9.お星様にされるぞ。

「お帰りなさい咲夜くん。ご飯にしますか? お風呂にしますか? それとも死にますか?」


 古賀先生の事件があった三日後。学校から帰って自分の部屋に入ったら、ベッドの上にラルがいた。


「いつから侵入していた?」


「やだ。お部屋に入るくらい、いいじゃない。私たちの仲なんだから」


 腿が露になるほどの短いスカートから、挑発的に脚を投げ出している。その脚を布団に絡ませて、物憂げにこちらを見据えているのだ。

 俺は鞄を床に下ろしてラルを睨む。


「お前とそんな仲になった覚えはない。出てってよ。なんだよ、『死にますか』って」


「あんまりにも退屈で、咲夜くんを殺したくなっちゃったの」


 ラルは長い髪を乱して、ベッドで横たわった。


「俺、暇潰しに殺されるの?」


 ラルは以前、俺を「殺す価値もない」と言っていたから殺意を持っていないはずだ。そんなラルが冗談でもこんなことを言うなんて、多分とても機嫌が悪いのだと思う。


「なんか嫌な出来事でもあったのか?」


 投げやりに聞くと、ラルはコロンと寝返りを打った。


「ずーっと陸ちゃんにアタックしてるのに、全然来てくれないの……プライド傷ついちゃう」


 どうやらまだ、陸を誑かす作戦を続けていたようだ。ラルは細い指先を唇に当てたりして、やたらと色気を醸し出している。


「つまんない。私、もっとだらしない子が好きだわ」


「知らねえよ、お前の好みなんか。でも不思議だな、陸はたしかに硬派な部分はあるけど、これだけ迫られればあっさり落ちそうなのに……」


 落ちないのは助かるが、疑問ではある。ラルは自身のたぷたぷした胸を抱いてため息をついた。


「実はその野生的な姿は全部演技。本当はものすごく理知的で、私の正体を見破ってる。彼も暗殺者だからね」


「何度も言うようだけど、陸は暗殺者じゃねえぞ」


 まだ誤解してやがる。ラルはうるうるした唇を尖らせた。


「じゃあ暗殺者じゃなくてただのおバカちゃんだとしたら、どうして私に落ちないの?」


「うーん、野生の本能でラルの毒を察知して、毒があるものは食べようとしないだけ、とか?」


「あ、ちょっと納得」


 ラルはくたっと顔を伏せた。自分で毒があるのを認めてしまっている。ラルがアンニュイな声を出す。


「正直、私は美月ちゃん暗殺はどうでもいい。あれはキルの案件だから、失敗しようと痛くも痒くもないのよ。キルは困るでしょうけど、知ったことじゃないわ」


 つまり単純に、陸が思いどおりにならないのが面白くないと。

 ラルはキルとは違って、暗殺をゲームのように割り切っているところがある。それはそれで軽率すぎて恐ろしいが、キルほど執着しないのはこちらとしてはありがたい。


「キル、相当参ってるみたいだな」


「みたいね。なんか真っ向から邪魔しに来る奴が出てきたそうじゃない。お陰様でかなり不機嫌だったわ」


 古賀先生のことだ。ラルは布団から顔を上げ、ちらと俺を見上げた。


「咲夜くんも巻き込まれちゃったんだって? ほっぺに怪我までしちゃって、かわいそう……」


「そこまで知ってるのか。キルが喋ってるんだな」


 俺は頬に貼り付けた絆創膏を撫でた。ラルはじっとこちらを見つめてくる。


「そりゃ仕事で手を組んでるんだもの、話してくれるわよ。咲夜くん、胸も火傷したそうね。見せて。慰めてあげるからおいで」


「おいで」を無視して、俺は勉強机にしまってあった椅子を引いた。


「なあラル、キルはフクロウが請け負った仕事として日原さん暗殺を狙ってるんだよな? それなのに、なんで同じフクロウ所属の古賀先生が、キルの仕事を止めようとしてるんだ?」


 これはあのカウンセリングルーム戦のときから疑問に思っていた。ラルが上目遣いに見ている。


「あら、キルに直接聞いたらいいのに」


「なんか聞きづらいんだよ。俺に率直に礼を言われたのが相当気持ち悪かったみたいで、あのときの話を振ろうとすると、目を逸らされる」


 普段はいつもどおりなのだが、あまり思い出したくないようだった。ラルは頬に指を当ててうふふと笑った。


「キルは自分があまのじゃくだから、ストレートな言葉を向けられると照れちゃうのよね。だからこそ、からかってくれるミスター右崎に懐くんでしょうけど」


 それから彼女は体勢を起こし、わざとらしく脚を組み直した。


「で、なんで同じ組織の人間がキルの仕事を妨害するのか、だっけ?」


「そう。古賀先生もフクロウの暗殺者なんだよな?」


 古賀先生は、あの日以来見ていない。俺も怖い目に遭ったからカウンセリングルームに近づかないようにしていたが、それにしたって廊下ですれ違いもしない。

 今日の放課後思い切ってカウンセリングルームを覗いてみたが、彼はいなかった。先生がいつもコーヒーを淹れてくれたあの部屋は、ナイフが散らばっていたり銃弾の跡があったりと、キルと先生が争った形跡だけが残っていた。


「組織が請け負った仕事なのに、足を引っ張り合う意味が分からない。ラルみたいに協力するのは分かるけど」


 改めて尋ねると、ラルはそうね、と話しはじめた。


「真城ライ、即ち古賀ちゃんはキルとは違うエージェントから仕事を貰ったんでしょうね」


「エージェント……」


「フクロウには、依頼された仕事を一旦預かって、向いてる所属アサシンに分配するエージェントがいる。ミスター右崎はまさにそれね」


 キルに日原さん暗殺を言い与えた人だ。


「でも、エージェントはミスター右崎だけではない。他のエージェントが取ってきた仕事が、たまたまキルの仕事と相反する案件だった、ということもありうるのよ。極端に言えば、昨日の依頼人が今日のターゲットってこともあるの」


 なるほど、だから古賀先生はミスター右崎とは別口から仕事を受けているといえるわけだ。ラルは少し神妙な顔つきになった。


「ただ今回の場合、古賀ちゃんは『キルの暗殺を止めるのが目的』と話してたわけだから……キルが美月ちゃんの暗殺を企てているという情報がどこからか洩れて、日原院長サイドに伝わってしまったのを意味してるのよね。あくまで院長『サイド』ね。院長本人とは限らないわ」


 たしかに、暗殺を止めようとするのならば、殺されると分かっているということだ。日原院長側は日原さん暗殺を阻止するべく、別の暗殺者を遣わしたと。


「暗殺者キルを暗殺するつもり、ってこと?」


「ざっくり言えばそうだけど、暗殺者を暗殺するなんて殆ど不可能。暗殺者は勘が鋭いから殺気に気づく。だからキルを殺すというより、キルのお世話をしてる咲夜くんを狙ったんでしょうね」


 ラルはすりっと、自身の太腿を擦り合わせた。短いスカートがずり上がり、中が見えそうになる。


「それもあくまで過程に過ぎない。院長サイドの真の狙いは、美月暗殺の依頼を出した、依頼主の抹殺ね。そこまでしないと根元は潰せないからね」


 考えると頭がこんがらがってくる。

 整理すると、院長側が暗殺者の動きに気づき、暗殺者を遣わした依頼主を探っている。でも依頼主本人は尻尾を出さないから、狙っている暗殺者であるキルから情報を引き出し、その上で殺すつもり。だがキルも捕まらないから、その飼い主である俺から崩そうとした……というわけだ。


「そういえば『悩みはないか』って聞かれたな……あれはキルについて聞き出すためだったんだ。それだけじゃない。先生は転校生の話も振ってきた。ラルのことも調べてたな」


「嫌ねえ。向こうの諜報員もフクロウ所属で、身内とはいえお互いの情報は簡単には漏れないはずなのに。キルが美月ちゃん暗殺の担当で、サブで私が手を貸してるって、どこかから嗅ぎつけたわね」


 ラルが妖艶なため息を洩らす。


「さっきも言ったとおり、古賀ちゃんが咲夜くんを暗殺するとしたら、それはあくまで美月ちゃん暗殺を妨害するための過程。仮に咲夜くんが死んじゃって、キルにご飯を与える人がいなくなったら、キルは新しい拠点を探さなくちゃならない。拠点を探すより先に美月ちゃん暗殺に成功しちゃえば関係ないけど、古賀ちゃんがそうはさせない。そうして美月ちゃん暗殺計画が長引けば、キルは路頭に迷ってしまう」


 キル本人の言葉を思い出す。俺をライフラインと呼んでいた。その言葉どおり、キルは基本的な生活は俺に寄りかかっている。


「でも不自然ね。咲夜くんが死ぬ、或いはもう関わりたくないと言ってキルを突き放すなりしてライフラインが止まったとしても、キルが別の拠点に移ってしまえばまた美月ちゃん暗殺の計画は進行する。つまり咲夜くんが死んだとしても、その場しのぎの対症療法にしかならないのよ。それなのにわざわざ殺すなんて、コスパが悪いわ」


 ラルのあっさりした表現に俺は絶句した。日原院長やら政治家やらの金の動きに全く関わりのない俺の命一つ消されたとしても、捨て駒程度にしか思われない。硬直する俺を気にせず、ラルは続けた。


「対症療法でなく根源から潰そうとしたら、もちろん依頼主を殺すのがいちばん。それは分かるわね?」


 ラルがちらと俺の目を覗く。


「けど、依頼主はそう簡単に割り出せるものじゃない。依頼主なんて、エージェントしか知らなかったりする。いくらキルや私を拷問したってなにも吐かない」


 エージェント、つまりこの場合はミスター右崎だ。


「情報を握ってるから、当然エージェントも狙われやすい。だから彼らは簡単に人前に姿を現さない。そんなエージェントを引きずり出すまでの間、アクティブな暗殺者キルを停止させる。ミスター右崎の所在を特定次第、彼を潰す……ってとこかしら」


 ラルが肩に垂れる髪を手の甲で撫でる。俺は呆然と聞いていた。


「ミスター右崎はフクロウのエージェントなのに、フクロウの暗殺者に殺される予定なのか」


「そういうこともある。組織内でも暗殺が起こりうるのよ」


 ラルはまた、内腿を擦り寄せて脚を組み直した。


「出世を狙う暗殺者同士、またはエージェント同士とか。思想の相性が悪い相手もいる。必要に応じて殺し合いもあるわ」


「マジかよ。同じ組織なのに、仲間じゃないんだな」


「例えば、ミスター右崎はフクロウの幹部に属する敏腕エージェント。ところが後から参入していたエージェントや暗殺者の中には『反右崎派』みたいなのがいて、ミスター右崎の地位を奪おうとしてる」


 ラルの陰険な話を聞きながら、俺は考えた。


「ミスター右崎の仕事の妨害をするんだから、古賀先生を動かしたエージェントも反右崎派なのかな」


「そう考えるのが妥当ね。ミスターの味方だったら、そんな仕事受けさせないと思うし」


 それからラルは人差し指を頬に寄せた。


「キルはミスター右崎が大好きで、彼から回される仕事を最優先するほど心酔してる。あの子は完全なる『右崎派』」


 キルがミスター右崎なる人物を慕ってやまないのは、よく知っている。ラルは脚を絡めたまま、くたっと布団に倒れた。


「反右崎派の攻撃でミスター右崎になにかあったら、キルはどうなっちゃうのかしらね。自暴自棄、茫然自失、或いは暴走。あの子の手元が狂えば美月ちゃん暗殺は流れたも同然、エージェントがいないなら取引も白紙。院長サイド&反右崎派の大勝利」


 そういう筋書きか。全貌が見えてくると闇の深さにぞっとした。ラルが脚をもじもじさせ、腕に胸を挟む。


「私は正直、右崎派、反右崎派どちらでもないわ。ミスターは特に好きでも嫌いでもないし、死なれても割り切れる。でも進んで消そうとは思わない」


 ラルの腕には豊満な胸がずっしりと乗っている。二の腕に圧迫されて寄せられ、谷間がくっきり見えた。


「私は中立なのよ。仕事さえ貰えれば、なんでもいい」


「あー、そう……ラルってそういう強かなとこあるもんな」


 頭がくらくらしてきたので、ラルと向き合うのはやめて目を逸らした。こいつがそういう習性を持っていると知っていても毒されそうになる。俺が目線を外したのを分かってか、ラルは一層色気のある声色になった。


「キルは素っ気ないふりしてるけど、ミスターを本当に信頼してるの。だから『霧雨サニ』の名前を出されると面白くないみたいね」


 その名前を聞いて、俺はハッとなった。霧雨サニ。古賀先生も口にした名前だ。それを聞いた瞬間キルの機嫌が一気に悪くなったのが、印象に残っている。


「ラル、その霧雨サニって……」


 折角外した視線を戻し、ラルに向き直る。


「古賀先生がキルを『ふたり目の霧雨サニ』って言ったんだ。そしたらキルがすげえ機嫌損ねた。霧雨サニって何者なんだ?」


 ラルは見てもらえて満足そうに目を細めた。


「二十年前、東ヨーロッパのスイリベールで起こった王朝の反逆者代表が暗殺された事件は知ってる? 反逆者にして君主の弟だったベルゼン氏が一夜にして消された。世界規模のニュースよ」


「え? ああ、聞いたことはあるよ」


 自分が生まれるより前の出来事だが、有名な話だから知っている。当時は大きなニュースになって連日テレビや新聞で報道されていたそうだ。ラルはふふっと微笑んだ。


「その反逆者を殺ったのが、フクロウ所属の暗殺者、霧雨サニ。目に見えないほどの鮮やかな手さばきは『音速真空斬りの死神』と恐れられた」


 これには息を呑んだ。歴史を揺るがす大事件ではないか。


「霧雨サニは、暗殺業界で囁かれる伝説の最強アサシンよ。フクロウが設立された当初からいたんだって。フクロウに所属してない暗殺者ですら、その名前を知らなかったらモグリと言われるほどよ」


 驚く俺を楽しげに見つめ、ラルは続けた。


「しかしその正体は誰も知らない。本名はもちろん年齢も国籍も不明。男か女かすら分からない。今どこでなんの仕事をしてるのかだって、誰も知らない。姿を見た人間は、サニに仕事を振っていたミスター右崎くらいだといわれてる」


 謎に包まれてはいるが、すごい暗殺者なのは分かった。


「その霧雨サニの『ふたり目』って言われるくらいだから、キルってすごい暗殺者だったんだな。伝説の暗殺者を踏襲してるってことだろ?」


 普段の様子からは考えられないが、キルにも歴史を動かすほどの力があるということだ。すると、疑問が浮かんでくる。


「褒め言葉じゃん。なんでキルは怒ったんだ?」


 首を傾げると、ラルはにゅっと裸足の爪先を伸ばして、足の指で俺の膝をつついた。


「霧雨サニは実力があるから、ミスター右崎に特別大事にされてるって噂があってね。キル的にはライバルっていうか、サニを超えられないのも二番煎じ扱いされるのも悔しいのよ。ミスター右崎に懐いてる故の、サニへの嫉妬……乙女心ね」


「そういうことか。『ふたり目の霧雨サニ』じゃなくて、『ひとり目の生島キル』って」


 キルは誰かの代わりではなくて、オリジナルの自分としてミスターから認められたいのだ。乙女心というより、仕事人のプライドな気がする。


「あの子は仕事熱心よね。私なんか寄り道の寄り道してるのに」


 ラルはぺろりと、自身の指をしゃぶった。


「ねえ咲夜くん、寄り道に付き合ってくれない?」


「俺は夕飯の支度するから暇じゃないんだ。ラルの分も作ってやるから、早く出てってね」


 バッサリ切り捨てて俺は椅子から立ち上がった。ラルがキャンキャン怒っている。


「据え膳食わぬは男の恥っていうじゃない!」


「毒が盛られているのを知っていれば恥にはならない」


「バーカ! いくじなし!」


 部屋から出ていこうとしたそのとき、俺がドアノブを捻るより先に、バンッとドアが開け放たれた。


「聞いてたぞラル! お前に寄り道してる暇はないはずだ!」


 廊下から無遠慮に飛び込んできたのは、キルである。


「サクなんかと意味のない取引してる余裕があったら、さっさとりっくんを仲間にして来い」


「それが上手くいかないからイライラしてるんじゃない! 全く、どいつもこいつも怖気づいちゃって」


 ラルが逆ギレする。


「仲間にすべきなのは当然分かってるわよ。キルも認める最強クラスの暗殺者である陸ちゃんをこちらサイドに加えれば、かなり有利になる」


「そうだ。りっくんは自身が美月暗殺を狙う暗殺者であり、そして同じ目的の私の罠を外したりして邪魔をしてくる。りっくんは自分の手で美月を殺したいと見られる。利益を私に取られたくないんだろう」


 キルが大真面目に的外れなことを言う。俺は違うと口を挟もうとしたが、面倒くさくなってやめた。キルが仁王立ちで腕を組む。


「とはいえ、りっくんはこちらに対して友好的に接してくる。向こうも共闘を視野に入れてる可能性がある。いずれにせよ、りっくんを心ごと縛りつけてこっちが手綱を引くには、ラルに惚れ込ませるのがいちばん手っ取り早い」


 なんて酷いことを言うんだ……と思いつつも、陸なら騙されて操られてしまいかねないなと、ちらっと思ってしまった自分がいた。ラルが頬に手を当ててふうと吐息を洩らした。


「そのつもりでやってるわ。でもどんなに際どく近寄っても、向こうもプロだから分かってるのよ」


「だから、そのプロでさえ盲目になるくらいの本気の恋をさせてみろって」


「私だってさせてみたいわよ! それが面白そうだから、別に興味がないキルの仕事に乗っかってあげてるの。けどね、口で言うほど簡単じゃないの!」


 やはりラルは、仕事というよりゲームとして楽しんでいる感がある。キルがうーんと唸った。


「ラルでもそう言うんじゃどうしたらいいか分かんないな。なあサク、男目線で言ってどういうタイミングで惚れる?」


「タイミングとか言われても……そういうもんじゃないだろ。関わってくうちにだんだん好きになるんじゃないの? 知らないけど」


 無茶振りに戸惑って曖昧にこたえると、キルはカッと牙を剥いた。


「使えねえな! 私が知りたいのは恋に落ちる瞬間だ!」


「だから知らねえって! 吊り橋効果でも狙ってろ!」


 雑に言い返すと、キルは急にハッとして、大人しくなった。


「吊り橋効果って、怖い思いをしたときのドキドキを、隣にいる奴へのときめきと勘違いするっていう現象?」


「そう。俺も詳しくないから、これ以上突っ込むなよ」


 もうこいつらは放置して夕飯の支度でも始めようと思ったときだった。


「お兄ちゃん! 大変大変!」


 今度はまひるが、開けっ放しのドアから顔を覗かせた。


「宿題の締切が今日だったの、すっかり忘れてた」


「ほらな! だからテレビなんか観てないでちゃんとやれって言っただろ」


 困っているまひるにびしっと一喝する。まひるは目をうるうるさせ、手に持った教材をこちらに掲げた。


「お兄ちゃん、手伝って……」


 まひるの手の中のそれを見て、俺ははたと固まった。ついでに傍で見ていたキルとラルも目を見張った。

 真っ黒な円盤に、無数の白い点々。それらが細い線で結ばれて、横に小さな文字が書き込まれている。


「星座早見板! 久しぶりに見たわ」


 ラルが瞳をきらきらさせた。


「まひるちゃん、宿題は天体観測なの?」


「うん。夏の星座を三つ以上見つけて、ノートに描くの」


 まひるがラルを見つめて、早見板を両手で抱きしめた。俺ははあ、と早見板を見下ろした。星が見える暗さの中に、まひるをひとりで出歩かせたくない。こればかりは手伝ってやらなくてはならなそうだ。


「そういうことなら協力するよ。幸い天気もいいし、夕飯食べたら出かけようか。公園だったら邪魔する建物も少ない。そこでいいな」


「ちょっと待った」


 話はまとまったはずだったのに、キルが口を挟んだ。


「折角星を見るんなら、最高のロケーションにすべきだ」


「なんだよ急に」


 黒いことばかり言うキルらしくない発言だ。


「公園なんかより山だろ。星がたくさん見えるところの方が星座を見つけやすい。小学校の裏山を登ろう」


「星がたくさん見えるのは分かるけど、宿題のためにそこまでしなくても」


 俺は無駄にやる気満々のキルを窘めた。


「それに、小学校の裏の山は結構危ないぞ。クマとかイノシシが出るし、沢にかかってる吊り橋とか、夜だと本当に足を踏み外しそう」


 危ない、と口にしてからハッとなる。キルはニヤアとにやけた。


「りっくん誘おうぜ……そういうイベント好きそうじゃん?」


 怪しく笑うキルに鳥肌が立つ。サッとラルの方を振り向くと、彼女もニイッと口角を上げていた。


「流石キル、頭が回るわね。そういうつもりならもちろん私も同行するわ」


 そういうことか。暗い山道に陸を誘い、ラルとふたりにするつもりなのだ。


「文字どおり吊り橋効果かよ……!」


「わあい! りっくんも山登り山登り!」


 分かっていないまひるは無邪気に喜んでいる。このまずい流れを止めようと、俺は待ったをかけた。


「今夜決行なんだろ? いきなり誘ったって陸は迷惑するだろ」


「本気でそう思うか?」


 キルに切り返され、少し考える。陸の性格を考えると、誘わないと逆に「なんで教えてくれなかったんだ」と怒りそうである。あいつのノリの良さが裏目に出てしまう。


「そうと決まれば早速、りっくんにお誘いの連絡するぜ!」


 キルが耳につけた通信機を触りはじめた。こいつ、いつの間に陸の連絡先を手に入れていたのか。俺は負けじとスマホを取り出し、陸の連絡先に電話をかけた。キルより先にかけて話し中にしてしまえば、キルの連絡は差し止められる。

 スマホを耳に当て、しばらくコールする。応答があった。


「どうした咲夜。電話なんて珍しいな」


 間に合った。キルより先にかけることができた。俺はキルに勝ち誇った目を向けた。


「急にごめんな陸。もしかしたらこの後キルから連絡が行くかもしれないんだけど、なにに誘われても断れよ」


「はあ? なんだそれ。なにに誘われるの?」


 電話口の陸は不思議そうに疑問を浮かべている。俺は相変わらず耳の通信機を弄っているキルを横目に、ざっくりと説明した。


「これから山に星を見に行く。で、キルが陸を誘おうとしてるんだけど迷惑だろうからキチッと断っ……」


「なにそれめっちゃ楽しそう。絶対行く」


 陸は俺が言い終わるより先に断言した。


「ちょっとした遠足気分じゃん。そんな楽しいイベント逃さない手はない」


「楽しくない。ただの登山だよ」


 俺はなんとか気が変わらないかと粘った。しかし陸はもう行く気でいる。


「今から合流? 集合場所は朝見家でいいの?」


 まずい、どんどん話が進んでしまう。しどろもどろのうちに陸の乗り気っぷりに押し負けてしまう。ちらと横を見ると、キルがなにやらパッと顔を輝かせていた。


「もしもし、美月?」


 キルから発された名前に凍りついた。こいつ、初めから陸ではなくて日原さんにかけていたのか。


「キルだよー! あのね、これから小学校の裏山に星を見に行くんだ。美月も行こうぜ」


 通話するキルを眺めて、俺は言葉を失った。陸の声も耳に入ってこない。

 そうか。キルは俺が陸に電話をして、それが結果的に陸を誘ってしまうことになると、そこまで予測していたのだ。そしてその間にノーマークだった日原さんに連絡して、呼び出す。陸とラルの作戦が上手くいかなくても、このタイミングで日原さんを暗殺できれば解決するのだから……。

 今更キルの思惑に気づく。俺の行動は、キルの思う壷だったのだ。呆然とする俺を見つめ、ラルが不敵に笑った。


「転がされちゃって……かーわいい」


 *


 あれから何度も陸に来ないように説得したが、効果はなかった。

 陸があまりにも決意を固めているので、せめて日原さんだけでも止めようと試みた。日原さんの連絡先にメッセージを打ち込む。


「危ないから来なくていいよ。まひるには俺から言っておく」


 日原さんからの返事は、すぐに返ってきた。


「そんなこと言わないで! 私が行きたくて行くんだよ。もう運転手さんにも伝えちゃったからキャンセルなしね」


 彼女ももう心を決めている。ふたりとも変なところで頑固である。

 ばあちゃんに一言「やめなさい」と言ってもらおうかと思ったのだが、ばあちゃんまでもが「楽しそうね」と送り出すのである。とんだ無法地帯だ。

 まひるも大喜びだ。彼女は前にテスト勉強で陸と日原さんを呼んだとき、遊んでやると言いつつ結局遊んでもらえなかった。今回こうしてまた会う機会ができて、嬉しくて仕方ないのだ。


 そして夜八時頃、陸が訪ねてきた。


「よう! 来たぞ咲夜」


「マジで来た。絶対危ないからやめようよ」


 玄関口でもう一粘りしてみたが、陸は全く意に介さず肩掛け鞄から小さな筒を取り出した。


「じゃーん! 小型望遠鏡!」


「わー! りっくん見せて見せて!」


 まひるが無邪気に陸にまとわりつく。陸は望遠鏡をまひるに渡して、更に鞄を探った。


「まひるにはこれもやるぞ。食べられる星、金平糖!」


「すごーい! きれい! かわいい!」


 まひるはカラフルな星屑に目を輝かせて甲高い歓声を上げた。嬉しそうなまひるに、陸もご満悦である。


「やっぱ山を登るなら、金平糖持ってかないとな!」


 望遠鏡に金平糖。やる気満々だ。


「そんなに乗り気なところ悪いんだけど、やっぱり……」


 俺は未だにごねていた。夜の山登りというだけでも危ないのに、実はそこに暗殺者の陰謀が絡んでいるなんて危険この上ない。


「咲夜はなんでそんなに消極的になってんだよ。ほら、外見てみ」


 陸に腕を引っ張られ、玄関の外へ出た。べたっとした夏の空気が頬に触れる。


「今夜の月はすげえぞ!」


 満面の笑顔で、陸が真上を指さした。俺は億劫ながら顔を上げたが、一瞬全ての不安が消し飛んだ。

 陸の言うとおりだ。閑静な住宅街の暗い空を、煌々とした満月が支配している。吸い込まれそうになるような、まん丸の白い月だ。住宅の灯りがあるせいで、星がさほど見えないのが惜しく感じる。

 ぼうっと中を見上げていると、家の前に一台の高級車が停った。黒塗りのドアが開いて、中から美少女が降りてくる。


「ありがとう。帰りはまた連絡するね」


 運転手に声をかけ、こちらを振り向く。彼女はにっこりと微笑んだ。


「お待たせ! 誘ってくれてありがとう」


 日原さんは、ジーパンにスニーカーといった山に適したスタイルだった。こういうのもいいな。日原さんはどんな格好でも似合う。などと余計な思考が滑り込む。


「美月お姉ちゃん! やっと遊べるね!」


 まひるが玄関から飛び出してきた。日原さんが嬉しそうに目を細める。


「まひるちゃん! 勉強会ぶりだね。今日は一緒に星座探そうね!」


「うん! いっぱい見つけようね!」


 こんなに楽しそうにされたら、危ないからやめようなんて言い出しづらいではないか。日原さんの命を守るためにも阻止したいのに。


「本当に大丈夫なのか? 家族が心配してるだろ」


 念を押すと、日原さんははにかんだ。


「お母さんに言ったら怒られるから、早く寝たふりをして抜け出して来ちゃった。運転手さんにだけしか言ってないの」


 ローマの休日みたいだ。日原さんがこういうお転婆な姿を垣間見せるとは驚きだ。

 背後でキルの声がした。


「よしっ、揃ったな。行くぜ、緊急星空遠足だ!」


「行くぜー!」


 まひるがキルの言葉遣いを真似して、先陣切って駆け出していく。その背中を追いかけて、日原さんと陸が行く。後ろからついて行こうとしたキルを、俺は肩を持って止めた。


「おい。ラルは?」


 夕飯の後あたりから、ラルを見ていない。キルは揃ったと言ったが、参加を表明していたラルがいないままなのだ。キルが顔だけこちらを振り向いた。


「忘れたのか? ラルは美月に近寄りたくないって言ってただろ」


「言ってた。日原さんの澄んだ心が、邪悪なラルには耐えられないと」


 そのために学校に来るのまでやめてしまったほどである。


「だから対峙できないんだよ。それに、美月みたいなのが近くにいたら、ラルのハニートラップの効果が半減しちゃうだろ」


 キルの説明にやたらと説得力を感じた。たしかに、日原さんがいる状況下でラルがいくら陸に擦り寄っても、陸は日原さんに目移りしそうである。


「そうだなあ、サクには作戦の概要を話しておこう。話したところでサクに私を止められやしないだろうし。むしろ知っておきながらなにもできないお前を、絶望の淵に立たせてやる」


 非常に嫌な前置きをして、前の三人を追ってキルは歩きはじめた。


「まず、まひるの宿題を達成させる。提出できなかったら可哀想だからな」


「そこには優しさがあるんだな」


「まひるの天体観測が終わったら、りっくんをひとりはぐれさせる。その時点で私がラルに合図を送り、ひとりで不安になっているりっくんの元へラルを送り込む」


 聞きながらぞっとした。ひとりで夜の山に置き去りにされたところへ、見知った美女であるラルが現れたらと思うと、彼女の正体を知っている俺でも心を持っていかれそうだ。抜群に効果的な手法である。


「で、今度は私と美月が一緒に群れから外れる。ふたりになって美月を完璧に暗殺できれば、万事解決だ」


 キルがふふんと笑う。これは絶対に阻止しなくてはならない。キルが日原さんを連れて消えたりしないよう、目を離さないようにしなくては。


「たとえこれで仕事が済んでしまったとしても、フリー暗殺者のりっくんをラルが味方につけておいてくれれば、今後別の仕事でも役に立つ。一石二鳥だぜ」


 キルは自信満々に胸を反らせ、俺を一瞥した。


「分かってるとは思うが、サクはまひるを安全におうちに帰すのが仕事だ。りっくんと美月を気にして捜し回ったりしないで、真っ直ぐ帰るんだぞ」


「まひるを武器にしやがったな」


 悔しいかな、こいつの言うとおりまひるを連れて余計に山を歩き回りたくない。最低限、一旦まひるを家に帰してから捜しに行くことになる。

 そうならないためにも、陸と日原さんがいなくならないように見張り続けて、暗殺者たちの妨害をするしかない。


「さあて……楽しい遠足にしような、サク」


 キルが悪魔のように笑った。



 小学校の裏山は、自宅から徒歩で二十分かからずに麓まで行ける。住宅の外れに取り残された形で存在している小さな山なので、遭難するような危険な山ではない。しかし歩道が狭くて、しかも地面がぬかるんでいて、昼間でも転びそうになる。今日の場合は暗くて足元が見えづらいので尚更だ。

 麓に辿り着き、わくわくと跳ねていたまひるの足取りがやや慎重になる。まひるに気を配る日原さんが寄り添い、その後ろを陸が見守る。その更に後ろを、俺とキルが追う構図になった。


「危ないからちゃんと前見て、足元も確認しながらゆっくり進もうな」


 声をかけると、陸が振り向いた。


「引率の先生、金平糖、食べてもいいですか」


「先生じゃねえ。金平糖は自由だけど、疲れてから食べた方がおいしい」


 冗談を言ってからかってくる陸をあしらい、緩い坂道を登る。この山に来るのも久しぶりだ。それこそ、小学校の遠足で来たのが最後だった。


 アスファルトで舗装された道は、普通車が一台やっと通れるくらいの狭さである。舗装されてはいるが、濡れた葉っぱが散らばっていて、踏んだら滑りそうである。

 左側には、落下防止の古びたガードレールが申し訳程度に立っている。錆び付いていてどうにも頼りない。そのガードレールより向こうには背の高い木々がびっしり並んで、急勾配の坂が葉っぱで埋め尽くされていた。それが灯りひとつない暗闇に飲み込まれていて、まるでブラックホールかのようななんとも不気味な闇を携えている。ここから落ちて道から外れたら、いくら小さな山でも流石に迷いそうだ。


 長い髪を括った日原さんの後ろ姿が、暗闇の中でまひるに話しかけている。


「夏の空にはね、夏の大三角っていうのがあってね」


「大三角?」


「そう。デネブとアルタイルとベガ。はくちょう座とわし座とこと座の星で、七夕の織姫の彦星の伝説はこの星にまつわる話なんだ」


 夜空を観察させる前に予備知識を学習させている。押し付けがましくなく、まひるが興味を持って聞くように話す。成績のいい彼女らしい行動だ。

 そんな彼女の背中を、キルが嘲笑する。


「せいぜい呑気にお喋りしてるがいいさ」


 俺にしか聞こえないくらいの声量で呟いてくるのだから質が悪い。

 キルはいつもと変わらない、犬に見立てた上着にショートパンツとサイハイソックスといった脚を守るでもない軽装だった。足元も、あまり山向きとは思えないブーティを履いている。登山に不向きな格好だが、暗殺者には関係ない。誰よりも軽やかに歩いている。


「死んだことに気づかないくらい、きれいに殺してやるぜ。りっくんも、我々の仲間になってもらう」


「そうはさせない。全員無事に帰宅させる」


 俺は精一杯キルを威嚇した。キルはニッと笑って斜面を蹴る。


「対抗心か? 残念ながらプロの暗殺者にサクが適うわけないだろう。ご愁傷様」


 キルの高慢な態度に腹が立つが、俺にはなにも言い返せなかった。

 ラルから聞いた話を思い出す。キルはこんなアホみたいな見た目をしているが、伝説の暗殺者、霧雨サニと名前を並べられるほどの逸材だと。そう思うと、本当に日原さんを気づかないうちに殺して、陸を取り込んでしまいそうで恐ろしい。


「キルが優秀な暗殺者なのは、ラルから聞いた。でも今は俺がキルの飼い主だ。ペットが悪さしないように躾するのが俺の立場なんだよね」


 半分自分に言い聞かせるように、もう半分はキルへの意地悪のつもりで言う。キルは余裕げにこちらを見上げた。


「ラルったらどんどん喋るんだもんな。まあ、暗殺に弊害が出ない程度に、器用に調整して喋ってるからいいけどね」


「どの程度喋ってるのか、知ってるんだな」


「盗聴してるからな」


「何度も言うようだけどやめて、マジで」


 ざり、ざりというアスファルトが擦れる足音が静かな山道に消えていく。この小さな山は、十数分も登れば山頂の広場に出る。


「盗聴してると、聞きたくもないのにサクの独り言まで入ってくるのな」


 キルが嫌な笑みを向けてくる。俺はカッとキルのフードを掴んだ。


「じゃあ盗聴すんな」


 しかし、掴んだつもりだった手は宙を掻いただけだった。来ると思ったキルは先に躱していたのだ。


「美月の弱点が炙り出せるかもしれないから、盗聴はやめないぜ」


 どこに逃げたかと思ったら、道の脇のガードレールに乗っていた。


「危ないから降りなさい」


 そんなやりとりをしていると、手前の方からまひるの悲鳴が聞こえた。


「怖い……」


「大丈夫だよ、まひるちゃん。ゆっくり行こうね」


 日原さんの穏やかな声の隙間から、微かに水音が聞こえる。少し先を覗き込むと、吊り橋が架かった沢が見えた。橋の前で怖気付くまひると、宥める日原さんの会話が静かな夜闇に響いている。


「ちょっと湿ってて危ないけど、手摺を握ってゆっくり歩けば怖くないよ。私、後ろにいるから大丈夫」


「りっくん揺らさない?」


「揺らさねえよ」


 陸の笑い声も加わる。キルがガードレールの上で腕を組んだ。


「星の観察が終わったら、帰りにこの辺でりっくんをひとりぼっちにする。サク、協力よろしく」


「絶対協力しない」


 俺はギロリとレールの上のキルを睨んだ。まひるがまだ怯えている。


「真っ暗だし、思ったより怖い」


「仕方ないな、俺が抱っこして行こうか?」


 陸が提案すると、まひるが陸にしがみついた。


「それなら怖くない!」


「陸くん気をつけてね、まひるちゃんを抱っこして吊り橋なんて、本当に危ないよ」


 日原さんがハラハラした声色で心配するも、陸は平気平気と笑っている。


「美月ちゃん、揺らすなよ」


「揺らさないよ!」


 そんな声を聞いて、キルがにやつく。


「美月が渡りはじめたら、事故を装って橋ごと落とすというのもアリだな」


「ろくでもないこと思いつくんじゃない」


 俺はまたキルのフードを掴もうとした。キルはサッとしゃがんで避けた。


「ふはは! 鈍い鈍い。そんなんじゃ美月ちゃん守れないぞ」


 腕を掴もうにも、キルはやはり俺の動作を予測してガードレールなんて足場の悪い場所で器用に躱す。その薄い板の上でこれだけ軽い身のこなしをするのだから、流石と言わざるを得ない。


「咲夜、先行ってるぞ」


 陸の声が飛んでくる。陸とまひるはもう吊り橋を渡りはじめたようだ。


「朝見くん、キルちゃん、行くよ」


 先に進んでいた日原さんが、俺たちを呼びに戻ってきた。俺はキルの手を取ろうと指を伸ばした。


「ほら、行くぞキル。遅れをとっ……」


 その瞬間だった。

 キルの足元が、つるっと滑った。先程までこの狭い足場で軽快に踊っていた彼女が、ガードレールの向こう側へ真っ逆さまに落ちていく。白いフードから覗く顔は、自分でもびっくりといったぽかん顔だった。


「ふあ?」


 俺と日原さんは真っ青になった。まさか、キルが足を踏み外すとは。


「キル!!」


 俺は咄嗟に、ガードレールに身を乗り出した。落ちるキルへと手を伸ばす。キルは細っこい腕をこちらに伸ばし、パシッと俺の指を握った。


「ふは……悪い悪い。ちょっと調子乗った」


 キルがへにゃっと笑った。俺はガードレールを腹にくい込ませたまま、深く安堵のため息をついた。よかった、このまま引っ張り上げれば助かる。キルの瞬発力が幸運に働いた。


「あっぶな……。そんなところでふざけてるからだぞ」


「サクがチョッカイ出すから」


 が、安心したのも束の間だった。

 俺の体重と、俺の腕にかかるキルの体重は、老朽化したガードレールには耐えられなかったのだ。錆び付いたガードレールが、メキリと嫌な音を立てる。


「えっ?」


 俺の呟きは悲鳴というより疑問符だった。前のめりになった体が、キルとガードレールもろとも斜面に倒れ込んでいく。

 面白いもので、一連の流れが全部スローモーションに感じる。それなのに考え事をする余裕はなくて、「落ちる」という感覚だけに体が支配されて思考なんて止まってしまう。


「いやっ……朝見くん」


 日原さんの高い悲鳴が聞こえた気がした。

 腰にぎゅっと、柔らかいものが触れた。日原さんの両腕が俺の体に巻きついてくる。落ちかけた俺を助けようとしてくれたのだろう。後ろから抱きしめられて、背中じゅうに日原さんの体温が滲む。

 だが、か弱い彼女がこの重力に適うはずもなく。結局、日原さんも俺にしがみついたまま、一緒に急斜面を転がり落ちた。


 *


「……くん、朝見くん」


 鈴の音のような澄んだ声で、目が覚めた。開いた目に真っ先に映ったのは、髪を肩から垂らして俺を見下ろす日原さんだった。彼女はくたっと力の抜けた笑みを零した。


「よかった、起きた……」


 俺は半端に湿った葉っぱの上に横たわっていた。日原さんは俺の横に膝をついて座っている。彼女の頬にも、泥が付いていた。


「ここは……?」


 俺は体を起こして、辺りを見渡した。周辺はニョキニョキと背が高い木々に囲まれている。林の中にぼろぼろに朽ちた納屋が一軒ある以外、あとは木しかなくて道すらなかった。日原さんも周囲を眺めた。


「舗装された道から外れちゃった。暗くて元の道が見えないけど、結構転がり落ちたと思う」


 斜面を見上げると、その上の方は闇に飲み込まれて全く見えなかった。

 キルの手を取って、日原さんを巻き込んで道路から落ちたことは覚えている。だが落ちている間の記憶が曖昧だ。多分、早い段階で気を失ったのだろう。


「日原さん、怪我はない?」


「うん。朝見くんがクッションになってくれた」


 彼女はひらっと両手を広げた。本当に無傷だ。そういえば日原さんはキルの攻撃も全て偶然躱すし、こういうときも運良く怪我をしない。彼女は神に愛されているのではないかとさえ思えてくる。


 逆にクッションにされた俺の方は、腕やら脚やら胴体やらがズキズキ痛んだ。とはいえ、幸い骨が折れたり木の枝が突き刺さったりの大怪我はなくて、せいぜい地面の葉っぱで擦れて擦り傷ができたのと打撲程度である。


「よかった……日原さんが怪我してないならよかった」


 はあ、と息をついてから、俺はハッと背筋を伸ばした。


「キル! そういえばキルがいない」


「そうなの。いつから手を離したのか分からないんだけど、どこかではぐれちゃったみたい」


 日原さんが眉を寄せた。

 もう一度周りを見渡して、キルを探した。だが暗くてよく見えない。日原さんが俺を覗き込む。


「でも近くにいるはず。捜しに行こう。朝見くん、歩ける?」


「歩ける。けどちょっと待って、陸に連絡しとこう」


 鞄からスマホを取り出す。画面が割れたりはしていない。明かりがつくと、暗闇の林の中でそこだけがぼうっと照らされた。陸に電話をかけようとして、画面右上の表示に気づく。


「うわ、圏外だ」


 住宅地からそんなに離れていない場所なのに、アンテナが立っていない。日原さんも自分のスマホを出した。


「ほんとだ。たまにあるんだよね、電波が入りにくいところ。困ったなあ」


 これでは連絡を取るのは諦めた方がよさそうだ。


「元の道に戻るのは難しいけど、逆に、下っていけばすぐ麓に出るよな。幸い地元の山だし、ちょっと歩けばすぐ知ってるところに戻れる。まひるは陸が見ててくれてるから大丈夫だし。キル捜しがてら、下山しようか」


 よいしょと腰を上げると、足首がズキッと痛んだ。少し肩を強ばらせたのが分かったのか、日原さんが俺の腕を掴んだ。


「やっぱりちょっと休もうか。電波もそのうち入るようになるかもしれないし、こういうとき、下手に動かない方がいいっていうじゃない」


「でも遭難したわけじゃないんだから、動いても大丈夫だろ。すぐ小学校の裏に出られるだろうし」


「だけど、迷ったら大変だよ。どこから落ちたか分かってるところで、助けを待った方がいいんじゃない? せめて、朝見くんの足の痛みが引くまではじっとしてよう」


 彼女の気遣いに、咄嗟に言葉が出なかった。こんな酷い目に遭わされて怒って当然なのに、そんな感情をおくびにも出さず俺を気遣っている。お嬢様なのに、泣いたり取り乱したりしない。冷静な彼女を見ていると、むしろ俺の方が焦ってきた。


 お嬢様で人気者の日原さんを暗い中に連れ出して、挙句林で迷った。怪我こそさせていないものの、彼女の家族に知られたら叱られるどころでは済まされない。学校からも注意されるだろうし、クラスでもなにを言われるか。


「ごめんな、こんなことになって」


 俺が謝ると、彼女は苦笑して首を振った。


「ううん、朝見くんは来ないでいいって言ったのに、私が勝手についてきたんだもん」


 電波が入ってこないかとスマホに視線を落とす。アンテナは立たない。

 連絡を諦めた矢先、突然画面が切り替わって、デタラメな英数字と記号の羅列が表示された。何事かと思ったが、そういえばこれはキルの通信機の番号である。驚いてスマホを滑り落としそうになりつつ、耳に当てた。


「キル! 今どこに……ていうか、電波届かないのにどうやって電話してきてるんだ!?」


「暗殺者の通信機は、携帯の基地局の電波で繋がってるわけじゃないから」


 キルの声は落ち着いていた。


「でも盗聴器は壊れたみたいだ。そっちのやりとりが聞こえない」


「そんなのはいいんだよ」


 俺はほっとして続けた。


「怪我してないか?」


「してないよ。受け身くらい取れる」


「どこにいる?」


「どこにいるって言われても、説明のしようがないな。なにせ周りが木しかない」


「なにしれっとしてんだよ! お前のせいで俺も道から落ちたんだぞ。少しくらい反省しろ」


 俺に叱られると、キルはムッと言い返してきた。


「助けてくれなんて頼んでないだろ。私は暗殺者だぞ? このくらいの傾斜の斜面なら自力で立て直せる」


「お前な! 日原さんにも謝れ! 俺とキルを助けようとして、一緒に巻き込まれたんだから」


 更にヒートアップした怒りをぶつける。しかし、キルはおおっとどよめいて声を弾ませた。


「美月死んだ!? よし、偶然とはいえ美月を巻き添えにできたんだな! ふはは! 任務完了だぜー!」


「死んでねえよ! 縁起でもないこと言うな。日原さんは無傷だ」


 隣できょとんとしている日原さんを横目に、電話口のキルに声を尖らせる。キルはつまらなそうに言った。


「なんだ。やっぱり殺しても殺せないだけはある。しぶといんだな」


 全く、どこまでもゲスな暗殺者である。しかし悔しいことに、キルのぬけぬけとした話し方を聞いていると焦りや不安がどうでもよくなってくる。お陰様で平常心を保てる。


「あーあ、作戦は失敗だな……。サクはまひると、りっくんはラルと、私は美月とという組み合わせになるはずだったのに。理想と全然違う組み合わせになっちゃったじゃねえか」


 ガッカリしているキルに腹が立つが、怒っても仕方ない。俺は声を落ち着かせた。


「キルの通信機は電波が通じるんだよな。生憎俺と日原さんのスマホは使えそうにない。俺の代わりに、陸に連絡取ってくれないか」


 出かける前、キルは陸を誘おうと連絡しようとしていた。こいつは陸の連絡先を知っている。


「りっくんにね。承知したぜ」


 キルはあっさり呑み、それからふふっと怪しく笑った。


「りっくんには連絡してやる。その代わり、サクは隣の女を殺しといてくれよ」


「へ!?」


 俺の口から出た大声は、あまり響かず静かな林の中に吸い込まれた。隣にいる日原さんを振り向いて、また電話に戻る。


「なに言ってんだよ。なんでそうなる?」


「『暗殺は堂々とは行わない』って説明しただろ。でも直接殺したのが私でなくサクであれば、私は捕まらない。サクは一旦はお縄になるだろうが、私が武器として使用したと組織に申請すれば、暗殺者が釈放されるのと同じ流れで無罪になる」


 淡々と語られたが、納得できる話ではない。


「罪にならなきゃいいわけじゃねえよ! 冗談でもやめろ」


「頼んだぜサク! りっくんへの連絡は任せときな」


 キルは勝手にまとめて、通信を切った。俺は電話を耳にくっつけたまましばらく言葉を失っていた。ちらりと隣の日原さんに目をやる。キルの声が届いていない彼女は、大きな目をぱちくりさせて座りこんでいる。

 キルの奴、俺が日原さんを殺すわけないだろう。俺があいつの武器になるだと? お前が俺のペットなんじゃないのかよ。ペットが飼い主を武器にするだとか、なんかもう訳が分からない。


「キルちゃん、電話通じるんだね。無事だったならよかった」


 日原さんが不思議そうに言った。キルと俺の対話の内容など露知らず、連絡がついたと素直に喜んでいる。


「キルには電波が入ってるみたい。陸にも連絡してくれるって」


「そっか。じゃあ安心してゆっくり助けを待とう」


 日原さんはへにゃっと微笑んだ。暗くてよく見えないけれど、かわいいのだけは分かる。

 日原さんは俺の怪我を気にしているようで、歩かせたがらない。大した怪我でもないのに、こんなに気にかける。俺は地面に突いていた手を浮かせた。目の前に持ってくると、湿った土がパラパラと膝に零れた。


「ここジメジメしてるし、あの納屋の中に入ろっか」


 俺はすぐ側の朽ちた納屋を指差す。


「この山、クマやらイノシシやらいるんだよ。身を隠せる建物が近くにあってラッキーだった」


 よいしょと立ち上がって、納屋に向かう。足が覚束なくて、少しよろめいた。日原さんがサッと俺の腕を掴む。細い指が絡みついて、柔らかい指の腹の感触にそわっとした。

 納屋は外壁に苔が生えて、腐った木でできた扉が開け放たれていた。中に入り、暗い内部を見渡す。薪が積んであって、古びた鎌なんかの農具が立てかけてある。壁や床に縄が丸めて置かれて、木のカスが散乱して、お世辞にも片付いているとは言えない。持ち主から放置されて、もうなに年も経っているようだった。

 日原さんが、薪を背にして座り込む。俺も隣で体を休めた。


 ふと、こんな人が来ない山の打ち捨てられた納屋の中で、この少女をふたりきりになってしまった現状に気づく。成り行きとはいえ、日原さんも怯えているに違いない。

 かと思いきや、彼女は無邪気に上空を指差した。


「見て見て、朝見くん! 天井が抜けてる! すごいよ、プラネタリウムみたい!」


 彼女の指先を辿ると、たしかに丸く穴の空いた天井から無数の星が見えた。満月がこちらを見下ろしている。コンパスで描いて、切り取って貼り付けたみたいな月だ。


「こんなの、私の部屋にいたら見てなかった。やっぱり来てよかった」


 日原さんは瞳をきらきらさせて、天井の穴を見上げていた。なんてポジティブなのだろう。こういう性格だから人に愛されるし、運を寄せ付けるのだろう。だからキルの攻撃をものともしないのだろう。そんな気さえしてくる。


「日原さん、不安じゃないのか?」


 尋ねると、日原さんは上を見たままこたえた。


「ちょっとはね。せめてお母さんに言ってから出かけてくれば、帰りが遅いのを心配して捜してくれるかもしれないのに、言ってこなかった。それは後悔してる」


 それから彼女は、星空からこちらに視線を動かした。


「でも朝見くんいるし、大丈夫かなって!」


 暗い中で向けられた眩しい笑顔に、つい目が泳いだ。頼られると嬉しくなるのは、さだめみたいなものなのだ。


「咲夜くん」


 突然、下の名前で呼ばれてドキッとした。声が詰まって無言で振り向くと、彼女はまた夜空を見上げていた。


「で、私が美月。夜と、月」


 きらきらした彼女の瞳に星の光が宿って、更に輝きを増している。


「そんなふたりが一緒に星空見てるって、なんかこう、いいよね」


 ちらり、日原さんの視線がこちらを向いた。


「不謹慎かもしれないけど、不安なのより、楽しい気持ちの方がずっと勝ってる。キャンプに来たみたいな気分」


 日原さんはまた、空に目線を戻した。

 こんなに距離を縮める前から、彼女が才色兼備であることは知っていた。だが紆余曲折あってこうして傍にいられるようになると、尚更彼女のすごさが分かってくる。愛される理由が、手に取るように分かるのだ。


 日原さんの横顔にぼうっと目を奪われていると、ポケットに閉まっていたスマホがパッと明るくなった。ハッと我に返る。バイブレーションで小刻みに震えるそれを取ると、画面がキルからの着信を知らせていた。


「キル。陸には連絡ついたか?」


 応答するなり尋ねる。電話の向こうからキルの声が流れてきた。


「もちろん。連絡したよ。そっちは? 美月は殺せたか?」


「するわけねえだろ」


「なにっ!? 交換条件だったはずだぞ」


 一方的に約束を取り付けておいて、この言い草である。


「素手で殺れなきゃ転がってる木の棒でもいい。どうとでもなるだろ?」


 キルの言葉を受けて、つい周囲を見た。立てかけられた農具の刃先、首を絞めるのによさそうな縄。考えたくないのに、殺す方法をなに通りも思いついた。


「できないんじゃなくて、やらないんだよ」


 くだらない発想を振り払うようにキルを突き放した。キルがチッと舌打ちする。


「せめて盗聴ができればな……周りの様子判断して、サクを操作するんだが」


「壊れてよかった。それより、陸はなんて?」


 重要な方向に話を戻す。キルはああ、と切り出した。


「安心してよし。ちゃんと動いてもらったよ」


 よかった。来てくれると思ってよさそうだ。しかし、安心した俺を見事に裏切るようにキルは続けた。


「当初の作戦では、星を観察したらサクがまひるを家まで安全に送るはずだったけどね。星はりっくんとまひるのふたりで観察してもらって、りっくんがまひるを送ってくれるよ」


「……うん、で、その後は……」


「後? もう帰ってもらうけど?」


 キルがさらっと言ってのけた。


「因みに、まひるをりっくんに送らせるためには、ラルを召喚してる場合じゃないからな。ラルは私と合流した」


「で、俺と日原さんは?」


「りっくんには、『サクと美月は先に帰った』って伝えといた」


 あまりの仕打ちに、倒れそうになった。


「なんで!? なんでそういう嘘つく!?」


 勢い余って大声を出すと、キルはわざとらしくしゅんとした返事をした。


「だってりっくんが来ちゃったら、サクが美月を殺しづらいかと思って……。私なりの気遣いだったんだが」


「気遣いじゃねえだろ、絶対嫌がらせだろ!」


「てへへっ。ふたりっきりにしてやったんだから、絶対殺しとけよ」


 キルはきゃるんきゃるんなかわいい声で俺を煽るだけ煽って通信を切った。


「バカやろっ……キル、おいキル! 切りやがった! あのチビ! 本当に性格悪い! 日原さんと対極にいる!」


 電話に向かって悪態をつく。見ていた日原さんがくすっと笑った。


「朝見くんがキルちゃんに怒ってるの、なんか面白い」


「え? そう?」


 振り向くと彼女は、更にくすくすと堪えるような笑い声を零した。


「勝手に大人しそうなイメージ持ってたから、意外な言葉遣いするなあって」


「あっ……失礼しました」


 我ながら、最近荒んでいるとは思う。陸からも「度が過ぎる善良」とまで言われていた自分が、少しずつ柄が悪くなってきている。

 間違いなくキルのせいだ。あいつの喋り方が移った。そしてあいつの思考回路を先読みしようとするせいで、不穏な考えが浮かぶようになった。

 反省している俺に、日原さんが首を振る。


「ううん。そういうところが知れるの、嬉しい」


 それから彼女はまた、月を見上げた。


「今まで、こんなに話せなかったから。席が隣なのに全然関わらなくて……だから、今こうして友達になれたの、すごく嬉しいんだよ。話す度に、新しい部分が見えるの」


 不思議な感覚だった。俺も、日原さんとこんなに話すようになるとは思っていなかった。そう感じていたのは俺だけではなくて、日原さんの方も同じだったとは。


「そういえば朝見くん、頬に怪我してるよね? 話し方だけじゃなくて、案外やんちゃしてるんでしょ」


 頬に貼り付けた絆創膏のことだ。古賀先生とキルの闘争に巻き込まれたときの傷である。


「いや、これはキルとじゃれててやられた傷だよ」


 あながち嘘ではない返答をする。日原さんは訝しげに首を傾げた。


「本当に? 誰かと喧嘩したんじゃないんだね?」


「うん。ほら、あいつがうちに仕掛けてた罠、見ただろ? あの次元でいたずらするから……」


 これも一応、嘘ではない。日原さんはしばらく心配そうに絆創膏をじっと見つめていた。熱い視線にドキドキして、つい目を逸らす。日原さんはようやく、納得してくれた。


「そっか、気をつけてね」


 本当に気をつけるべきなのは、命を狙われている日原さんなのに。キルの代わりに、俺が罪悪感を覚える。


「それで、キルちゃん電話でなにを言ってたの?」


 日原さんが興味津々に聞いてくる。俺に日原さんを殺せと指示を出してきただなんて、言える空気ではない。


「うーん、無事だから心配すんなってさ」


「えー、絶対それだけじゃなかったよね。なんか茶化されてなかった?」


 通話中の俺の返しを聞いていたのだ、そんな短いやりとりではなかったことくらい日原さんにも分かってしまう。

 だがここで、キルに君を殺すよう言われただなんて話したら、きっと不安にさせてしまう。


「なんでもないって……」


 折角不安はないと言ってくれているのだ。ここでまさか殺意を仄めかすようなことは言えない。そもそも俺に殺意はないのだから、余計な誤解を招くようなことは言いたくない。


「んー、そっか」


 日原さんも、それ以上聞いてはこなかった。秘密にされたのがつまらなかったのか、少し下を向いている。長い髪で横顔が影になって、表情はよく見えなかった。


「それとさ、キルが陸に事態を上手く伝えられなかったみたいで、陸はまひるをうちに帰してそのまま帰宅するらしいんだよ」


 通話の内容を思い出して、日原さんに振った。


「というわけで、助けが来ない。自力で帰ろう。幸い俺の怪我はただの打撲だし、歩けないほどじゃない」


「そう? でも朝見くんって、本当は折れてても口ではそう言いそうだよ」


 日原さんが少し、眉を寄せる。


「朝見くんは、そういうとこある。すぐ我慢する。周りの人が『力になりたい』って思ってても、相談してくれないで、ひとりで抱え込もうとする」


 う、と俺は言葉を呑んだ。そんなようなことを、ばあちゃんからも言われた。


「絆創膏のこともそう。キルちゃんとの電話の内容もそう。ちょっと前の、アイスの割引券の話も、なんか様子がおかしかった。なにか私に隠してるの、バレバレだよ」


 日原さんの鋭い発言に、俺はギクッと肩を強ばらせた。やはり濁していたのはばれてしまったか。


「そんな、隠してるなんてほどじゃ……」


「私は朝見くんを、もっと知りたいって思ってる」


 日原さんがぎゅっと、自身の膝を抱いた。


「でも朝見くんは、全然目を見て話してくれない。全部話せとは言わないけど……信用ないのかなって、不安になるよ」


「え……」


 そんな、日原さんを不安にさせないためにぼかしていたのに。日原さんはまた声のトーンを柔らかくして、目を伏せた。


「なんて、ごめんね。私が一方的に友達だと思ってたから、そんな風に思ったんだけど。押し付けだったね」


 溝が広がった気がする。俺は慌てて弁解した。


「そんなことない。俺だって仲良くなれたんなら嬉しい。けど、その、上手く言えないだけで隠し事ではないんだよ」


 大体、俺はちゃんと日原さんに、キルが暗殺者であると話したはずだ。


「俺が本当のこと言っても聞いてくれなかったのはそっちじゃんか……」


 話したのに、冗談だと思って聞き入れてくれなかったのだ。日原さんが膝に頬をくっつけて、こちらを向いた。


「え? 私、そんなことした?」


「あ、いや、責めてるんじゃなくて……」


「そうなんだ……傷つけてたのは私の方だったんだね。ごめん」


「ううん……こっちこそ変なこと言ってごめん」


 お互いにぽつぽつ謝って、それからしばらく沈黙が流れた。俺は静かに板の床を見つめていたが、胸の中は焦りで荒れていた。

 この気まずい雰囲気。ふたりだけの状況でこの空気は耐えられるものではない。一刻も早く、逃げ出したかった。


「とにかく……ここを出ようか。キルに連絡しても、誰も助けを呼んでくれそうにないから。俺の怪我は心配しなくていい」


「……うん」


 日原さんも気まずさを感じていたのだろう。もう突っかかってはこないで、こくんと頷いた。

 こんな怖い目を遭わせた上に、会話もいまいち弾まず、結果的に不快な思いをさせてしまった。

 少しズキズキする足を耐えて、ゆっくり立ち上がる。日原さんはそれでもまだ粘るように座っていた。


「日原さん。行こう?」


「うん……」


 頷いてはいるけれど、立ちたくなさそうに下を向く。俺が黙って横に立っていると、彼女はやがて観念したかのように重そうに立ち上がった。長い睫毛が大きな瞳に影を落とす。なにか言いたげに、というよりは、俺になにか言ってほしい、そんな反抗に感じた。

 あまりの気まずさに、俺は場を繋ごうと当たり障りのない話をしようとした。


「斜面を下っていけば人里に出……」


 言い終わる前だった。ガサッと、外から気味の悪い物音が聞こえた。

 日原さんが伏せていた目を大きくする。俺も、肩を強ばらせた。

 ガサガサ。草を分けるような音が、また聞こえた。緊張が走る。


「え……なんか来る」


 日原さんの不安げな声が、納屋の闇に沈む。ガサガサという掠れる音は、少しずつ近づいてきている。

 野生動物、と、咄嗟に予測した。この山にはクマ、イノシシが出る。そんな話をしたことを思い出し、ちらりとまた日原さんに目をやった。ポジティブな日原さんでも、流石に笑顔が消えている。

 いつでも微笑みを絶やさない日原さんが、石膏像のような無表情で凍りついていた。彼女のこんな顔を見たのは初めてで、俺は言葉をなくした。同時に、もう絶対に見たくない表情だと、なにがなんでも元に戻したいと、訳の分からない使命感に駆り立てられた。


「日原さん、やっぱりちょっと、まだ座ってて」


 潜めた声だけを彼女に残し、俺はサッと周りを見渡した。錆びた刃の農具、縄。キルとの電話の中で意識した、危険なものが並ぶ。その中で俺は、壁際に寝かされていた薪を選び、一本手に取った。自身の腕ほどの長さの、乾いた木の棒だ。

 瞬間的な判断だった。刃物で傷を負わせずに追い払うのなら、これがいい。これなら重さがそれほどなくて、リーチが長い。

 なにかを悟った日原さんが、俺の袖を引っ張る。


「ま、待って。朝見くん、危ないよ」


「しっ。静かに」


 俺は彼女を制して、引っ張る指をそっと手で払った。


「大丈夫だから。追い払うだけ」


 ガサガサ、と、また外から音がした。


「ここで息を潜めてれば、そのうちいなくなるよ……!」


「逆に、ここに入ってこられたら逃げ場がない。俺が引きつけてる間に、日原さんは逃げて」


「危ないってば……怪我してるのに……!」


 泣きそうな声で訴えてくる日原さんを、俺は振り返りもしなかった。

 キルが現れた頃から、ずっと決めていた。

 日原さんが暗殺者に暗殺されないよう、守るしかないと。なにがあってもこの人だけは死なせないと、勝手に自分の中で誓っていた。

 薪をぎゅっと握って、腐った木の戸を突いて開ける。躊躇はなかった。


「朝見くんやめて……!」


 日原さんの悲痛な声は、消え入りそうなくらい掠れていた。それでも俺は彼女に背を向けて、納屋を飛び出した。覚悟を決めたような自覚もない。ただ、なにが来ても、絶対に日原さんには近づかせない。その意識だけが、頭の中を支配していた。

 ガサッと、草むらが揺れたのが見える。俺はそちらを見据えて身構えた。

 そして俺はついに、音の正体と対峙した。ガサガサと草むらを掻き分けて現れたそれを見て、絶句した。


 足元を擦る程度のサイズの、小さな灰色がかった茶色い毛玉。大きな尻尾を携えて、三角の耳を上向きに立てている。ふっくら膨れた頬をして、つぶらな瞳でこちらを見上げている。


「……リス」


「リス?」


 納屋に隠れていた日原さんも、ひょこっと顔を出した。

 目の前に現れた野生のリスは、絶妙な距離を取ってこちらの様子を窺っている。その愛くるしい姿を見て日原さんが無邪気に目を輝かせた。


「ほんとだ! かわいい!」


 俺はその手のひらサイズの小動物を前に、しばらく硬直していた。

 無意識に張り詰めていた緊張の行き場がなくなった。とりあえず、握っていた薪を納屋の外壁に立てかける。カランという乾いた音でリスは我に返り、傍の木の幹をスルスル上っていった。


「よかった……」


 声に出して言ってみたら、緊張の糸がふっと緩んだ。獰猛な猛獣かと思ったが、正体はこんな小さなリスだったのか。日原さんも安心して頬を緩めている。本当によかった。

 と、そこへ遠くから甲高い声が響いてきた。


「こっちこっち! リスさん、こっちの木に飛び移ったよ!」


「こらこらまひる。危ないから走るな」


 楽しそうな歓声を追いかけるのは、聞き慣れた陸の声だった。


「まひる? 陸も?」


 俺は周囲に耳を澄ませた。先に帰るとは聞いていたが、まだ山にいたようだ。日原さんがぱあっと顔を明るくした。


「まひるちゃんも陸くんもいるみたい! よかった。やっぱりキルちゃんが呼んでくれてたんだよ」


 いや……リスにいざなわれているだけだと思う。でも折角日原さんが喜んでいるので、口にはしなかった。

 リスが去った後になって、まひると陸が姿を表した。


「リスさん見失っちゃった。りっくんにも見てほしかったのに」


「見たかったなー。まあ、また来ようぜ」


 それから陸は、あっと俺たちに気がついた。


「あれ? 咲夜と美月ちゃん。帰ったんじゃなかったのか?」


「お兄ちゃーん! まひるね、リスさん見つけたんだよー!」


 なにも理解していないまひるがキャッキャと歓声を上げる。

 俺は脱力で崩れそうになった。遠くから家に戻ってこれたみたいな、倒れそうな安心感だ。

 陸が日原さんに歩み寄る。


「美月ちゃん、咲夜に変なことされてないか!?」


「なにそれえ。それより朝見くんが怪我してるから支えてあげて」


 日原さんが俺を気遣う。まひるがなおも楽しそうに、日原さんにノートを広げてみせた。


「見て見て、こんなに星座見つけたの! 美月お姉ちゃんに教えてもらった星も見つけたよ」


「わあ、すごいね、まひるちゃん!」


「でも美月お姉ちゃんと一緒に見たかったなあ。お兄ちゃんが美月お姉ちゃんを独り占めしちゃうから、まひるはりっくんを独り占めした」


「いいねえ、仲良しねえ。帰りは私がまひるちゃんを独り占めしちゃおう」


 日原さんがふふふっと微笑んでまひるの頭を撫でる。なんて平和な構図だろうか。陸が斜面の葉っぱを軽く足で擦った。


「この斜面を下っていけば、そのうち麓まで下りられるな。獣道で危ないから気をつけろよ」


「うん。帰ろうか」


 日原さんが頷く。まだまだ元気が有り余っているまひるは楽しそうに歩き出し、陸が支えるように後ろをついていく。日原さんが、俺を振り向いた。


「朝見くん……あの、これ」


 少したどたどしく呟くように言い、こちらに歩み寄ってくる。


「陸くんに貰ったんだけど……よかったら」


 日原さんが差し出してきた手のひらには、十個くらいで包装されたカラフルな金平糖が乗っていた。


「もう一袋貰ってるから、これは朝見くんにあげる」


「ありがとう。陸、あいつ……俺にはくれなかったのに」


 苦笑いすると、日原さんも笑ってフォローした。


「山頂で渡すつもりだったんじゃない? 登山で疲れてるときに食べる金平糖って、おいしいよね」


 日原さんがにこりと微笑む。手渡された金平糖を、俺は自分の手の中に収めた。日原さんは俺を横目に眺め、それから小さく息をついた。


「それにしても、さっきの、リスでよかったよ。朝見くんてば、戦おうとするんだもん。驚いたよ」


「えっ……ああ……」


 危険な動物だと思い込んでリス相手に神経を尖らせた、あの瞬間を思い出す。真面目に対峙した分、糠に釘な結果は恥ずかしいだけだった。今すぐ忘れてほしいのに、日原さんは可笑しそうに思い起こしている。


「大人しいイメージ持ってたのに、またまたギャップのある姿を見ちゃった」


「盛大に空振って恥ずかしいから、それ、もう今日限りで忘れて」


 あんなの、キルに見られていたら指をさして笑われたことだろう。日原さんはまだ俯いていた。


「空振りは空振りだけど、でも、守ろうとしてくれた気持ちは嬉しかった」


 言い残すと、日原さんは逃げるようにまひると陸を追いかけていった。俺もなにか返事をしようとしたが、日原さんはまひるに話しかけはじめて、もうこちらを向いてくれなくなった。

 林を歩き出す三人の背を、俺は一歩遅れて納屋の前から眺めていた。陸が振り向いて、声を投げてきた。


「咲夜、行くぞ。怪我してるって聞いたけど、お前なら平気だろ。それとも肩貸した方がいい?」


「大丈夫。普通に歩けるから」


誘いを断ると、陸はそう、と笑って先に進んだ。俺も前を行く三人を追いかけようとした、そのときだった。


「ったく……またタイミング逃したな」


 上空から声が降ってきた。ぎょっと振り向くと、納屋の屋根の上から脚がぶら下がっていた。


「リス追いかけるまひるを見つけたから、チャンスだと思ったんだけどなあ」


「だって陸ちゃん、足速いんだもの。引き止める隙なんかなかったわ」


 屋根の上にいたのは、ふたりの暗殺者たち。

 白い犬耳のフードと桃色がかったブロンドの髪が、月明かりに照らされてぼうっと浮かんで見えた。


「いたのか。キル、ラル」


「この機会をみすみす逃して帰るわけないだろ? 作戦を急遽変更して、別の方向性で攻めるに決まってんじゃんな」


 キルがこちらを見下ろしている。フードで影になった顔は、眠たそうでつまらなそうだった。


「その二次作戦も失敗しちゃったけどね」


 ラルも残念そうに苦笑いしていた。


「おい咲夜! 静かだと思ったらついてきてねえのかよ!」


 前方から陸の呼び声が飛んできて、俺は慌てて返事をした。


「ごめん、すぐ行く! 先に行ってて」


 言うと、陸は「はいよ」と雑な返しをして歩いていった。陸の背中が遠くなっていく。俺は屋根の上の怪しい暗殺者たちに向き直った。


「……で、二次作戦とは?」


「多分、お察しのとおりよ」


 ラルが腿に頬杖をつく。山の中だろうがなんだろうが、タイトなミニスカートとハイヒールを履いていた。


「リスを追うまひるちゃんを、キルが保護。まひるちゃんを見失ってひとりになる陸ちゃんに、私が近づく。美月ちゃんは、咲夜くんが殺しておく。これで万事解決のはずだったの」


 ラルが長い脚を組む。高いところにいるせいで、スカートの中が見えそうである。


「ラル、そんな格好で山を歩くのは危ないぞ。怪我する」


 良心から注意すると、ラルはぞわっと顔を顰めた。


「大きなお世話じゃけ! 偽善振りかざすのやめろち言うちょるっちゃ!」


 忘れていたが、ラルは親切にされるのが嫌いなのだった。キルが隣のラルにちらりと目線を向けた。


「こいつ山育ちの田舎モンだから、どんな格好でも野山を飛び回るぞ。カモシカとともに生きてきたからな」


「キル! 余計なことんくっちゃべるじゃなか!」


 くわっと怒るラルを、キルはあしらった。


「そんな野生児ラルの追跡をものともせず、りっくんはまひるにばかり集中してたんだよ。ラルが多少声をかけても気づかないのな」


「陸は一旦集中すれば周りが見えなくなるタイプだからな。だいたい、預けられた小学生から目を離すわけねえだろ」


 計算ミスしている暗殺者たちに蔑みの目を向ける。キルはまあね、と開き直った。


「サクがちゃんと美月を殺せるわけもないしな。これで言いつけどおり殺せたら、褒めてやってもよかったんだけど」


 キルが物理的に高いところから上から目線の台詞を吐く。隣のラルは、コホンと咳払いしていつもの調子に戻った。


「私としては、殺さなくていいからなにかひとつ面白い展開を起こしてほしかったわ」


「面白い展開?」


 聞き返すと、ラルはニヤッと口角を上げて噛み砕いた。


「かーわいい女の子とふたりっきり、なにもしないなんて、つまらない男ね」


「なっ……またそんなことを」


 ラルのふしだらな発想に顔が熱くなる。

 もちろん俺だって意識しなかったわけではない。でも不安なのを堪えているであろう日原さんを、余計に驚かすような真似はしない。


「お前と違ってそんなに軽はずみに生きてないんだよ!」


「うふふ。動揺しちゃってかわいい」


 ラルは組んでいた脚をひらりを解いて、軽やかに納屋の屋根から飛び降りた。

 そっちこそさっきまで動揺で方言丸出しになっていたくせに。と思ったが、口論してもどうせ言い負かされるとも思ったので、言わないでおいた。


「私、美月と一緒に帰るのごめんだから、ひとりで帰るわね」


 ラルが慣れた足取りで獣道を去っていく。陸たちが向かう方とは別の方向へ消えていった。キルが屋根の上から彼女に手を振った。


「わりーなラル。これから別の仕事なのに付き合わせて」


 そういえばラルは夜の仕事をしているのだと、キルから聞いていた。いろいろと壮絶な人生の人だ。ラルの後ろ姿を見送り、俺はまたキルを見上げた。


「行こう。置いてかれてる」


「そうだな。帰ろ帰ろ」


 キルもタンッと納屋の屋根から降りてきた。葉っぱの地面に下り立つと、トテトテ歩いてきて俺の隣まで来た。本当のペットみたいに寄り添ってくるキルを横目に、俺は握っていた手のひらを開いた。

 手の中には日原さんから貰った金平糖がある。疲れているときの金平糖は、とびきり甘い。

 納屋での日原さんと会話を思い出す。一瞬気まずくなったあのままにしておきたくなくて、日原さんは、これをくれたのかもしれない。


「疲れたな。しんどい」


 呟くと、キルが呆れ顔を向けてきた。


「軟弱だな。山頂まで登りきったわけでもないくせに」


 俺は金平糖の包装を破いて、彼女に差し出した。


「食べる?」


「食べる」


 食べ物はしっかり戴くのがキルの流儀である。キルが数粒取った後、俺も手のひらにざざっと三粒ほど取り出した。白と桃色と緑色、カラフルな星屑たち。口に放り込むと、骨の髄まで染み渡るような甘さが体を癒してくれた。


 少し痛む足をのそのそ動かして、斜面を進む。キルもちょこちょことついてきた。上を向くと、林の巨大な木々の隙間から星空が欠けて見えた。街の中だと見られないほどのたくさんの細かい星々が、ちらちらと閃いている。


「作戦は失敗。美月暗殺もりっくん取り込みも、星空ピクニックも叶わなかった。結果、達成できたのはまひるの宿題を無事に終わらせるという当初の目的だけ」


 キルが口の中に金平糖を含んで言った。俺も甘い甘い金平糖を舌の上で転がした。


「残念でした。計画も機転の利かせ方もよかったけど、運が悪かったな。これもガードレールで遊んでたキルが招いた事態だ」


 からかってやると、キルはふんといじけた。


「私としては、面白いもん見せてもらえたからいいもんね」


「面白いもの? なに?」


「リス相手に本気で立ち向かうサク」


 また蒸し返されて、金平糖を吹きそうになった。


「見てたのか!」


「気持ちのいいほどの空振りだった」


「やめろ!」


 指をさして笑われる、かと思ったが、キルは意外にも真面目な顔をしていた。


「あのときお前、薪持ってたな。あれは自分で選んだのか?」


「え、うん。そうだけど」


 こたえると、キルはふうんと鼻を鳴らした。


「武器を持って出てきたくらいだから、デカイ動物を想像してたんだろ。その割に表情に迷いがなかったな」


 キルがフードで半分隠れた顔を、こちらに傾ける。


「一切の動揺も感じられなかった。お前あのとき、少しでもびびったか?」


「そりゃあ、びびっ……」


 こたえかけて、途中で止まった。恐怖心はあったか? いや、日原さんになにかあってはいけないという気持ちだけだった。心臓がドキドキするでもなく、ただ落ち着いて、相手を追い払おうとしか考えていなかった。


「ミッションをかせられたら、その達成に集中できる。自分を捨ててでも食い下がる……」


 キルがふっと笑った。


「やっぱりさ、サクは案外、暗殺者向いてるかもよ」


 思わずゴリッと、金平糖を噛み砕いた。

 キルと暮らすようになってから、話し方が似てきた。思考を先読みするために、考え方も近くなってきた。それは自覚があったけれど。


「……動作まで似通ってきたのか……!?」


 ペットと飼い主は似るというけれど、こんなことってあるのか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る