8.オアシスは蜃気楼かもしれない。

 まひるが宿題をサボってリビングに下りてきたのは、とある水曜日の夕方のことだった。

 ソファに寝転ぶキルの横に腰を下ろし、テレビのリモコンを握る。


「まひる。宿題は終わったのか」


 声をかけると、まひるはちらとこちらを向いた。


「うーん、後で」


「テレビは宿題終わってからにしなさい」


 別段観たい番組があるわけでもないのに、暇潰しにテレビをつけるのがまひるの悪い癖だ。宿題が残っているから暇ではないはずのくせに、やる気が出ないとこうやって後回しにしてだらける。


「やりたくないー」


「やりたくない、じゃない」


 言ってもまだ渋っているまひるに、キルが寝転がったまま声を投げた。


「口うるさいお兄ちゃんだなあ。平気だよ、まひる。宿題なんか忘れちゃいな。死にゃしないさ」


 リビングのソファでゴロゴロする姿は、暗殺者には到底見えない。特に背中を向けているときなんか、寛いでいるペットの犬そのものだ。


「おいキル、悪魔の囁きやめろ」


 まひるがやる気を出してくれないのは、お兄ちゃんとしては心配になる。まだ小さいうちから怠惰を覚えてしまうと、最終的にはろくでもない面倒くさがりができあがってしまう気がする。

 こういうとき効果的な呪文がある。


「まひる、今度のテストで百点取ったら、夏休みにどっか連れてってあげよう」


「ほんと!? やったあ!」


 まひるがぱっと顔を上げた。


「じゃあ勉強しなくちゃ。宿題やってこよー!」


 単純なまひるは、簡単にこの呪文でやる気を出した。ぱたぱたとスリッパを鳴らしてリビングを出て、軽い足音に乗せて自室へと戻っていった。俺はリビングに残っていたキルに語りかけた。


「これ常套手段なんだけどな。あいつ、頑張るんだけど百点は取れないんだよ」


 百点を取ったらケーキを買ってやるとか、夕飯をまひるの好きなおかず三種盛りにしてやるとか、報酬を変えて何度も使っている。達成した確率は一割程度。


「できなかったらお預けなのか?」


 キルがこちらに顔を向ける。俺はまひるが出ていった扉の方を眺めていた。


「報酬に届かなくても、努力賞は与えてる。ケーキじゃなくてもうちょい安いお菓子にしたり、三種盛りを二種盛りにするとか。努力したのに報われないと、余計に『もうやりたくない』って思っちゃうかもしれないから」


 それからキルの三角耳を一瞥した。


「もしかしてこれ、甘やかしてるかな」


「甘やかしてるね」


 キルはバッサリ言ってのけた。


「私たち殺し屋は、殺し損ねた時点で報酬はない。むしろ、仕事が大きければ自らの命をもって償うというケースすら起こりうる。どんなに努力していようと関係ない。しくじったら最後」


 大きな瞳がキリッと仕事人の目つきになる。


「そういう案件の場合は、ターゲットを狙っていたとばれただけでもクライアントや二番手の殺し屋の不利益になる。うっかりターゲットに捕えられてクライアントについて拷問でもされようものなら、舌を噛んで死ぬぜ」


「すまん、その次元の話はしてない」


 俺は宿題をやりたがらない小学生の話をしているのだ。キルはくすっと頬を綻ばせた。


「ま、いいんじゃないの。まひるかわいいし、甘やかしたくもなるよ。サクはシスコンだもんな」


「違う。妹を育てる責任を負っているだけだ」


「にしても、夏休みにどっか行く……か。わくわくしちゃうねえ」


 キルの笑顔はいつの間にか、柔らかな微笑みから死神の笑みに変わっていた。なにか企んでいるようだ。


「例えば、美月が旅行に行くとする。旅先で無防備になっているところを毒で殺す。或いは友達と河原でバーベキューをはじめたとする。橋の影にでも潜めば狙い放題……あいつが野外でレジャーに興じていれば隙だらけだ」


 余計なことに気がついてしまったようだ。俺は眉間に深い皺を作った。

 日原さんを死なせたくはないが、夏休みに自由に外出する日原さんにどこまでもついていけはしない。せいぜい俺にできるのは、キルが勝手に日原さんに近寄らないように見張っているくらいだ。

 折角の長期休暇だけれど、今年の夏は例年のようにのんびりはできなそうだ。


「夏休みに入ったらこっちのもんだぜ!」


「夏休みまであと一ヶ月近くあるぞ。お前、早く仕留めないとって焦ってたんじゃなかったの?」


 楽しげなキルに冷たく返す。キルはむっと眉を寄せた。


「もちろん急いではいるよ。でも仕方ないだろ、あらゆる作戦が上手くいかないんだから。今は地道に情報収集を重ねてるんだよ」


 陸を誑かして利用する作戦は、なんだか上手くいかなくて有耶無耶になっているらしい。ラルも陸が思いどおりにならないのが面白くないらしく、だんだん戦意喪失してきている。お陰で計画が滞っているのだ。

 キルが単体で日原さんに特攻しても躱されて、ラルも日原さんに近づくのを拒否し、陸を利用するのにも失敗しそう。今のところ、キルも打つ手がないようだ。


「遅れを取ってるのは承知だよ。あの手この手と手を尽くしても全部効かない美月が、それだけすげえデカイ相手なの。つまりこっちはその分慎重になるし、失速するんだよ」


 やる気なさげにごろつきながら、本気で膠着しているのか言い訳なのか、微妙な呟きを洩らしている。


「サクがもっと協力的だったら、今日にでも殺せるんだ。例えば今から呼び出して、どこかに隔離するとかさ」


「絶対協力しないから。むしろ邪魔するから」


 これだけは言い切れる。キルはやれやれと肩を竦めた。


「言ってろ。お前にその気がなくても利用してやる」


 それからキルの白い背中が、はあ、とため息をつく。


「しかし困ったな……あんまり遅いとミスターに呆れられちゃうよ。ミスターに見捨てられるのだけは嫌だよ」


 度々キルが口にする、謎の人物「ミスター右崎」。他人を蔑ろにするのが得意なキルがこれほど心酔するのだから、余程魅力的な人なのだろう。


「ミスター右崎ってどんな人なの」


 なにげなく聞いてみると、キルが突然、ソファからむくっと起き上がった。


「私を暗殺者に育ててくれた恩人だ。超かっこいいぞ」


 ひとりの普通の少女を暗殺者にしてしまったということは、ろくな奴ではない。キルは頬を赤くして続けた。


「直接会ったのは二回だけ。それでも伝わってくるカリスマ性に、私は心を掴まれたよ」


「そんなに会える人じゃないんだな。そういう人とどうやって出会うの?」


「私がうっかり人を殺しちゃったときに、たまたま近くで仕事してたらしくてさ」


 とろけたマシュマロみたいな声でものすごい過去が暴露された。耳に膜がかかって聞き間違えたかと疑ったが、そんな俺の動揺なんてキルは気にしない。


「初めて人殺してヤベーってなってた私に、ミスターが『国家公認の暗殺者に登録すれば、今の殺人も正当化できる』と声かけてくれて。私を救ってくれたんだ」


「幾重にも嫌な話だな……」


 聞かなきゃよかったと後悔した。どういった経緯か分からないが、仕事以外で、それもアサシンになる前のド素人時代に「うっかり」で人をひとり殺していたとは。ただの犯罪者ではないか。


「そっからはミスターは私の立ち回りを評価して、暗殺者として活動するための技術や心構えを教えてくれた。やがて私に仕事を回してくれるようになったんだけど、私は実践でヘマばかりして上手く殺せず、他の暗殺者に尻拭いしてもらってた」


 キルは血なまぐさい過去を、まるで美しい思い出話かのようにうっとりと語った。


「さっきも言ったとおり、暗殺者が暗殺に失敗するとみっともない。当時回される仕事は小さな仕事ばかりだったからそれほど大事には至ってないけど、だめなもんはだめだから」


 大きな仕事とか小さな仕事とか言っているけれど、それが政界の大物か小物かというくらいの違いで、人が死んでいることに変わりはない。こいつら暗殺者というのは誰しもがこんな倫理観なのだろうか。


「そんで暗殺者向いてねえわって凹んでたときに、二度目の邂逅。ミスターの方から会いに来てくれたんだ」


 もう辟易してきて、聞き流したかった。


「そのときに、私にこの犬耳付きのコートをくれてだな……」


 そんなに凹んでいるときにそのデザインの装備を与えられるだなんて、バカにされているような気がしてならないだが。


「からかわれてるとは思わなかったのか?」


「そうだとしても関係ない。ミスターから貰えるものはなにでも嬉しい」


 キルはソファの背もたれに顔をうずめた。


「報酬が出なくてお金もなかったし、欲しいものがなにも手に入れられなかったけど……ミスターから貰えるものは、報酬よりなにより宝物だった。同じものを持ってる奴はいない」


 キルはこんな性格のくせに、意外と健気で従順なところがある。


「そして初めての任務成功。この上着は験担ぎになった」


 前に夜中にラーメンを食べながら、そんな話を聞いたことを思い出した。その外套はミスターの方はちょっとばかりはふざけて渡したデザインだったのかもしれないが、キルにとっては恩人に貰った大事な物だったのだろう。エピソードが血塗られてさえいなければ、微笑ましい話である。


「そんなミスターを失望させたくないんだよ。そういうわけだからサク、美月暗殺に協力してくれない?」


「なぜそうなる。協力は絶対にしない」


 まあ、家に置いてやっているだけでも充分協力してしまっているのかもしれないが。

 家に置いておくことで監視を兼ねているのだが、こんな生活がいつまでも続くとは思えない。いつかは監視が追いつかなくなって、キルが日原さんを殺してしまうかもしれない。どうにかして暗殺をやめさせたいのだけれど、根本を絶つ方法は全く考えつかなかった。


 *


「朝見くん、疲れた顔してどうしたの?」


 翌日の放課後のことだ。

 職員室に用事があった俺は、ついでにその近辺のカウンセリングルームに住み着く古賀先生と遭遇した。


「てか、いつも疲れた顔してるよね。生まれつきなのかな?」


「違います。疲弊してます」


 購買でおやつ用に買ったメロンパンを片手に、俺は古賀先生の癖っ毛を見上げた。


「色々と気が抜けないことが多くて……」


「あのさあ、そういうのを俺に相談してくんない?」


 古賀先生は、若干うんざりした口調で俺を窘めた。


「俺、カウンセラーだって。コーヒー屋さんじゃないんだよ?」


「そうでしたね、忘れてました」


 取り止めのない話ばかりしているから、カウンセラーだったのを意識していなかった。ただの暇そうな人くらいにしか思っていない。

 相変わらず終日貸し切り状態のカウンセリングルームに連れてこられ、普段と同じようにソファに座った。


「ちょっと待ってね、コーヒー淹れるよ」


 コーヒー屋ではないと自分で言ったくせに、彼は進んでコーヒーを淹れはじめた。そのときなんの躊躇いもなく、胸ポケットから煙草を取り出し咥えた。


「先生、校舎内は喫煙室以外は禁煙のはずですけど」


 俺がそう言うも、先生は誤魔化そうとするでもなく火をつけた。


「ばれちゃった」


「ばれちゃったっていうか、すごく堂々と吸いはじめましたよね」


部屋自体が煙たくなってくる。ラルが咥えていたチョコレートとは違って、これは本物の煙草で間違いない。先生は煙草を咥えたまま、へらっと頬を緩めた。


「マナー違反失礼しました。でもこの部屋、基本俺しか来ないし」


「こうして訪ねてくる俺みたいな生徒だっています。他の先生に言いつけますよ」


 ちょっとした意地悪のつもりで言ってみたら、古賀先生はふははと軽快に笑い飛ばした。


「大丈夫! 言ってくれてもいいよ。俺の方が強いからね。他の先生たちは、俺には逆らえないよ」


「なんですか、強いって」


 教師とカウンセラーでは扱いが違うのは分かるが、古賀先生の立場がそんなに偉いとは思えない。古賀先生はニタリと口角を上げて人差し指を立てた。


「俺、バックに洋ちゃんいるから」


「洋ちゃん?」


「和田洋次郎」


「和田……って、和田校長!?」


 まさか出てくるとは思わなかった学校トップの名前に、ぎょっと目を丸くした。当の古賀先生は平然と微笑んでいる。


「そうそう。俺がここで雇われてるの、飲み屋で知り合った洋ちゃんが俺を気に入ったからだもん。洋ちゃんのパシリでいる代わりに、ここにいさせてもらってるんだよ」


「え、そんな雇用形態あるんですか?」


「そうなの。逆に言えば洋ちゃんに嫌われたら仕事なくなっちゃうんだ。これじゃ洋ちゃんに飼われてるみたいだよね」


 自嘲気味な言葉にどきりとする。飼われているといえば、うちの暗殺者だ。あれも一応、俺という飼い主の機嫌を損ねたら住処がなくなる……という立場にあるはずだ。態度が大きすぎて忘れかけていたが。


「それで。なんでそんなにお疲れちゃんなの?」


 コーヒーを持った古賀先生が向かいのソファに腰を下ろす。テーブルにそれぞれ、カップを並べてくれた。

 古賀先生といると、話を聞いてほしくなる。流石カウンセラーというべきか、こちらの話を引き出す力を感じる。キルのことを赤裸々に相談しても大丈夫なのではないかと、そんな期待が湧いてくるのだ。


「……実は、ペットについて悩んでて」


 俺はテーブルの上のコーヒーを手に取った。温かいカップが手のひらを温める。古賀先生は咥えていた煙草を手に持ち替え、煙を吐いた。


「へえ。なに、懐かないとか?」


「いや、懐いてないわけじゃないんですけど」


 テーブルの上のメロンパンを見つめる。どこから話せばいいのだろう。

 日原さんの安全を確保できるように、学校に掛け合ってほしい……という結論から言うべきか。それとも、この国は暗殺大国であるという背景から説明すべきか。なぜ家でキルを飼っているのかという経緯も伝えた方がいいのか。考えがまとまらなくて下を向いた。


 俺が口を噤んでいる間も、古賀先生は黙って待っていてくれる。俺はメロンパンから目線を泳がせ、コーヒーの水面に行き着き、意を決して話しはじめた。


「ペット、というか、居候みたいなもんなんですけど。そいつがええと……人殺しで」


 暗殺者という言葉を伏せようとして人殺しと言い換えた。しかし言い換えたところで不穏なのは変わらなくて、いずれにせよ異様だった。どう言葉を選んでもキルは殺し屋である。流石の古賀先生も怪訝な顔をした。俺はしどろもどろ付け足す。


「人殺しって言っても、俺や家族は殺そうとしないんです。なんなら懐いてて、なんかよく分かんないけど住みついたんです。で、それがうちのクラスの女子を殺そうとしてて」


 古賀先生は黙って煙草を咥えている。カップを持った手が熱い。


「当たり前ですけど、俺はクラスの女子を、殺されたくないんです。今のところ奴が勝手に失敗続きなんで、奇跡的に無事なんですけど……これから先、どうやって回避したらいいのか分からない」


 先生は今、俺がふざけていると思っているか頭がおかしい思っているかのどちらかだろう。彼は再び煙草を手に持ち、ゆっくり口を開いた。


「……残念だよ、朝見くん」


 やはり、いくらカウンセラーでも真剣に取り合ってなんかくれないか。


「ふざけてるんでも狂ってるんでもありません」


 慌てて説明を加えようとする。しかし古賀先生は重たそうに腰を上げた。


「ふざけてるとも狂ってるとも思ってないよ。俺が残念なのは」


 立ち上がって、真ん中のテーブルの脇へと出る。俺はカップに手を添えたまま彼を目で追った。


「残念なのは、君が暗殺者の情報を外部に洩らすような、モラルのない人間だったことだよ」


 古賀先生の言葉は、埃っぽい部屋の空気に溶けた。

 俺はその意味が理解できず、コーヒーカップを胸の高さに掲げたまま絶句した。


「コーヒー」


 古賀先生が微笑む。


「飲まないの?」


「え、と……」


 俺は二回、まばたきした。

 どういうことだ。情報を洩らしたことが残念というのは。俺が冗談みたいな話を真剣に相談したことではなくて、相談の中で暗殺者について喋ったのがいけなかったのか。


 あれ? 俺はさっき、暗殺者という単語を避けようとして、言い換えた。それなのに、今、古賀先生はたしかに「暗殺者の情報」と言った。

 あれ……?


「コーヒー、冷めちゃうよ」


 背の高い古賀先生が、座っている俺を見下ろす。背筋がぞくっとした。

 誤魔化すように、勧められたコーヒーを口元に運んだ。だが、口をつける直前で止める。カップを傾けたとき、ふいに嫌な感じがした。


「なんか……コーヒー、いつもと違う粉に変えたんですか?」


 匂いが違う。

 たしかにコーヒーの匂いなのだが、なんだろう、奥に違う匂いが潜んでいる。コーヒーの苦味とは違う、嫌な苦さの匂いだ。

 古賀先生があはは、と笑った。


「勘が鋭いんだね。まるであの白い犬みたいだ」


 ぞくっと、また背中が寒くなった。白い、犬。


「先生、もしかして」


 俺は恐る恐るカップを胸の高さに下ろした。


「キルを知ってるんですか?」


「あらら。もうのんびりできないね」


 古賀先生は残念そうに目を細めた。


「君と話すの、意外と楽しかったのに」


「先生……?」


 コーヒーの湯気がふわふわ、鼻先を濡らす。変な汗がつうっと背を伝った。

 古賀先生が煙草を口の端に挟んだ。胸ポケットのボールペンに手を添える。ペンから垂れ下がるウサギのマスコットが揺れた。先生はペン先をくるくる回して、外した。


「せんせっ……」


 俺が呼ぶより、先生がボールペンをノックする方が速かった。斜め上から飛んできた冷たいものが、ヒュッと俺の頬を掠める。ソファの背もたれからトスッと軽い音がした。目だけ音の方に動かす。薄くて細い刃が、背もたれに突き刺さっていた。

 心臓がどくん、どくんと重く激しく跳ねる。


「外しちゃった。ソファ、繕わないと」


 古賀先生は、いつもと変わらない優しい口調で言った。

 俺はソファに刺さった刃に釘付けになっていた。


「先生……? どういうことですか」


 呼吸が速くなる。こういう、訳の分からない暗器。キルが隠し持っている武器と、どうしても重なってくる。


「まさかとは思うんですが……先生も、そちら側なんですか?」


 古賀先生の笑みを孕んだ声が降ってきた。


「ばれちゃった」


「ばれちゃったっていうか、すごく堂々と狙いましたよね」


 頭が追いつかない。ただ分かるのは、この人がにこにこしながら俺に殺意を向けたことだけだ。


「ずっと黙っててごめんね。俺の仕事は、朝見咲夜くん、君の抹殺なんだ」


 刃が掠った俺の頬から、つうっと細く血が滴った。


「え……え? どうして、ですか。なんで俺? ていうか、騙してたんですか……?」


 理解できない部分があまりにも多くて、狼狽しながら疑問を溢れさせる。古賀先生はウサギさんのボールペンを自身の頬に寄せた。


「俺は朝見くんの味方だよ。根底は同じで、俺も日原美月暗殺を食い止めるのが目的なんだ」


「日原さんの件まで……どこまで知ってるんですか?」


 先生を見上げてか細い声で聞く。先生の眼鏡の奥の瞳は至って穏やかだった。


「君、今から死ぬんだから、聞いても意味ないでしょ?」


 体がぞっと冷たくなった。

 訳が分からない。これがあの古賀先生? 今までぐだぐだ雑談しながらコーヒーを啜っていた、あの暇人? 表情は全く変わらない。いっそ別人のような目をしてくれればいいのに、紛うことなく古賀先生の目だ。温かさが染み付いたままなのだ。


 逃げろ。

 このカウンセリングルームから一歩外へ出れば、他の生徒や先生がいる。戸に鍵がかかっているわけではない。それなのに、脚が動かなくて、大声をあげることもできなくて、俺は小動物のように古賀先生を見上げていた。


 先生がまた、ボールペンをこちらに向ける。俺はびくっと肩を弾ませた。持っていたカップからコーヒーの飛沫が跳ねる。


「大人しくそのコーヒーを飲んでいてくれれば、血なんか見なくて済んだのに」


 先生は俺がかけるソファに膝を乗せた。近づいてきた彼に、俺は声すら出せずに身じろぎした。その俺の逃げ場を塞ぐように、先生の腕がソファを突く。煙草の灰がぱら、と俺の胸元に降ってきた。

 俺は左手にカップを持ったまま、空いている右手を突き出しボールペンを握った先生の腕を取り押さえた。


「ま、待ってください!」


「おっ、反射神経いいね!」


 こんな状況でも、古賀先生はいつもの古賀先生だった。柔和に楽しげに笑うから、俺は余計についていけない。


「死にたくないです!」


「でしょうね。君は責任感が強い子だから。多分俺が君の立場でもそう言うと思うよ」


「共感してほしいんじゃないです、これは命乞いです!」


 この軽いノリ。まるでキルと話しているみたいだ。


「納得いかないです! なんで殺されなきゃならないんですか!?」


 先生の手首をギリギリ掴んで、できるだけボールペンを自身から遠ざける。古賀先生はお茶目に唇を尖らせた。


「納得いかないって言われても、こっちは仕事なんだし」


「いやいや、割り切られても困ります! そっちは仕事でもこっちは心臓一個しかないんで!」


「しつこいよ。君の生命に焦らすほどの価値があるの?」


 鼓動がばくばくと音を立てる。

 ふざけているのも、狂っているのも、古賀先生の方だった。

 先生は面白そうに口角を上げながら、ボールペンを持った手をぐぐっと俺に寄せた。俺はそれを跳ね除けようと抵抗する。煙草の匂いが近くて、余計に俺を焦らせる。


 先生がニッと目を細めた。彼の手元でカチ、とボールペンを押す音がした。至近距離から刃が飛び出し、俺は反射的にカップを盾にした。白いカップがパリンと割れて、胸に熱いコーヒーが降り掛かってきた。ワイシャツに染み込んだコーヒーが、じっとりと肌にまとわりつく。皮膚がヒリヒリする。


「あっつ……!」


「朝見くん、喋るとまったりしてて鈍臭そうなのに、意外といい動きするねえ」


「感心してないでやめてくださいよ!」


 カップの破片がソファに落ちる。目線こそ先生から離せなかったが、ぐちゃぐちゃになる頭の中で駆け抜けるように考えを巡らせた。

 誰かが騒ぎに気づいて助けに来てはくれないか。でもこんな校舎の隅っこの、あまり知られていないような部屋の騒ぎに気がついてくれる人なんているのだろうか。

 先生からペンを奪おうと、カップの破片を捨てて両手で先生の手首を掴んだ。しかし鍛え抜かれた暗殺者はその程度では怯まない。


「先生……! 俺、先生を信頼してたんですよ」


 俺は必死に、先生の手を押しのけようと踏ん張った。


「先生と話すの、楽しかったんですよ……!」


「だろうと思ってたよ。一方的な友情、ご苦労様!」


「目上の人にこんな口利きたくないんですけど、あんた糞野郎だな!」


 掴んだ手首に爪を立てる。額から汗が垂れて、頬から落ちる血に溶けた。息が荒くなる。抵抗する力がすり減ってきて、徐々に腕が下がってきた。

 やがて、先生は優しく微笑んで、ボールペンの先を俺の喉にぴたりと当てた。


「ごめんな。なるべく苦しまないように逝かせてあげるから」


 なんだかよく分からないが、俺は死ぬらしい。

 死ななきゃならない理由もろくに分からず、信頼してもいいと錯覚していたこの先生に殺されるようだ。

 先生が、ボールペンの頭をカチッと鳴らした。

 俺は潔く先生の手を離し、スッと目を閉じる。まだ母さんのところに行くには、早いと思ったんだけどな……。


 次の瞬間、パキッと鋭い音が、生温い部屋を突き抜けた。

 ああ、死んだ。このまま血が溢れて、意識が遠のいて死んでいくのだろう。思ったより痛くないんだな。流石先生、プロだ。


「……ふうん」


 古賀先生の声がする。


「人情に厚いとこあるんだね」


 穏やかな声色に、俺は、え、と目を開けた。視界に飛び込んできたのは、俺から目を離した古賀先生。そして。


「おお、悪いな。人情に厚い暗殺者で」


 いつも先生が座っていた方のソファの背もたれに立つ、キルの姿だった。

 少し首を傾けると、ウサギ付きのボールペンは俺の顔のすぐ横で、ダガーナイフでソファに磔にされていた。


「悪いな同業者、お取り込み中に」


 窓の外の光を背に立つキルは、左手にピンッとナイフを構えている。


「キル……なんで」


 俺は間抜けなひょろひょろの声で名前を呼んだ。キルが高い位置から俺を見下ろし、ニッと笑む。


「時間稼ぎご苦労だったな、サク。お陰で間に合ったぜ」


 なんで。なんで俺がこんな目に遭っていると分かったのだ。呆然とする俺を横目に、キルはまたニヤリとした。


「美月の情報を集めるために、サクのスマホに盗聴器を仕込んでたんだよ。お前らの会話は、全て聞かせてもらった」


「おまっ、また勝手に仕込んだのか!」


「いいじゃん、それがあったから私が駆けつけて来れたんだから」


 キルは先生に呆れ顔を向けた。


「侵入者に気が付かないだなんて、ターゲットに集中しすぎじゃないか? プロなら周りはよく見とけ」


「だってまさかご本人とお会いできるとは思わないじゃないか。そっちこそ、プロなら一般人なんか見殺しにしなよ」


 先生がふふっと笑う。キルはナイフの刃先を唇に当てた。


「普段なら見殺しだけど、そいつに限っては私のライフラインなんでな。死なれると不便なんだよ」


「だから殺すんだよ?」


「あ、やっぱし」


 ふたりが軽やかなやりとりを交わす。


「キルちゃんが日原美月暗殺を取りやめてくれれば、朝見くんは殺さずに済むかもしれないよ。まあ、いずれにせよキルちゃんは抹殺されるだろうけど……」


 先生がむくりと体を起こす。俺はソファから逃げようと、じりっと身じろぎした。先生はそれを止めようとすらしなかった。


「美月ちゃんに死なれると、動くはずのデカイ金の動きが止まっちゃうんだよ。そうすると不利益を被る人が何人も出てくるわけ。安井議員の選挙当選にも関わる問題だから、大袈裟にいえば国の問題なの」


 キルからもそんなようなことを聞いた。でも、だからこそ金の動きを止めようとするのがキル側で。

 キルはほう、と感嘆を洩らした。


「なるほどね。美月の暗殺を企てる生島キルを止めるために、インフラから止めると。そのためのサク暗殺だったわけだ」


「そういうこと。のんびり近づいて情報引き出すだけ引き出してから殺すつもりだったけど、この子なかなか君のこと話そうとしなくてさ。だから痺れ切らして殺そうとしたら、その瞬間、喋り出したんだよ」


 先生の穏やかな声が、俺をぞっと寒くさせる。まばたきすらできずに、先生の横顔を見ていた。


「すっげえ口の堅い子なんだなあって感心してたのに、これはこれで裏切られた気分だね」


 先生の瞳が、ちらと俺を捉える。ヘビに睨まれたカエルのように、俺は身を竦めた。


「仮に口を割ったとしても大した情報は出てこないよ。サクは私のことなんて、味覚くらいしか知らないから」


 キルがぴょんとソファから飛び降りる。


「サクよりあんたの方が、よっぽど私に詳しいんじゃねえのか? 私の仕事内容知ってるなんて、何者なんだよ」


「これはこれは。自己紹介が遅れまして失礼しました、マドモアゼル」


 先生は小柄なキルを見下ろして、不敵に笑った。


「スクールカウンセラーの古賀新一改め……真城と申します」


「あっ! 聞いたことある!」


 キルは芸能人でも見つけたかのように無邪気に目を丸くした。


「真城ライ! うちの所属じゃん。知ってるよ、心理学に精通してて、標的の懐に潜り込むのが超上手い奴。暗殺者でありながらその情報収集能力の高さは諜報員も舌を巻くってな。噂は聞いてたけど初めましてだな!」


 懐に潜り込まれた標的である俺の目の前で、キルはあっけらかんと言い放った。俺は余計に訳が分からなくなった。

 古賀先生は、スクールカウンセラーを隠れ蓑のした暗殺者だったのだ。それも、キルと同じフクロウ所属の国家公認アサシン。

 だが所属が同じなのに、なぜキルの邪魔をするのだ。ラルはむしろ協力していたのに、古賀先生は敵対している。

 キルはナイフを片手に笑った。


「初めまして。死ね!」


 そして手に持っていたナイフをシュッと飛ばした。先生がそれを躱し、ナイフは俺の鼻先をすり抜けてソファの背もたれに突き刺さった。ヒヤリとした。少しずれていたら俺に当たっていた。


「ご挨拶だね。危ないじゃないか」


 先生が冷ややかに微笑む。キルは新しいダガーをコートの中から取り出した。


「仕事の邪魔をする奴を消すのも、仕事の内なんでな。金にならない雑務増やすの、やめてくれや」


「その言葉、そのままお返しするよ」


 先生がジャケットに手を突っ込む。


「縫わなきゃならないソファの穴を増やさないでよ」


 ジャケットから出てきた手に握られていたのは、黒い拳銃だった。俺はびくっと肩を縮めてその銃口を見ていた。この人、こんなものまで隠し持っていたのか。


「暗殺者本人を直接殺れるんなら、連れを引っ掛ける必要はなかったね」


 先生はちらりと俺に微笑みかけてから、銃口をキルに向けた。そして躊躇なく引き金を引く。


「先生、やめっ……」


 俺が叫ぶより銃弾がキルに向かって発射される方が早かった。パンッと鳴るのかと思ったが、暗殺用に改造されているのか音がしなかった。

 音がなくてもキルは反応し、テーブルの上のメロンパンを放り投げる。銃弾はメロンパンに命中し、包装の袋が弾けた。

 メロンパンを盾にしたキルは宙返りしながらテーブルに飛び乗る。すぐさま次のナイフを投げ、今度は先生の煙草だけを弾き飛ばした。火がついたままの煙草がダンッと奥の壁に縫い付けられる。


「なるほど、素早いね」


 先生が楽しそうに目を細めた。


「犬というより、ネズミみたいだ」


 先生の銃がまた弾を撃つ。キルがそれを軽やかに避け、置いてあった先生の分のコーヒーカップが代わりに被弾して割れた。ピシャッと跳ねたコーヒーの雫がキルの上着に跳ぶ。

 狭い部屋の中をタンタンと移動し、キルは棚の上に飛び乗った。先生が銃口でキルを追いかける。音のない弾がパスッパスッとそこらじゅうに撃たれ、被弾した棚はガラス戸が割れ、床は焦げた。キルがナイフを飛ばしてくると、先生は屈んで避けた。ソファの背もたれがすり切られ、中のスポンジが飛び出す。


 先生がキルの方に意識を向けているうちに、俺は外へ助けを求めようと思いついた。こんなことになっていれば、いくらバックに校長がついていると言っても流石に止めに入られるはずだ。

 俺はソファから転げ落ちた。体勢を整えるより先に、廊下へ続く扉へと這いずった。よろりと立ち上がろうとしたとき、頭のすぐ横をキルのナイフがすり抜けた。床にトスッと刺さったそれを見て、また背中がヒヤッとする。

 そして声を上げる隙すら与えられず、今度は髪の先を銃弾が掠めた。


「あっさーみくん。どこ行くの?」


 立ち上がりきれていない俺を、先生の柔らかな笑顔が見下ろしている。


「どこ行くのかな?」


 もう一度問い、銃口を俺の額に向ける。音はなかったが、引き金が引かれたのは見えた。俺はびくっと肩を弾ませて、床に突き刺さっていたキルのナイフを抜き取った。


「うわあああっ!」


 間抜けに叫んで、ナイフを自身の額の前に突き出す。銃弾がナイフの刃に遮られ、キンッと音を立てて床に落ちた。


「おいおい……マジで反射神経鋭いな」


 古賀先生が苦笑した。


「もはや脊髄反射なんじゃないの? 君、暗殺者向いてるよ」


「向いてません!」


 誰がなるか!


「偶然? もう一度試してみようか」


 先生が再度、こちらに銃を向ける。目を見開いた俺は、古賀先生の背後からナイフを振りかぶる白い影を見た。

 無防備な背中から、その首筋をかっ裂こうとする、犬耳の暗殺鬼。フードの影から覗く瞳の色が一瞬見えた。氷のように冷たい目をしていた。


「せんせっ……」


 反射的に呼びかけようとする。だが、俺が注意を促すまでもなく、先生は後ろのキルが見えていたかのように、彼女を躱した。キルの方も避けられるのは計算の内だったようで、軽やかに回転して先生と俺の間に立ちはだかった。


「二度も言わせるんじゃねえ。こいつに死なれると迷惑だ」


 俺を庇うように立ち、小さな体で先生を威嚇する。


「こいつを殺したら、殺すぞ」


 こちらからは後ろ姿しか見えない。どんな顔をしているのか、全く見えない。

 先生はふう、と物悲しげに息をついた。


「残念だな、キルちゃん」


 先生がしゃがんで、キルと目の高さを合わせた。そしてキル越しの俺に目をやる。


「フクロウ内でも五本指に入る最強クラスのアサシンだと聞いて警戒してたのに……だから遠回りして、連れの少年を狙ったのに。実際手合わせしてみたら、案外普通だね」


 それから酷く穏やかな瞳で、俺に銃口を向けた。


「『ふたり目の霧雨サニ』は、こんなもんなのか」


 瞬間、目が追いつかないほどの速さで、キルが先生の手首を引っ掴んだ。


「私は『ふたり目の霧雨サニ』じゃない」


 小さな手でぐっと、銃にそっぽを向かせる。


「『ひとり目の生島キル』だ……!」


 それは今までに一度も聞いたことがない、ずっしりと深くて凍りつくように冷たい声だった。

 表情は見えないけれど、キルが本気で機嫌を悪くしたのは伝わってくる。俺から見えるのは後ろ姿だけなのに、それでもぞっとした。

 霧雨サニ。初めて聞いた名前だ。


「……へえ」


 古賀先生がキルに腕を取られたまま微笑む。だが、目が笑っていない。


「やっと本気出したね」


 巻き込まれた俺の方が、血が凍りそうなくらい青くなった。この部屋にいるだけで死ぬような、そんな気配を感じる。


「キル、もういい!」


 俺はキルの白い背中に叫んだ。


「これ以上暴れるな。もう行こう」


「うるせえ!」


 キルはピシャッと俺に怒鳴りつけ、一歩も引こうとはしなかった。


「素人は黙ってろ。私はこいつを殺す。私の邪魔をする奴は殺す!」


 メルヘンな外見から発されるには、あまりに殺意に満ち溢れた怒声が叩きつけられる。


「でも危ないって……」


「引っ込んでろド素人!」


 頭に血が上ったキルは、こちらを振り向きもせずに切り捨てた。俺はずるっと腰を上げ、足を引きずった。

 ここでキルの襟首を掴んで、一緒に外へ連れ出して逃げようか。だがこの激昴したキルは、俺に取り扱いきれるものではなさそうだ。


 やはり、このままひとりで部屋から脱出して助けを呼ぶのがベターだ。

 ただ逃げ出したかった自分に言い訳をして、俺は廊下に向かって駆け出した。先生がキルに背けられた銃を押し返し、発砲した。音のない銃弾が俺の頬を掠める。


 引き戸を引っ掴んで、廊下に転げ出る。冷や汗が滲んだ手で戸をピシャッと閉めて、辺りをサッと見渡した。誰もいないのか。こんな隅っこのカウンセリングルームになんて、誰も興味がないのか。派手に暴れる殺し屋たちの死闘になんて、誰も気が付かない。

 ここから近くて確実に誰かいる場所は、職員室だ。キルも古賀先生もどちらも大怪我をする前に、止められる人を呼ばなくては。

 そう思うのに、足が思うように動かなかった。腰に力が入らない。壁に手を付きながら、よたよたと歩みを進める。息が苦しい。頬から伝う生温い血が気持ち悪い。胸に浴びたコーヒーが未だにじくじくと熱い。


 頭の中はしっちゃかめっちゃかで、色んな感情が交錯する。

 先生は初めから、俺を殺すために近づいてきていたのか。勝手に心を預けかけていた俺は、彼の目にどれだけ滑稽に映っていただろう。

 先生の目的は、日原さん暗殺を止めること。俺もキルを止めたいのだから、暗殺者でさえなければ協力できたかもしれないが、彼のそれは俺の思いとは違う意味のようだった。


 キルはそれに気づいて特攻してきた。スマホから盗聴されていたのは腹立たしいが、でもあのままだったら、俺はあの場で殺されていた。

 蒸した廊下の空気が、背中に汗を滲ませる。落ち着け。とにかく今は、あのふたりを止めなくては。奇跡的にカウンセリングルームから逃げられたのだ。早く誰かに報告しよう。

 キルを、助けなくちゃ。

 そう思った矢先だった。


「くそ、待てこの野郎!」


 相変わらず汚いキルの言葉遣いが、廊下に飛び出してくる。

 振り向くと銃を片手にカウンセリングルームの戸を突破してくる古賀先生の姿があった。俺はびくっと壁に張り付いた。


 キルを振り払ったのだ。そして逃げた俺を追いかけてきた。振り払われたということは、キルもそれほどの怪我を負ったのではないか。

 先生が目の色を変えてこちらに向かってくる。それだけでも心臓が止まりそうなのに、キルが心配で余計に思考がまとまらない。


「先生……」


 俺は真っ青になって、すたすたと向かってくる先生に投げかけた。


「先生、もうやめてください……!」


 しかし、古賀先生は壁に張り付く俺のすぐ前を、さっさと通り過ぎてしまった。こちらを見ることもなく、声をかけることすらなく。完全にスルーされたのだ。

 構えていた俺は拍子抜けしてそのまま固まっていた。

 えっ。俺を殺そうとしてたんじゃないの?


「サク!」


 少し遅れて、キルもカウンセリングルームから出てきた。俺は我に返って彼女を振り向く。


「キル、大丈夫か。怪我でもしたんじゃ……」


「ごちゃごちゃうるせえな! さっさとあの伊達眼鏡を追うぞ!」


 俺の正面まで駆けつけたキルは全くの無傷だった。先生がどうやってこいつを撒いたのか少し考えたが、すぐに予想がついた。よく見るとキルは左手にナイフを、右手にメロンパンを持っている。俺がおやつに持っていたメロンパンだが、盾に使われたうえにキルの気を逸らすのにも使われたらしい。


「よかった、怪我はないんだな」


「ああ、お陰様で嫌いだったメロンパンを克服しちまったがな。いいからあいつを追うぞ、サクも来い」


 キルがメロンパンを俺の手に押し付けた。


「さっきあいつ宛てに、校長の洋ちゃんから連絡が入ったんだよ」


 そういえば古賀先生は、校長のいうことを聞く代わりに、カウンセラーとして置いてもらっていると聞いた。


「校長から直接、行動の指示が出てるのか? じゃあ俺を殺そうとしたのも校長の……!?」


「いや。そこのスーパーでじゃがいものタイムセールが始まったから最優先で買い物に行け、という指示が入ったらしい」


 キルは大真面目に俺の目を見つめた。

 じゃがいものタイムセール。俺はまた拍子抜けして口を半開きにした。

 暴れるふたりを止められる人なんていないのではと思ったが、まさかじゃがいものタイムセールが止めるとは。


「私たちも行くぞ。今夜は肉じゃがだ!」


 キルが俺の手首を掴んで走り出す。俺はメロンパンでキルの犬フード頭を引っぱたいた。


「さっきまで自分を殺そうとしてた人と一緒にレジ並びたくねえわ!」


「はあ!? バカかお前は! じゃがいもだぞ、使い道無限大だぞ。大量買いのチャンスだろうが!」


 感覚がずれにずれている暗殺者は、一生懸命に俺を引っ張ろうとしていた。


「いくらタイムセールでもやめよう! もうあの人とキルを傍に近づけたくない」


 俺は必死に抵抗してキルを引き止めた。スーパーで戦闘にでもなったら最悪だ。


「お前だって、なんだっけ……ふたり目のナントカって言われて、怒ってたじゃん!」


 その瞬間、キルがピクッと固まった。そして目つきが変わる。


「それ、気分害するから二度と言うな」


「ご、ごめん」


 咄嗟に謝ってしまう気迫があった。なぜそんなに、あのふたつ名が気に入らないのかは分からない。だが、すごく嫌がっているのだけは分かる。

 キルがふいっと手を離した。それから残念そうに遠くを見つめる。


「タイムセール、もう間に合わないかな。売り切れちゃった頃かな」


「あの、キル……」


 俺はキルの横顔にそっと声をかけた。


「助けてくれてありがとう」


 盗聴器を仕掛けられていたとはいえ、命を救ってくれた。暗殺者が命の恩人というのも不思議な話だが、今回は本当に助かった。


「別に、サクは生かしとかないと私が不便するし。なにかあったらまひるが泣くし」


 キルは振り返りもせず粗野な口調で吐き捨てた。俺はしゃがんでキルの目の高さに合わせた。


「理由はなんであれ助かったよ。でもあんまり無茶するなよ。怪我しなかったからよかったものの、お前になにかあっても、まひるが泣くんだから」


 キルはスーパーの方向を見つめたまま、こちらを向かない。


「今晩は肉じゃがにしような。セールじゃないじゃがいもで」


 犬耳頭を撫でようとしたら、こちらを見ていないくせに察して俺の手をパンッと払ってきた。


「気持ち悪い、優しくすんな!」


 フードから少しだけ、顔が欠けて見えた。しっかり見えたわけではないが、ちょっとだけ頬が紅潮しているように見えた。

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