11.アットホームな現場です。
ホー・カードは一旦使用停止になると、再発行までの間は受諾していた暗殺の仕事も一度止まるらしい。
身分証がなければ、フクロウへの所属を証明するものがない。身分証不携帯で暗殺業務を行えば、万が一殺人罪に問われたときにフクロウへの申請がややこしくなってしまうのだ。
面倒な書類を提出すればできなくはないが、面倒すぎて誰もそんな手続きはしたくないらしい。故に、身分証を携帯せずに暗殺を行うことは、原則不可能となる。
そんな話を聞いたのは、夏休みが始まる三日前だった。
「じゃ、古賀先生はカードが再発行されるまでは、俺もキルも殺せないんだな」
俺はキッチンで野菜を切りながら、ダイニングテーブルにつくキルに尋ねた。キルはそうだねと頷く。
「既に受けてしまっている仕事については、クライアントの要望によっては例外的に続ける場合もあるようだけどね。大体は他の暗殺者に担当が変わる」
「そんじゃ、古賀先生の代わりになる暗殺者が新たに現れて、俺とキルを狙うの?」
「そうかもな。可能性はあるから、今ラルに頼んで調査してもらってる」
ラルは暗殺者であるが、諜報員も兼ねていると聞いている。キルも彼女を信頼して、こういう依頼をかけることがある。
「ラルからは情報を小出しにしてもらってる。今のところ、新しく動いてる暗殺者の影はないようだ」
「ふうん」
「なんとなく分かってきたのは、どうやら日原院長とその仲間たちは、こちらの動きに気づいてないっぽいということだ」
キルがテーブルに肘を乗せている。俺はトントンとニンジンを切りつつ、確認した。
「あれ? 日原院長サイドが、娘の美月さんの暗殺計画に気づいたから、古賀先生を遣わしたんじゃなかったのか」
日原さんを殺そうとするキルを止めるため、キルを殺す古賀先生を用意したと聞いていた。キルが無表情で頷く。
「そう考えるのが自然だから、私もラルもそう見込んでた。でもどうやら、古賀ちゃんを派遣したのは別の勢力だったみたい」
おいおいおい。厄介な勢力が、これ以上いるというのか。
「古賀ちゃんの仕事は、美月暗殺の阻止だった。つまり日原院長以外にも、美月に死なれると不都合を被る奴がいるってわけだ。それも暗殺者を動かす立場にある人間。やはりそれなりの規模な要人が、美月を必要としている」
日原さんが死ぬと、ビジネス的に困る人がいる、と。
「どういう人なんだ。院長の仕事の付き合いとか……?」
切ったニンジンをまな板の端に避けて、じゃがいもの皮を剥く。キルはその手を眺めていた。
「誰でもいいよ。邪魔なら殺すまでだ」
「カジュアルに殺人こなすのやめよう?」
「うちの組織は金を払う人……依頼主にとっての敵は誰であろうと殺す。昨日の依頼主を殺せと依頼されたら殺す。いずれにせよ、その人物についてはラルが現在調査中だ」
キルがテーブルの表面に目を伏せる。
「古賀ちゃんの依頼主がその人物にあたるわけだから、古賀ちゃんから引きずり出すのがいちばん早い。けど暗殺者である古賀ちゃんが、ラルに迫られたくらいで吐くとは思えないんだよな」
「え、古賀先生を誘惑するつもりなのか?」
俺は包丁を動かす手を止めた。あの人は曲がりなりにもスクールカウンセラーなのだ。生徒として学校に現れているラルとなにかあったら、ただの不祥事ではないか。
「難しいけどね。古賀ちゃんはラルの正体知ってるし、簡単には落ちない」
「これ以上先生の経歴に傷をつけないでやってくれよ」
再び、じゃがいもの皮に包丁を入れる。キルがこくんと首を傾けた。
「お前なあ、自分を殺そうとしてる暗殺者になに同情してんだよ。不幸になれ! と願えよ」
「たしかに殺されそうだったよ。でも助けてもらってもいるし、先生のカード割っちゃった負い目もあるし」
しょりしょりと薄く皮を剥きつつ返す。キルは鬱陶しそうに、こちらにジト目を向けた。
「流石いい子ちゃん。偉い偉い。胸焼けがするよ」
「はいはい。それほどでも」
キルの皮肉をあしらい、じゃがいもを一口サイズに切り分けた。
多分俺は、本当はそんなにいい子ちゃんでもない。
野生動物を追い払うのに適した武器を、咄嗟に暗算できた。キュウリで躊躇なく人を殴った。キルの動きを予測するために思考を先回りするようになったというのもあるけれど、キルのせいでそうなったとは言いきれない自分がいた。
キルが現れて以降学習した、というには我ながら柔軟すぎる。本当は初めから自分の中に潜在していた黒いものが、キルが来たことで表面化しただけ。そんな気がする。
「ところで今日のご飯なに?」
キルが表情を変えずに聞いてきた。
「カレー」
「ヒャッホウ」
歓声を上げ、キルは両手をグーにして振り上げた。カレーは一度振る舞ったことがあり、そのときキルに絶賛されていた。
「サクのカレー好き。甘いかと思ったらそうでもなくて、絶妙なんだよね。あれは甘口なの? 中辛なの?」
「まひるは甘口が好きなんだけど俺とばあちゃんは中辛派だから、固形ルーを混ぜて使ってるんだよ」
初めの頃は二回に分けて二種類の辛さを作っていた。だが流石に時間も手間もかかる。そこで、まひるでもおいしく食べられて俺とばあちゃんもOKの、互いに折り合いをつける辛さを調整して編み出したのだ。
「隠し味にバナナ入れて、甘味を微調整してるんだよ。更に調整で蜂蜜入れたりもする。蜂蜜はな、甘くなるだけじゃなくて肉が柔らかくなる。玉ねぎは先にグダグダになるまで煮込んでシャキシャキ感を全て奪う。まひるが玉ねぎあんまり好きじゃないから」
つい語り出した俺に、キルはへえと感嘆した。
「びっくりした、こだわってんな」
「そりゃあな。全員に納得してもらいたいから」
ここに辿り着くまでに、結構苦労した。満足するまで何度試したことか。
「ちょっと野菜切りすぎたから、今夜はたくさんできるかも。明日の夕方くらいまで残りそう」
ぽつり呟くとキルは嬉々として手を握りしめた。
「来たあっ! 最強の家庭料理の一つ、一晩置いたカレー!」
「あれめっちゃ美味いよな。なんでだろう」
そんなやりとりをしていたところへ、ピンポンとインターホンの音がした。誰か来たようだ。玄関の方向に視線だけ向けると、キルが椅子から降りた。
「私が行くよ」
「頼む」
キルの後ろ姿がテテテッと玄関に向かっていく。今、ごく自然にお客さんの対応をペットの暗殺者に任せてしまった。
キルの職業がいかに危ういものなのかは、日々身に染みて痛感する。だというのに、こういう些細な日常風景の中では、暗殺者だとかあまり関係なく接してしまう。当たり前のように生活に溶け込んでくる。まさに、家でかわいがられるペットのように。
キル本人は意図してそうしているわけではないだろうが、天然の行動で馴染んでしまうのだからあいつの恐ろしいところだ。
「お、ラルじゃんか! どうした?」
玄関からキルの高い声が飛んでくる。俺は野菜を鍋に入れて、洩れてくる会話を聞いていた。
「重要な情報を引き出したわ。通信機で話すより直接伝えたかった」
「お手柄じゃんか。上がってきなよ」
居候のくせに、キルは家主のようにラルを上げた。キルがラルを連れて、ダイニングに戻ってくる。
「ようこそラル」
野菜を炒めつつ顔を上げると、ラルは長い髪を耳にかけて会釈した。
「お邪魔するわ。咲夜くんエプロン似合う。かわいいわ」
「いちいちそういうの言わなくていいよ」
「そこまで含めて挨拶みたいなものよ」
大事な話をしに来た様子なのに、ラルはこの調子である。
「で、直接話したいことってなに?」
キルがダイニングの椅子をラルに勧めた。ラルが素足を絡めつつ腰を下ろす。椅子に座る動作一つとっても、エスコートされる女のようにフェミニンな仕草である。
「古賀ちゃんの依頼主について探ってるうちに、ある事実に気がついたの」
「ほう。古賀ちゃんからなにか聞いたのか?」
キルも椅子につく。俺は木ベラで野菜を鍋底で滑らせていた。野菜がジャー、パチパチと軽やかな音を立てている中で、ラルの報告が始まった。
「古賀ちゃんから聞き出したわけじゃないわ。もちろん狙ったけど、案の定彼は私を拒絶した。『歳下は有り得ない』と言い捨てて私を論外扱いしたのよ。死ねばいいのに」
途中から愚痴みたいなものを織り交ぜつつ、ラルは続けた。
「今回私が掴んだ情報は古賀ちゃん発ではないけれど、信憑性は極めて高い」
「情報ソースは」
キルが問うとラルはキリッと切れのある声色でこたえた。
「教頭と、二年の学年主任」
「うちの学校の?」
俺は素っ頓狂な声で口を挟む。ラルは頷いた。
「そうよ。学校を無断欠席した生徒の立場を利用して、『私を見つけたことは誰にも言わないで。なんでもするから』と甘えるの。ふたりとも楽勝だったわよ」
具体的になにをしたのかは聞かなかったが、不祥事が起きたのだけは察しがついた。キルが嘲笑を浮かべる。
「誰にも言わないでと口止めされるつもりで関係持って、逆に自分の手持ちの情報を喋っちゃうなんて……滑稽なオッサンたちだな」
「本当よね」
ラルの微笑みに、ぞっとした。騙されて女子生徒に手を出した先生たちも軽蔑するが、ラルの魔性ぶりも恐ろしい。きっぱり断っている古賀先生がいちばんまともな気がしてきた。
「すまん、話が逸れたな。それで、掴んだ情報って?」
キルが前のめりになる。ラルは慎重に話し出した。
「日原美月が今の学校に通ってる理由に、裏がありそうなのよ」
彼女のその言葉に、俺はまた顔を上げた。
「うちの学校が……? 日原さん、普通に志望校として受験して入学したんじゃないのか」
うちの学校はなんの変哲もない、ただの市立高校だ。中学から受験して、合格を経て入学するはず。
「ええ、美月ちゃん本人は、あの学校を志望して他の生徒と同じように受験してるわ」
ラルはテーブルに肘をついて甘いため息を洩らした。
「でもね。学校側は受験前から、美月ちゃんの入学を決定してたのよ。本人は皆と同じだと思ってるし、担任を含め殆どがそう認識してる。でも一部の権力者たちは、本当は初めから決まってたと知らされてる」
「おかしいと思ったんだよ。あの成績優秀で金持ちな日原美月が、なんでサクと同レベルの公立高校なんかにいるんだって」
キルが椅子の背もたれに寄りかかった。
「有名大学に進める、私立高校に通ってそうな人間なのに」
野菜を炒めていた手が止まった。それは俺も、不思議に思っていた。それに、彼女は言っていた。友達を選ぶのも、「進路も」、親の言いなりだったと。
嫌な予感がする。なんだか黒いものが見え隠れする。
口を噤んで、ふたりの会話を聞いていたときだった。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん帰ってきてたの!?」
バタバタと階段を駆け下りる、まひるの足音が聞こえた。リビングのドアをバーンと勢いよく開けて、張り詰めた空気をぶち壊す。
「お兄ちゃん見て、見て見て」
「ごめんまひる、今、大事な話をしてるから後にして」
鍋に水を入れて、炒めた野菜を浸しながらまひるを制する。まひるはキッチンにまで飛び込んできた。
「まひるも大事な話!」
甲高い声の向こうで、キルの怠そうな唸り声がする。
「市立高校だもんな、もしかして安井議員の政策が絡んでるのか?」
「そうね。安井議員は地方の教育環境に関する政策を全面に押し出してる。学校を運営する市、教育委員会と、安井が繋がってる可能性はあるわ」
ラルが話しているのを切り裂くように、まひるが割り込む。
「お兄ちゃん、算数のテスト百点取った! 夏休み直前の、確認テスト。お兄ちゃん聞いてよー!」
日原さんの入学の秘密に、心臓がぞわぞわして落ち着かない。それなのに、まひるの悠長な声がいらつかせてくる。
「国語はねえ、七十点。でも算数、算数百点だよー!」
興奮した甲高い声がキンキン響く。小学生のテストなんて、今そんな話をしている場合ではない。それよりも日原さんが関わっている学校の問題の話が大事だ。キルの神妙な声がする。
「ミスターからは『日原院長の娘、美月を暗殺せよ』としか聞いてない。でももしかしたら、美月は市か教育委員会に人質に取られてるのかも」
「お兄ちゃん見てってば!」
キルがなにやら確信づくような話をしているが、まひるの声でかき消されてよく聞こえない。
「お兄ちゃん!」
「うるさい!」
俺はまひるの声に被せて、声を荒らげた。
まひるがびくっと縮こまる。キルとラルも声を呑んでこちらを振り向いた。
俺はまひるの方を向きもせず、口調を尖らせた。
「今、大事な話をしてるって言ってるだろ。後で聞くから、まひるは黙ってなさい」
まひるが静かになる。鍋を火にかけて、俺は振り向いた。
「それで、院長と繋がってるっていう安井議員が……」
キルとラルの会話に混ざろうとしたとき、視界にまひるが入った。
口を半開きにして、大きな瞳で俺を見上げている。質の良さそうな紙を一枚、大事そうに両手で持っていた。
「おにいちゃ……」
消え入りそうな声で、まひるが呟いた。
「にいちゃ……約束、したのに」
途端に、まひるの目からぼろっと大粒の涙が零れ落ちた。今度は俺の方が硬直する。
「お兄ちゃん、まひるのこと無視する……黙れって言う……!」
透明なガラス玉みたいな涙が次から次へとぽろぽろ溢れる。ふっくらした頬を伝って、床にぽたぽたと円を作った。
しまった。泣かすつもりはなかった。いつも弾けているまひるだから、このくらいでは泣かない気がしていたのに。少しきつく言いすぎたかもしれない。
「黙れっていうんじゃなくて、後にしてって……」
慌ててフォローしてみるも、まひるの涙は止まらなかった。
「お兄ちゃんは、まひるなんかどうでもいいんだ」
「違う。そうじゃなくてね、まひる、あのね」
「いいもん、まひるだって……お兄ちゃんなんか、大っ嫌い!」
わっと叫んで、まひるは大事に持っていた用紙を放り投げた。そしてそのまま走り出し、リビングのドアをバンッと乱暴に開いて、飛び出していく。俺はその丸っこい後ろ頭に向かって呼びかけた。
「まひる!」
しかしまひるは立ち止まらず、消え去ってしまった。ダダダダと階段を駆け上がる足音が響き、次にバタンとドアが荒く閉まる音で締めくくられる。それっきり静かになった。
茫然自失になった俺に、キルの呆れ声が届いてくる。
「あーらら。泣かした」
「あんな小さい子泣かすなんて、最低だわ」
ラルもやけに低音で責めるように言った。俺はまだ、まひるがいなくなった扉の方に顔を向けて、固まっていた。
「そんな……泣かすほど怒鳴ったわけじゃ……」
「バカね。女の子っていうのは柔らかくて繊細で爪を立てたら血が出てしまうのよ。大事に扱わないと簡単に傷ついてしまうの」
ラルがわざとらしく鼻にかかった声で言う。
まひるはそんなに我慢の効かない子ではない。だと、思っていたのだが。大体、後にしろと言っただけで聞いてやらないとは言っていない。それなのに、あんなに大袈裟に泣くことないだろう。
「なんだよ、そんな繊細な性格じゃないだろ。面倒くさいな……」
つい呟くと、キルが同情した。
「まあ、たしかに面倒くせえな。かわいいけど面倒くせえな」
「やわな女の子って面倒くさいものなのよ。大きい声出されるだけでも怖いんだから」
ラルは少しからかうように苦笑した。
俺はまひるが床に放った紙に視線を落とした。まひるの書く砕けた数字と、きれいな赤い丸がいくつも刻まれている。まひるが見せたそうにしていた、百点のテストだ。キルがテーブルに頬杖をついて、目線だけこちらを向けてきた。
「頑張って百点取ったから、褒めてほしかったかったんだろうな」
俺はテスト用紙を拾った。百点のいう数字を見て、ハッとなる。そうだ、すっかり忘れていた。
「まひると約束したんだった。百点取ったら、夏休みに好きなところ連れてってやるって」
まひるはそのために、苦手な勉強を頑張っていたのだ。そしてその努力を実らせて、あいつが滅多に取れない百点を持って帰ってきた。それほど、連れて行ってほしいところがあったのだ。
ラルが指先を組む。
「あら酷い。それなのにまともに話を聞いてあげないで、あろうことか『うるさい後にしろ』なんて」
「わー! ひっでえ! 自分だってそんなに賢いわけでもないくせに」
キルが煽ってくる。本当だ。褒めてほしいまひるを認めてやらず、約束だった夏休みの予定の件も聞いてやらず。うるさいだなんて、冷たく突き放してしまった。
俺はテストを片手に、鍋の火を止めた。あのときは、大事な話を聞き洩らしたくなかった。小学生のテストなんかで騒がれても迷惑だった。
それはそうなのだけれど、まひるからすれば返却されたテストを持って、ずっと俺の帰りを待っていたのだ。なにより優先して話したかったのだ。
「しゃあねえな……謝ってくるか」
はあと重くため息をついて、テストを持ってキッチンを出た。謝って手厚く褒めて、どこに行きたいのか聞いてやれば、まひるの機嫌はすぐに直る。
「ちゃんと折れるところが、咲夜くんの大人なところよね。偉いわ」
ラルがうふふっと笑ってこちらを見ている。こちらが面倒なことになっているのを面白がっている。
俺はラルにこれといって返事もせず、エプロンをかけたまま、まひるの部屋に向かった。階段を上り、すぐの部屋のドアを叩く。
「まひるー、ごめんな。テスト頑張ったな」
ドアを隔ててテンプレみたいな謝り方をする。まひるの返事はなかった。
「まひる。約束どおり好きなところに連れてってやるから、どこ行くか相談しよう。入るぞ」
ドアノブを捻って、開けた。そして中の部屋を見て、俺は絶句した。
まひるがいない。ベッドに突っ伏してめそめそしているのを想像していたのに、ベッドは布団が捲れて空っぽだった。その代わり、部屋の窓が全開まで開いていて、風でカーテンがそよそよしている。
「まひる?」
名前を呼んで、部屋を見渡した。机の下を覗き込んでも、クローゼットを開けてみても、彼女の姿はない。桃色と黄色を基調とした、子供部屋らしさいっぱいのまひるの部屋が、無表情でからっぽの空気を抱いている。
恐る恐る、窓の外を見てみる。二階という高さから、あの子が飛び降りるとは考えられない。しかしよく見ると、窓のすぐ横に足をかけられそうな凹凸のあるパイプが壁を這っていた。もしかして、まひるはこのパイプを梯子代わりにして地面に下り、家出してしまったのか。
額にひやっと、冷たい汗が滲んだ。
「まひる!? まひる、嘘だろ」
騒ぐ俺の声を聞きつけて、隣の自室にいたばあちゃんが廊下から顔を覗かせた。
「どうしたの、咲夜」
「ばあちゃんの部屋に、まひる来てない?」
望みをかけて尋ねてみるも、ばあちゃんはきょとんとしていた。
「泣いてる声は聞こえたけど、こっちには来てないねえ」
「じゃ、まさか本当に……」
カーテンが揺れる窓に目を向けて、呟いた。本当に出ていってしまったのか。
「え……どうしよう」
頭が真っ白になって、呆然と立ち尽くした。がらんどうの部屋に立っていると、心臓がどくどくと嫌に速く脈を打つ。ばあちゃんが心配そうに確認してくる。
「咲夜、まひるがいないの?」
俺はそちらを振り向くこともできなかった。
「……そんなに遠くへは行けないはず……ちょっと捜してくるよ」
返事になっていない返事をして、不安げなばあちゃんを残して部屋を出た。
冷静になれ、まだ出ていってからそんなに時間も経っていない。まひるは子供だし、衝動的に飛び出しただけだ。戻ってくるつもりで近くにいるはず。
でも、ひとりで泣いているまひるに、変質者が近づいてきたらどうする。子供だから、携帯も持たせていない。
騒ぎを聞きつけたキルとラルが、階段の下で待機していた。下りてくる俺を見上げている。
「まひるちゃん、いないの?」
ラルが尋ねてくる。俺は雑に頷いて、階段から直行で玄関に向かった。
「その辺捜してくる。夕飯ちょっと遅くなる」
我ながら落ち着いた口調で言えた。ばあちゃんがゆっくり、俺に続いて階段を下りてくる。
「キルちゃんも一緒に捜してあげて」
珍しく、ばあちゃんがキルに指示を出した。ばあちゃんに懐いているキルは、素直に頷いた。
「分かった。行くぞサク」
玄関で靴に足を突っ込むキルを横目に、ラルが髪を掻き上げた。
「仕方ないわね、私も手伝うわ。おばあちゃんはここで待ってて。まひるちゃんが自分で帰ってくるかもしれないわ」
「そうね、待ってる。あなたたちは、気をつけて行くのよ」
ばあちゃんは相変わらずのんびりと、安定の包容力で言った。俺はなにも言わず玄関のドアを開けた。ばあちゃんが背中に語りかけてくる。
「咲夜、落ち着きなさいね」
取り乱してはいないつもりなのに、ばあちゃんは俺の動揺を見抜いていた。逆に俺は、焦りが増していた。
「落ち着いてなんかいられるかよ……。あいつ、周りが見えてなくて事故に遭ったりしてたら……」
ドアノブを握りしめて、掠れる声を絞り出した。
口に出しても意味がない心配が、無意識に零れ出す。言葉にしてしまうと余計に不安になってくる。そしてその不安が、伝染してしまった。
「やめろよ、まひるになにかあったら私は……!」
キルがフードの中で顔を青くする。ラルも眉を顰めた。
「グダグダ言っても仕方ないでしょ。ほれもう、とっとと捜し出さぜえ」
彼女も焦りがあるのか、語尾が素の方言になっていた。暗殺者であるキルとラルですらこんな顔をするだなんて、俺はとんでもない事態を招いてしまったのだと再認識する。いてもたってもいられなくて、玄関を押し開けた。
背後で、ばあちゃんがもう一度言った。
「落ち着きなさい」
まとまらない空気を、張りのある声がピシッと喝を入れた。
「咲夜がそんなんでどうするの。まひるが自力で行くところなんて、学校と公園、後は図書館くらい。それぞれの道を辿れば、なにか手がかりがあるはずよ」
闇雲に駆け出そうとしていた俺は、一旦足を止めた。振り向くと、ばあちゃんはまだ玄関マットの上でこちらを見据えていた。
「咲夜は小学校の方を見てきて。キルちゃんは公園。ラルちゃんは図書館をお願いね」
ばあちゃんは自分でピックアップしたスポットに、俺たちをそれぞれ割り振った。
ちょっと驚いた。いつものんびりしているばあちゃんが、こんなにキビキビと指示を与えてくるだなんて珍しい。それほど、俺の様子が頼りなかったのだろう。
キルとラルがばあちゃんの指令に快く応じる。
「公園承知!」
「図書館御意。任せて」
ふたりとも、ばあちゃんに引っ張られるように引き締まった顔をした。俺はまた驚いた。自由人なこのふたりをこんなに見事に統率するだなんて、ばあちゃんがどれだけ懐かれているか思い知る。
ばあちゃんは、ゆっくりまばたきした。
「ごめんね、私はあんまり動けないから、ここで待ってるけど……あなたたちなら大丈夫よ」
先程のリーダーシップ溢れる様子から、スッと元ののんびり屋のばあちゃんに戻った。
「うん……行ってきます」
俺はばあちゃんに、しっかり頷いた。そうだ、落ち着かないと。深呼吸して冷静さを取り戻し、キルとラルに向き直った。
「付き合わせてごめんな。俺の失言のせいでこんなことに」
周囲に最低限の謝罪をする。キルが手袋を嵌めた手でドスッと俺をどついてきた。
「ほんとだよ。あんなかわいい妹なんだから、もっと大事にしろ」
衝撃が全身を突き抜けて、お陰でちょっと頭がクリアになった。
「俺が悪かったとはいえ……まひるらしくないな。あんな程度で沸点まで到達して、しかも家から出てくなんて」
玄関のドアを抜けながら呟くと、後ろで見送っていたばあちゃんがぽつんと零した。
「そうかしらね。むしろあの子らしいと思うけどねえ」
「え? そう?」
振り向くと、ばあちゃんは安心感のある笑顔で首を傾げた。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
なにも言っていなかったかのように、穏やかに送り出してくれた。
*
玄関を出ると、外はうっすら夕闇に侵食されていた。紫がかった夏の夕空が住宅街を包んでいる。
ばあちゃんの指示どおり、まひるの通う小学校の方面に駆け出した。キルとラルも素直に従って、各々がまひるを捜しに分散した。暗殺者なんて普段は危険な存在だが、こういうときだけはまともに手を貸してくれるのだから複雑である。
昼に当てられた日光で、アスファルトが蒸し暑くなっている。スニーカーがムシムシして、全身が熱くなった。
小学校に向かう途中の商店街を走る。陸の両親が営む惣菜屋の前を通り過ぎようとして、店の前の花壇で草取りをしていたおばさんに呼び止められた。
「どうしたの咲夜くん、そんな顔して。なにかあったの?」
「おばさん、まひる通りませんでした?」
咄嗟に尋ねた。おばさんは眉を寄せて首を傾けた。
「見てないわよ?」
「ありがとうございます」
サッと頭を下げて、再び駆け出す。
商店街からすぐの角に、小学校が見えてくる。ほの暗い夕闇の中にぼんやり佇んで、白い外壁に空の色を落としていた。学校の周りをぐるっと一周して、校庭を覗き、昇降口の辺りも覗いてみた。だが、まひるどころか小学生が残っている様子はない。
キルとラルに連絡しようと、ポケットからスマホを出す。こちらから連絡を入れようとしたが、操作を始めると同時に先にキルからかかってきた。フェンスに寄りかかって、スマホを耳に添える。
「よっす。公園見たけどいないぞ」
キルのあっさりした声が流れてくる。
「そうか、学校方面にもいないみたいだ」
返すと、今度はラルの声がした。
「こっちもいないわ。図書館までの道も、図書館内の全コーナーも見たけど、どこにもいない」
あの通信機は複数通話も可能だとキルが話していた。なるほど、この使い方は便利である。などと悠長なことを考えてしまった。
「惣菜屋のおばちゃんが見かけてないって言ってたから、商店街の方面には来てないのかも」
先程聞いたおばちゃんの情報を伝える。キルが早口になった。
「どこにもいないってことは誘拐されちゃったのかもしれないぞ? そうだったら私は犯人殺して、元凶のサクも殺す」
「誘拐なんて、そんなこと……あったら最悪だな」
知らない人に付いていくなと教えてはあるが、まひるはキルを犬と間違えるくらい抜けている。
ラルがうーんと唸った。
「まひるちゃんが拗ねると必ず行く場所とか、ないの?」
「あいつがこんな激怒したのなんて、俺も初めてなんだよ」
だから余計に、話を流しただけでここまで拗ねるとは思わなかった。背中に当てたフェンスがかしゃ、と微かな音を立てる。
「必ず行く……か」
電話の向こうでキルが呟く。
「ねえ、やっぱり勝手に帰ってくるの待ってみようか」
俺は電話を耳に当てて、黙ってキルの提案を聞いていた。
「ひとりじゃなにもできないの分かってるだろうから、勝手に戻ってくるよ。まひるの性格じゃそんなに長引かないと思うし。もう帰ろう」
つい先程まで誘拐かもなんて慌てていたくせに、キルは落ち着いた口調になっていた。
キルをラルが窘める。
「だめよ、捜しましょう。ね、咲夜くんも心配でしょ?」
「心配だよ。でも闇雲に捜しても見つからない」
今すぐ捜しに駆け出したいのに、どこをどう捜せばいいか分からなくて、焦りで頭が埋め尽くされる。俺の代わりに、キルが続けた。
「夜まで待ってても戻ってこなかったら、今度は警察に連絡してまた捜せばいいよ」
「……そうだな」
思考停止の俺は、キルに同意した。ラルがまた、待ったをかける。
「あのねえ咲夜くん。こういうのはね、見つかればいいってもんじゃないの。まひるちゃんが、見つけてほしいと思ってるの」
ラルは俺に教え込むように、ゆっくり言った。
「捜してくれる人がいるっていうことが、あの子にとって救いになるのよ。それを理解できるようにならないと、女の子の面倒くささに慣れないわよ」
ラルが言うと自虐とも達観ともとれた。とりあえず、説得力はあった。やはり闇雲にでも捜すべきか。考え直そうかとしたとき、キルが口を挟んだ。
「ラル、私がなんとかするから大丈夫だ」
妙に確かな自信を携えて、キルは言い切った。それから思い出したように続ける。
「それより、ラルはぼちぼち出勤の時間じゃないか?」
出勤、というと、以前話に聞いた酒を注ぐ仕事だろうか。未成年がそんなことしていいのかと問いたいが、そもそも暗殺者である方が大きな問題なのでなんとも言えない。
「そうね、行かなきゃ。まひるちゃん見つかったら連絡頂戴ね」
ラルの声に、俺はため息混じりに謝った。
「悪いな、忙しいのにこんなことに巻き込んで。今度お詫びに夕飯ご馳走するよ。あとできれば変な仕事はやめて、自分を大切にしような……って言ってもやめないか」
「何度も言うけど、そういうこそばゆい気遣いやめっしゃい!」
無意識の発言が気に障ったらしく、ラルは半分怒鳴るように語尾を荒らげてブチンと通信を切った。通信は、俺とキルのふたりになった。
「お前さ……それやるとラルが怒るって、そろそろ学習しろや」
キルが半笑いで突っ込んでくる。俺はうーんと首を傾けた。
「意地悪するつもりはなかったんだけどな……」
「素の言動なんだよな。そういう性格だもんな」
やや諦め気味に言って、それから彼女は切り替えた。
「さてと。私はもう一つ、まひるがいそうな心当たりを見てみるよ」
「あれ、引き上げるんじゃなかったのか?」
「あー、うん。そこ見たらすぐ戻る」
「心当たりあるのか? どこ?」
聞いてみると、キルは咳払いして濁した。
「私が見てくるから気にすんな。サクは気にせず帰ってカレーでも作ってて」
「キルこそ帰るんじゃなかったのかよ。キルが捜すんなら、まひるの兄である俺が捜さないわけにはいかない」
「そんなことより、私はまひる連れて帰ってきたらすぐにあったかいカレー食べられる方が嬉しいね」
キルはいたずらっぽく笑って、通信を切ってしまった。
なんなんだ。誘拐かもと慌てたかと思ったら自然に戻ってくるのを待つと言ったり、もう一箇所見てくると言い出したり。
キルのよく分からない行動に疑問を持ちながら、俺は通信の切れたスマホの画面を眺めた。フェンスに背中を預けて、大きなため息をつく。
キルの言うとおり、帰ってまひるを迎える準備をした方がいいのかもしれない。でもラルが言うことも分かる。まひるが捜してほしいと思っているのだとしたら、闇雲にでも捜すべきか。
どうしていいか分からなくなった。こんなことなら、暗殺者の会議なんて放っておいてまひるの話を聞いてやればよかった。
やっぱり、俺のせいなのだし、捜そう。気持ちを固めて再度歩き出そうとしたときだった。暗くなっていたスマホの画面がパッと明かりを灯し、ぶぶぶと振動し出した。驚いて画面を見ると、真ん中に「自宅」と表示されていた。
「はい、ばあちゃん?」
応答すると、ばあちゃんののんびりした声が鼓膜に届いた。
「咲夜、お疲れ様。もういいわ、帰っておいで」
「もしかして、まひるが戻ってきたのか?」
「そうね……まだ戻ってきたとは言えないけど。でも大丈夫だから、咲夜も帰ってきなさい」
なんだか曖昧な返答だ。俺はアスファルトに視線を落とした。
「戻ってきてないなら捜すよ。これでまひるが事故にでも遭ったら一生悔やむ」
「それは、あなたも同じなのよ 」
ばあちゃんの声は、やけに凛としていた。
「まひるも咲夜も、私にとっては大事な孫なの。咲夜が事故に遭ったら、まひるも私も後悔する」
胸がじんわり温かくなるような、優しい話し方だ。俺は口を結んで聞いていた。
「今の咲夜はね、自分で思ってるほど冷静じゃない」
どきりとする。俺自身、言われて気がついた。冷静を装っているが、本当は不安や苛立ちや後悔が頭の中がぐちゃぐちゃで、全然まともではない。自分のことなのに、この場にいないばあちゃんに言われて気がつくなんて。
時々、ばあちゃんは妙に鋭いときがある。出かける直前の俺の挙動、今の電話口の声色で、俺の落ち着きのなさを見抜いているのだ。
「咲夜は明子……お母さんに似て、無茶するところがあるわね。怪我をしてもすぐ直るからって、危険を省みず感情だけで突っ込んでく。周りはヒヤヒヤしてるのよ」
自分ではそんなに直情的ではないと思っていたのだが、考えてみたらそのとおりだ。面に出していないだけで、気持ちが先走った行動を取っていた。
「まひるは大丈夫。気をつけて帰ってきなさいね」
「……分かった」
不思議だ。どうするべきか考えがまとまらなかったのに、ばあちゃんの言葉はスッと受け入れられた。この人の言う「大丈夫」は、なんだか無性に心強い。
電話を切って、夕空を見上げた。赤い空に薄墨色の雲が張り付いて、引きずるように流れていた。
*
自宅に帰ると、ばあちゃんが玄関の外にいた。
「ちゃんと帰ってきたね」
ふわりと笑うばあちゃんに、心臓が苦しくなる。
「ごめん。捜してこられなくて」
「いいの。私なんか、捜しに行ってあげられなかったのよ」
自嘲気味に言って、ばあちゃんは俺を招き入れた。俺はとぼとぼと彼女の後ろに続き、家に入った。玄関にはまひるの靴が並んでいた。自分の部屋からパイプを伝って出ていったのだから、靴を履き変えずにスリッパで外を歩いているのだろう。
ばあちゃんのお陰で少しは整理がついてきたが、落ち着いてくると後悔の念が肥大していった。のそのそとリビングを通過して、奥のキッチンに目をやる。作り途中だったカレーが、ひっそりと放置されていた。
「俺がちゃんとまひるの面倒見てれば、こんなことにはならなかった」
ぽつんと呟いて、キッチンに入る。鍋を火にかけてみたが、暗い気持ちは変わらなかった。
「なにがカレーだよ。なにが、全員納得できるカレーだよ……」
甘口と中辛を混ぜて、バナナで甘味を調節して。更に蜂蜜で微調整し、そのついでに肉を柔らかく煮込んで。自分では、カレーも普段の生活も、家族を想って丁寧に作り込んでいるつもりだった。でもそんなのは俺の自己満足にすぎなくて、まひるを傷つけてしまった。
「咲夜には咲夜の生活があるんだもの。全部まひるに合わせることないのよ」
ばあちゃんが穏やかに、凹む俺に語りかける。
「たしかに、まひるはテストの結果を咲夜に褒めてほしかったみたいね。帰ってきて真っ先に私に自慢してきたもの。お兄ちゃんが夏休みにお出かけに連れていってくれる約束をしてるんだって、嬉しそうに話してた」
まひるの様子を聞かされ、胸がぐさりと痛んだ。まひるが楽しみにしていた約束なんて、忘れていた。宿題をやらせるための常套句として軽はずみに使った言葉であり、まさかまひるがそこまで期待するとは考えもしなかった。
「そっか……」
まひるをやる気にさせたくて、まひるの楽しみを利用した。まひるがどんな気持ちで努力していたか、なにも考えていなかった。
「お兄ちゃん失格だな……」
鍋の水面がぐつぐつと気泡を浮かせる。ばあちゃんはしばし無言で、俺を眺めていた。
「……そうねえ。そんなんじゃ、まだまだね」
そしてばあちゃんは、勝手にコンロに手を伸ばして火を止めた。
「えっ!? ちょ、なんで止めた?」
戸惑う俺の手首を掴み、ばあちゃんは微笑んだ。
「おいで。本当は咲夜には秘密にするつもりだったけど、そんなこと言うなら、特別に教えてあげる」
いたずらっぽく笑った表情は、まるで十代の少女のような軽やかさがあった。目をぱちぱちさせる俺をきゅっと引っ張って、ばあちゃんが歩く。俺はきょとんとしたままついていった。リビングを抜けて、ばあちゃんは俺を玄関に導いていく。
「なに? 外、行くの?」
玄関のドアを開けるばあちゃんに聞くと、ばあちゃんは人差し指を口に当てて微笑んだ。「静かに」のサインを受けて、俺は口を閉ざす。
ばあちゃんは音を立てないように、そっとドアを押し開け、外に俺を引っ張った。俺は訳も分からずついていく。ばあちゃんは楽しげに俺の背中を叩いて後ろを振り向かせ、そして上空を指差して俺の視線を促した。
「あっ……」
思わず、声が洩れた。
ばあちゃんの指差す先を辿ると、我が家の屋根の上に座り込む、ふたりの少女が目に入ったのだ。
「だってまひる、お兄ちゃんに見てほしくて」
「うんうん。そうだね」
三角座りで泣きじゃくるまひると、その隣で同じく膝を抱えるキル。燃える夕空の下で影を落とし、小さなふたりがぽつんと並ぶ。俺は呆然と見上げていた。
気づかなかった。あんなところにいたのか。そうか、まひるの部屋の横のパイプは、下だけでなく上にも伸びていた。下りたのではなく、逆に上っていたのか。
驚く俺に、ばあちゃんは小声で囁いた。
「私もさっき知ったのよ。咲夜が帰ってくるより先にキルちゃんが戻ってきて、それであそこにいるのに気がついたの」
ばあちゃんが俺に帰ってくるように電話してきたのは、まひるの場所が分かったから、だったのか。キルは異様に足が速いから、あのやりとりの直後には、もうここでまひるを見つけていたのだろう。
「ひとりになりたいときは屋根に上ればいいって、キルちゃんがまひるに教えてたんだって。危ないから咲夜にばれたら叱られると思って、言えなかったみたい」
本当だよ。窓の外のパイプなんかで、あんな高いところに上るなんて落ちて怪我でもしたらどうするつもりだ。そんなことを教えたキルは、後で叱っておかなくちゃならない。
でも、今は。
「お兄ちゃんが大事な話をしてるの、分かってたのに……」
「うんうん。あいつも無視したことは反省してるから」
今は、まだ後回しにしよう。キルは俺の代わりにまひるを見つけてくれて、あいつの話に耳を貸してやっている。
「うちにはママがいなくて、パパもあんまり帰ってこないでしょ。だから、お兄ちゃんはママとパパの代わりになろうとしてるの」
まひるの声が、しっとりした夕空から降ってくる。
「お兄ちゃんがなんでも頑張ってくれるから、まひるも甘えちゃう。でも、お兄ちゃんがしっかり者になろうとして色んなこと我慢してるのも、本当は分かってる」
「うん」
キルが遠くを見つめて相槌を打つ。俺とばあちゃんは、ふたりをただ見上げていた。
「分かってるのに、だからまひるもお兄ちゃんのいうことちゃんと聞こうって、いい子でいようって思ってるのに……」
まひるの声はふるふると震えた。ばあちゃんがちらと、こちらを横目に見る。
「知らなかったでしょ。あの子はただ咲夜に甘えてるだけじゃなくてね、ちゃんと咲夜を見てるのよ」
屋根の上までは届かないくらいの、小さな声で言われた。
そうか、俺はまひるを見守っているつもりでいたけれど、まひるの方は、見守られているのを自覚しながら俺を見守っていたのだ。
まひるはひっくひっくと嗚咽を洩らして、たどたどしく続けた。
「いい子でいたかったのに……わがまま言っちゃった」
「んー、仕方ないよ。まひるだって我慢してたんだよな」
キルのくせに穏やかに宥めている。俺はまひるの小さな涙声を、黙って聞いていた。
日原さんが来ると言ったとき、まひるは遊んでもらえると思って楽しみにしていた。でも、思うようにはいかなかった。フライを買いに行くときだって、一緒に出かけてあんなに嬉しそうにしていたのに、俺は陸と話し込んでまひるを外に放置していた。星を見に行った夜だって、宿題の遂行は陸に任せて、自分と日原さんは離脱してしまった。
まひるにとって、どれだけ寂しかったか。考えていなかった。
きっとこんなのが積もり積もって、ずっと我慢していて、テストで百点を取ってやっと希望どおりに出かけられると思ったところで、俺があんな冷たい態度を取ったのだろう。健気なまひるだからこそ、いきなり爆発してしまったのだ。
「あの子らしいわね」
ばあちゃんは、俺の胸の内側を見透かしたように微笑んだ。
「咲夜が『お兄ちゃん失格』なんて言ってたら、まひるが悲しむよ。あの子がどれだけあなたを頼りにして、どれだけ支えようとしてると思う?」
ばあちゃんは、どこまで見抜いているのだろう。この人に分からないことはないんじゃないか、なんて思えてしまう。
まひるがぽつりぽつり、キルに話す。
「どうしようキルちゃん。まひる、お兄ちゃんに酷いこと言っちゃった」
「そんな程度じゃ怒んねえよ。あいつちょっとシスコンだから」
「シスコンって……?」
「深く考えなくていい。大丈夫だってことだ」
夏の夕方のぬるい風が吹く。キルのフードがふよふよと膨らんで、まひるの髪がさらりと揺れた。
「お兄ちゃん、ご飯作ってくれるのも時々口うるさいのも、多分ママの真似をしてるんだと思う。お友達から聞くママの存在って、そういうものだから」
「ほお」
キルはまだ、遠い空を眺めている。
「でもまひるは、ママのこと全然覚えてないの。まひるがちっちゃい頃に死んじゃったから、どんな人なのかなんにも知らない」
まひるはひっく、とまた詰まるような息を繰り返した。
「お兄ちゃんがママの代わりをしてくれても、まひるはママを知らなくて……それが余計に、お兄ちゃんに申し訳なくて……」
涙声は、もう言葉としてギリギリ聞き取れるくらいに歪んでいた。
「覚えてないの、ママにも申し訳なくて……。でももう、ごめんなさいも言えないの……!」
八年前、母さんがこの世を去ったときは、まひるはまだ二歳だった。俺はもう小学校に上がっていたからともかく、まひるは母さんを覚えていなくても仕方がなかった。顔は仏壇の写真しか知らなくて、声も思い出せないのだろう。
俺が知らず知らずのうちに見せていた母さんの面影に、まひるはこんなにも重みを感じていたのか。
キルがぱたぱたするフードの中で、ゆっくりとまばたきした。
「私も母親なんて覚えてない。安心しな」
無感情な声色が、生ぬるい空気に沈む。屋根の上を見上げていると、首が痛くなってくる。それでも、ふたりから目が離せなかった。
「キルちゃんも、キルちゃんのママ犬のこと知らないの?」
「犬? ……ああ、うん。そうだよ。どんな犬か覚えてなくてさ」
こんな場面でも天然を発揮したまひるに、キルは一瞬動揺するもしっかり乗り越えた。
「そんなことはともかくさ、サクはまひるの気持ちに鈍感だったよな。ずーっとまひるのお兄ちゃんやってるくせに、なんにも分かっちゃいないんだ」
キルは畳んでいた脚を放り出し、まひるの顔を覗き込んだ。
「でもまひるも、サクを分かってなかったな」
「えっ……」
まひるがキルを振り向く。キルはフードを被った頭を傾けて、まひるに語りかけていた。
「『まひるなんかどうでもいいんだ』なんて、的外れなこと言ってたもんな。まひるがいなくなったら、サクがどれほど慌ててどれほどアホになるか、分かんなかったんだろ?」
勝手に聞いていて、頬が引き攣った。隣でばあちゃんがくすりと笑う。
「まひる、そろそろ戻ろうぜ。サクにカレー作ってろって伝えてあるんだ。今頃あいつ、カレーあっためて待ってるよ」
キルがまひるの頭を撫でる。まひるはしばらく自分の膝小僧を見つめていたが、やがてこくんと頷いた。
木のように動けずにいた俺は、ばあちゃんからシャツの裾を引っ張られてハッと我に返った。
「咲夜、あの子たちより先に戻ってカレー作ってないと」
「そっか、急がなきゃ」
まだ野菜の灰汁も取っていない。まひるに気がつかれないように、そっと玄関を開けてキッチンに戻った。
*
まひるが投げ捨てたテスト用紙は、ダイニングテーブルの真ん中に置いた。ちゃんと見ましたよと、はっきりと伝えるために、目立つところに乗せたのだ。
野菜の入った鍋を慌てて火にかける。まだ少し混乱していたが、肉の下ごしらえをして鍋に調味料を入れる作業は、卒なくこなした。カレーの作り方は、体が覚えているお陰で、我ながら手際がいい。
ばあちゃんは食器を用意しながら、俺の様子を面白そうに観察していた。
リビングのドアが、キイと申し訳なさそうに開いた。
「……お兄ちゃん」
まひるがおずおずと顔を覗かせる。どう迎えていいか分からなくて戸惑ったが、まひるはもっと気まずい気持ちなのだろうから、いつもどおりに接するべきと判断した。
「お帰り。カレー、まだだからちょっと待ってな」
何事もなかったかのように、落ち着いている雰囲気を装っておいた。ばあちゃんは笑いを堪え、まひるの後ろにいたキルは、その場の全員を見渡して空気を探っていた。
まひるがこちらの様子を窺っている。俺が怒っていると思ったのか、恐る恐る歩み寄ってきた。
「お兄ちゃん、ごめんね」
俺はまひるを直視できなくて、背を向けた。作り途中のカレーに向き合って、まひるの声は背中で受けた。
「わがまま言って、いなくなったりして、ごめんね」
「うん。心配したんだからな」
俺は鍋に固形ルーを割り入れた。まひるの目は、まだ見られなかった。
「わがままは、多少なら言ってもいい。でもひとりでどっか行くのはだめだ」
「……うん」
まひるがまた、泣きそうな声を出した。
「ごめんね、お兄ちゃん。大好き」
トポ、とルーを鍋に落として、そのまま手が止まった。全身の力が抜けるような、逆に痺れで身が引き締まるような、不思議な感覚がする。宙で手持ち無沙汰になった両手の間で俺は、はああと震えるため息を洩らした。
ずるい。なにをしでかしても許される技を使ってきやがった。今振り向いたら絶対ばあちゃんとキルがにやついている。むかつく。振り向いてなんかやらねえ。
「……算数、百点取って偉かったな。どこ行きたい?」
震える声を絞り出して、やはり平然とした態度を装った。まひるの声がぱあっと明るくなった。
「うん、あのね! 花火! 花火大会に行きたい!」
こんなにあっさり機嫌を治すとは、現金な奴である。
「えー。人混み嫌なんだけど」
わざとらしく渋ったら、まひるはすっかり普段どおりの様子で噛み付いてきた。
「百点取ったら、好きなとこ連れてってくれるって言ったじゃん!」
「言ったかも。じゃあ仕方ないかあ」
カレーを煮込みながら、自然と零れる笑みを噛み殺した。
*
その夜、忘れた頃になってキルがあの話を持ち出してきた。
「サク、教育委員会の関係者が死んだら、学校にもなにか影響出るんかな」
ラルが報告に来た情報が蘇ってくる。まひるの一件ですっかり抜け落ちていた。
鍋に残っていたカレーを取り分けて、ラルにお裾分けしたいと言い出したキルは、ついでにこの話を思い出させた。
「市の教育委員会にも、安井から金が回ってる可能性が高い。だから古賀ちゃんはあの学校に潜り込めたんじゃないか」
カレーを詰める容器を持ち出すキルの後ろ姿を、俺はダイニングの椅子から眺めていた。
「いや。古賀先生は、校長と知り合ったのをきっかけに特別に雇われたって言ってた」
言うと、キルは容器にカレーをよそいながら眉を寄せた。
「そうなのか。じゃ、校長はその汚れた三角関係に気づいてなくて、校内における権力だけ利用されたのかもしれないな。古賀ちゃんの学校での立場を確立するために」
キルとラルの会話の全体を聞いていたわけではないので、俺は全容を掴めていない。ただなんとなく、市政に関わる政治家の安井幸高、日原院長の病院、市の教育委員会が汚い金で結ばれているようなのは感じ取れた。
「悪いことやってる根拠があるんなら、誰か犠牲者を出さなくても普通に安井さんとやらを辞任に追い込めばいいんじゃないの? 不正やってるんなら、暴かれたら終わりなんだろ?」
分かっていないなりに口を挟むと、キルはぱちんと、容器に蓋をした。
「サクが想像してる以上にデカイ金が動いてるんだ。不正は揉み消される。安井は今でこそ小さい市で細々と政治活動してるように見えるけど、あれはとんでもねえ化け物だ」
「そうなの?」
「うん。私に美月殺害の依頼をかけてきた依頼主が物語ってる。安井が一介の地方の政治家にすぎなかったら、あの人がわざわざ暗殺者を遣うはずがない」
キルの言葉を聞いて、テーブルに頬杖をつく。そういえば、キルを用意して日原さん暗殺を企てた、依頼主については、聞いたことがない。
「キルは誰に依頼されてるんだ?」
「言うわけないだろ。私がサクに言えるのは、指示を下したのがミスター右崎だってとこまでだよ」
それは仲介したエージェントだろう。やはりキルは、依頼主については口を割らなかった。だが彼女の口ぶりから、もしかしたら案外スケールの大きい話なのではないかと思えてきた。
気になるが、俺が問いただしたところでキルが話してくれるはずがないので、これ以上突っ込むのはやめた。
「ところでキル、まひるに屋根上り教えただろ。危ないことをさせるんじゃない」
「うわ、やっぱばれたか。ばあちゃん秘密にしてくれるって言ったのになあ」
ばつが悪そうに顔を顰めている。それから誤魔化すようにキルは流れを捻じ曲げた。
「今日のばあちゃん格好よかったな。あの人、ぽやーっとしてるようでいて、実はかなりしっかりしてるだろ」
「話を変えようとするな。まひるが怪我したらどう責任とってくれるんだ?」
負けじと軌道を修正してやった。キルはぎゅっと目を瞑ってフードの上から耳を塞いだ。
「うっせえなあ、本当に口うるさい」
「あとシスコンじゃねえから」
「シスコンじゃないならなんなんだよ」
シスコンでなくてもシスコンになってしまいそうな、まひるの魔力にあてられただけだ。
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