7.幼馴染みは関係ない。

 六月も中盤に入って、雨の日が多くなった。


「あれからどうなの? 朝見くんを振った女の子とは。しょうもないことして困らせて、気まずくなってない?」


 古賀先生がコーヒーを出してくれる。俺はその香ばしい香りに目を閉じた。


「特に気まずくなったりはしてません。多分、俺みたいな奴、多いんですよ。珍しくないんでしょうね」


 こたえてから、ハッと顔を上げた。


「って、違う。振られてないし告白してもいない。そもそもそんな彼女に対して気持ちで接してませんから」


「どうだか。まあ、俺はいい報告待ってるから、めげずにアプローチしろよ」


 古賀先生も向かいのソファに腰を下ろし、コーヒーを啜った。


「朝見くん、彼女できても俺を見捨てないでね。引き続き、遊びに来てくれるよね」


 ラルの一件以来、俺はときどきこうしてカウンセリングルームに遊びに来るようになっていた。

 昼休みに友達が部活の昼練でいないときとか、放課後に空き時間ができたときとか、そんなときにふらっとここに訪れる。いつ来ても、古賀先生は暇そうだった。


「あ、そうそう。転校生ちゃん、来なくなっちゃったんだって?」


 古賀先生が膝に頬杖をついた。転校生ちゃん、というのはもちろん隣のクラスに現れていたサキュバスアサシンのことだ。


「来たの、最初の一日だけでした」


「初日からなにかあったんかねえ。クラスに馴染めなかったのかな」


 ラルはあの日以来、学校に来なくなった。俺が半端な隙を作ったからラルにはまだ日原さんに接近できる余地はあったはずなのに、それが却ってラルのプライドを傷つけたらしい。一回失敗したら、もう引っ込んでしまったのだ。


「俺、その転校生ちゃんに会わなかったから、どんな子か知らないんだよねえ。馴染めないタイプの子だったの?」


 古賀先生が腕を組む。ウサギ柄のネクタイがくしゃっとよれた。俺は先生に余計な心配をさせないために、そこは真実を言った。


「馴染めないタイプじゃなかったです。他のクラスからも見物が来るくらい美人だったし、どっちかっていうと皆、仲良くなりたかったんだと思いますよ」


 ラルは別に、周囲に不満があって学校を休んでいるのではない。敢えて言うなれば、俺のせいで休んでいるのだ。

 古賀先生はコーヒーの水面に息を吹きかけた。


「わりかし派手な見た目の子だって聞いてるよ。すごく明るい髪色の……外国の子だって噂もあったね」


「いや……コテコテの日本人だと思います」


 あの方言だ、育ちは日本で間違いないだろう。髪の色も多分、染めているだけ。キルの金髪も染色らしいし、暗殺者は暗殺者のくせに派手好きなのかもしれない。

 古賀先生がハッと顔を上げた。


「あ、不登校生徒が現れたってことは、俺の出番じゃん? うわ、仕事かあ……」


「いよいよ暇じゃなくなりますね」


「いいかい朝見くん。社会人というのは、暇でも忙しくても文句を言う生き物なんだよ」


 古賀先生はソファの背もたれにぐったり倒れた。俺はそのだらしない姿を正面から眺めていた。


「転校生……最初の頃は皆、興味津々だったけど、もう何日も来てないから誰も話題にしなくなってきました」


 ラルを好みだと話していた平尾すらも、最近ラルの顔を思い出せなくなってきたとまで言っていた。インパクトが強大だったとはいえ、一日しかいなかったら記憶から薄れてしまっても仕方ない。古賀先生がコーヒーに口を付ける。


「職員室でもだいぶ騒がなくなってきたよ。まあ、まだ連絡がつかなくて困ってはいるみたいだけどね」


「連絡つかないんですか?」


 俺はカップを口の前で止めて繰り返した。古賀先生が頷く。


「学校に提出されてる電話番号にかけると、現在使われておりません……だそうだ」


 へえ、と間抜けな相槌を洩らし、俺はコーヒーを口に含んだ。ラルが学校に対して音信不通になっていたとは知らなかった。


「それはよくないですね。やめるならやめるできれいにやめるように、本人に言っとかないと」


「ん? 朝見くんは転校生ちゃんと連絡つくの?」


 古賀先生がコーヒーを傾けたまま聞く。俺は返事を濁してコーヒーを啜った。


 *


「というわけだから、ラル。学校に迷惑かけるのはやめような?」


 家に帰って速攻、本人に伝えた。

 リビングでキルとまひると一緒に七並べをしていたラルは、面倒くさそうに俺を見上げた。


「平気よ。ほっといても、組織の方から学校に連絡が入って、籍を消してくれるわ」


「職員が迷惑してるんだよ。そういうのよくないと思う。あとデタラメの連絡先を学校に提出するのもいけないことだぞ」


「うるさいわね。本当の連絡先なんか教えたら、仕事にならない誘いが殺到して、私、倒れちゃうわ」


 まひるの前で平然と際どい発言をし、ラルは手札のトランプを床に並べた。

 学校側は連絡がつかなくて困っているということだったが、このとおり、ラルはうちに現れている。学校が知りたがっているラルの正しい連絡先は、キルが知っていた。


 ラルはもう学校の制服は着ていなくて、胸元の大きく開いたシャツにミニスカートという、いかにもな私服に切り替わっている。


「なんでうちに遊びに来るの?」


「だって昼間は暇なんだもの。いいじゃない、かわいい妹ちゃんの面倒見てあげてるんだから。感謝しなさいよ」


 悪びれないどころか、この態度だ。


「ラルお姉ちゃん、ゲームすっごく強いよ!」


 まひるも相変わらずの許容の深さで、押しかけてくるラルを受け入れている。ばあちゃんも突っ込まない。俺もいろいろと感覚が麻痺してきた。


「遊んでないで、学校来いよ」


「面倒になっちゃった。行く目的もないし」


「日原さん狙うんじゃなかったのかよ」


 もちろん殺させたいわけではないが、率直な疑問だったので尋ねてみた。するとラルではなく、キルが顔を上げた。


「その話し合いのためにラルはここに通ってるんだよ。諦めたわけないだろ」


「新しい作戦考えてるのか?」


「うん。というか、既に稼働してるよ。今度の作戦はラルの力が必要不可欠でな。こうしてまめに打ち合わせをしつつ、着々と進めてるんだ」


 打ち合わせというが、光景を見る限りはただトランプで遊んでいるだけに見える。


「サクも小生意気に邪魔してくるようになってきたし、作戦の概要は教えてやらないけどな」


 宣言してから、キルは手札に目を細くしながら口を尖らせた。


「しかしなあ。新しいの考えなくても、この前の放課後に誘い出したりして近づいて殺す作戦続行でいいと思うんだけどな。ラルがわがまま言うから」


「だって私、もう美月ちゃんとは関わりたくないもん」


 ラルも長い睫毛を伏せて手札を見つめた。

 堂々と暗殺会議の内容を始めたが、まひるは意味が分かっていないらしく会話に参加しようともしない。七並べに夢中になっていて、難しい話には興味がないようだ。


「咲夜くんが、私に美月ちゃんと接触するチャンスを残したのは分かってる。同じ作戦でリトライすれば美月ちゃんを殺せるとは思うし、キルからもそうしてほしいと頼まれた」


 ラルは手札のカードを床に一枚置いた。そんなラルを横目に、キルがうんざりした口調で続きを話した。


「でも嫌になっちゃったんだってさ。サクがラルに甘くしたのと同じで、美月もあっさりラルを許した。そのきれいなスピリットにあてられて、美月の傍に近寄りたくないらしい」


「もっとこう、自己愛の塊の腹黒女がよかったのよ。そうじゃなきゃ、話してるだけで疲れるわ」


 腹黒女代表のラルは苦々しく毒づいた。キルが手札のトランプを見つめながらぼやく。


「とか言ってるけど、大声で方言をぶちまけたことも学校行きたくない理由の一つだよな」


「そうなの? 気にすることないだろ。方言ってかわいいし……」


 俺はフォローのつもりで言ったが、そういう親切を嫌うラルはキッとこちらを睨み付けてきた。完全に殺人鬼の形相だったので、俺は目を逸らした。

 キルが不服そうに呟く。


「ラルは仕事を選ぶからなあ。好き嫌いはよくないぞ」


「いいの、私はあんたみたいに暗殺一本で生計立ててるわけじゃないから。なんならこの案件から手を引いたっていいのよ」


 ラルがツンッとそっぽを向くと、キルは彼女を指さして俺に言いつけてきた。


「こいつ片手間に暗殺やってるんだぜ。普段はにこにこしながらオヤジたちに酒注いで金とってんの。暗殺に専念しないから、こうやって雑な仕事すんだよ」


「別に雑なわけじゃないわよ、忙しくて手広くくまなくやってられないだけ。あんたと違って私は引く手数多なの。一部の変態からしかウケないあんたと違ってね!」


 ラルも猛反発する。キルがカッと牙を剥き出しにした。


「私はラルみたいな小汚い手段を使わない正統派だから関係ない!」


「ああそう! それなら色気より食い気でも納得ね」


 爆発した仲間割れに、俺は冷めた目を向けた。


「ふたりとも、まひるの前でそういうこと言うのやめてくれない?」


 ふたりの暗殺者がみっともない喧嘩をしている間も、まひるはトランプを並べて遊んでいる。俺はまひるを横目に言った。


「そもそもさ、ふたりとも日原さんの連絡先は入手してるんだろ? 普通に呼び出して好きなようにすればいいじゃん」


 言った後に俺は暗殺者相手になぜアドバイスみたいなことをしているのだと、胸の中で激しく自分を罵った。だが、キルとラルにはアドバイスになどなっていないようだった。


「私らは国家公認暗殺者だから、暗殺行為として殺人を犯しても罪は免除されるんだけどさ。露骨に犯人だと、流石に一旦は警察のお世話になるわけよ」


 キルが気だるげに話す。それを受けてラルが続けた。


「捕まってから取り調べの期間のうちに、組織から警察に連絡が入って釈放されるっていう流れになるの。だから放してはもらえるんだけど……」


 ラルは苦笑の混じったため息をついた。


「それやっちゃうと経歴に傷はつく。次の仕事が入りにくくなっちゃうのよ。殺人犯として顔が世間に知られようものなら、もう暗殺なんてできないわ」


「そういうこと。私たちはあくまで暗殺者。偶然を装った罠や出処不明の武器で一瞬で殺すのが仕事。堂々と殺るのはタブーなんだぜ」


 キルの発言を聞いて、俺はキルと日原さんが対面したときを思い出した。逃げ場がなくなったキルが、正面から日原さんに鉤爪を向けて特攻した。あれは今後の仕事を犠牲にした決死の行動だったのだと、今更ながら理解した。そうなると「アサシン心を殺された」と言って拗ねていたのも、分からなくもない。


「なるほどな。でも、その罠とか出処不明の武器だとかは俺が全部見てるぞ。お前らが犯人だって証言したら、結局あんた方は警察のご厄介になるんじゃないのか」


 ここまでぶっちゃけられている俺が喋ってしまえば、ふたりとも危ないはずだ。だがキルもラルも動じない。


「仮に警察の捜査が入ったとしても、私ら暗殺者が特定される前に組織から連絡が行って捜査自体が中断される。そうなっちゃえばサクがいくら『俺知ってます』ってアピールしたって戯言なんだよ」


「日本は暗殺大国だもの。暗殺に関する暗黙の了解は隅々まで行き届いてるのよ。代わりに、こっちも『堂々とやらない』というルールは守らないとね」


 まひるがトランプを並べながら、ひょこっと顔をこちらに向けた。


「ねえお兄ちゃん、あんさつってなに?」


 理解してはいないが、会話が耳に入ってはいる。キルとラルが作り出すこの淀んだ空気の中に、これ以上まひるを晒しておきたくない。


「なんでもないよ。それよりまひる。買い物行こうか」


 ゲームの途中のようだったが、無理やり誘った。


「陸んとこの店に行こう。夕飯の足しに惣菜買おう。まひるの好きなもの選ばせてやるよ」


「ほんと!? やったあ」


 まひるは無邪気に目を輝かせて手札のトランプを床に伏せた。


「ウズラのタマゴとウィンナーの串フライが食べたいな!」


「あれか。今日もあるといいね」


 ウズラのタマゴと赤いウィンナーが交互に串に刺さったフライ。まひるの大好物の一つである。ただ、仕入れの関係なのか店に出現する確率があまり高くないので、毎度買ってやれるわけではない。

 ラルが俺とまひるを一瞥した。


「のほほんとした会話してるのね。キル、私たちも揉めてる場合じゃないわ。さっさと始末つけるためにも考えをまとめましょ」


 ラルに投げかけられているにも拘わらず、キルは無言でこちらを眺めていた。


「キル、聞いてる?」


 ラルがもう一度呼んだが、キルは雑に頷いただけだった。どうやら彼女の意識は、もうだいぶフライに向かってしまっているようだ。

 色気より食い気、ラルにそう揶揄されただけはある。


 *


 夕方の商店街を、のんびり歩く。にわか雨が通り過ぎた後の、湿った初夏の空気だった。雨に濡れたアスファルトの匂いがして、なんとなく懐かしい気持ちになる。

 前方を行くまひるは、両腕を僅かに広げてぴょこぴょこした足取りで歩いている。俺はご機嫌な彼女の後ろ頭を見下ろしながら、まひるの歩幅に合わせたペースで追いかけた。こうして平和に散歩していると、自宅に暗殺者がいることなんて忘れかけてしまう。


 やがて、「手作り惣菜うなばら」の看板が見えてきた。いつもお世話になっている、陸の両親の店だ。引き戸を開けて覗き込む。


「こんにちは。今日ウズラウィンナーあります?」


「おっ、咲夜とまひるじゃん」


 返事をしたのは惣菜屋夫婦ではなく、陸だった。カウンターの向こうから笑いかけてくる。


「ラッキーだったな、ウズラウィンナーあるぞ」


「やったあ! お兄ちゃん、いっぱい買って!」


 まひるがカウンターのガラスケースの中を指差してキャッキャと喜んだ。俺は陸を見上げた。


「また店番してんのか」


「親父も母ちゃんもすぐ俺に任せて出掛けちゃってさ。結構暇なのな。かといって席外せないし」


 陸は苦笑いしてカウンターに肘を乗せた。

 中学に上がった頃くらいから、こいつは時折こうしてひとりで店番をしているときがある。忙しくない時間帯を任される故に暇で仕方ないらしく、元々落ち着きがない陸は大体気だるげに過ごしていた。


「この串揚げ、まひるも好きなんだよなあ」


 陸が感慨深そうにまひるとフライに呟く。俺も並ぶ衣から透ける紅白に、目線を落とした。


「子供受けよさそうだよな。俺も好きだった。今もだけど」


「ていうか、これ俺と咲夜の要望で生まれた商品だからね」


「そうだっけ?」


 覚えていない俺に、陸が怪訝な顔をした。


「そうだよ。うちの母ちゃんが俺らが両方喜ぶもの作ろうしたとき。もう十年以上前。俺が『赤くて小さいお弁当ウィンナーが好き』って言って、咲夜が『小さくて食べやすいウズラのタマゴが好き』って言ってさ」


 言われて思い出してきた。そういえば、そんなことがあった。

 惣菜屋のおばさん……即ち陸の母は、陸の幼馴染みだった俺のことも我が子のようにかわいがってくれて、いつも気にかけてくれていた。


「十年以上前だもんなあ。俺らの付き合いの長さを感じるよ」


 陸が自分で言って頷いている。

 陸とは、物心づいたときから一緒にいる。

 俺の母親が急逝して生活が一変したときも、陸はなにも変わらなかった。余計なことを言わずに、いつもどおりのこいつでいてくれた。


 思えばあの頃から心配して寄り添ってくれているのは、この店のご夫婦であり、近くで見ていてくれるのが陸である。なにも考えていないかのような、陸の能天気に支えられてきた。

 ウズラのタマゴとウィンナーのフライを見て、そんなことを思い出す。


「昔っから世話になりっぱなしだったなあ。料理教えてくれたのも、ここのおばさんだったし」


「ああ、母ちゃんが咲夜をめっちゃ褒めてた。料理覚えるのが早いって。料理人のおじさんのDNAだろうな」


 陸はそう言ってから思い出したように尋ねてきた。


「おじさん、今回の出張長いな。フランスだっけか」


 聞かれて、俺は雑に頷いた。


「そう。フランスで日本料理を教えてるんだったか、本場のフランス料理勉強してるんだったか、どっちか忘れたけど」


「フランスで日本料理だよ! お兄ちゃん、パパのお仕事忘れちゃだめ」


 まひるが口を挟んできた。陸はそんなまひるに微笑む。


「どちらにせよ、おじさんが料理得意だから、咲夜も上達が早いんだろうな」


「かもしんないけど、親父の料理食べたことないかも。帰ってきても、作るの俺だったし」


 ポロッと零したら、陸は意外そうに返した。


「そんじゃ、今度帰ってきたらなにか作ってもらいなよ」


「んー、あんま帰ってきてほしくねえな。あの人、苦手なんだよ」


「そう言うなって! 俺もあんまし得意じゃないけど」


 正直者な陸は、素直に言って苦笑いした。

 料理人だという親父のことは、俺も陸もちょっと苦手意識がある。まひるはとても懐いているようだが、俺はどうも受け入れられない。


「それはそうと咲夜、今度の勉強会はいつ? もちろん美月ちゃん込みでの勉強会」


 陸がニタリと笑って、つまらない冗談をかましてくる。俺は苦笑いで返した。


「定期開催するつもりないから。日原さんだってそんなに暇じゃねえんだよ。そんなに日原さんが好きなのかよ」


「咲夜ほどじゃねえぞ。俺はまだ放課後誘い出すようなところまで行ってないから」


「だから、それ誤解だって言っただろ!」


「喩えるなら、俺は美月ちゃんを応援するファン。咲夜は距離感間違えた熱狂的なファン。あんまり困らせんなよ」


「違うって!」


 誤解を生むような行動をしたのは俺だが、俺はちゃんと立場を弁えているつもりだ。


「陸こそ、日原さんに迷惑かかるような行動は慎めよ?」


「慎んでるよ。つうか、変なこと言っちゃわないかびびって、こっちから話しかけられない」


 陸は体はデカイくせに、小心者なところがある。


「勉強会のとき、一気に仲良くなってたじゃん」


「まあ、前よりはね。昨日もくだらないメッセージ送り合って笑ってた」


「陸、そろそろ『ファン』じゃなくて『友達』って名乗ってもいいんじゃないか」


 連絡先を交換し合って対話しているくらいの関係にはなっているようだ。暗殺者の介在でやっと会話のきっかけがある俺より、ずっと彼女と親しいと思う。


「そういや、昨晩のやりとりで話題になったんだけどさ」


 陸がふっと真面目な顔付きになった。


「美月ちゃんが隣のクラスの転校生のルーラルちゃん、どうなったか心配してたんだよ。あれっきり来てないからどうかしたのかなって」


 うちにいるよ。とは言えずに呑み込んだ。話がややこしくなる。


「るーらる?」


 まひるも家にいるラルのことだとは思わなかったらしく、ピンとこない顔で首を傾げている。だがこれ以降の会話の流れで気がついてしまったら大変なので、俺はまひるを黙らせておくことにした。人差し指を立てて唇に当てる。これだけでまひるは口を両手で押さえて静かになった。

 陸はカウンターに頬杖をついた。


「学校的に指名手配してるみたいだけど、目撃情報がないらしいな。連絡先も誰も知らないって」


「そうみたいだな」


「俺、ラルちゃんの連絡先知ってるんだけど、これ先生に報告すべきなのかな」


 陸がツルッと衝撃の発言をした。俺は一瞬意味が分からなくて、絶句した。陸は目を閉じて唸っている。


「学校側が困ってるのも分かるけど、ラルちゃんが黙って行方を眩ませてるのには理由があるんだろうし……」


「待て、マジで知ってるのか。なぜ知ってるんだ」


 学校が面倒になって、日原さんに近づくのもやめたラルは、風の如く姿を消したはずだった。無関係の陸に痕跡を残すなんて、信じられない。


「なぜ、か。まあ、咲夜なら大丈夫そうだから話してもいいかな」


 陸はそう前置きしてから、ことの経緯を話しはじめた。


「つい三日前、ラルちゃんがこの店の裏に現れてさ。俺は学校側があの子を捜してるの知ってたから、呼び止めたんだよ。そしたら泣きそうな顔して『しばらく学校には行けないの』って言い出した。もう本当に深刻な問題抱えてるっぽい感じで」


 状況を想像してみた。我が家のリビングでだらだら七並べをしていたラルがそんな様子を醸し出すだなんて、演技に決まっている。


「で、どういう事情なのか聞いたんだけど、『今は話せない』って教えてくれなかった。でも相談に乗ってほしいって言われて、連絡先を交換したんだよ」


「それで、それ以降、連絡取ってるのか?」


「連日だよ。向こうから連絡入れてくる。まあ、まだ詳しい事情は聞けてないんだけど」


 陸は少し困った風にこたえた。


「相談に乗ってほしいって言ってきたのに、相談してこない。まだ知り合って日が浅いから、様子見てるんだろうね。俺に関することばかり聞いてくるよ。部活はなにをしてるのかとか、休みの日になにしてるのかとか」


 ラルが学校に現れた日の、保健室での打ち合わせを思い出した。

 キルとラルは陸のことを重要人物としてマークしていて、日原さん殺害に利用しようとしている。そして先程もキルが、新しい作戦にはラルの力が必要だと話していた。そう考えると、ラルが陸に近づく目的は、彼を食い物にするための第一歩に間違いない。陸について聞き出そうとするのは、話させることで親しくなったような気持ちにさせる手段であり、ついでに情報収集を兼ねている。と、素人の俺ですら感づいた。

 キルとラルが打ち出した新しい作戦は、もうここまで進行していたのだ。


「陸、もうラルと話すのはやめろ」


「え? なんで」


 なにも知らない陸はきょとんとしていた。


「たしかに学校とあの子の板挟みになるのはしんどいけど、困ってるっていうんなら聞いてあげた方がよくないか」


「とにかくだめだ。もう連絡が来ても無視するんだぞ。ブロックしてしまえ。無視したらしたで家にまで来るかもしれないけど、絶対に関わっちゃだめだからな」


「実際来たよ、部屋まで」


 さらっと言われて、俺は噎せそうになった。


「なにかされたか!?」


「なにも……なにもなかったよ」


 陸は呑気に宙を見上げた。俺は背筋が寒くなった。ラルの毒牙は、もうそんなところまで進んでいたとは。


「もう絶対近寄らせるなよ」


「なんでそこまで酷いこと言うんだよ。咲夜らしくないな」


 陸が残念そうに首を傾けた。

 俺だって、ラルが本当に困っている普通の女性だったらこんなことは言わなかった。でも相手は明らかに陸を誑かそうとしているのであって、最悪は陸の大好きな日原さんの殺害に直結するのだ。


「もしかして、咲夜がラル派だから……とか?」


 陸は真剣な面持ちでアホ全開の推論を呈した。こっちはお前を心配してるんだぞ、陸。


「ラル派も日原派もあるかよ。黙ってようと思ってたけど、ラルが校舎裏で煙草っぽいの咥えてるのを見かけた。不良と関わるとろくなことないぞ」


 正確には煙草ではなくて煙草っぽいチョコレートだったが、嘘はついていない。陸は、はあ、と煮えきらない返事をしただけだった。


「煙草ねえ……でもそういう子って、なにかしら闇を抱えてるもんだしさ。相談に乗るくらいはいいんじゃないか?」


 騙されている。こいつ自身がお人好しなのに加え、刺激的なラルの言動が彼を見事に騙している。


「いいか陸、お前のそういう下心が透けて見える様子が、ラルを調子づけてるんだぞ」


「はあ? なんだよいきなり、失礼だな」


 陸が騙されるのは、見ていられない。俺は腹を括った。

 ちらと下を見ると、まひるがまだ口を押さえてこちらを見上げていた。惣菜のカウンターの横にあった冷蔵ショーケースを指差す。


「まひる、牛乳寒天買ってやるよ。外のベンチで食べておいで」


「やったあー! 今日のお兄ちゃん太っ腹!」


 まひるが思い切り手を振り上げて喜ぶ。単純な妹で助かった。牛乳寒天を買い与えてまひるを外に出し、俺は再び陸と向き合った。


「煙草よりも許し難い理由がある」


「なに?」


 俺の真剣な声色を受け、陸もそれなりに真顔になった。彼の目を見て、俺はハッキリと言い切った。


「あいつは暗殺者だ」


「はい?」


 当然目をぱちくりさせて困惑する陸に、俺は続けて説明した。


「前にうちに遊びに来たとき、キルがリビングに罠を仕掛けまくってたの見ただろ。ラルはその仲間なんだ。ただやり方がキルとは違って、こうして陸を弄ぼうとしてる」


 まひるにもばあちゃんにも言えない、真実だ。知っているだけで命を狙われかねない事実なだけに慎重に取り扱ってきたが、そんなこと言っていられない。陸にはちゃんと伝えておくべきだ。


「お前も日原さんも、キルの暗殺ごっこだと思って本気で受け止めてなかったみたいだったけど……分かるだろ、あの罠が本物だったことくらい。ラルも同じくらい危険なんだよ」


 陸はなおも不思議そうに聞いていたが、やがて小さく発した。


「はあ、なるほどね」


「分かってくれた?」


「意外とやばい状況なのは分かった」


 その言葉に、俺はほっと安堵した。


「分かってくれたか! それじゃ、ラルの件は……」


「まさか、咲夜がそこまで暗殺ごっこにのめり込んでたとはな……」


 俺の発言を遮って出た陸のため息が、安堵を拭い取って逆に凍りつかせた。


「キルのいたずらの時点で、かなりマジにやってるなとは思ってたけど、想定を遥かに上回るハマり具合だ」


「違う、陸。ごっこじゃないって。遊んでるわけじゃないって」


「いつの間にラルちゃんまで参加してたのかよ。しかも暗殺者役かあ」


 まずい。全然真面目に取り合ってくれない。


「なにがやばいって、咲夜の本気具合。現実と遊びの区別ついてる? 現実にはそんなに暗殺者いねえぞ」


 ついに俺の頭の心配をされた。


「普通はそう思いたいところなんだけど、本当にいるんだって! キルはマジで日原さんを狙ってるんだよ。本物のナイフとか、本物の毒針とか持ってて……ラルも典型的なハニートラップを体得してる本物のアサシンで……」


「はいはい。ラルちゃんのハニートラップなら騙されてみたいもんだよ。お前マジで落ち着け。最近、様子おかしいぞ。従姉妹の小学生を預かって、疲れが溜まってるんだよ」


 そんな。十年以上も一緒だった信頼できる陸だからこそ話せたのに、信じてもらえない。これは流石にショックだった。幼馴染みの俺がこれだけ真剣に話していれば、いくら現実味のない話でも、陸なら信じてくれると思ったのに。

 打ちひしがれる俺に、陸が余計な心配をする。


「無理するくらいなら、俺でも誰でも頼ればいいだろ。なんならキル、預かろうか?」


「だからキルも暗殺者……いや、俺の従姉妹だから俺が面倒見るよ」


 途中まで反論しようとしたのだが、俺の頭がおかしくなったと思っている陸にはこれ以上続けても無駄だと悟った。仕方なくキルを従姉妹という設定に戻して、軌道修正した。


「ばあちゃんもいるし大丈夫。ごめんな、心配かけて」


 謝りながら悲しみにくれた。腹を括って真実を吐露したのに、結果、俺がひとりで遊びに夢中になりすぎているみたいに捉えられて終わった。陸なら信じてくれると、俺は信じたのに。

 陸は真面目な顔を解して、くしゃっと笑った。


「疲れてはいるんでしょうけど、お前、キルと仲良いもんな。俺も結構好きだよ、ああいう快活な子」


「仲良くなんかねえよ」


「仲良いだろ。だって夜中にふたりでホラー番組観て、一緒にびびって騒いでしがみつき合ってるんだろ?」


 陸の苦笑に耳を疑う。


「なぜそれを……?」


「私が喋ったからな!」


 瞬間、陸の背後からぴょんっと白い犬のフードが飛び出した。いい加減見慣れたその姿にぎょっと目を剥く。


「キル!? なぜここにいるんだ!」


「ウズラウィンナーフライとやらを見たくて見たくて我慢ならなくてね。いやあ、赤いウィンナーとちっちゃなタマゴが交互に刺さって揚がってる姿は最高にキュートで至高のラブリーだぜ」


 キルは陸の首筋に腕を巻きつけて張り付いている。ガタイのいい陸は、キルが飛び乗ったくらいではよろめいたりせず、キルを背負っていた。


「サクとまひるが来るより、もう十分くらい前からいたぜ。ね、りっくん!」


 キルは無邪気な声色に似合わない下衆顔でにやけた。耳元で喋るキルに、陸は苦笑いした。


「『サクだー! 隠れろー!』って言いながら隠れたから、黙ってたけどね」


 ずっと潜んでいたのか。全く気が付かなかった。家を出る前までリビングでラルと会議していたから、動かないと油断していた。まさか先回りされるとは。

 俺がラルについて陸に注意喚起していた、そのやりとりすらもキルに聞かれていたということだ。暗殺者の恐ろしさを改めて痛感し、鳥肌が立った。

 キルがニヤニヤと牙をちらつかせる。


「サクがなかなか来ないから、待ってる間にりっくんといっぱいお喋りしちゃったよ。サクが遊びの暗殺ごっこにのめり込みすぎてて私ですら引いてるってね」


 俺は息を呑んだ。陸が俺の話を信じてくれなかったのはこういうことだったのか。キルが先手を打って、陸に信じさせないよう吹き込んでいたのだ。


「それと、エセ臭満載のホラー番組でサクがびびりまくってたこととかも話したよ」


「それはびびってたのはお前だろ!」


「でも『怖いから』を理由に誘ってきたのはサクの方だよ。観ながら結構悲鳴上げてたし」


「キルの方がびびってた!」


 むきになって言い返す俺に、陸が吹き出す。


「小さい子であるキルがホラー番組怖がるのと、咲夜が怖がるのでは訳が違うぞ」


 たしかにビジュアルだけで言えばそうかもしれないが、キルは暗殺者なのだから一般人の俺より強靭なはずだ。それなのに暗殺者であるという事実が通らない以上、俺の主張は成り立たない。


「そんでね、りっくんはサクが小さい頃の話を教えてくれたの」


 キルが引き続き怪しく笑む。


「かくれんぼで焼却炉に入って出られなくなった話はめちゃくちゃ笑ったぜ!」


「陸! なんで過去の過ちばらすんだよ! しかもそれ、本当に怖かったんだから笑い話にすんな!」


 先手を打たれただけではない。キルに俺の半生を知られた。いや、それ以上の問題が起こっている。


「ホラー番組を夜中に鑑賞するのに付き合ってくれるなんてすげえいい子じゃん。話した感じも面白い子だし」


 陸が肩の上のキルをぽんぽん撫でた。キルもあどけなく頬を緩めた。


「りっくんと喋ってると、楽しくてつい盛り上がっちゃうよ」


 先手を打たれ、俺の昔話を暴露されただけでない。


「咲夜、大変なときは俺がキル預かるよ。めっちゃかわいがる自信ある」


「私も遊びに行きたいぞ!」


 陸とキルが友達になってしまった。

 考えてみたら、このふたりは勉強会で顔を合わせたときから、お互いを認め合っている様子はあった。こんなふたり、どう足掻いても仲良くなってしまう。


 まずい、これで陸がキルを甘やかすようになったらキルが調子に乗る。陸も妹ができたみたいに楽しんでいる。ふたりが協力していたずらを仕掛けたら飛んでもないことになる。そのときの犠牲者は多分、俺だ。


「危険な協定を結ばれてしまった……」


 絶望の縁に立たされ、心の悲鳴が口から零れた。


 *


 行きはまひるの背中だけを見ていたのに、帰りはそこにキルが加わった。

 俺が陸と話し込んだせいで放置されていたまひるは不機嫌になっていたので、お詫びにウズラウィンナーの串フライを、予定よりたくさん買ってあげた。


「本当はさ、りっくんの暗殺者としての素性を暴くために、ここんとこ時々会いに行ってたんだよ」


 キルの白い後ろ頭が勝手に喋り出す。


「けど流石はプロだよね、なかなか暗殺者の顔を出さないよ。面倒見のいいお兄ちゃんみたいな様子しか見せない」


「当たり前だ、暗殺者じゃねえんだから」


「そこでラルに手伝ってもらって性根を引きずり出そうとしたんだけど、ラルも手こずってる。部屋まで上がり込むほど距離を縮めたのに、服を脱がすことすら叶わず、なにも得て来なかったんだよ」


 やはりラルの行動はそういう意図があったようだ。俺は間抜けな三角耳にしたり顔で言った。


「残念だったな。陸はノリが軽いけど、意外とビビリで奥手で硬派なんだよ」


「そうね、ちょっと侮ってたわ」


 返事は、手前のキルからではなく真横から飛んできた。びくっと振り向くと、いつの間にかラルが腕を組んで立っていた。


「暗殺者って、なんでそうやって気配なく現れるの?」


「暗殺者だからよ。当たり前でしょ」


 強かに言って、ラルも隣を歩きはじめる。


「陸ちゃんは上手く落とせないし、キルは目的忘れて友達になっちゃうし。面白くないわね」


「友達になっちゃったのは仕方ないだろ。馬が合うキャラだったんだよ」


 キルがくるりと顔だけラルを振り向く。ラルが髪を掻き上げる。


「まあ、陸ちゃんは殺すつもりはない相手だから、情が移っても構わないけど。本来の目的は忘れないでよ」


 ラルの呆れ顔に俺は少しほっとしていた。陸は騙されて利用されることはあっても、命までは狙われていない。

 そう考えていたのが顔に出ていたのか、ラルはびしっと言った。


「とはいえ、陸ちゃんが私たちの邪魔になれば、殺すのも厭わないから」


「私たちに殺せる相手なら、な」


 キルが重々しく付け足した。


「ヘラヘラして見えるが、あれは相当な手練だぞ。私を懐柔してラルの接近も躱す。只者じゃない」


 勝手に懐柔されたくせに、キルは大真面目に言った。ラルも持論を展開する。


「そうね。一見単純そうなのに、ここまでして落ちないってことは余程こちらに警戒してるのね。こちらが暗殺者であると、既に気づいているのかもしれないわ。だとしたらとんでもない敏腕……私たちの方こそ、もっと警戒して近づいた方がいい」


「だから暗殺者じゃないって……十年以上一緒にいる俺が違うっつってんだから違うんだよ」


 これ以上陸を巻き込まないでほしい。しかしキルもラルも譲ろうとはしなかった。


「暗殺者が暗殺者らしくないのは当然だろ。素性隠すの上手すぎて、素人には分かんねえだろうな」


「プロにも分からないわ」


「お前らも見分けついてねえんじゃん!」


 根拠もないくせに、こいつらは俺の幼馴染みを暗殺者と決めつけてしまった。

 手に持った袋の中の、ウズラとウィンナーのフライがカサカサと軽い衝突音を立てている。ただ器用なだけの一般人が、暗殺者たちから警戒つつ隙を探されるのは、回避できそうになかった。

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