまー」
「お兄ちゃん! お兄ちゃん大変大変!」
まひるが階段を駆け下りてきた。
「危ないから走らずに下りてきなさい。なに、どうした?」
聞くとまひるは両手を振り上げた。
「ビッグニュース! お兄ちゃん驚くよ」
充分に溜めてから、彼女はぱあっと満面の笑顔で言った。
「なんと! パパ帰ってくるって!」
「え!?」
なんだって。
ずっと留守にしていたあの親父が、帰ってくるだと。
「マジで……!?」
「本当だよ。さっきおばあちゃんが電話取ったの。まひるもお話したよ」
あまりに唐突で、頭が追いつかなかった。
「嘘……いつ? いつ帰ってくるの」
俺の狼狽を他所にまひるは嬉しそうに笑った。
「なんとなんと! 今日の夜だよー! お夕飯一緒に食べられるって言ってた!」
「ちょっ、待て、急すぎる!」
ついさっき連絡してきて、今日の夜にはここにいるというのか。
「せめて一週間前くらいには知っておきたかった」
「パパ、きっとお兄ちゃんをびっくりさせたかったんだよ!」
まひるは悠長にニコニコしていた。
「今日のお夕飯はなに?」
「ナスの生姜焼き」
「パパが好きなメニューだ! おばあちゃんにも言ってくる」
キャッキャとはしゃいで、まひるはばあちゃんの部屋へと階段を上っていった。
ナス、買ってある分で足りるかな。いや、そんなことよりもっと考えなくてはならない問題がある。
フリーズする俺の元へ、今度はキルが来た。まひるから親父の戻りを聞いているらしく、尋ねてきた。
「パパってたしかフランスだかイタリアだかで調理の仕事してるって言ってたよな? 日本の料理を教えてるとかなんとか」
俺は処理が追いついていないながら頷く。
「そう。日本独自の技術を外国に広めてるって聞いてる」
「それが帰国してくるのか。じゃ、明日からプロの料理人が作るご飯を食べられるんだな」
キルは悠長に目を輝かせている。俺は彼女のフードの三角耳を引っ掴んだ。
「やばい」
「どした」
掴まれたキルは、流石に驚いて目を丸くした。
「あ、そういやサクは父ちゃんが苦手なんだっけか。りっくんとそんなような話、してたよな」
「それもだけど、それ以上にやばいのがお前だよ、キル」
「えっ、私? 私は別においしいもの食べさせてもらえそうで楽しみなんだけど」
全く緊張感がない。俺はぎゅうっとフードの耳を握りしめた。
「キルのこと、親父になんて説明したらいいんだ!」
「あ! おお! どうすっか!」
キルはようやく自分の立場を思い出した。
見知らぬ女の子がひとり、知らないうちに家に増えていたら親父は驚くに決まっている。どこのどいつで、なんでここにいるのか問い詰められる。
「まずい、それでなくてもあの人、苦手なのに……!」
「まあそんなに慌てなくても、経緯どおりに説明すればいいんじゃない?」
キルは変わらず平然とした態度で提案してきた。しかし俺の方は、変な汗が止まらない。
「まひるが犬と間違えて拾ってきたと話すのか? 追い出そうと思ったら暗殺者だったから、逆らえなくて受け入れたと、正直に言うのか?」
「だってそのとおりじゃん」
「そのとおりだけど、そんなんで誰が納得するんだよ!」
普通の精神状態の人がそれを聞いて、「なら仕方ないね」とはならない。
「じゃあ適当に誤魔化す? なんかこう、ホームステイで受け入れてるとか、それっぽい設定付けてさ」
「それだと、なんで親父に一言入れずに受け入れたんだって話になる」
「じゃあ、半同棲状態で泊まりに来てる彼女、とかにするか?」
「お前自分の外見理解してる? 子供にしか見えないんだよ、キルは!」
勢い余ってそれを言ったら、パアンと切れのいい音でキルの平手打ちが俺の頬にめり込んだ。キルがもうワンパン入れようと左手を握りしめたのを見て、慌ててその拳を手のひらで受け止めた。
「レディ、失礼しました」
「なかなか反応速いじゃねえか」
「とりあえず、マジでどうするか考えよう。親父は夕飯時には帰ってくる」
言ったとき、キーンコーンと外から五時の鐘が聞こえてきた。夕食の時間は大まかに、六時から七時。
「もう一時間以内には帰ってくる。時間がないぞ」
制服から着替えるのもやめて、真っ直ぐにキッチンに向かった。キルもちょこちょこついてくる。椅子に引っ掛けてあったエプロンをかけていると、キルもキッチンまで入ってきて、俺の隣で面倒くさそうに首を捻った。
「うーんと……たまたま遊びに来てた友達ってことにできないかな」
俺はフライパンに油を引いて、考えた。
「まひるの友達ということにすればいけるかな……あ、だめだ」
途中で気がついて、俺は冷蔵庫からナスを取り出しつつ言った。
「お前、明日以降もいるつもりだろ。たまたま来てた友達なら、なんで家に住み着いてるのか説明がつかない」
「そうだった。そもそも、まひるが上手く話を合わせられるとは思えない」
キルも自分で提案したくせに難しそうに唸る。
ナスを多めに買っておいたお陰で、緊急で増えた親父の分も賄えそうだ。俺はナスに包丁を入れた。
「あいつ素直ないい子だから、嘘つくの下手なんだよ」
「待てよ、そうだとするとあらゆる嘘が使えなくなるんじゃないか。どんな設定を用意したとしてもまひるが合わせられない」
キルの言うとおりだ。こちらが隙のない嘘を用意したところで、まひるとばあちゃんに口裏を合わせてもらえないと意味がない。
「どうすっかなあ。困ったな」
キルが腕を組んで目を瞑っている。俺は包丁でナスを小さくしていた。
「キル。つまみ食いを狙ってるところ悪いんだけど、そこにいられると料理の邪魔だからダイニングに避けててくれない? お手伝いしてくれるつもりはないんだろ?」
見破られたと言わんばかりに、キルはこちらを振り向いた。
「お手伝いするよ。味見する」
「屁理屈捏ねてないで出てけや」
そう言ってみて、ハッとなった。
「そうだ! 出てけよキル」
「なんだよ急に」
キルが組んでいた腕を解く。俺はトンとナスを一つ切り終えた。
「親父がまた仕事でいなくなるまでの間でいいから、どっかいなくなってよ。それならまひるが『犬が逃げた』って言ったら親父は犬だと信じる。ばあちゃんは、余計なこと言わないだろうから大丈夫だし」
「ええー! 朝見家パパさんのプロご飯、食べたかったのに! 私、放り出されちゃうのか!?」
キルがようやく真剣に焦りはじめた。
「いや、その前に親父さんと顔を合わせるのすら許されないんだから今日の夕飯も一緒にいられないってことじゃん! 酷い、ナスの生姜焼き食べたかった!」
「申し訳ないがご飯は諦めてくれ。寝泊まりできる場所は自分で探せるな?」
「いやだ、食べたかった! ペットを放し飼いにするのか? 無責任だとは思わないのか!?」
泣きそうな顔で縋り付いてくる。包丁を使っているのに、危ない。
「親父が再びいなくなったら、帰ってきてもいいから! どのくらい今回は留まるのか分かんないけど」
親父は帰ってきてもすぐにまた外国に発つこともあれば、年単位でこちらにいるときもある。今回の帰省がどのくらいなのかは見当もつかない。
キルは青い顔で訴えた。
「困るよ、寝泊まりできる場所を探すにしても、朝見家のペットほど待遇のいい拠点はないぞ。この生活レベルから戻せる気がしない。ほんの数日だって耐えられない」
「そんなにうちが好きなの?」
「サクは孤独を知らないから、この家庭のありがたみが分かってないんだ」
キルが意味深やらただの中二病やら分からない変な発言をした。キルはしばらく目を泳がせていたが、突然スッとスイッチが入ったように真顔になった。
「私はまひるとばあちゃんが大好きで、そのついでくらいにはサクも気に入ってる。私にとって当たり前になりつつあるペット生活を、壊してほしくない」
勝手に居着いた居候のくせに、キルは固い決心を決めた。
「私は私の生活を守るために……親父さんを殺す!」
「ええ!? なに言ってんの」
まさかの宣言に、俺はぎょっと包丁を止めた。キルは真剣かつ神妙な顔で頷いた。
「仕方ないんだ。暗殺者として、自分の邪魔をする者は消す」
「お前、親父の料理が食べたいんじゃなかったのかよ! 本末転倒してるぞ」
「でも今思い出した。帰ってきても料理作ってくれたことなんてないって、言ってたよな」
問われて、俺は口を噤んだ。陸と話していたのを盗み聞きしていたキルは、俺がそう話していたのまできっちり覚えていたのだ。
「サクだって親父さんのこと苦手だって言ってたし。殺してもいいだろう」
「苦手だけど、死んでいいのとは違う。そうなったらまひるが悲しむぞ」
「大丈夫、まひると顔を合わせる前に殺す。そしてまひるには、『お父さんやっぱり帰国できなくなった』とでも伝えておけばいい」
たしかに俺は親父が苦手だし、正直言って帰ってきてほしくない気持ちはある。でも死なれると色んな意味で困る。
「性格は苦手だけど、働いてお金を家に送ってくれてるのは親父なんだぞ。大黒柱がいなくなったらご飯作れない!」
必死に説得を試みたが、キルはもう暗殺者の顔になっている。
「心配すんな。私が暗殺の仕事でまとまった金を稼いできて家計に入れてやる」
「それはもうペットじゃなくなってない!?」
「今まで食わせてもらってきた分を倍返しにして、美月を殺せば入る報酬で謝礼を支払うつもりだった。初めから私はペットではない」
キルのその言い切りに、俺はぽかんとした。こいつ、ついさっきまでペットだと言っていたくせに。あれは建前で、本心は別にあったということか。
ずっと、扶養されているつもりでいるのだと思っていた。ペットとして、働かなくても衣食住が安定して供給されるつもりでいるのだと解釈していた。
「それじゃ、私が親父さん殺す形で解決でいいな」
俺が驚いて言葉を失っているうちに、キルが勝手にまとめてしまった。慌てて待ったをかける。
「だめだって! 落ち着け。一旦考え直そう。そうだな、今夜は一先ず親父が寝るまで俺の部屋にでも隠れててくれ。夕飯の生姜焼きは持って行ってやる」
今夜の分のご飯にはありつけると聞いて、キルはピクッと固まった。
「まひるには、『親父には内緒で飼ってる犬だから俺がOK出すまで秘密にしていよう、後でサプライズで見せよう』とでも言っておけば下手に喋らなくなる。嘘をつくのは下手だけど、触れないように黙ってるくらいはできる子だから」
まひるのことだからうっかり喋ってしまうかもしれないが、先にサプライズにすると話してあれば、こちらがフォローすれば空気を読んでまた黙ってくれるはず。
「ただずっとキルを閉じ込めておくわけにもいかないから、明日の朝までには出ていってもらう」
ここまで言うと、キルはまた牙を剥いた。
「やだ! それなら親父さんに死んでもらう!」
「だから、それは困るって!」
頭がパンクしそうだ。苦手な親父の突然の帰省、どう隠したらいいのか分からない暗殺者の存在。その上キルは、親父を殺してしまえば解決という極論に辿り着いてしまった。
なにからどうしたらいいのか、整理がつかない。
混乱して目を回しているうちに、ピンッポーンと癖のあるリズムでインターホンが鳴った。
俺は包丁を握ったまま、びくんっと飛び上がった。キルも狭い肩を弾ませて目を見開いた。
ちぎれそうな和紙を引っ張るような緊張感が走る。
「来……」
た、まで声にならなかった。このインターホンの音。押してから一秒間くらい指を押し付けたままにして、それから離す押し方……親父の癖だ。思ったより早く到着しやがった。こちらはなんの準備も済んでいない。キルを隠していないし、生姜焼きだってできていない。
キルが少し身を屈める。その氷のような瞳にぞっとする。そうだ、こいつはまひるが親父と対面する前に迎え撃つ気でいるのだった。張り詰めた部屋の中で、まな板に包丁を置くカタッという音がやけに大きく聞こえた。
「ぱーぱあー!」
ダダダダとまひるの足音が二階から響いてくる。俺と同じくインターホンで分かったのだろう。すぐにでも階段を下りてきて、親父に会いに来る。
張り詰めた空気がびりっと痛い。キルが袖口からチャッとダガーを覗かせた。
咄嗟に、俺はエプロンをかなぐり捨てるが如く脱ぎ、そのエプロンをバフッと、キルの頭に被せた。
「ふぎゃっ! なにをする!」
いきなり前が見えなくなったキルは、ダガーを握った手をばたつかせた。俺はキルが顔を出さないようにエプロンで包んで、裾を手で絞って押さえつけた。
「危ないから、そのナイフ引っ込めろ」
「なんだよいきなり! 放せよ!」
キルが暴れてナイフをしまわないので、片手で奪い取って捨てた。
「ここにいたら、間違いなく親父に見つかる。でもキルを部屋に片付けるためには、どうしても玄関の前を通らなくちゃいけない」
エプロンでキルの顔をくるみ、紐を利用して首の辺りで縛る。てるてる坊主のようになったキルをそのまま抱き寄せ、ひょいっと持ち上げた。
「わー! わー! 下ろせ、見えなくて高くてやだ、下ろせ」
嫌がってバタバタするキルを、腕の中で雑に丸める。
まひるの足音が階段を駆け下りてくる。その後を続くように、ばあちゃんのゆっくりな足音も続いていた。
抱き上げられたキルは、ひしっと俺の肩にしがみついてきている。子供みたいな体温がじわじわと移ってくる。脚を折り畳んで俺の胸に押し付けると、上着のお陰で白い大福餅のようなフォルムになった。おまけに顔にも蓋をした。この抱きかかえ方でこの背中を正面に向けていれば、親父に見られても人間には見えないはずだ。
謎の球体のようになったキルを抱えて、キッチンから飛び出した。前が見えないキルは後ろ向きに急に走り出されて怖かったのか、ひっと声を呑んだ。
ドアを出ると、既に下りてきていたまひるが玄関を開けていた。
「パパー! 待ってたよ!」
「まひる。久しぶりだな」
玄関の外に立っていた男を見て、今度は俺が呼吸を止めた。
ワイシャツにネクタイ、スラックスの、どこにでもいる壮年。どこか、歳をとった自分を見ているような気分になる面持ち。キルを丸めて運ぶまではびっくりするくらい手際がよかったのに、一瞬で全てが凍りついたみたいに、思考も体も停止した。
俺が苦手な、あいつが帰ってきた。
「咲夜」
まひるを撫でていた親父が俺に気づいて、目を細めた。
やめろ。
やめろ、来るな。
「咲夜ー! おっきくなったなあ!」
親父は年齢にそぐわないハイテンションで、甲高い裏声を発した。俺は肉食獣に見つかった草食動物のように、びくっと仰け反った。
「咲夜おいで、パパがぎゅーってしてあげる」
「来るなあああ!」
靴を脱ぐ親父に全力で叫んで、俺はキルを抱えて階段を掛け上った。
階段の下から、親父の惜しそうな呟きが聞こえる。
「あれえー寂しいなあ、パパ、久々に帰ってきたのに……」
「パパ、まひるをぎゅーってして!」
無邪気に催促するまひるの声と、それに応じる親父の声を聞く。
「いいぞー、まひちゃんもおっきくなったなあ、ぎゅっぎゅー!」
「きゃーっ! パパ大好きー!」
まひるの歓声のあと、ばあちゃんののんびり声が尋ねた。
「暁吾さん、久しぶりね。お仕事は落ち着いたの?」
「夕子さあん! 咲夜とまひる見ててくれてありがとうございますー! ようやくゆっくりできそうなんですよお!」
このウルトラハイテンションボイスが耳に入ってくるだけで、俺の恐怖心は煽られていく。怖くて怖くて手が震え、自室のドアを開けるのにも手間取ってしまう。ガタガタしながらようやく部屋に転がり込んだ。
エプロンで顔を隠して背筋をまん丸くしたキルを、ぽいっと床に転がす。俺も床で崩れ落ちた。怖かった。まだ息が整わない。
「あー、びっくりした。暗殺者をラッピングするなんて、なかなか手が速いな。振り払う隙が全くなかった」
キルがもそもそとエプロンの紐を解いて、顔を覗かせた。
「目隠しで見えなかったんだけど、超テンション高い声は聞こえたぞ。あれが親父さんなのか?」
尋ねられて、俺は無言でこくこく頷いた。まだ心臓がばくばくいっている。キルは哀れみの目でまばたきした。
「親父さんのこと苦手だっていうから、めちゃくちゃ怖い人を想像してたんだけど……」
「怖いだろ! あんなんめっちゃくちゃ怖いだろ」
勢い余って両手でキルの肩に掴みかかってしまった。あれがいると思うと、下の階に下りたくない。キルは大人しく肩で俺を受け止めた。
「たしかに怖いっちゃ怖いけど、私が想像してたのは、もっと気難しくて寡黙で仏頂面、というタイプだった」
「逆! 全てにおいて前向きでお喋りでいつでも笑顔、それも限度を遥かに超えたレベルで!」
「怖いというより、気持ち悪いな」
「あのテンションが通常運転だぞ、疲れる」
「誰に対してもああなのか?」
キルが真顔で眉を顰める。俺は小さく頷いた。
「家族以外にはあそこまで酷くはないが、いきなりかわいいって言い出したり撫でたりくらいは誰にでもする。そりゃ陸も怖がるわ」
なにが恐ろしいって、俺にもあれの血が流れているということだ。あんな大人にはなりたくない。まひるも同じ血がかよっているせいか、あいつは社交性が半端なく飛び抜けている。遺伝の片鱗を感じて、今から恐ろしいのである。
「けど、あの性格だったら私が居候してても怒らないんじゃないか?」
キルが胡座をかく。俺はまだ血の気が引いていた。
「怒りはしないだろう。でも納得いくまで問い詰めてくる。問い詰めてくる間じゅう、あの喋り方を聞かされてベタベタスリスリされるんだ……!」
「おっ……それは地獄」
キルは素直に俺に同情した。俺は額の汗を拳で拭った。
「キルも他人事じゃないからな。血縁じゃないから俺とまひるほどではないと思うけど、少なくともぐりぐり撫でられるぞ」
「ふむ、怖い。耐えられない」
キルが腕を抱いて仰け反る。俺も脚を畳んで体育座りになった。
「これだから帰ってこられるの嫌だったんだよ。どうか早く海外に消えてくれますように」
「案ずるな、私が葬っておく」
余程撫でられたくないのか、真剣な声色だった。
「まひると対面させてしまったが、まひるが親父さんから目を離した隙に殺して『たった今仕事の連絡が入って出かけた』と伝えれば済む」
「違うんだキル。そこまでしなくていいんだ」
こいつはこいつでこの調子だ。頭が痛い。
「サク、お前は善良だから知らないだけで、他の一般的感性の人間ならこういうとき『死ねクソ親父』と思うところなんだ」
「キモイけど死ねっていうのとは違うんだよ。あとそう思う人がいたとしても、本当に殺しちゃだめだ」
「大丈夫、実際死んでみたらそんなに世界は変わらないって」
「変わる! 頼むから穏やかにいこう、キルにもちゃんとご飯あげられる方法考えるから!」
ギラギラするキルをなにとか制して、回らない頭で必死に次の行動を考える。とりあえずキルをこの部屋に待機させて、俺は戦場に戻ってナスを焼くべきか。行かなくてはならないのは分かるが、部屋から出たくない。
顔を合わせたくない気持ちが最高潮だというのに、その悪夢は向こうからやってきた。
「さーくや。さくちゃん」
トントンと部屋のドアがノックされた。全身に鳥肌がぞわわっと駆け抜ける。キルも、終末を迎えたような青白い顔で凍りついた。
「おいで、パパと遊ぼ。さっきなんか丸くて大きいもの運んでたな。あれはなに? パパへのプレゼントかなー?」
ドアの向こうからオッサンの裏声が響いてくる。恐怖心で血が凍ってしまう。
「あれっ? お返事がないな? かくれんぼかなー?」
幼児を相手するような話し方が続く。キルが再び、ダガーを手に持つ。一瞬、殺っちゃってくれという妙な心強さを感じたが、流石に実行はだめだ。
「五秒前! ごー、よーん」
親父がカウントダウンを始めた。これは、ゼロの瞬間に部屋に飛び込んでくるつもりだ。完全に停止していた頭は、危機を目の前にしていきなりフル稼働しはじめた。俺は慌ててクローゼットを開けて、再度キルを抱き上げた。
「さーん」
キルをぽいっとクローゼットの中に放り投げる。
「ちょっとそこに隠れてろ」
小声で指示する。キルは目を白黒させながらも、ハンガーにかかった上着の中に潜り込んだ。
「にー!」
扉を閉めようとしたら、キルがあっと短く叫んだ。
「ここだと、うっかり開けられたときにすぐに見つかっちゃわないか?」
「じゃ、いちばん高いところに隠れてて。冬物の衣装ケースが並んでるとこ。キルくらいなら入れる隙間があるから」
クローゼットの中のいちばん上を指差す。衣替えのときしか覗き込まない、物置的なスペースだ。キルは身軽に壁を上り、衣装ケースの隙間に滑り込んだ。
「いち!」
「じっとしてろよ、キル」
「息を潜めるのは得意だ」
「ぜろ!」
予想どおりだ。カウントが尽きた途端、親父は無遠慮にバアンと扉を全開にした。分かっていたのに俺は肩を跳ね上げて、キルの入ったクローゼットの扉をピシャリと閉めた。
「おっ、おかえり……」
震える声でようやく絞り出す。親父はへらへらしながら、パタンとドアを閉めた。密室にされて恐怖が募る。怯える俺に躊躇せず、親父は部屋に上がり込んできた。
「やっとお迎えしてくれた! 会いたかったよ、咲夜」
「気持ちは嬉しいけど、俺ももう高校生だしあんまりベタベタされるのは嫌かな。やめて、来ないで」
後ずさりして、クローゼットの扉に背中を貼り付ける。親父はニマニマ笑って近寄ってくる。
「まあまあそう言わず。滅多に会えないんだから。ナデナデするくらいいいだろ」
「よくない、触らないで」
「本当に大きくなっちゃったなあ。パパに似てくると思ったのに、母さんの方に似てきてないか?」
それは少し安心した。
「お……親父、帰ってくるなら早めに連絡ほしかったよ。そしたらもっと夕飯豪華にしたのに」
「急に帰国が決まったんだもん。いやあ、ひとりぼっち寂しかった。咲夜と話したくて眠れない日も……」
「こんな反動が来るほど寂しかったなら連絡くれればよかったんじゃ?」
「パパのことウザイっていって着信拒否したの咲夜じゃん!」
「そうだっけ?」
逃げ場のない部屋で追い詰められて、それでも逃げ出したい俺は、壁に背をつけてじりじり身じろぎした。親父は楽しそうに歩み寄ってくる。
「さっき運んでたものはなに? なにか抱えてこの部屋に持ってきてたよな」
抱き上げて連れてきた、キルのことだ。
「ああ、あれはその……学校で使うもの……」
どう濁していいか分からなくて、目を泳がせながらめちゃくちゃな嘘をついた。
「へえ、あんな大荷物、なにに使うの?」
「秘密」
「えー寂しい! 教えてよー。気になるー」
「一生気にしてろ」
クローゼットの扉に、後ろ頭を打ち付ける。瞬間、背を預けていたクローゼットの扉がギシッと動いた。ちらと目線だけ動かす。少し、扉に隙間が開いていた。
「咲夜に最後に会ったときは、まだ中学生だったもんなあ。あのときも抱っこさせてくれなかったから今回は……」
気持ち悪い親父の発言は、途中で遮られた。
言い終わる前にドスッと、親父の足元の床に薄い刃が突き刺さったのだ。
ヒヤッと汗が滲む。クローゼットの中でキルがいらついているようだ。クローゼットの扉の二センチないくらいの隙間から刃を飛ばしてきた。殺してやるとは言っていたが、本当に仕掛けてきた。
「こら、やめろ」
声を潜めてクローゼットの方に訴える。背中で扉を押し付けて攻撃できる隙間を奪ってやろうとしたが、キルが上着の裾でも挟んでいるのか、しっかり閉まらない。
「ん? なんだこれ。なにか飛んできたぞ」
親父がしゃがんで刺さった刃物を見つめる。その隙にもう一枚、クローゼットの隙間から刃物が飛び出した。今度はカッと椅子の背もたれに突き刺さる。細い隙間から、まともに相手の位置を確認すらせずに撃ってきている。
床に刺さった刃の形状を観察する。あれはスペツナズナイフだ。柄から刃を発射できるタイプのナイフだと、キルから教わっている。そこまで思い出して、ハッとした。
そうだった。キルが来たばかりの頃、キルがフクロウ本部から武器を大量に発注して、そのダンボールを俺がクローゼットに隠したのだった。それを忘れてダンボールのある場所にキルを入れてしまい、最悪のタイミングで発見されてしまった。
いよいよ焦った。今でこそ狙いが定まっていないが、このままいたらそのうち精度が上がってきて、本当に刺されてしまう。
「夕飯作ってる途中だった! 行こう」
親父を部屋から出して、キルから逃がすしかない。折角提案したが、親父は床の薄い刃を眺めて動かない。
「んー。咲夜が隠してたあの大荷物がなんなのか、教えてくれるまで居座ってやる」
「そんな気にするほどのものじゃ……」
「気になる気になるー」
親父が甘えたような声を出すと、ピッとまたナイフの刃が飛んできた。親父の頬すれすれを通り抜け、床に突き刺さる。冷や汗が出た。
「気持ちは分かるけど、もうやめよう!」
俺は親父とキルの両方に対して言った。
「もう夕飯にしよ。今から作るからちょっと遅くなるけど、待てるよな?」
これも両方に対しての言葉だ。親父は首を傾けた。
「夕飯の後で教えてくれるってこと?」
「んっ、うん。気が向いたらね」
「おーけー。絶対気を向かせてやる」
親父の方は相変わらず弾けた裏声で了解した。キルの方も、夕飯が遅くなることは諦めたらしい。攻撃が止んで、俺と親父に逃げる隙を与えてくれた。
よかった。料理をしながらまひるとばあちゃんを交えて適当に会話をし、満足させてしまえば、この部屋でのやりとりなんか忘れてくれるだろう。
しかし、そんな安心も束の間だった。
「って言うと思うじゃん!? ここで抜き打ち私服センスレビュータイム! クローゼットチェーック!!」
親父が突然こちらに特攻してきて、俺を跳ね除けクローゼットの取っ手を引いたのだ。俺は声にならない悲鳴を上げた。
万が一開けられてしまったときのために、キルを見つかりにくいところに隠した……とはいえ、本当に開けられてしまうと心臓が飛び出しそうになる。
「まっ、待て! やめて親父っ……」
「オープン!」
必死に止める俺を無視して、親父はクローゼットの扉をバンッと全開にした。
今このタイミングでいきなりクローゼットを開ける? なんで? 行動が奇想天外すぎて、処理が追いつかない。
そして、なによりまずいのは。
「オープンじゃねえわ! 気色悪いんだよこの子煩悩がー!」
クローゼットの最上階からびっくり箱の如く飛び出す、白い暗殺者だ。
手には金属バット状の棍棒を握りしめ、全力で振りかぶって親父の頭部を狙い、飛び降りてきたのだ。血の気が引いた。やめろと叫ぶ余裕も、そんな隙もなかった。
飛び降りてきたキルと、開いた扉の向こうに立つ親父の目と目が合った。
「えっ……!?」
親父の顔を目の当たりにした瞬間、キルが鳩が豆鉄砲を食らった顔になった。親父の方は、高いところから降ってくる暗殺者を見上げ、おお、と笑顔を見せる。
「やーっぱり。キルだった」
親父の言葉を受けて、俺は親父とキルを見比べた。
えっ。なにが起こった? 親父がなぜ、キルを知っている?
キルは棍棒で親父を殴ることなく、スタンと床に降り立った。そして小さな体で親父を見上げ、震える声を出した。
「ミスター……ミスター右崎、なぜここに?」
俺は、また思考が停止した。
どういうことだ。今キルは、ミスター右崎と言ったのか? そう聞こえたが聞き間違えか? だって、この人は俺の親父であって、ミスター右崎はキルに仕事を与えるエージェントであって、そんな、同一人物なわけがない。
石になった俺の目の前で、キルと親父が互いに驚き合う。
「そりゃ俺の家だから。キルこそ、なんでここに?」
「わ、私は、ええっと……いろいろあって世話になってる」
「ほお、ミラクルな縁があったものだねえ」
キルは口をあんぐりさせて、親父はちょっと楽しそうに笑みを浮かべて、お互いの存在を確認している。俺だけが置いていかれている。
「あらあらあら。ついに咲夜にもばれちゃったわね」
突如、柔らかなのんびりボイスが部屋に割り込んできた。見ると、部屋のドアを押し開けて覗き込む、ばあちゃんがいた。
「まだ高校生だから、教えてあげるのはもっと大人になってからと思ってたのに」
「ばあちゃん……どういうこと? 親父はただの料理人じゃなかったの?」
ようやく声を出すと、ばあちゃんはうふふと頬に手を当てた。
「咲夜、あなたお父さんの手料理食べたことないでしょ?」
ドキンとした。そうだ、食べたことがない。父が料理人である証拠なんか、一つもない。
「死んでも文句を言えない連中を『料理』してるんだもの。食べたことがなくて当然だわ」
ばあちゃんはいつもと変わらない穏やかな微笑みで、俺の心を凍らせた。
*
右崎左門。それが親父がフクロウで活動しているときに使用している名前だった。
「玄関に見覚えのある小さい靴があったから、これ、誰のだったかなあって思ってたんだよ」
キッチンでナスを焼く俺に、親父はダイニングの椅子から話しかけてきた。
「そしたら咲夜が、怪しい荷物を持って部屋に走ってったでしょ。部屋では明らかになにかを隠してた。その上ナイフの刃が飛んでくる。びっくりだよー、暗殺者匿ってたとはねえ」
部屋までわざわざ来るとか、クローゼットをいきなり開けるとか、随分と訳分からん行動するとは思ったけれど。この人は、なにかいるなと感づいてたのだ。
キルが居候している件について親父は疑問視することなく、カッカと笑っていた。
ダイニングの椅子は、初めて五つに増えた。キッチンの隅っこに脚立代わりに置いてあった丸椅子を、親父用に出したのだ。母さんがいなくなって空いた椅子をキルが埋めていたから、親父の椅子がなかった。椅子が一つ増えるとテーブルがやけに手狭になった。
「パパ、キルちゃんは不思議なわんちゃんなんだよ」
まひるが無邪気に親父の膝に乗る。まひるは事態を全く理解していなくて、ただ親父が犬を飼うのを認めてくれたくらいにしか思っていないようだ。親父も、まひるにはまだ自分の正体を隠しているので、まひるに話を合わせていた。
「聞いたよー、まひるが拾ったんだってな。かわいいねえ。まひるもかわいいねえ」
「わーい! パパ大好き」
「うわーんかわいいー! 見て夕子さん、まひるがかわいいー」
頭のネジが抜けてどこかへなくしてしまったみたいなうちの親父は、膝に乗せた娘をぐりぐり撫で回して、ばあちゃんに自慢していた。
「キル、これがお前の大好きなミスター右崎なのか?」
キッチンの流しのヘリに座るキルに引き気味の目線を送る。キルもぐったりと、頭を垂れていた。
「私だって信じたくない。ミスター右崎がウザイのは分かっていたが、これほどまでとは思ってなかった。ご家庭での様子なんて知りたくなかった……」
思い返してみれば、キルに犬の着ぐるみみたいなデザインの上着を贈ったり、健気に働くキルにかわいいと言っていたりと、その数々の鬱陶しい行動はまさに親父のやりそうなことである。
「声で分かんなかったのか?」
「ミスターの裏声なんて聞いたことないからな……私が知ってるミスターは、もうちょっと落ち着いた話し方してたし。まさか家ではこんなテンション出してるとは」
「ああ、仕事モードのときはここまで酷くはなかったんだな」
逆に俺は仕事中の親父を知らないので、不思議な感じがした。
まひるにデレデレしているあのオッサンが、実は暗殺組織フクロウのエージェント。国家の秘密を知り、要人を殺す暗殺者を駆使して、裏の世界から国を動かす。
信じられない、というか、信じたくない。そこはキルと同意見だ。
フライパンの上で、ナスがパチパチと小気味のいい音を鳴らしている。ほんのり焼き目がついてしんなりしてきたナスを眺めて、ため息をついた。
親父イコールミスター右崎というのも相当衝撃的だが、もっとダメージなのは、あの人のことだった。
「咲夜、なにか手伝おうか?」
微笑みながらキッチンに入ってきたばあちゃんに、俺は疲れた顔を向けた。
「ばあちゃんは、全部知ってたんだな」
ばあちゃんは、親父がフクロウのエージェントであると知っていた。キルが犬だとか人間だとかを気にせずに受け入れたのも、キルが暗殺者であると知っていたからだったのだ。
キルが時々不用心に暗殺という単語をばあちゃんの前で発しても、動じなかった。この人は、初めから全部分かっていたのだ。
「ごめんね。いつかは話さなきゃって思ってたの」
ばあちゃんはいたずらが見つかった子供みたいにはにかんだ。キルが流しの淵で腕を組む。
「まさかとは思うが、ばあちゃんもフクロウ関係者だったりする?」
「あら。なんで?」
「いや……この間まひるがいなくなったとき、異様にテキパキしてたのが気になってな」
キルが恐る恐る尋ねると、ばあちゃんは笑って誤魔化した。そんなばあちゃんを全く意に介さず、ダイニングから親父が声を割り込ませてきた。
「気づいた!? 我らがおばあちゃん、夕子さんは、フクロウの総裁だぞっ!」
「総裁!?」
「総裁だと!?」
俺とキルは同時にばあちゃんを振り向いた。フクロウの総裁は、困り顔でうふふふっと笑った。
「やだわ。暁吾さんたら、あっさり言っちゃうんだから……」
俺の中にあった、穏やかで優しいばあちゃんの虚像が、ガラガラと音を立てて崩れた。
総裁。ばあちゃんが、暗殺組織の総裁。そんなバカな。
この人はいつも俺たち兄妹をそっと見守ってくれて、困ったときに必ず手を貸してくれて、癒しをくれた。そのばあちゃんが、人を殺すために暗躍する組織を取りまとめているだと。
頭が真っ白になって、なにも分からなくなった。
「サク、おいサク……大丈夫か」
キルが声をかけてくる。
俺はぼうっと、焼けたナスに出来合いの生姜焼きのタレをかけて、皿に盛り付けた。白い湯気が生姜の香ばしい匂いを含んで、鼻腔を擽った。
「キル、運ぶの手伝って」
「んっ……うん。はいよ」
キルは戸惑いながらも、ぴょんと流しから飛び降りて、手渡した皿を受け取った。こいつでさえ、俺に同情している。
癖になった所作で料理はできた。でもその後の食事は、まるで味がしなかった。
*
「咲夜ー! 咲夜聞いて! まひるがかわいい! 息してる!!」
「うるせえな、息くらい誰だってするだろ」
ナスの生姜焼きを作った日、夜の十時のことだ。リビングで休んでいた俺に、親父は全くブレないハイテンションで報告してきた。
「今、寝顔見てきた。かわいかった」
「はいはい。親父も早く寝ろよ」
俺はぐったりとソファに横になった。同じソファの背もたれに、キルが座っている。
「ミスター、フランスでの仕事は一段落ついたのか?」
「うん。しばらくは日本にいるよ」
親父はフランスで日本料理を教えている、と聞いていたがそれは隠語のようなものだった。正しくは、フランスの暗殺者に暗殺大国日本の暗殺技術をレクチャーしていた、だったのだ。
本当は親父は、料理なんて全くできない。収入は全て、フクロウのエージェントとしての稼ぎだった。家計に振り込まれる額が異常に大きかったのは、エージェントの仕事が高給取りだったからなのだ。
「しばらくってどのくらい? 次はいつ出てくの?」
早く出てけという気持ちをめいっぱい込めて言うと、親父は首を捻った。
「仕事次第だからなあ。今のところは海外からの仕事はないから、本当に『入り次第』としか言いようがないな」
「うちは今、料理が俺、掃除と洗濯をばあちゃん、風呂掃除をまひるが担当していて、それぞれにキルがサポートに入ってる。この完璧な家事フォーメーションに親父が入る隙はない」
早く仕事に出ていってもらいたいので冷たく突き放した。だがそんなことでめげる親父ではない。
「じゃあパパはなんにもしないで、たっぷり甘えちゃおーっと」
「ふざけんな! なにかしろ!」
「することないって言ったりなにかしろって言ったり、咲夜は甘えんぼさんだな」
他人から善良と言われ、日原さんからも大人しそうと評価される俺だが、どうも親父と喋っていると殴りたくなる衝動に駆られる。
「まあまあ。いいじゃないの、咲夜」
穏やかに微笑むのは、リビングのテーブルでお茶を啜るばあちゃんだ。
「お父さんだって久しぶりの日本、久しぶりのおうちで、久しぶりに子供たちに会ったのよ。ゆっくりさせてあげよう?」
「そんな優しい声出したって、俺はもう騙されないぞ……。ばあちゃんだって、ずっと俺を欺いてたんだ」
俺はうつ伏せになって、ソファのモコモコに顔をうずめた。
夕飯を終えてからは少しは落ち着いてきたけれど、いまだ事実を受け入れられずにいた。あのばあちゃんが、人殺し集団のトップだなんて、絶対に嫌だ。俺が今まで見てきた、心優しいばあちゃんを返せ。
「そんな顔しないで。私はたしかにフクロウの総裁だけど、実際は隠居生活みたいなものなの。所属アサシンの統括管理とか資金運営については私がやってるけど、実務については全く手を触れてないわ」
ばあちゃんは的外れな言い訳で自分を弁護しようとしている。実務に携わっていなければいいというものではない。
「そろそろ立ち直れよサク。私だってミスターに幻滅してるんだぞ」
ぐずくずと悲観する俺の上で、キルもまだ戸惑っていた。
「おばあちゃんがフクロウの総裁で、親父さんがエージェントのミスター右崎。朝見家って一体なんなんだ?」
「日本でいちばんの、名門アサシン一家」
親父が身も蓋もない即答をした。
「戦後間もない頃、高度経済成長や法律の変化で、一般市民だけでなく政府の要人たちも激動の中で協力と裏切りを繰り返していた。もちろん賄賂も横行し、暗殺計画も数多く図られた。だが優秀な暗殺者をピックアップするのに、その手の情報に精通した人間が必要だった」
親父はテーブルに肘を乗せ、手を組んだ。
「そこで白羽の矢が立ったのが朝見夕子。うちのおばあちゃんだ。夕子さんはもともと日本軍の諜報の名残りで、スキルの高い暗殺者と交流があった。要人たちはこぞって夕子さんに情報提供を求めた」
いつものわくわく顔を手の甲に乗せ、親父はばあちゃんに目配せした。ばあちゃんは照れくさそうに目を伏せた。
「そんな背景があった上で、ばあちゃんは平等に情報を流すために、恨みっこなしの組織的暗殺部隊を設立したってわけ。それがフクロウの始まりだ」
親父の話を聞きながら、俺は頭を抱えた。設立の歴史を聞いたって、受け入れられない。キルは自分も暗殺者だからか、少し納得したようだった。
「なるほどな……国内のゴタゴタに紛れて急成長したとは聞いてたけど、そういう経緯があったのか」
「パパも夕子さんの正体を知らずに、明子ちゃんと結婚した」
親父がへらっと笑って母さんの名前を出した。ばあちゃんもうふふっと少女のように笑んだ。
「私もびっくりしたわ。まさか娘がエージェントを夫に迎えるなんて」
ばあちゃんと親父は互いに和やかに交わしあった。
「まあ、暗殺組織の総裁の娘だったからといって、それは結婚をやめる理由にはならなかったけどね。やっぱ結婚してよかったよ。結果としてこんな温かな家庭を築いたじゃないか」
「よくここまで隠し通したよ……!」
俺はソファに額を擦り付けた。知ってしまった俺は、鈍器で殴られたような衝撃に苛まれた。こんなの、まひるには絶対に言えない。
きっと母さんも、なにも知らなかったのだ。自分の母親が暗殺組織の総裁だとも、夫がエージェントだとも、思いもしなかったはずだ。母さんだけはいつも、命を大切にしなさいと当たり前のことを言っていた。邪魔なものは切って捨てる、暗殺者とは対局に。
「実はね、キルがこの町にいそうなことは分かってたんだよん。日原美月暗殺の仕事を請け負って、彼女の身辺を調べて、ターゲットが息子と同じ学校なのは知ってたから。だからってまさか、うちで匿われてるとは思わなかったけど」
親父のぬけぬけとした話し方で、俺はドキリと目を見開いた。そうだ。日原さんの暗殺者をキルに言い渡したエージェントは、俺の父親だったのだ。
「調べてたら美月ちゃんは、咲夜とクラスまで同じでびっくりしたよ。かわいい子だし、やっぱ咲夜も気になってたりする?」
「そこまで分かってて、よくあの子を殺す気になるな」
俺は軽蔑の眼差しで親父を突き刺した。
「普通、息子のクラスメイト殺そうと思うか?」
「パパ、普通じゃないもん」
おどける親父に、俺は殺意に似た感情を覚えた。流石に俺の怒りを察したか、親父は取り繕うように言い訳をした。
「仕方なかったんだよ、それしか方法がなかった。依頼人との重ね重ねの話し合いの末に決まったことだ」
キルがソファの背もたれで脚を組む。
「ミスター。私はミスターから、日原院長と安井議員の繋がりについてしか説明を受けてない。美月を殺すのも、院長にダメージを負わせるためだと聞いている」
神妙な声色で、キルは続けた。
「本当はそれだけじゃないんだろ。市政の教育委員会の影が見え隠れしてるぞ?」
「ちょっとちょっと。暗殺者はエージェントのいうことだけきいて、指示されたとおりの殺しだけしていればいいんだよ」
親父がうひゃひゃと軽やかに笑った。
「教育委員会については、依頼人から『誰にも言うな』と釘を刺されてたからね、実行役のキルにさえ教えてあげられなかった。そりゃそうよ、教育委員会が問題になると、回り回って責任を取らされるのが依頼人の身内になるんだから」
それから親父は、いたずらっぽくにやついた。
「でもそこまで近づいちゃったんなら時間の問題かな? 君たちが誰にも言わないっていうんなら、教えてあげるよ」
「言わないから話して。あ、調べてんのラルだからラルまでは言うけど。構わないだろ? ラルは信頼のおける変態だ」
キルがソファに潰れる俺を見下ろす。
「サクも口外しないよな」
「え……ああ、はい」
知りたくない世界ではあるが、日原さんを取り巻く怪しい影については、聞いておきたかった。親父は諦めたように口を割った。
「日原院長は、一回こっきりの関係のつもりで安井議員へ賄賂を出資したんだ。でもその汚い金の流れに一度でも手を触れたら、もう後には引けない。院長は金を流したことをネタに脅されて、娘の美月ちゃんを安井と教育委員会が指定した学校に入学させられた。指定した学校は安井が送り込んだ内通者がいる学校……それがたまたま咲夜の通う学校だった」
俺もキルも、ばあちゃんも、黙って聞いていた。
「美月ちゃんは人質にされたんだ。院長は愛娘を守るために、安井の言いなりになるしかない」
日原さんは幼い頃から、親のいうことを素直に聞いてきた。他に行きたい高校があったかもしれないが、父親からあの学校を指定され、それまでどおりに受け入れたのだ。そして彼女は、本人も知らないうちに人質となった。
「美月ちゃんが死ねば院長は弱る、安井と教育委員会は人質を失う。そうしてここの金の行き来を止められれば、依頼人の地位が守られる。というのがこちら側の筋書き」
「ふうん……ところがその動きに、安井が学校に送っていた“内通者”が気づいたんだね」
キルが先読みした。
「内通者を通じて、古賀ちゃんが送り込まれたと」
「古賀ちゃん? ああ、真城ライね」
親父が古賀先生のコードネームを呼ぶ。
「内通者はフクロウのエージェントと繋がってるみたいだね。それも、パパのことが嫌いな奴だ」
ラルの話を思い出す。反右崎派……すなわち、親父を失脚させようと目論んでいるフクロウの人間。
「そうか……古賀先生は、俺を狙ってる理由は日原さん暗殺の邪魔をするためだけじゃないって言ってた。もしかしてあの人は、俺がミスター右崎の息子だって、気づいたのかな」
古賀先生が俺を殺す目的は、ミスター右崎を引きずり出すことだった、とか。俺が死ぬことで動きが変わるエージェントを察知して、暗殺する。俺から情報を抜き出そうとしていたのもうなずける。
「それ、誰が動かしてんのか分かんないの?」
キルが聞くと、親父はちらと総裁であるばあちゃんに目をやった。しかし、ばあちゃんは首を振った。
「ごめんね。私も現場については分かってないの」
だよねえ、と親父は目を瞑った。
「そもそも暗殺者と暗殺エージェントだからね。味方さえも欺く。組織の方も、所属暗殺者とエージェントを信頼しているわけじゃない」
「ええ。暴動が起ころうが国が壊滅しようが、フクロウは駒を貸しただけ。責任は一切取らないわ」
ばあちゃんがほっこりとお茶を啜る。親父がばあちゃんを横目に、人差し指を立てた。
「と、この勢いで所属者を野放しだ。教育委員会サイドが依頼をかけたエージェントも、パパを狙う人間も、分かりっこない」
悪い人間が悪い人間を、互いに正体を現さずに潰し合っている。虫唾が走る話だ。
キルが眉を寄せた。
「古賀ちゃんは、総裁の孫を殺そうとしてるんだよな。私ならそれを知ってたら、サクには手を出せないぞ。フクロウ除名覚悟の上か?」
するとばあちゃんが、ふうとため息をつく。
「総裁の存在は、ごく一部のフクロウ幹部のみしか知らない極秘情報だから、いくら優秀な諜報員でも私のことは知らないの。咲夜については、エージェント右崎の息子……の可能性がある、としか認識してないのね」
「じゃあ、後出しで総裁の存在を知らせてやれば、手を引くんじゃないか」
キルが続けて呈すると、今度は親父がこたえた。
「夕子さんほどの地位のある人間がこんなところでのんびり大組織を動かしてると知られたら、夕子さんが暗殺されてしまうじゃにゃいかー」
聞いていた俺は少し考えた。総裁であり、体の自由があまり利かないばあちゃんよりは、俺が狙われた方がずっとましだ。
「この嫌な関係性を一瞬で解消に導く手段は、一つだけ」
親父がニヤリとする。俺はもそりと顔を上げた。この最悪な駆け引きを止める方法があるというのか。期待の眼差しを受けた親父はにんまりした。
「日原美月の暗殺だ」
それを聞いて、俺はもう一度、ソファに突っ伏した。
それしかないのか。……いや、そんなことはない。
「不正の元凶は安井とやらっていう政治家なんだろ。そいつ殺せよ……」
俺はむくりと、ソファから体を起こした。親父はまた、無邪気な声色でこたえた。
「それは無理だね。安井氏はまだ殺すには早い。厄介な存在ではあるが、死なれたら死なれたで諸々が回らなくなる」
「じゃあ教育委員会の方の不正を摘発した方が!」
「んなもんすぐ揉み消されるし。それに、言ったでしょ、教育委員会を崩すと依頼人の身内に不利益が出る。大体、根拠がない」
「だからってなんで……なんで日原さんなんだよ! おかしいよ。なんで安井は死んじゃだめで、日原さんならいいんだよ!」
勢い余って大声が出た。興奮する俺に、親父はニーッと歯を見せて笑った。
「簡単だよ。命の価値が平等じゃないからだ」
朗らかな笑顔から発されるには、あまりにも刺さる言葉だった。俺は口を半開きにして絶句した。くしゃくしゃになった前髪がぱらりと、顔に垂れる。
なにも言えなくなった俺を前に、親父は変わらず楽しげににやついている。
「人格の価値がいちばん高いのも、美月ちゃんかもしれないけどね! 皮肉だねえ」
そんなこと、あっていいのか。
母さんは言っていた。命あるものを大切にしなさいと。いくら金に意地汚い人間でも、死んでいいことにはならない。真っ白な未来がある日原さんは尚更だ。
「学校に内通者がいたんなら教えてほしかったぞ。そしたら学校には潜入しなかったのに」
キルが眉を寄せる。親父はむーっとむくれた。
「そもそもキルがもっと早く仕事を片付けててくれれば、ここまで拗れなかった」
「う、それを言われるとなにも反論できない」
ふたりのやりとりが、耳には入っても脳まで届いてこない。
平等ではないから、日原さんはなにもしていないのに、あんなにいい子なのに、犠牲になるのか?
「……親父……」
俺はソファの上で姿勢を正した。
「お願い。日原さんを殺す依頼を、断ってください」
親父は半笑いを浮かべて黙って、俺を眺めていた。キルもちらりとこちらを見る。ばあちゃんは、お茶の水面に視線を注いでいた。俺はソファから降りて、床に膝をついた。
「お願いします……。日原さんを助けてください」
「土下座するより撫でさせて」
親父はまだふざけている。俺は歯を食いしばって床の木目を睨んだ。
「それでもいいから。我慢するから、日原さんだけは殺さないで」
親バカのバカ親父なら、俺がこれだけ頼めば少しくらい揺らいでくれるのではないか。そんな期待が、胸のどこかにあった。それなのに親父は、明るすぎた笑顔で首を振った。
「いや、こればっかりは仕事だから!」
「仕事と俺、どっちが大事なの!?」
「サク!? 面倒くさい彼女みたいになってるぞ!?」
キルが背後で叫んだ。親父が穏やかな微笑みを浮かべる。
「咲夜が大事だから仕事してるんだよ」
「ミスターも模範解答かよ!」
キルが引き続き叫んだ。俺の必死の懇願を踏みにじるだけ踏みにじってから、親父はふはははと豪快に笑った。
「もちろんね、この件についてはできれば美月ちゃんには手を下したくなくて、交渉してたんだよ。夕子さんと一緒に考えた。例えば、暗殺対象を父親で当事者の院長にできないかとか」
親父はばあちゃんを手で示した。和やかな総裁は、静かにお茶を唇に傾ける。俺は上目遣いに親父を見上げていた。
「でも、院長を殺害しても院長サイドにも利益が出ちゃうんだな。院長に擦り寄って、その権威を横取りしようとしてる奴らがいるから。日原院長を病院のトップに据え置きのまま、院長に娘を失うダメージを与えて、組織をだめにするのがポイント」
それはたしか、キルが初めてやって来た日にも同じような話を聞いた。院長ではなく娘の美月さんを殺すことに意味があるのだと。
「それに院長殺害には過去に失敗例があるんだ。だから依頼人も、同じ過ちを繰り返すような仕事はさせたくないんだって」
「失敗例?」
キルが繰り返す。親父はいじける子供みたいに唇を尖らせた。
「パパのお気に入りだった暗殺者の、霧雨サニがしくじったんだ」
その名前を聞いた途端、俺はキルを振り向いた。キルはぴくんと眉間に皺を寄せ、顎に指を当てていた。親父はキルの怪訝な顔を気にせずに続ける。
「数年前、日原院長が初めて安井氏とコンタクトを取ったとき。ただの賄賂なら暗殺するほどでもなく普通に摘発なんだけど、この案件については、依頼人が地位を失うほどの危険な協定が結ばれていてね。動いた額も常軌を逸していたから、殺した方がいいと」
細かい事情は俺にはよく分からない。キルも多分、理解していない。
「そこでうちのエースだったサニを遣わし、日原院長に近づいた。だがそれに感づいた院長の部下……院長に味方するタイプの奴が、サニを拘束。サニの情報に触れてしまうから具体的には話せないが、病院内部を混乱させる事態に持ち込まれた」
単純に想像すると、院長暗殺を狙ったサニを逆に殺害しようとした……とか、だろうか。
「まあ結果的にそのお陰で日原院長に多額の債務を背負わせて、病院内での責任問題で引っ掻き回してやることはできた。これで院長は対応に追われて、病院が潰れると見込んだ安井氏が彼から離れた。ここまでは成功なんだけど……代償が大きかった。パパのお気に入りのサニ氏が、暗殺者として使えなくなってしまったのだー」
わざとらしく項垂れる親父と、静かに聞いているキルの両方を、俺は交互に窺った。大好きなミスター右崎の醜態に幻滅したとは言っていたが、キルにとっては自分の価値を認めてくれた人であることに変わりはない。そんな親父が「お気に入りの」と付けてサニの名前を出すごとに、キルは不快感を露にしていた。親父は空気を読まずに喋る。
「こっちはサニが使えなくなる痛手を負ったというのに、日原院長の病院は潰れずにすぐに体勢を立て直した。これによって、再び安井氏は院長と手を組んだ。わずか数年で、またこの賄賂問題が浮上してきたんだ」
親父の語りを聞き、ばあちゃんがふうと息をついた。
「そうなのよねえ。この案件は数年単位でフクロウの課題となってるの。だから、依頼人が彼らの怪しい動きを感じた時点で、フクロウに依頼が入った。実際まだ金銭の授受は確認できてないから、依頼人もこの暗殺を急げとは言わない」
ばあちゃんの言葉を受け、俺はまたキルを一瞥した。こいつが日原さん暗殺に失敗して時間がかかっていても許されているのは、あくまで暗殺の必要があると予期されているだけだからだったのだ。
「どんな経緯があるにしたって、日原さんを殺す理由にはならない」
必死に粘ってみたが、親父はあっけらかんとしている。
「なーるーの。グズグズしてたら咲夜が殺されて芋づる式にパパまで殺されちゃう。ないとは思うが夕子さんが総裁だって事実までばれたら、フクロウは機能しなくなる。こっちが打撃を受ける前に、美月ちゃん暗殺で相手方を混乱させて壊滅させるしかない。依頼人の利益を守るためにね」
そんなことで納得できるか。俺は床に膝をつけた姿勢で、ソファの背もたれに座るキルを振り向いた。
「キルも考え直してよ」
「……そうだな。ちょっと考えを改めるとするよ」
キルが顎に指を添え、真剣な面持ちで呟いた。彼女の幼くも鋭い目つきに、俺は希望を灯した。実行役のキルが気持ちを入れ替えてくれれば、日原さんは助かるかもしれない。
「キルにも良心が残ってたん……」
「つまり、美月を暗殺できれば、私はサニを超えられるんだな?」
俺が最後まで言い終わるより先に、キルは自身の野望を被せてきた。
「決めた。私は美月を殺す」
「改めるんじゃなかったのか!?」
「今までちょっと自堕落にしすぎた。これからは気持ちを新たに、本気で美月殺害計画を進める」
「そういう部分を改めるの!?」
「サニに成し遂げられなかった、日原と安井の案件をぶった斬ってやる。二度と私を『ふたり目のサニ』とは呼ばせない!」
違う。そういうスイッチを押したかったのではない。
サニへのライバル心で、キルが却ってやる気になってしまった。あわあわと狼狽する俺を他所に、親父が楽しそうに拍手した。
「わーい! キルが燃えてくれてミスター感激! がんばっちょ!」
「別にミスターに認められたいわけじゃないからな! そのキャラなら全然格好よくねえから!」
キルがくわっと牙を剥く。ばあちゃんがまた一口、お茶を啜った。
「頼んだわよ、キルちゃん」
「総裁直々の指令とあっちゃ、しくじれねえな」
キルを余計に調子に乗せて、総裁はふんわり微笑んだ。完全に間違った方向に進んだ流れに呑み込まれ、俺はなす術もなく凍りついていた。
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