10.なにこの気まずい雰囲気。

 キルの絶望星見ツアー以来、どうも日原さんがぎこちない。今日も放課後の教室で帰りの挨拶をしようとすると、日原さんは一瞬は目を合わせてくれるが、すぐに伏せてしまった。

 あの登山遠足から、一週間以上経っている。一週間以上、俺は日原さんとまともに会話していなかった。口をきいてくれないのではない。ただなんとなく、避けられているような感じがする。

 幸いキルがまた充電期間に入ったので、日原さんから目を離しても、突如殺害されるという危険はなさそうなのが救いであるが。


 机に置いた荷物を持ち上げて、ふうと息をついた。日原さんがいる左側は、なるべく向かないようにした。

 鞄の中を整理してから、席を立つ。帰ろう。教室を出ると、廊下で陸とはちあわせた。こいつもちょうど帰るところだったようで、肩に鞄を引っ掛けている。


「お、もう帰る? 俺、職員室呼ばれた」


「マジか。ファイト。俺は帰るよ」


「咲夜、もう怪我は平気そうだな」


 陸が俺の足元に目線を落とした。山で転げ落ちた俺は、上半身に数カ所の打撲と、右足を捻挫を負った。しかしこんなのは、一晩寝たら全く痛みがなくなった。


「昔からそうだけど、咲夜って怪我の治癒が異常に早いよな」


 陸が不思議そうに言う。俺は首を捻った。


「そうか? 皆このくらいじゃないの?」


「そんなことないって。すげえ早いよ」


 山での怪我だけではない。古賀先生の件で付いた頬の切り傷も、もう跡形もなくなった。熱いコーヒーを浴びて胸に少しできた火傷も、あっという間に治った。言われてみれば、早いかもしれない。 陸が不思議がって、首を傾げる。


「なんでそんなに早いんだ?」


「遺伝かな」


 ばあちゃんが言うには、母さんもそうだったらしい。だから多分、遺伝だ。

 母さんは、なにかと怪我の多い人だったそうだ。といっても大怪我が多いというのではなく、仕事で小さな傷を作ってくることがしょっちゅうだったのだとか。でも、すぐにきれいに治る。

 陸がまじまじとこちらを眺めた。


「怪我は心配なさそうだけど……あれから変わらず、しみったれた顔してやがるな」


「日原さんが冷たい。今日も殆ど目を合わせてくれなかった」


「ああ、それ、まだ長引いてるのか」


 この問題は、陸にも打ち明けている。

 日原さんからしたら、夜に連れ出されて登山させられ、挙句斜面から落ちて迷子になるなんて、酷い目に遭ったのだ。信頼をなくしても仕方ない。

 極めつけはあの場での俺との会話だ。ちゃんと話してくれないという俺に、彼女は怒っていた。嫌われて当然だ。陸が虚空を仰ぐ。


「美月ちゃん、なんか怒ってるかもしんないけどさ。あの子は天使だから、咲夜がどんだけだめな奴でもそのうち許してくれるよ」


 俺の肩を叩いて慰め、陸は去っていった。教室前で取り残された俺は、ため息をついた。

 陸はああ言ってくれるが、やはり日原さんに距離を取られるのは傷つく。折角お近づきになれたのに、一気に嫌われた感じがする。基本的に敵を作らないあの穏やかな日原さんに嫌われたとなると、自分がものすごく底辺の人間に思えてくる。


 鞄の肩紐を引き寄せて、再びため息を洩らした。もうすぐ夏休みなのに、気分が明るくならない。このまま長い休みを迎えてしまったら、日原さんとの溝は広がって深まって、取り返しがつかなくなりそうだ。


「買い物して帰ろ……」


 虚しいひとり言を呟いて、日の差す廊下を歩いた。今日はまひるの要望で冷やし中華だ。スーパーで材料を買い揃えなくては。

 因みに、そのまひるも最近機嫌が悪い。山頂に着いたときに陸しかいなかったせいで、見つけた星座が間違っていて授業で恥をかいたそうだ。「お兄ちゃんが美月お姉ちゃんといなくなったりしなければ、こんなことにはならなかった!」と八つ当たりされた。

 日原さんに嫌われ、陸にまひるとまひるの宿題を押し付け、まひるからは怒られる。なんだか、我ながらダメダメである。


 蒸し暑い廊下を歩き、無駄に長い階段を下りる。昇降口に着くと、外から運動部の掛け声が聞こえてきた。夏の大会に向けて、どこも盛り上がる時期である。

 グラウンドの方を向くと、開け放たれた戸の向こうに抜けるような青空が覗いていた。欠けた白い雲が随分とモコモコしている。眩しすぎる西日が、照明を付けていない昇降口を明るく照らしていた。夏の熱気が霧のように立ち込める。


 靴箱から自分のローファーの踵を摘んで引っ張り出した後、ふいに、隣のクラスの上履きを気にする。一箇所だけ、からっぽになっている部屋があった。出席番号がふってあるだけで名前までは記されていないが、ラルの場所だろうと推測できた。


 ラルは余程日原さんが気に食わないのか、そして方言を人に聞かれたのがそんなに気になるのか、全く学校に来ない。

 星見登山での作戦に失敗して以降も、陸とは未だに連絡を取り合っているようだが、陸の様子に変化がないところを見ると近づききれていないのが分かる。

 キルもラルも行き詰まっている。暗殺者たちが大人しい分にはこちらとしては大助かりだ。


 靴を履き替えて、校舎を出た。熱に蒸された校舎を振り向く。

 大人しくなっている暗殺者は、キルとラルだけではない。あれから一度も、古賀先生に会っていない。

 あの人は俺を殺そうとしていたのだから、大人しくしてくれるのはもちろんありがたい。このままなにもなければと思うし、なるべくもう会いたくない。

 そして、あの人はキルをも狙っていたはずだ。キルに直接手を下すより俺の方が早いと思ったから、俺もついでに狙ったというだけ。しかし、キルもあれ以降攻撃を受けていない。キルの方もわざわざ彼を捜して先手を打とうとするわけでもない。

 それなら、もう古賀先生関係の問題は終わったと思っていいのだろうか。

 校舎の北の隅っこ、カウンセリングルームがある方をちらと見た。だが、この位置からでは窓すら見えなくて、なにの確認もできなかった。


 *


 帰り道に、商店街に寄る。真夏の夕方の直射日光がさんさんと降り注いでくる。アスファルトが照り返して、町全体がむわっと暑くなっていた。

 冷やし中華の具を考えていると、向かいから見慣れた白い外套のチビが歩いてくるのが目に入った。


「あれ? キル?」


 声をかけると、キルは少し早足になってこちらに向かってきた。


「サク! 電話出ろよ」


 出会い頭に叱責された。


「電話? ごめん、スマホ見てなかった」


「なんのために携帯してんだよ」


 キルはいつもどおりの犬耳外套に手袋、ブーティの暑苦しい格好だった。違うのはフードだけ脱いで金髪を剥き出しにしていることだけである。


「スマホ忘れてきたわけじゃないよな? 盗聴も入らなくなってて、どこにいるのかさえ分かんなかったぞ」


 キルがじとっとこちらを睨む。俺はポケットからスマホを取り出した。


「スマホは持ってる。でも、盗聴器は壊した」


「もー! また壊したのか! 高いんだぞあれ。あのバッテリーの隙間にねじ込むちっちゃくて薄いタイプはフクロウ抱き込みの業者の特殊技術によるものなんだからな!」


 高かろうがなんだろうが、知ったことではない。俺は毎朝スマホのバッテリーの蓋を開けて確認し、見つければ壊して捨てている。スマホ以外にも忍ばせていないか、制服やらペンケースやらあらゆるところを確認している。

 盗聴の目的は日原さんの隙を窺うことだとしているが、持ち物に盗聴器を付けられる方は溜まったものではない。


「忘れたのか、盗聴器があったお陰で真城……いや、古賀ちゃんに襲われたサクを助けられたんだぞ」


「それは激レアケース。普段から盗聴するのはやめてください」


「あれ高いのにー、高いのにー。そんなに何回も注文できるもんじゃないのにー。高いのにー」


 暑さでおかしくなっているのか、キルは舌っ足らずな喋り方で間抜けな台詞をぐるぐる繰り返した。


「その格好、暑くない?」


 聞くと、キルは目を回しながらこちらを見上げた。


「暑いに決まってんだろ! でもほら、このコートの内側のポケットにあらゆる暗器を隠してるから、迂闊に脱げなくて……」


「せめて手袋と靴くらい、なんとかならないのか」


「爆薬や毒を扱うんだから厚手の手袋は嵌めてたい。靴も仕込み刃入れてるから、これを履きたい。美月がいつ現れていつチャンスに恵まれるか分からないんだから、常に絶好のコンディションでいないとな」


「折角装備が整ってても、キルが熱中症で動けなかったりしたら意味ないからな?」


 キルの暗殺者としてのプライドは、時にアホらしいだけの場合がある。

 広い駐車場を構えたスーパーが見えてくる。キルも隣をちょこちょことついて歩いてきた。


「で、どこに出かけようとしてたんだ?」


 金髪のつむじを見下ろすと、キルは暑さでどろっとした目を向けてきた。


「ほんとはサクにお使いを頼むつもりだったんだよ。ラルから重要な情報が入ったからな。でも電話出てくれなかったから、自分で行こうと思って」


 ラルからだと。もし電話を取っていたら、暗殺絡みの物騒な仕事を頼まれていたのだろうか。なにをするつもりなのだと身構えていると、キルは真剣な顔つきで続けた。


「三連のプリンあるだろ。あれの桃&マンゴー味が出た。夏季限定フレーバーだ」


 三連のプリン。あのゼラチンで固められたタイプのプリンが三つ入って百円以下の、あの三連プリンのことか。それは理解したが、耳を疑った。


「プリン? 言葉どおり受け取って大丈夫? 拷問器具とかの隠語ではなく」


「なにを言ってるんだ、プリンはプリンだよ。私はプリンを買いに来た。嘘偽りなく淀みなく、心からプリンを求めている」


 ラルからの重要な情報だと言うから、暗殺関係の話だと思ったのだが。そうか、普通にスイーツの話をするのか。そういうところもあるのか……。

 ムシムシと暑い駐車場の端っこを歩きつつ、疑問を浮かべる。


「キルって普通に買い物するんだな。この前キルのポーチの中を見たとき、財布らしきものは入ってなかった気がするんだけど」


「現金は持ち歩かないからね。私たちフクロウの暗殺者は、基本的にカード払い」


 言いながら、キルは尻尾型ポーチのファスナーを開けた。モソモソと手を入れて、中から一枚のカードを取り出す。


「これね」


 銀色のカードが、眩しい日光をきらっと反射した。フクロウらしき鳥のシルエットと、「HO-card」の文字が刻まれている。


「あ、そういえばそんなの入ってたな。フクロウの絵だし、組織の関係か。エイチオー・カードっていうのか?」


「エイチオーじゃなくて、ホー・カードって読む。お察しのとおり、暗殺者集団フクロウの所属アサシンに配られるカードだ」


 鳥のフクロウの鳴き声みたいな読みだ。俺はその眩しい銀色を見下ろしていた。


「ふうん。クレジットカードみたいなもん?」


「近いかな。カード会社を経由するんじゃなくて、買い物をした情報がフクロウ本部に飛んで、仕事の報酬から代金が引き落とされるシステムなんだ」


 普通のクレカは審査が通らないし、と、キルは小さくぼやいた。


「このカードの仕組みなら、カード加盟店とか関係なく、大体どんな店でも使える。フクロウは国家公認の組織だから、使えないところの方が少ない。これで買えないものなんて、カード払いが利かない店と、後はコインで動くガチャガチャとかゲーセンくらいじゃないかな」


 次いで、キルは俺相手ならいいと判断したのか、説明を付け足した。


「だがそれだけじゃない。むしろクレジットカードはオマケ機能だ。このカードの本来の主旨は」


 そこで一度切って、キルはカードを頬に添えた。


「フクロウ所属の暗殺者であることを証明する、身分証だ」


 彼女は頬にカードの角を突き刺して続ける。


「組織が必要とする程度の個人情報や仕事の記録なんかが全部、内蔵のICチップに書き込まれてる。これをなくしたら暗殺者として認識してもらえなくなる。最悪の場合、組織から除名されてしまう」


「へえ。すごく大事なカードだったんだな」


 それが入っているポーチを俺に強奪されたというのだから、あのときキルが怒ったのもうなずける。キルはカードを大事そうにポーチに戻した。


「身分証であり、クレカであり、キャッシュカードにもなる。このカードで金融機関から現金を引き出したり預けたりもできるよ。もちろん、この前武器を配達に来たフクロウ便を利用するのにもこのカードが必要」


「すごく便利なのは分かったけど……あらゆる機能が搭載されすぎてて、もし紛失したらと思うとちょっと怖いな」


 まず国家公認暗殺者であるという証明がなくなるわけだし、お金の関係も一切機能しなくなる。キルもそうだなと頷いた。


「絶対になくしたくないね。でも現金を持ったり、身分を偽るためにカードをたくさん作ったりしてると、嵩張るだろ。私たち暗殺者は身軽さが大事だから、一枚のカードに集約してもらえると、かなり動きやすいんだよ」


「それなくしたらフクロウから除名されるんだよな? てことは、キルの日原さん暗殺計画を止めようと思ったら、そのカードを破壊するのがいちばん手っ取り早いんだな」


 意地悪を言うと、キルは俺を睨み付けてカードを隠したポーチを両手で庇った。


「そんなことしようとしたら、たとえ飼い主であるサクだとしてもやられる前に殺るけどな」


 物騒なことを言って、鋭い牙を見せながら彼女は続けた。


「フクロウから除名されるってことは、死を意味している。組織の内部事情を知っている者を、簡単に野に放つわけないだろ? 秘密を知ってしまった者は口を封じるために死んでもらうしかない」


「うわ、カード紛失イコール、フクロウ除名イコール、死?」


「極端に言えばそうだ」


 恐ろしい話を聞いてしまった。あまり首を突っ込みたくない世界である。


 駐車場を抜けて、スーパーの入口に立つ。自動ドアの前で買い物籠を一つ持ち、ふと、ガラスの壁に書かれた注意書きに目が行った。


「お。キル、『ペットを連れてのご入店はご遠慮ください』だってよ」


「な!? 私は入れないのか!? プリン買いたいだけなのに?」


 キルはくわっと目を見開いた。冗談を間に受けたキルに俺は苦笑いする。


「まあキルがペットっていうのは建前だから、別に入ってもいいと思うよ」


 俺は注意書きを更に読み込んだ。


「でも『危険物の持ち込み禁止』とも書いてあるぞ。キルの上着の中、危険物だらけじゃない?」


「なんだって!? 今度こそ完全にアウトじゃないか!」


 これは俺も、別に入ってもいいだろうとは言えなかった。その上着の中身はもちろん、先程靴にも仕込みがあるとか言っていたし、そもそもキル自体が歩く危険物である。

 折角暑い中厚着で歩いてきたのに、キルはスーパーから門前払いを食らった。たとえどんな多機能複合カードを持っていたって、店に入れないのでは買い物はできない。彼女は金色の短いポニーテールをぶんぶん振って駄々をこねた。


「暗殺者に自由を! プリン買いたい! プリン!」


「うーん……でも危険物はお店の迷惑になるからなあ……」


「大人しくするから!」


 キルの性格ならば武器を携帯していようとなんだろうと強行突破してきそうな気がするのだが、どうもそれはしないようである。キルは食べ物に対する熱意が強いから、食品を扱う店からの指示には従うのだ。


「分かった。プリンは俺が買ってやるから、先に帰ってろ」


 言うとキルは、しばしへにゃへにゃと泣きそうな顔で俺を見て、やがて小さく呟いた。


「た、頼んだぞ……」


「はいはい。なんだっけ、桃だっけかマンゴーだっけか。バナナだっけか」


 雑に確認したら、キルは首を振った。


「桃&マンゴーだよ」


「桃味とマンゴー味ね?」


「違う違う、二種類あるんじゃなくてミックスなの! ああもう、サク全然理解してないじゃん。ちゃんと買ってこられるのかよ」


 曖昧な俺にキルはハラハラと目を回した。


「黄色いパッケージのプリンな。あっ、普通のフレーバーも黄色だ。えっと、限定のはちょっとオレンジがかった黄色……オレンジ味じゃないぞ、色がオレンジっぽいの。オレンジ味もあったかもしれないけど、それではなくて」


 必死に説明しているが、却ってややこしくなるような言い方である。


「とにかく、トロピカルミルクって書いてあるから、それね。間違えるなよ」


「桃とマンゴーでオレンジね。間違えたらごめんね」


 ざっと纏めて返す俺に、キルは更にヒヤヒヤした。


「二種類じゃなくてミックス一種類、オレンジ味ではないからな! 間違えないでよ!? あああ、心配だなあ」


 慌てふためくキルを外に置いて、俺はさっさと冷房の効いたスーパーへと入っていった。


 プリンはともかく、先に冷やし中華の具を揃えたい。タマゴは買い置きがあったなとか、キュウリは新しく買わないと足りないなとか、そんなことを考えながら冷たい店内を歩く。値段、鮮度、こだわりながら商品を選んで籠に入れていく。

 慣れた作業をぼんやり繋げていると、なんとなく頭が遠くへ行く。いつの間にかぼうっと、日原さんのことを考えていた。


 嫌われちゃったなあ。折角話せるようになったと思ったのに。元々そんなに親しいわけではなかったけれど、この頃は会話をする機会が増えて、楽しかったのに。あの夜の山の納屋で、彼女は俺に対する不満を零した。普段はそんなことを言わない彼女が、小爆発を起こしたのだ。山からの帰り道、まひると話しているばかりで振り向いてもくれなかった。

 もうこれまでのようには、話してくれなくなるかもしれない。


 徐々に重たくなってきた籠を持ち直し、デザートのブースに入る。キルから頼まれたプリンを探そうと、カラフルな甘味の冷蔵ショーケースを覗いた。見慣れた三連プリンを見つけて、その隣にご指名の限定フレーバーを発見した。人気商品のようで、残りは二つしかない。

 キルの分と、まひるの分と、ばあちゃんの分。ラルも食べに来るのだろうか。あと、俺も食べたいから合計五人分のプリンが必要になる。三連プリンは三つ入りだから、二つとも買い占めれば足りる。


 しかし考えてみたら、まひるはこういう変わった味よりイチゴ味の方が好きだ。ばあちゃんはプリンより餡蜜の方が好き。三連プリンは一つ買って、まひるとばあちゃんには違うものを買うか。

 でも保険に二つ買うべきか。けど新味なだけに、味の保証がない。おいしくなかったら、たくさん余ってしまう。無難なフレーバーも併せて買っておく方がいいのか。などとプリンの前で考え込む。真顔でプリンと睨めっこしているところへ、横からにゅっと手が伸びてきた。


「ちょっと失礼しますよ」


 限定フレーバーのプリンを、横から来た手が掴んでいく。


「あっ、すみません」


 ぼっ立っていたせいで、他のお客さんの邪魔をしてしまった。謝りながらその手の主を振り向いて、俺はカチッと凍りついた。目が合ったその男も、あ、と呟いた。


「朝見くん。偶然だねえ」


 くしゃくしゃの癖っ毛に眼鏡。まさか、こんなところで会うなんて。


「こ……古賀先生……」


 カウンセリングルームに俺を連れ出し、毒殺を試みた男。毒殺に失敗して、今度は露骨に刃物を持ち出した。乱入してきたキルに銃を向け、狭い室内で大乱闘を起こし、最終的にじゃがいものタイムセールに飛びついて去っていった、あの古賀先生だ。

 ただ、学校で見かけていたときのように、ワイシャツにジャケットの姿ではない。ウサギの顔写真がプリントされた変なTシャツにジーパン、手荷物一つなしというラフな格好である。


「朝見くんも、その限定フレーバーのプリン買いに来たの?」


 自分がしたことを忘れてしまったかのように話しかけてくる。俺もその勢いに流されそうになった。


「夕飯の材料を買いに……プリンはそのついでです」


「ふうん。あ、これ俺が買っても大丈夫? 三つ入りで家族分足りる?」


「いや、ていうか……なんでいるんですか」


 頭が真っ白になる。最近見かけないから完全に気を抜いていた。カウンセリングルームでの出来事が鮮明に頭に蘇ってくる。にこにこ笑って楽しそうに、俺を殺そうとしていた。話を聞いてくれる、取っ付きやすい先生を演出し、騙していた。

 まさかスーパーで遭遇してしまうなんて、想像もしていなかった。自分を狙う暗殺者との邂逅。もしかして俺、ここで死ぬのか。

 サーッと青ざめた俺を眺め、先生は目をぱちぱちさせた。


「だから、プリン買いに来たんだって。新フレーバーの噂を聞きつけてね」


 本当にか。実はどこからか後をつけてきていて、キルがいなくなり俺がひとりになったところに近づいたのではないか。隙を見て殺すつもりで狙っていたのではないのか。警戒しつつも動けない。動いたら、すぐさま殺される気がする。

 先生は人懐っこい軽やかな声色で言った。


「どうした? 大丈夫だよ、殺さないよ」


 先生はプリンを持った右手とからっぽの左手の両方を顔の高さに上げた。


「見てのとおり、俺は今、完全にオフだよ。だから殺さない」


 もう一度驚いた。この人、オフだったら目の前にターゲットがいてもなにもしないというのか。


「キルはいつターゲットが現れてもいいように、暑くて重い格好で出歩いてるんですよ?」


「そりゃキルちゃんの仕事観でしょ。俺は休むときはキチッと休む」


 プリンを床と平行に保って、彼はへらっと頬を緩めた。


「スーパーは危険物の持ち込み禁止だから、武器持って入れないしね」


「あ、それはキルも守ってました」


「一応、国家公認の仕事人だからね。ルールは守らないと。とにかく、今は俺もスーパーの普通のお客さん。本当に暗殺を休んでる状態だから安心しな。ていうか休ませて」


 にこにこする古賀先生を、俺はじろじろ眺めた。頭から足元まで見てみても、かなりあっさりした薄着で武器の携帯はなさそうである。靴も突っかけサンダルを裸足に引っ掛けているだけ。

 なにからなにまで信じる気にはなれないけれど、今がお休みモードであるのだけは、信頼してもよさそうだ。


「で、プリンどうする? 俺は諦めて君に譲った方がいい?」


 くだらないことを心配している先生に、俺は首を振った。


「大丈夫です。他ので埋め合わせるので」


 残り一つになった限定フレーバーのプリンを籠に入れる。先生はそう、と小首を傾けた。


「悪いねえ。早いもん勝ちだから仕方ないね」


「はい、では」


 雑な会釈をして、俺は彼の傍から立ち去ろうとした。イチゴ味のプリンと餡蜜を籠に突っ込む。古賀先生はお目当てのプリンを手に入れたくせに、まだ俺の横についてきていた。


「あー、それおいしいよね。俺も買おうかな」


 早くいなくなってほしいのに、絡んでくる。俺は少し怯えつつも、そろりと彼を見上げた。


「先生……俺を騙してた自覚、あります?」


 あまりにも罪意識の薄い態度に、尋ねずにいられなかった。


「俺は先生を信頼してたんですよ。それなのに、あなたは俺を裏切って殺そうとしたんです。俺がどれだけ怖かったか、傷ついたか分かりますか?」


「分かってるよ。でも仕事だから仕方ないじゃんって、言ったよね?」


 先生は反省の色など全く見せず、あっけらかんと言ってのけた。


「中途半端に怪我させちゃってごめんね。一発で死なせてあげるべきだった」


「謝ってほしいのはそこじゃないんですけど……」


 でも、なんとなく分かった。暗殺者たちはなにかと感覚がずれている。殺しを仕事と割り切っている彼らに、俺の気持ちなど分からないだろう。

 心が折れた瞬間、先生は見破ったように微笑んだ。


「うん、ごめんね。謝ってどうにかなることじゃないけどさ。本当は俺もあのとき躊躇があったんだよ。ああ、ここで殺しちゃったら、もうこの子とお喋りできないんだなって」


 俺は無言で聞いていた。先生がふふっと苦笑する。


「君と友達になれて楽しかったから、少しくらいは残念だったよ。でも、それを仕事として受け止めなくちゃならない。俺らも楽な気持ちでやってるわけじゃないんだよ」


 俺はまだ口を結んでいた。信じないぞ。もう信じないぞ。この人、嘘をつくぞ。そう自分に言い聞かせるのに、眼鏡の奥を見ると一緒にコーヒーを飲んでいたときの穏やかな瞳が確かにそこにある。安心して心を預けていた、あの古賀先生だ。

 信じるつもりはない。でも、ちょっとくらい口をきいてやらないこともない。


「先生、最近は学校で会いませんでしたね」


 動向を窺っておこうと、問いかけてみた。先生は眉間に皺を寄せて苦笑した。


「それがさあ、洋ちゃん怒らせて、謹慎食らっちゃったんだよ」


 洋ちゃんというのは、学校の校長の和田洋次郎氏のことである。古賀先生を私情で特例的な雇い方をしていると聞いた。

 見かけないと思ったら、謹慎で学校に来ていなかったのか。


「カウンセリングルームをボロボロにしたから、めちゃくちゃ叱られてね。あの人の怒りが鎮まるまで、学校来ちゃだめだって」


「ああ……怒られても仕方ないくらい暴れましたもんね」


 カウンセリングルームの惨状を思い出す。キルも悪いが、銃を乱射した先生も悪い。先生自身も反省しているらしく、長めのため息を洩らした。


「学校に仕事しに行けないんなら、暇だし朝見くんかキルちゃんでも殺そうかなと思ったんだよ」


 さらっと恐ろしいことを言われて、俺は先生の顔を二度見した。この人、「謹慎中の暇潰し」で俺とキルを殺そうとしていたのか。先生は困り顔で続けた。


「でも洋ちゃんが自宅の書斎の片付けをするように命じてきてね。それが終わるまで謹慎っていうから、もう最優先で片付け。たまの休息で買い出し。で、また寝る間も惜しんでごっちゃごちゃの書斎の片付け。朝見くんとキルちゃんに構ってる暇なんかなかった」


「それは……大変でしたね」


 こんな形で校長に救われるとは思わなかった。全校集会でしか会わないけれど、ありがとうございます、校長。


「暗殺業のためにこの町に来て、隠れ蓑業のカウンセラーで仕事を貰って、君に近づいたところまではよかったんだけどな。そっちの雇い主が足枷になるとは」


 先生が癖っ毛の頭を掻く。


「キルちゃんが乱入した時点で、一旦引き下がればよかったよ。並行で様子を見て、どっちか都合がつく方から狙おうとしたのが悪かったんだよね。二兎追うものは一兎を得ず、とはよく言ったものだ」


 ターゲットの片割れである俺を前にして、先生は勝手に反省会を繰り広げた。俺はその穏やかな目つきを横目に見ていた。


「キルから狙うとしたら、俺は死なずに済みますよね。ラルも言ってたんですが、殺すメリットの少ない俺を狙うのは非効率的だと思いますよ」


 巻き込まれた感じが嫌でそう言うと、先生はうーんと唸った。


「そっかあ、キルちゃんを困らせるためだけに君を殺そうとしてると、そう分析したわけね。バカだなあ」


 雑かつストレートな悪口である。俺は眉を顰めた。


「それ以外の理由があったと言うんですか? 狙われる心当たりが他にないんですが」


「そう。分かんないか」


 先生はそれ以上喋ろうとしない。俺は質問を変えた。


「先生は誰の指示で動いてるんですか? 日原院長本人ですか?」


「おっと。クライアントが誰か、まで喋らなきゃいけない?」


 流石にこれは、こたえてくれそうにない。俺はここで引っ込んだ。


「いえ……暗殺者は依頼主の情報は洩らさないって、聞いてます。エージェントしか知らない場合もあるそうですね」


「キルちゃんたち、結構内部事情を君に喋ってるねえ。知ってても仕方ない範囲で教えてるあたり、上手いね」


 先生があははと軽快に笑う。俺はレジの方に向かいつつ、ついてくる古賀先生に尋ねた。


「先生の仕事は、反右崎のエージェントから回ってきたんですか?」


 ちらと、先生の穏やかな微笑みを見上げる。


「先生自身も、ミスター右崎とやらが嫌いですか?」


「……どうでしょうね」


 先生は俺にコーヒーを出すときと同じ、いたずらっぽい口調で誤魔化した。俺はしつこく、追及できそうなところはしておこうと粘った。


「ミスター右崎って何者なんですか。その人は暗殺者ではなくてエージェントなんですよね? 所在を突き止めれば殺せそうじゃないですか」


「おお。挑発的だね、朝見くん。君からそんなこと言うなんて、所在を教えてくれるつもりなのかな?」


 先生は新作プリンを楽しげに眺めている。レジは夕飯の買い出し客で賑わって、長蛇の列ができていた。俺はその列について、後ろにつく先生を振り向いた。


「ミスターの所在なんて俺が知るわけないじゃないですか。諜報が得意な先生なら、見つけられるんじゃないかってことです」


「知るわけなくないよ。知ってそうじゃん」


 なにを言っているのか。キルやラルと絡みがあるから、あいつらが喋っていて当然だと思っているのだろうか。


「キルも直接会うことはあんまりないらしいですし、今どこにいるかなんて知らないと思います。知ってても俺に話してくれるとは限らない」


「んん? しらばっくれてるつもりかな」


 先生がニヤリと口角を吊り上げる。しらばっくれているのではなく、単純に知らないのだが。戸惑う俺に、先生は更に続けた。


「伝説の暗殺者、霧雨サニのことだって、君なら知ってるんでしょ。あの右崎が繋がってるんだから、なんらかの情報が入ってるはずだよね」


「出た、霧雨サニ。知りませんって、先生から聞いたのが最初ですよ。キルはその人と比べられるの嫌いみたいで、話してこないし」


「知らないはずないよ。俺が君を殺そうとした理由の一つだ。君がキルちゃん飼ってるからっていうのもそうだけど、最大の理由は別にある」


 先生が更に訳の分からないことを言う。俺はただ先生の言葉を受けて疑問符を浮かべていた。

 俺を殺そうとする理由はキルへの嫌がらせ以外にもある、とは言っていたが、その理由が霧雨サニと関係あるのか。しかし俺は霧雨サニのこともミスター右崎のことも知らない。先生がなにを言っているのか全く分からない。なんだか、会話が噛み合わない。

 先生はしばらく俺の顔色を見て、やがてなるほどね、と呟いた。


「マジで知らねえって様子だね。まあ、俺が同じ立場なら君には言わないか……」


 最後の方は独り言みたいに消えかけていて、俺は余計に不思議に思った。同じ立場って、キルと同じ立場ということか? ただ、これ以上この件を先生に詮索しても、なにも教えてくれそうにない。


「それよりさ、日原さんちの美月ちゃんは最近どう?」


 唐突な問いがズバッと胴体を突き刺してきた。あの子から距離を取られているのを思い出して、ずんっと暗い表情になった俺を、先生が興味深げに覗き込む。


「なに? もしかしてもう死んだ?」


「いえ、死んではいないです」


「ならいいや。謹慎のせいで様子を見られないから、心配なんだよね」


 レジ行列がじりじりと進む。


「生きてはいるみたいだけど、朝見くんが個人的に彼女となにかあったね?」


 精神分析のスペシャリストは俺の表情の変化を見事に読み取った。


「さては失恋したな。当たり?」


「違います」


 このやりとり、前にもした気がする。


「待って、当てる」


 相変わらずゲーム感覚で尋ねてくる先生に、俺は先にこたえをばらした。


「ちょっと口論になったんですよ。口論といっても、向こうからこっちへの不満をチクッと言われた程度なんですが」


 ようやく、レジが俺の番になった。冷やし中華用のハムがレジを通る。先生は後ろで待ちながら言った。


「へ。朝見くん、そのくらいのことを引きずってるの? ちっさ」


「不満言われたのを気にしてるんじゃなくて。日原さんが、俺を避けるんです」


 ピッ、ピッ、と店員が淡々と商品のバーコードをスキャンしていく。俺はあの夜の日原さんとの会話を思い起こした。

 隠し事をして話してくれないと言われた。話したけど聞いてくれなかったと、俺が返した。あれから彼女とはぎくしゃくしてしまっている。先生は眉間に皺を作って首を捻った。


「うーん、洋ちゃんもそうなんだけどさ、怒らせると面倒くせえ人ってそうなんだよね。一旦『嫌い』となると修復が大変で」


「ああ、いますね、そういう人」


「ロッカールームで陰口こいてる奴に多い」


「ああ……います、います。そういうの」


 嫌なあるあるネタに妙に共感する。いる、けれど日原さんはそういう人ではない。もしそういうタイプだったら、初めからこんなに気まずく感じたりはしなかった。

 店員に示された代金を財布から出して、籠を持った。続いて、先生のプリンがレジを通る。


「でね。洋ちゃんは校長先生というトップの立場であるにも拘わらず、そういう不平等なタイプだから、こっちは上手く媚びる能力を求められるわけね。だから怒らせた、ヤベー! となったら一秒でも早く謝る」


 先生がプリンの流れを目で追いかける。俺はレジ横に避けて先生を待っていた。


「先生って苦労してないようで苦労してて、世渡り上手ですよね」


「大人になるとね、汚くなるものだよ。成長するのとは違う。経験を重ねることで危険予知を覚えて、狡賢くなる」


 先生がポケットから徐に銀色のカードを出した。


「あ、ホー・カードだ」


「よく知ってるね」


 驚いたことに、先生はそのカードを電子マネーと同じようにリーダーに翳した。店員のおばさんは、カードをろくに見もしないで先生の動きだけで判断し、電子マネーとして通す。


「あれ、この店は電子マネーは専用のカードだと思いましたけど」


「しー。面倒くさいから黙ってて」


 先生がこそりと俺を制した。

 カードの規格が違うのではないかと思ったのだが、当たり前のように支払いが済んだ。手荷物一つなくて財布もなさそうだと思ったら、あのカードはこんな使い方もできたのか。

 プリン一個は、あっという間に会計が終わった。


「便利ですね。生活しやすそう」


 暗殺大国日本は、暗殺者に優しいシステムが人知れず広まっているようである。


「そのカード、フクロウの暗殺者であると証明する身分証なんですよね?」


 籠の中身を持ち込んでいたバッグに詰め直す。先生はカードをポケットに突っ込みながら頷いた。


「そうだよ。仕事でも必要だし、こうやって買い物するのにも必要。色んな意味で生命線なんだよ」


「それさえへし折ってしまえば、先生は俺を殺せなくなるんですね」


「やめてよ? そんないじわるしようとしたら、君の額に孔を開けなくちゃならなくなる。折角のオフなんだから、のんびりさせてよ」


 笑いながら、人差し指でトンと俺の額を突いてくる。一瞬本物の銃口を当てられたような感覚がして、ヒヤリとした。


「し……しませんよ。カードがなくなると、処分の対象になっちゃうんでしょ」


「よしよし、いい子だ。穏便にいこうぜ、朝見くん」


 先生は不敵に笑った。

 買った材料をバッグに移し替えきって、店の外へ出る。外の空気は西日で満ちて、べったりと蒸し暑かった。

 先生が手をパタパタさせる。


「あっちー。冷房効いてた店内が恋しいな。お、いいところにベンチがある」


 なにを思ったか、先生は真っ直ぐ帰らず、スーパーの建物脇に置かれたベンチに腰を下ろした。


「先生は謹慎中でしたよね。書斎の片付けはいいんですか?」


「後回しの後回し。ちょっとサボりたい」


 先生はぐだぐだと意欲の足りない台詞を垂れ流し、買ったばかりのプリンの包装に爪を立てた。プチッと小気味のいい音がして、張ってあったビニールの膜が破れる。俺はベンチの正面からその様子を眺めていた。


「もう食べるんですか?」


「だって気になるじゃん、限定フレーバー。書斎の片付けで家に帰れないし、かといって洋ちゃん宅で食べるのも、書斎の片付けしろって怒られそうだし。レジでスプーン付けてくれたことだしさ」


 プリンを一つ取り出して、先生はそれを俺の方に突き出してきた。


「はい、朝見くんに一つあげる」


「え……いいですよ、自分の分は買いましたから」


「俺は三つも食べきれないから、あげる。見てたでしょ、毒なんか仕込んでないから安心しな」


 はあ、と俺は間抜けな返事をした。プリンを受け取って、先生の隣に座る。


「じゃあ、いただきます。ありがとうございます」


「よしよし、素直でよろしい」


 先生は満足げに目を細め、プリンの蓋を捲った。俺も、貰ったプリンを開ける。通常の明るい黄色のプリンより、やや橙色がかった表面が覗く。夕方に差し掛かる日差しを受けて、水分の多い円がきらきら光った。

 先生が小さなプラスチックのスプーンで表面に傷を作る。俺も、ちょこっと掬って口に運んだ。


「思ったより甘いな」


「思ったより酸っぱいですね」


 先生と俺は、ほぼ同時にほぼ逆の感想を洩らした。

 最初に缶詰の黄桃のような甘味がきて、次にマンゴーの香りがして、フルーツ特有の甘酸っぱさが後味に残る。舌触りはとろっとしていた。


「ほいで、朝見くん。美月ちゃんとの関係、修復したいよね?」


 先生が急に話を遡らせてきて、噎せそうになった。俺はまろやかなオレンジ色の円に視線を落とす。


「したいに決まってるじゃないですか。嫌われていい気分はしません」


「あの温厚な美月ちゃんを怒らせるなんてねえ。よっぽど、大事なところで彼女の期待を裏切ったんだろうね」


 世渡り上手で器用な古賀先生は、面白おかしい話でもしているかのように楽しげに笑った。


「とはいえ、君の話を聞いただけだと、美月ちゃんがなにを理由に君を避けてるのかよく分かんない。だからいちばん効果的な方法がなにとは言いきれない」


 小さなプリンはすぐになくなっていく。俺は容器の底の半透明の円をスプーンで掻いた。


「俺も困ってるんです。夜に連れ出したことは謝った。はっきり話さなかったと言われたけど話すべきところは話したつもり。これ以上どうしようもない」


「まあなんだ、一度嫌いだと決めつけたらずっと嫌いというタイプは、どう足掻いてももう修復できない」


 先生が絶望的な結論を言う。俯いた俺を横目に、彼はプリンの最後の一口をスプーンで掬った。


「だけど幸い、美月ちゃんはそういう嫌な子じゃないからな」


「……そうですよね」


「そう。大丈夫」


 やけに心強い一言を呟き、先生はカラになったプリンの容器を膝に置いた。カラ容器にスプーンを突っ込んで、代わりにポケットから煙草とライターを取り出す。


「カード以外なにも持ってないんじゃなかったんですか?」


「『武器は持ってない』としか言ってません」


「あなたの場合、それすらも武器にしそうなんですが」


「煙草ないと、俺自身が危険物になっちゃう」


 あっても充分危険物のくせに、先生は穏やかに言って煙草に火をつけた。白くてゆらゆらした煙がふんわりと立ち上る。俺は独特の匂いを感じ取りながら、下を向いていた。自分の分のプリンもカラになって、その容器の中の虚空を眺めていた。


「これ、もう一個あげる」


 俺の膝の上に、先生が未開封のプリンを置く。俺は隣を振り向いた。


「えっ、いいんですか」


「うん。思ったより甘ったるかった。一個でいいや」


 気だるげにこたえた先生は口元から、白い糸のような煙を燻らせる。自分の膝に向き直ると、三連プリンの残りの一つが鎮座している。俺はその明るい橙色を手に受け取った。


「ありがとうございます。持って帰ります」


「余計なお世話かもしんないけど、美月ちゃんとはもう一度ちゃんと話し合った方がいいね」


 先生は煙草を咥えた口でもごもごと言った。


「避けられてるから、タイミング見つけるの難しいでしょうけどね。そのプリンでも話の種にして、肩の力抜いて、話しかけてごらん」


 先生の言葉は、煙草の煙とともに上って消えてしまうような、怠そうな色を差していた。俺はしばらく煙を目で追いかけ、やがて再び、貰ったプリンに目線を戻した。


「先生のことは嫌いですけど、言ってることは的を射てるなあと思います」


「まあね。心理士の資格持ってるのは本当だから」


「暗殺者、やめた方がいいんじゃないですか」


「そっちも向いてるのが事実。両立できるんだから両立したい」


 普通のカウンセラーの先生だったら、よかったのに。


「なんか困ったことあったら、これからも相談してよ。連絡先教えようか」


 先生は俺を殺そうとしているくせにフランクにそう言って、ジーパンのポケットを叩いた。


「あ、携帯持ってなかった」


「煙草は持ってて、携帯持ってこなかったんですか」


「こっちの連絡先でいいか」


 先生は誤魔化し笑いをしながら、耳を隠した癖っ毛を掻き上げた。隠されていたイヤーカフが、西日できらっと光る。


「それ、フクロウの通信機ですよね。先生も付けてたんだ」


「うん。ええと、通信機の連絡先はカードのIDに四桁足した番号なんだ。朝見くん、携帯にこの番号をメモして」


 そう言いながら先生が銀色のホー・カードを取り出す。俺も言われるまま、スマホを出してアドレスの登録画面を開いた。なんで自分の命を狙う人の連絡先を登録しているのか我ながら謎である。

 カードとスマホを付け合わせて、作業していたときだった。


 タタタタと、軽い足音が近づいてくる。そして真横から、黒っぽい物体が流星のように、俺たちのちょうど鼻先を通り抜けた。

 先生の手に持っていたカードが、パシッと弾かれて彼の指から消えた。


「……えっ」


 なにが起こったのか理解できず、その飛び込んできた「なにか」の通り過ぎた方向を振り向く。隣にいた先生も、そちらを見てすぐに舌打ちした。


「チッ……油断した」


 ゆらっと立ち上がった小さなそれを見て、俺は呼吸が止まった。


「キル!?」


 そこにいたのは、黒いキャミソールにショートパンツ姿のキルだったのだ。白い外套を着ていなかったから一瞬分からなかったが、小さな体と金髪、間違いなくキルのものである。

 彼女は先生のカード目掛けて、横から飛び蹴りを入れてきていたのだ。


「サク! あんたまたそいつに絆されてるのか!」


 振り向いたキルがくわっと牙を剥く。スーパーから出てきた買い物客がぎょっと遠巻きに見ていく。


「キル、帰ったんじゃなかったのか?」


 問うと、彼女は鋭い眼光で、俺と古賀先生を交互に見比べた。


「頼んだプリン、サクがちゃんと分かってなさそうだったから、まともにお使いできないんじゃないかと思ってな。戻ってきて正解だったよ。全く、油断も隙もあったもんじゃない」


 キルが蹴りで奪い取った先生のカードを拾う。咄嗟に、先生の大切な身分証が折り曲げられると直感した。

 そのカードがだめになったら、フクロウから除名。秘密を知ってしまった者の除名は、死に直結する。


「おい、お前それはやりすぎ……!」


 先生がいた方を振り向く。だが、もう俺の隣に先生は座っていなかった。ベンチの横の灰皿に、煙草がねじ込まれているだけ。

 またキルに向き直ると先生はいつの間にか、彼女の手の中のカードを追いかけていた。


「卑劣だね。不意打ちは汚いと思うよ?」


「お前だって油断してるサクに毒入りコーヒー飲ませようとしただろ」


 キャミソールから伸びる細い腕を、先生の手が押さえようとする。体格差を見ればキルが押し負けてしまいそうだが、素早さはキルの方が上だ。


「折角のお休みを邪魔しないでくれるか? 今俺、武器持ってないんだよ」


「それはお互い様だ。私だってサク追ってスーパー入るために武器は全部置いてきちゃったからな!」


 本当だ。キルはキャミソールに短パン、生脚にビーチサンダル。先生はTシャツにジーパン、突っかけサンダル。お互いに防御力底辺のド軽装でストリートファイトを始めてしまった。


 キルはぴょんぴょんと先生の手を躱し、駐車場の車の隙間を縫って逃げる。先生も目の色を変えて追いかけた。重力を無視したような身のこなしをするキルと、大人しそうな外見からは想像できない瞬発力で追い回す先生。

 お客さんが驚いて目を見張り、中にはイベントと勘違いして写真を撮る人まで現れはじめた。


「やめろって、スーパーとお客さんの迷惑になる!」


 俺はベンチから立ち上がって、鬼ごっこ状態のふたりに叫んだ。キルがカードをしっかり握って、リサイクルボックスの上に飛び乗る。


「サクが隙だらけだから、こんなことになってんだ!」


「先生は今日は俺になにも仕掛けてきてない。俺の相談聞いてくれただけだ!」


 訴えかけてもキルはカードを返そうとはしない。

 先生が眼鏡を外し、畳んだそれで水平斬りした。キルの指に挟まっていたカードが、ピンッと弾かれる。キルが舌打ちした。


「お人好しめ。お前はこいつに殺されかけたのを忘れたのか? 一緒にレジ並びたくねえって言ってたのに!」


「忘れるわけないだろ、でも今日は本当に……!」


「警戒心が足りてない、そんなんだから毒盛られるんだよ!」


 弾かれたカードは空中で回転しながら駐車場内の通路へ飛んでいった。それを追いかけようとするキルの腕を、ついに先生が掴んだ。


「捕まえた。君みたいな野蛮な子には、制裁が必要だな」


 眼鏡を外した先生は、普段となんら変わらない楽しげな微笑みでキルの腕を絞めた。キルがギリッと歯を軋ませる。


「ってえな! 折れるわ糞野郎」


 キルのビーサンが勢いよく先生の胸を蹴飛ばした。先生はそれをまともに受ける前にキルの腕を放し、代わりに彼女の腰の辺りから脇に滑り込んだ。


「ちっくしょ……」


 キルが小さく悪態をついたころには、先生は既にキルのショートパンツのポケットから銀色のカードを抜き取っていた。ニッと勝ち誇った笑みを浮かべる。


「はい、逆転」


「てめえ……! 鮮やかにスリやがって」


 俺は息を呑んだ。今度は逆に、キルの身分証が折られてしまう。協力して取り返そうにも、このふたりの動きにはついていける気がしない。

 キルが取り返そうと先生の手を目掛けてリサイクルボックスから飛び降りる。先生は振りかぶるキルの腕を屈んで避けて、通路に飛ばされた自分のカードの方に目をやった。アスファルトに降り立ったキルは低い位置から金髪を振り乱して先生を見上げた。


「サク騙して楽しいか!?」


 キルが外に止められている買い物カートに飛び乗る。先生はキルの乗ったそのカートをガッと蹴飛ばし、自身のカード目掛けて駆け出した。


「心外だね、俺は今日は心優しいカウンセラーだ」


 キルのカートが倒れる。ガシャーンという衝撃音と同時に、そのカートを乗り捨てたキルが隣のカートに乗り換えた。


「なにが心優しいカウンセラーだよ。たとえ今更善行を積もうと、お前はどう足掻いでもこっち側なんだよ」


 俺はハラハラと辺りを見渡した。お客さんがざわざわしている。俺のすぐ傍でおばさんがひとり、呆然と眺めている。


「す、すみません。すぐやめさせます」


 その人にぺこりと頭を下げると、彼女は我に返ったように微笑んだ。


「仲のいい親子なのねえ」


「えっ、親子?」


 どうやら通りかかるお客さんたちには、若い父親と小学生の娘が派手にじゃれている程度にしか見えないようだ。

 いや、あれは命をかけた殺し合いなのだけれど……たしかに、そうは見えない。あの軽装で軽やかに追いかけ合う姿は、加減の分からないバカが度を越して遊んでいるだけに見える。


 落ちた自分の身分証に向かう先生に、キルが買い物カートで突進する。カートのタイヤがアスファルトの上でガガガッと荒いノイズを立てた。カートの籠の中でキルはビーサンを片方脱ぎ、それを先生に投げつける。先生の指に掴まれていたホー・カードに命中して、指から外れた。


「っと……器用だね」


 先生がちらとキルを振り向く。微笑んでいるが、目が笑っていない。

 ぼこぼこのアスファルトにタイヤが引っかかって、キルの買い物カートが前のめりにつんのめった。籠から投げ出されたキルはその勢いに乗って先生の上空を通り越し、落ちていた先生のホー・カードを拾いながら着地した。

 今度こそ割り折ろうと両手をカードに添えたキルに、先生が畳んだ眼鏡を投げる。眼鏡のリムとツルのジョイント部分がキルの額にドスッと突き刺さった。


「んぎゃ! 眼鏡、大事に扱えよ!」


 怯んだキルの脇に先生が滑り込み、カードを奪い返す。


「甘いんじゃない? 今のがナイフだったら死んでたよ、キルちゃん」


「こんの、伊達眼鏡……!」


 キルの額で跳ね返った眼鏡はカシャンと地面に落ちた。俺はヒヤッと肝を冷やした。今の眼鏡が、駐車されている車に当たったらどうするつもりだ。駐車場でこんなに暴れたらいつかは他人の車に傷をつける。通りがかるお客さんたちだって、そのうち巻き込まれるかもしれない。

 自分のカードを取り戻した先生は、先程落としたキルのカード目掛けて方向転換する。察したキルが履いていたもう片方のビーサンを脱ぎ、先生に向かって跳躍した。


「させるかー!」


 まるで害虫でも叩くかのように、ビーサンでスパンと先生の後頭部を引っぱたく。


「ったいな! 星が見えたじゃん!」


 先生が頭を押さえて振り向く。キルは宙返りして裸足でアスファルトに着地した。


「そっちこそ甘いんじゃねえか? 今のが金属バットとかだったら死んでたぜ」


「やるねえ、霧雨サニの二番煎じ」


「誰が二番煎じだ!」


 キルが先生の挑発に乗り、飛び蹴りする。先生は躱して落ちていたもう一枚のカードを拾い、片手に二枚のカードを揃えた。


「もーらい」


「返せ、殺すぞ!」


 キルは再びリサイクルボックスに飛び乗り、中のカラペットボトルを引っ張り出した。


「やめなさいって!」


 俺は周りをキョロキョロしながら叫んだ。そろそろお客さんがお店の人を呼んできてしまってもおかしくない。

 キルは空きボトルを短剣のように振り、先生に殴りかかる。先生はそれをからかうように避けて、二枚のカードをちらつかせて挑発した。


「ほらほら、届かないねえー。そろそろこれ、割ってもいい?」


「キー! 武器さえあれば腕ごと落とすのに!」


 キルがバシバシ先生を殴り、先生は笑いながら逃げる。場内を駆け回り、俺の正面まで戻ってきた。


 なにが悪質か。なんだかふたりとも、楽しそうなのだ。

 同じレベルで戦えるスポーツのライバルを見つけたみたいな、いい表情をしている。そのせいで本気の喧嘩に見えなくて、やはり遊んでいるように見える。ていうか、このふたり、本当に遊んでいるだけなんじゃないのか?


 古賀先生にキルが上る。先生は屈んでカードを守るが、キルのペットボトルで一枚弾き飛ばされた。ホー・カードを奪っては取り返し、取り返しては奪われ、キルと古賀先生は目の前で格闘を続ける。

 他のお客さんが危ないだろ。お店だって迷惑する。なにかあったらどうするつもりだ。


「いい加減に……」


 俺は買い物袋に手を突っ込んだ。


「いい加減しろー!」


 叫びながら、俺はふたりの間に身を突っ込んだ。握ったキュウリでキルと先生の額をそれぞれバシッバシッと殴ってやった。


「んぎゃっ」


「うあ」


 ふたりがそれぞれ短い悲鳴を上げる。突然トゲトゲのキュウリで殴られた暗殺者たちは、流石に目を剥いて固まった。俺はキュウリを握りしめて改めて怒鳴った。


「やめろっつってんだろ、さっきから!」


 手のひらにパシパシとキュウリを叩きつけ、ぽかんとするふたりを睨む。


「こんなところで暴れたら迷惑になることくらい分かるだろ? ふたりともガキじゃねえんだから。特に先生はもういい大人でしょうが!」


 説教をはじめた俺を、キルと先生が呆然と見つめる。やがて、先生がぽつんと呟いた。


「朝見くん。俺は今、私怨で君を殺しそうだ」


「……えっ」


 ぞっと凍りつくような、低くて重い声だった。その瞳はかなり真面目な色を差していて、先程までの余裕の微笑はきれいに消え去っている。俺の足元を無表情で注視している。キルも真顔で、同じ視線を向けていた。


「やるな、サクのくせに」


「え、なんで急に……」


 言ってから、ふたりの視線を追って気づいた。俺の左足の下で、銀色のカードが真っ二つに割れている。


「あっ……これ」


 ひゅっと血の気が引いた。

 フクロウの身分証、ホー・カード。給与関係から会計支払い、電子マネーでもあり、公認暗殺者の証。その証を失ったら、除名。ただし、暗殺組織の秘密を知る者を、普通の生活に戻すなど有り得ない。口外させないために、その口は封じられる。

 その大事なカードの奪い合いを止めるために仲裁に入ったのに、俺が踏んずけて割ってしまった。


 青ざめた顔で、正面を向き直る。目が死んでいる古賀先生と、いたたまれないものを見る目で先生を窺うキル。この様子ならば、割れたのはキルのものではなくて先生のカードだろう。


「……まずいな。現金いくらあったかな……」


 先生は、暗殺者らしからぬ生活感と悲壮感溢れる呟きを洩らした。


「サク、ずらかるぞ」


 キルがぱしっと俺の手首を掴んだ。


「道連れにされたらいよいよまずい。帰ろう」


「えっ、ちょっ……!」


 キルは小さな体に不似合いな腕力で俺を導き、腕を掴んで走り出した。俺はまだ混乱していたが、引っ張られるようにキルに従った。


「せ、先生、ごめんなさい!」


 真っ二つになったホー・カードと真っ白になった先生を置き去りにして、俺はキルに引きずられて逃げ出した。

 買い物の重みがギシギシと腕を締め付ける。キュウリを握った手が焦りで冷たくなっていく。

 先生が処分されてしまう。俺のせいだ。罪悪感が全身をべったり濡らして、呼吸が苦しくなっていく。

 商店街を走るキルは振り向きもせず、先生は追いかけてはこなかった。


「キル、先生どうなっちゃうんだ……?」


 恐る恐る尋ねると、彼女はやはり振り向かずにこたえた。


「……早くて一ヶ月だ」


 ぞわっと胸がざわついた。一ヶ月。この夏にも、先生は。

 蒸し暑い真夏の夕方なのに寒気がした。どうしよう、わざとではないとはいえ、間接的に人を殺してしまったというのか。それも、親身になって相談を受けてくれた先生を。俺を殺そうとはしていたけれど、暗殺の件さえなければ、友人のように接してくれた先生だったのに。


 キルまで神妙な面持ちをしていた。意図的に割ろうとしてカードを奪い合っていたくせに、いざ本当に割れたのを見ると、彼女も流石に焦りを見せている。

 言葉が見つからない俺に、キルは絞り出すように重々しく言った。


「ホー・カードの再発行は、最低でも一ヶ月はかかる……」


「再発行できるのかよ!」


 どっと力が抜けた。キルが眉を顰めてこちらを振り向いた。


「できるに決まってんだろ」


「さっき、紛失したり壊したりしたら除名されて殺されるって言わなかった!?」


「最悪の場合はそうなる、と言ったまでだ。そりゃ何回もカードだめにするようなだらしねえ奴には、暗殺者務まらないから」


 しれっと返して、キルは肩をすくめた。


「なんだよ、一回でもなくしたらアウトだと思ってたのか? そんな鬼畜システムなわけないだろ、暗殺者はマゾじゃねえんだぞ」


「そういうニュアンスで言ってたから、そのくらい厳しい管理なのかと思った」


「こんな仕事やってれば、物理的に危険に巻き込まれることは多々あるから、一回や二回はやむを得ずカード使えなくなることくらいはあるさ。そしたら組織に連絡すれば再発行手続きを取れる。理由書が必要だったり発行料で八百円かかったりして面倒くさいんだけどね」


 生々しい世界観に、余計に脱力する。


「そんなしんみりした顔するから、マジで焦ったじゃねえか!」


「古賀ちゃんがピンチなのは事実だぞ? 再交付が完了するまで、報酬の受け取りからショッピングから現金引き出しから、なにもかもが差し止められる。暗殺の仕事も、受けようとしたら身分証の代替書類をいちいち出さなきゃならない。可哀想じゃん。ざまあみろ」


 途中まで同情だったのに、キルは最後だけ素の毒を覗かせた。


「じゃ……先生、死にはしない?」


 安堵のため息をつきながら尋ねる。キルはうーんと唸った。


「分からん。手元に現金がある、或いは別の口座を持っていればいいけど……それがなかったら、借金するだろうし最悪は生活できなくて死ぬかもな」


「いっそ口封じで、暗殺者にサラッと殺される方が苦しまない気がする」


「ま、平気でしょ。古賀ちゃんの場合は暗殺一本でなくカウンセラーを兼業してる。そっちの小遣いがあるっしょ。だから大丈夫大丈夫ー。サクは人殺しじゃないよー」


 キルは無責任にもあっさりと結論づけた。


「で、サクはちゃんとプリン買えたのか?」


「ああ、うん。それはちゃんと買った」


 買い物袋の中をちらりと覗いた。三連プリンと、先生に貰った三分の一個のプリンが、冷やし中華の具の中に紛れこんでいた。


 *


 翌日、俺は昼休みに日原さんに話しかけた。


「日原さん、夏限定の桃とマンゴーのプリン、もう食べた?」


「えっ? 食べてないけど、気になってはいる……」


 突然聞かれて、日原さんは少し戸惑っていた。

 教室の中は休憩中の生徒たちがざわざわと好き勝手に過ごしていた。その中で日原さんは、ひとりでぼうっと窓の外を眺めていた。

 いつも友達に囲まれている彼女が、こんな風に過ごしているのは珍しい。ひとりになりたかったのかもしれないけれど、こちらにとっては話しかけるチャンスだった。

 俺は保冷剤で包んであったプリンを、彼女の机に乗せた。


「これ、デザートにしようと思って持ってきたんだけど……もしよかったら、食べてくれる?」


 上手い言葉は思いつかなくて、下手くそな言い訳を添える。日原さんはぱっと目を輝かせた。


「わ、嬉しい! こういうの、お母さんが安っぽくて嫌いって言って、買わせてくれないから」


 言われてハッとなった。お嬢様はこんな庶民のデザートは食べないのか。俺がそんなことを思ったのを察したのか、彼女は慌てて付け加えた。


「買わせてくれないんだけど、私はすごく好き。たまにお母さんには内緒でこっそり食べてるんだ。この味も食べたくて探してたんだけどなかなか売ってなくて、買えなかったの」


「かなり売れてるみたいだな。俺が買ったときも残りわずかだったよ」


 あの後、プリンはキルとまひるとばあちゃんに配布された。来るかと思ったラルはもう自分で買って食べたらしく、うちにタカリには来なかった。まひるとばあちゃんは思ったとおりイチゴ味や餡蜜の方が好みだったらしく、贅沢に両方楽しんでいた。俺は古賀先生から貰ったものをもう食べていたので、参加しなかった。


 そして、先生がくれたもう一つのプリンを、学校に持ち込んだ。

 古賀先生本人から提案されたとおり、プリンを日原さんと話すきっかけにする。

 先生本人は今つらい目に遭っている。彼の言うとおりにして俺が悩みを解消するのが、先生のせめてもの供養になる……と、思うことにした。

 素直な日原さんはプリンに喜んでくれて、声を弾ませた。


「ありがとう。いただくね」


 嬉しそうににこにこして、ご機嫌になる。彼女はしばらくプリンを見つめ、頬を緩めながらも目を泳がせた。


「……あの、ごめんね、朝見くん」


 言い出しづらそうに、彼女は切り出した。


「謝らなきゃって思ってたんだけど、タイミング掴めなくて」


 俺は机に頬杖をついて、彼女の横顔を見ていた。

 ここのところ日原さんは俺を避けていた。だけれど、本当はなにか言おうとしていたようだ。


「避けちゃったからタイミングを掴めなくて、言い出せないから避けちゃう、そんな悪循環に嵌ってた。今、朝見くんがチャンスをくれたから、やっと話せる」


 目を合わせずに、日原さんはぽつりぽつりと話した。俺はちらと古賀先生がくれたプリンに目をやった。あの人は、日原さんがなにか言おうとしていたのまで、見透かしていたのかもしれない。


「一緒に星を見に行った夜から、私、ちょっとどうかしてて。今も少しポヤポヤしてる」


 やはり、あの日が分岐点であったのは、気のせいではなかったようだ。


「俺がはっきりしない態度とるから、嫌な気分にさせたよな。逆に日原さんはそれをちゃんと伝えてくれたから、こっちは反省したよ」


 言ったことを後悔しているのかと思ってそう返したが、日原さんはふるふると首を振った。


「違うの。それも開放感から出ちゃった発言だったんだけど……私あのとき、楽しくて楽しくて有頂天になってたんだ。あんな風に、家を抜け出して友達とちょっと危険な冒険をして星を見るなんて、初めてだったから」


 日原さんはたどたどしく、少しずつ言葉を選んで話した。


「朝見くんが怪我をしたのに、私は不謹慎にもあの夜を楽しんでた。それに私、高揚して怒ったでしょ。勝手に朝見くんと仲良くなったような気になって、朝見くんが隠し事するのを怒った。酷いことしちゃった」


 日原さんがおずおずと白状する。俺は頬を手のひらに乗せたまま、彼女の話を聞いていた。


「そんな私を、朝見くんは体を張って怖い野生動物から守ろうとしてくれた」


「リスだったけどね」


 俺が自嘲的に呟くも、日原さんは頬を染めて俯いていた。


「それがすごく嬉しくてね。ドキドキして、ふわふわして、なにも考えられなくなっちゃって」


 あどけない口調で語られた彼女の気持ちに、俺の方がドキッとした。やめろ、思わせぶりなのはやめろ、日原さん。俺になんて興味ないんだろ。


「ちゃんとお礼を言いたかったのに、目を合わせられなくなっちゃった。お礼と、お詫びのつもりで金平糖を渡して、それで終わり! って思ってたのに……」


 ちら、と日原さんが目を上げた。光を携えた大きな瞳が、俺を捉える。また、心臓がぎゅっと締まった。


「そう思ったのに、次の日になってもまだ舞い上がってるの。あの夜の高揚感が何度も蘇ってきて、朝見くんを真っ直ぐ見られなかった」


 日原さんのふんわりした微笑みが、午後の窓辺の柔らかな光でより穏やかに映っている。日原さんの声が、教室のざわめきにかき消されそうになりながら俺の耳に届く。

 心臓がばくばくしてきた。


「あ……で、でも。あのとき結構マジで怒ってただろ。納屋から出ようって言ってもなかなか立とうとしなかったりしてさ」


 なにか言わなきゃと、しどろもどろに問うた。日原さんはまた、照れ笑いを浮かべる。


「ごめん、あれはもうちょっと一緒にいたくて、動きたくなかっただけ」


 頬がぶわっと熱くなる。笑い話の方向に変えるつもりが、余計にクラッとさせられた。

 これは、そういう意味だと受け取っていいのか。浮かれていいのか。


「いつもお父さんやお母さんの言いなりだったからかな。友達を選ぶのも、進路も、こうして好きなものを食べるのも、全部、親の顔色窺ってた」


 日原さんがプリンを指で撫でた。


「勉強会に誘ったことがあったでしょ。あれね、かなり思い切ったんだ。ただキルちゃんに会いたくて遊びに行くというだけじゃ親が許可してくれないから、勉強をこじつけたの」


 テスト前の、勉強会にならなかった勉強会を思い出した。


「星見遠足なんて絶対許可してもらえない。でもどうしても仲間に入りたくて、秘密で家を抜け出した」


 箱入り娘だった彼女がお転婆を覚えてしまった、というわけか。


「朝見くんは、自由に私のしたいことをさせてくれる機会をくれたの。だからかな、今すっごく楽しいんだ」


「ん……うん、そっか」


「ありがとう。これを言いたかったんだけど、気持ちが昂って言葉がまとまらなくて、顔合わせられなくて避けてた。ごめんね」


 日原さんがえへへと照れ笑いする。

 嫌われていたわけではなかったようだ。むしろ彼女は、好意的に俺を見ている。

 ドギマギしながらちらと周囲を見渡した。クラスはざわざわと自由な時間が流れていて、自分が所属する以外の会話など聞いていない。俺と日原さんがこんな会話をしていることも、誰も気づいていない。よかった、日原さんファンに聞かれたら暗殺されそうな話だった。


「あのね、朝見くん。もう気持ちがばれちゃったかもしれないけど……改めて、お願いします」


 日原さんが真剣な眼差しを向けた。心臓がばくっと高鳴る。俺はまた周囲をキョロキョロした。こんなに人が多いところで、そんな核心をつくようなことを言うつもりか? 場所を変えた方がいいんじゃないのか。

 しかし慌てる俺など気にせず、日原さんは言った。


「これからも、友達でいてください!」


 心臓のばくばくが、一瞬止まった。

 友達……。友達以上はない、という意味か?


「もちろん、キルちゃんやまひるちゃんぐるみで。陸くんとも一緒に、おバカなことするときは、私も呼んでほしいの!」


 その人たちと同列……。

 なんだか急に血行が悪くなった気がした。勝手に浮き立った自分が、すーっと身を縮めていく。


「だめ? やっぱり私、世間知らずだから、だめ?」


 寂しそうに眉を傾けた彼女に、俺は自分でも驚くくらいに爽やかに返した。


「ううん。喜んで」


 勘違いするな、調子に乗るなと、あれほど自分に言い聞かせたのに。

 嬉しそうにプリンを食べはじめた日原さんを横目に、俺は微妙な後味の悪さを噛み締めていた。

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