6.とんでもないのが転校してきた。

 テストから解放されて、学校じゅう気が抜けて浮き立っていた。


「やばい! すごい! 嬉しい!」


 陸のテンションが、いつにも増して高い。


「朝から元気だな、陸。テストが終わって嬉しいのは分かるけど、落ち着け」


「違う、解放されて喜んでるんじゃない。咲夜、隣のクラス見てないのか?」


 俺の机の横にしゃがんで、陸がこちらを見上げてくる。


「転校生が来てるんだよ!」


「マジで? 高校で転校生って、珍しいな」


 それは知らなかった。俺は陸を見下ろし、問うた。


「女の子で、そんでめちゃくちゃかわいい。当たり?」


「当たり! なんで分かった?」


「陸のテンションの高さを見ればなんとなく察する」


 乾いた声で言ったら、陸はあははと笑った。


「大体合ってるけど、強いて言うなら『かわいい』じゃなくて『きれい』かな。セクシー系」


 陸以外にも、噂を聞いた生徒たちがざわざわしていた。彼らは隣のクラスを覗き、戻ってくると更に盛り上がる。薬物並のハイ状態の理由は、テスト終了による熱気ではなく、美人の転校生だったようだ。


「陸、お前は日原さん一筋なんじゃなかったのか?」


 ちょっと呆れた俺に、陸は手をひらひらさせて否定する。


「咲夜は芸能人を複数人好きになったりしないのか? それと一緒だよ。どっちにしろ、俺の手に届く相手じゃないんだから」


 陸は日原さんを独占しようとはしない。あくまでアイドル視しているだけなのだ。


「咲夜も見とけ。一緒に行こう」


 陸が俺の机をぱしぱし叩いて促した。

 廊下に出ると隣のクラスの戸に野次馬が群がっていた。例の転校生を見た生徒は、男女問わず感嘆していた。息を呑む男子もいれば、はあ、とうっとりしたため息を洩らす女子もいる。すげえすげえとはしゃぐ連中もいて、俺はそんな人垣の向こうを覗こうと背伸びした。

 隣の教室の中が見えた。瞬間、目に飛び込んできた少女の姿に、ハッと呼吸が止まった。


 腰まである長いストロベリーブロンドの髪が、真っ先に目を引きつける。端正な横顔から伸びる睫毛は遠目からでも分かるほどの長く、肌は雪のように白い。ブラウスは第二ボタンくらいまで開いていて、豊満な胸が溢れそうになっている。スカートの丈もむっちりした腿まで見えるほど短く、あまりにも挑発的だ。

 周りの生徒たちも、扇情的すぎて近づき難いのか、彼女から妙に距離をとって遠巻きに鑑賞している。人が集まってくる日原さんとは、違ったタイプの魅力だ。


「ほんとだ、すっげえきれい。髪の色とか変わってるし、やけに色白だし、もしかして海外から来たのかな?」


 本人には聞こえないように、こそっと声を潜めた。俺の後ろにいた陸は、長身なので背伸びせずとも転校生を眺められていた。


「かもな。名前はルーラルっていうらしいから」


 陸は無駄に情報収集が早い。俺らと同じように転校生を見に来ていた平尾が、ぼそりと呟いた。


「やべえ。俺、日原さんよりあの子の方がタイプかも」


「俺は美月ちゃんかな」


 他の野次馬も勝手に天秤にかけはじめた。転校生本人は聞こえていないのか、聞こえているけれど聞こえないふりをしているのか、黙って教科書を整理している。


 まじまじ見ていても失礼だ。そろそろ教室に戻ろうかと思ったときだった。転校生が急に、ふいっとこちらに顔を向けた。どきりとする。目が合ったような気がした。

 転校生は正面も美しくて、野次馬たちはピキッと凍りついたり慌てて目を逸らしたりした。


「ねえ、そこの君」


 転校生が口を開く。深みのある色っぽい声だ。そこの君というのがこの中の誰を指しているのか、見ていた生徒たち同士で目線を探り合う。


「君よ」


 目が合っている気がしてならない。でも、俺なわけがない。呼ばれる理由が見当たらない。

 そこへ、体育教官の怒声が響いた。


「おらあ! ホームルーム始まるぞ、教室帰れお前ら!」


「うわあ! ゴリ岡が来たぞ、逃げろ!」


 群がっていた野次馬たちは一斉に散って、それぞれの教室へと引っ込んだ。俺と陸も自分の教室に戻る。

 戻りながら、気になってしまった。先程の転校生の呼びかけは誰に向けたものだったのだろう。俺だったのだとしたら、なんの用事があったのだろうか。

 少し悶々としていたが、教室に戻ってすぐ、我がクラスにも咲く花にまた目を奪われた。


「美月ちゃんかわいいな」


 陸がぽつんと声に出した。日原さんは窓際の陽だまりでつやつやの黒髪を潤ませ、仲のいい友達と笑い合っていた。


「新アイドルもきれいだったけど、俺はやっぱり清純派な美月ちゃん推しだな」


 陸が真顔で言う。アホか、と陸の背中を小突いてやった。まあ、俺も日原さん推しだけれど。


 *


 その日の昼休み、転校生はうちのクラスを訪ねてきた。


「失礼するわよ」


 彼女が教室の戸の手前に立っただけで、平凡なクラスメイトたちはざわっとざわめいた。ホームルーム前に見たときは椅子にかけていたが、立っている姿も美しい。華奢な脚がすらっと伸びて、その細さに驚かされる。腕や腰もきゅっと引き締まっているのに、不思議と胸は豊かだ。

 整った唇から、彼女が訪ねる名前が飛び出す。


「日原美月ちゃんって、このクラスよね。今、話せる?」


 美しい人の口から美しい人の名前が出た。クラスメイトたちがちらと日原さんの方を見る。日原さんはきれいすぎる転校生に怯むでもなく、いつもどおり愛想よく返事をした。


「私だよ。初めまして!」


 席から立ち上がって、転校生の方へと歩み寄っていく。日原さんと転校生が並んだ瞬間、俺の傍にいた陸が呟いた。


「まばゆい」


 華のあるふたりが並ぶと本当に眩しい。そこだけ異世界のようだ。

 自身の隣に立った日原さんを見て、転校生はぱあっと顔を輝かせた。


「わっ、噂どおり、本当にかわいいわ!」


「え?」


「あのね、さっきからクラスの子たちが私を見て美月ちゃんの名前を出して、比べるようなこと言ってたの。それでどんな子なのか気になって……突然訪ねたりしてごめんなさい」


 ぺこりと頭を下げた転校生に、日原さんはふふっと微笑んだ。


「そうなんだ。私も、あなたのことは皆から聞いてるよ。みやこルーラルちゃんだよね」


「うん。よかった、美月ちゃんがいい人そうで。まだ友達が全然できないから、話せる人いなくて不安だったの」


 きらきらした大きな瞳で日原さんを見つめ、転校生が言う。


「美月ちゃん、もしよかったらこれを機に仲良くしてくれない?」


「もちろん! 私も友達になりたい」


 これはえらいことになった。学校内で一、二を争う美貌のふたりが仲良くなった。単品でもきれいなのに、並んだら余計に気後れするほどの絵面になる。


「嬉しい! それじゃ、早速だけど今日の放課後、街を案内してくれない?」


「うん! 行こう行こう!」


 キャッキャと笑い合う姿は本当に絵になる。陸が「まばゆい」なんて言葉を使うのもうなずける。

 日原さんもだけれど、あの転校生も見た目だけでなく話し方も感じがよかった。どことなく色気があって、大人な雰囲気がある。

 そしてふたりとも、穏やかで落ち着いた女の子なのだ。自分の方がかわいいなどとライバル視するのではなく、こうしてすぐに仲良くなる社交性がある。


「じゃ、後でね!」


 転校生が手を振り教室から離れた。俺はほうけている陸の方をちらと見た。


「すごい組み合わせが誕生したな」


「アイドルデュオになってしまったな」


 陸が頭を抱えた。


「あのふたりが放課後に街を散策するのか。絶対ナンパされるぞ。五回はされるぞ」


「むしろ神秘の壁ができて話しかけられないんじゃないか」


 しばらく余韻に浸っていたが、俺はハッと、先生に呼ばれていたのを思い出した。


「外の花壇の雑草取り、頼まれてたんだった。行ってくる」


 席から立ち上がって、俺は教室を出ていった。


 *


 うちのクラスに日原さんがいるように、隣のクラスにもアイドルが生まれた。それだけで、あの転校生が俺と関わることはないだろうと思っていた。

 だというのに、雑草取りから教室に戻る途中、その状況は変わった。


「……えっ」


 たまたま校舎裏を通りかかった俺は見てしまった。転校生が煙草を咥えている姿を。

 箱から取り出して唇にあてた、そのタイミングである。目が合ってしまった。先程教室で見た華やぐ瞳は見る影もなく、凍りついたような目でこちらを見据えている。


 見てはいけないものを見てしまった俺は一時硬直し、頭が働かなくてどうしたらいいか戸惑った。結局、見なかったことにして去ろうとした。


「待って。無視はないでしょ」


 折角スルーしようとしたのに、転校生の方から引き止めてきた。


「あなた、今朝も私の呼びかけを無視したわよね? 私が見えてないの?」


 色気のある声が低くなる。俺は立ち止まって、彼女の方を振り向いた。


「今朝のあれ、俺を呼んでたんだ。気のせいかと思って無視しちゃった」


「私はしっかりあなたの目を見て、呼んだつもりだけど?」


 煙草を指に挟んで、スッと歩み寄ってくる。俺はじりっと後ずさった。校舎の壁に背中が当たる。

 先程まで見せていた社交的な美少女は猫を被った姿だったのか。目の前にいる転校生は、獲物を見つけた肉食動物のような鋭い目を光らせている。


「あなた、朝見咲夜くんよね?」


 名前を呼ばれ、びくっとした。


「なんで、俺の名前を?」


「やっぱり。情報どおりだったから、そうかなって思ってたの」


 俺の背はもう壁についているというのに、転校生は更に詰め寄ってきた。間近まで寄ってきて、煙草を挟んだ指でつつっと俺の頬に触れた。


「ただ、情報から想定していたより、ずっと子供ね」


 ぞくっと背筋に悪寒が走る。


「なんだよ、情報って……」


 警戒した俺の声は、少し掠れた。距離を詰められて、急に触れられて、逃げ出したくなる。それなのに脚が動かない。

 隠れヤンキーに追い詰められて怖いはずなのに、血の気が引くどころか頬が熱くなってくる。なぜだろう、この妖艶な瞳に頭がくらくらしてしまう。


「それより。咲夜くん今、見て見ぬふりしようとしなかった?」


 指の間の煙草で、ちょんと頬をつついてくる。息遣いまで聞こえそうな距離に、変な汗が出てきた。


「それは……」


「あなた、正義感の塊だって聞いてるんだけど?」


 だから、その情報はどこから得ているんだ。俺は少し呼吸を整えた。


「もちろん、未成年の喫煙なんて許容しない。でも……転校してきたばっかりで、初日からこんなのがばれたら、いづらくなるだろうと思って」


「ふうん。なるほどね。咲夜くんの正義はそこにあるのね。気に入ったわ」


 彼女はどこか達観した物言いで、ふらっと俺から離れた。目線を外されて、見えない糸から開放されたような感覚さえ起こった。

 まだ心臓がばくばくいっている。なんだろう、この劇薬のように危なげな色気は。


「あんた何者なんだ……? なんで俺を知ってるんだよ」


 俺はまだ背中を壁に張り付けたまま、離れていく転校生を睨んだ。転校生はニヤリと口角を吊り上げた。


「情報をリークする奴なんて、ひとりしかいないでしょ?」


「ん?」


「ほら、上を見て」


 そのときだった。突然空から、どしゃっと白いなにかが落ちてきた。俺と転校生の間に着地したそれがなんなのか、一瞬判別がつかなかった。

 その物体が、どこからか飛び降りてきたキルだったと気がつくまで、だいぶ時間を要した。


「キル!? 来てたのか!」


 キルはこちらを振り向いてひょいっと手を上げた。


「よっ! 楽しそうだなサク。校舎裏で逢瀬とは隅に置けないね」


「違う!」


 俺が喚くもキルは気にせず、転校生の方に向き直った。


「ラル、久しぶり。制服似合ってんじゃん。そんで、相変わらず言動が際どいな」


「やだ、どこから見てたのよ。キルも相変わらず野暮なのね」


 ニッとにやけるキルと、うふふと微笑む転校生。俺は目が点になった。


「知り合い?」


 間抜けに目をぱちぱちさせる俺に、キルが呆れ顔を向けた。


「まだ分かんないのか? ラルは私の仲間だよ。フクロウ所属の暗殺者、兼諜報員だ」


「はあ!?」


「まさかコードネームそのまま名乗って転入するとは思わなかったけどな。危なっかしいぞ」


「いいじゃないの別に。正体がばれたら殺せばいいだけだもの」


 転校生がさらっと恐ろしいことを言う。キルは彼女と俺を交互に見比べた。


「ラルは私とほぼ同期の暗殺者なんだ。今日からこっちに来るって聞いて、サクの個人情報を漏洩しまくっておいたぞ」


 だから俺の情報を持っていたのか。納得する反面、キルの迷惑行為に腹が立つ。

 転校生のラルは長い髪を手の甲で払った。


「咲夜くん、改めましてこんにちは。都ルーラル、アサシンでスパイよ。ラルって呼んでね」


 ぱちっとウィンクしてくる。俺は言葉を探した。

 転校生は暗殺者だっただと。しかもキルと親しげだ。学校のアイドルがふたりに増えただなんてそんな平和な問題ではない。もっとまずい繋がりがこんなところにあったのだ。嫌な予感がする。


「組織は制服まで用意してくれるんだな」


 キルがラルの短いスカートを引っ張る。ラルはそれを払うでもなく、仁王立ちしていた。


「それどころか、学校の上層部を買収して転入手続きまで取ってくれたわよ。キルもこうやって入り込めばよかったじゃない」


「私はそういう、騙して近づくタイプじゃないから」


 組織が転入を手伝っているということは、ラルの転入は仕事が絡んでいるということだ。


「私はこの完璧な容姿を活かして、ターゲットに接近したわ。もう約束を取り付けたから、あんたもサポートしてね、キル」


「バーカ、私がメインでラルがサポートだよ」


 約束を取り付けた、と聞いて真っ先につい先程の花と花の共演が脳裏を過ぎった。キルが吠える。


「日原美月は私の案件だ!」


「あんたの仕事が遅すぎるから、私が派遣されたんでしょ!」


 最悪の予感が当たってしまった。

 俺は背中を預けた壁に更に体重を傾けた。キルひとりでも厄介なのに、日原さんを狙う暗殺者がふたりに増えた。


「ラル……日原さんとは友達になりたいんじゃなかったのかよ」


 ため息混じりに言うとラルはにこっと微笑を浮かべた。


「まさか! 美月ちゃんに近づくための演技に決まってるでしょ? 私、ああいうカマトトぶった女が大嫌いだもの」


 これはかなりまずい。友達になれたと思っている日原さんは、疑うことなくラルに近づいてしまう。

 そうだ、俺が日原さんに注意を促せばいい。今日はとにかく、放課後の約束を取りやめてもらうのだ。こうしてはいられない。一刻も早く日原さんに伝えよう。


「じゃあ俺、教室に戻る」


 キルとラルを残して立ち去ろうとしたら、ラルがねえ、と引き止めた。


「結局咲夜くんは、これを注意しないのね?」


 ラルは指の間に挟んだ煙草を、ひょいと振った。


「……目、瞑ってやるって言ってんだから、もういいだろ」


「つまんない男ね」


 ラルがつかつか歩み寄ってきて、指に挟んでいた煙草を半開きになっていた俺の口に突っ込んだ。


「これで同罪」


「えっ、うわっ……!」


 火がついていないとはいえ、こんなもの咥えていたくない。


「似合うじゃない! ちょっとくらい悪い子の方がかわいいわよ」


 ふふっと笑い、ラルは踵を返した。戸惑っている俺を見てキルが可笑しそうにニイッとにやけ、それからぴょんっとフェンスを乗り越えていなくなった。


 取り残された俺は、まだ口に咥えたままだった煙草の味に呆然としていた。

 これ、煙草じゃない。煙草そっくりの見た目の、チョコレートだ。


 *


「日原さん」


 教室に戻るなり、俺は日原さんに声をかけた。もうすぐ始まる五限目の準備で教科書を取り出していた日原さんは、上目遣いで俺を見上げた。


「どうしたの?」


「あの、今日の放課後なんだけど……」


 言いかけて、ハッとなった。なんて言うつもりだ、俺。まさかそのまんまラルが暗殺者で君を狙っていると言うわけにはいかない。キルのときもそうだったが、信じてもらえるはずがないのだ。

 だからといって、ラルは本当は君を陥れようとしている、とも言えない。どうしたらいいんだ、どうしたら日原さんを傷つけずに、ラルとの約束を撤回できるのだろう。


「朝見くん? 放課後がどうかした?」


 日原さんが続きを催促する。俺は急にコミュ障になったみたいに会話ができなくなった。


「あ、と。ええと……その、今日の放課後、遊びに行きま、せん、か……」


 自分でも情けなくなるくらいたどたどしい。突然の誘いに日原さんが目をぱちくりさせる。俺は慌てて付け足した。


「実は、その。アイスの割引券があった気がして、それの期限が今日までだった気がして、日原さん、甘い物とか好きそうな気がして」


 我ながらめちゃくちゃな日本語を喋っている。頭の悪い発言が出ている自分が恥ずかしくて、顔が熱くなってくる。


「だから、つまり。日原さんと一緒に行きたいなって……!」


 言いたいことをやっと締め括る。自分のあまりのバカさに酸欠になりそうだ。

 日原さんは俺の目を見て、ぽかんとしていた。そりゃそうだ、急に誘われて、しかも誘い文句が下手くそだったのだ。驚きもするだろう。しかし心優しい日原さんは引いた顔などせず、柔和に頬を綻ばせた。


「そっか、ありがとう。誘ってくれて嬉しい」


 ふんわりした笑顔はいつもかわいい日原さんを更に輝かせている。それなのにラルの件への焦りで頭の中がそれどころではなくて、かわいさを噛み締めている余裕すらなかった。


「でも、今日は他の約束があるの。今日じゃなくてもよかったら絶対に行ったんだけど……」


 日原さんは申し訳なさそうに両手を合わせた。


「あっ……そうだよね」


 これも当然だ。アイスで釣ったところで、日原さんは先に約束していたラルを優先するに決まっている。


「折角誘ってくれたのにごめんね。また今度一緒に行こう」


 日原さんはこんな俺にも寛大に接してくれた。俺は力なく頷いて、一旦彼女から離れた。頭を冷やすために廊下に出る。

 最悪だ。よく考えもしないで日原さんに声をかけて困らせてしまった。しかもアイスの割引券なんか持っていない。ただのきっかけ作りのために咄嗟についた嘘だ。仮に日原さんが割引券目当てで俺についてきてくれたとして、本当は券はなくて日原さんを連れ出すための口実でした、だなんて日原さんをがっかりさせるだけではないか。日原さんを助けたい一心だったとはいえ、こんな嘘をつくなんて自分が許せない。


 そんな自己嫌悪に加えて、バカすぎる自分に余計に腹が立つ。日原さんにラルとの約束を破らせる方法が思いつかない。放課後までになんとかしないといけないのに、焦りが頭の回転を悪くする。必死に考えを巡らせているところへ、陸が近寄ってきた。


「おーい咲夜よ。お前、勇気あるな」


「うるせえ、今考え事してるんだよ」


「そりゃ思い悩みもするよな。クラス皆の前で美月ちゃんをデートに誘っておもっきし振られたんだから」


「はあ!?」


 俺は耳を疑って、ブンッと顔を陸に向けた。


「誰がいつデートなど誘いました!?」


「お前が今ついさっきだよ。振られて傷ついたのは分かるけどそんなに自暴自棄になるなよ。勇気ある行動は称賛に値する。咲夜はそんな器じゃなかっただけだ」


 慰めたいのか貶したいのか、陸は半笑いで俺の肩をぽんぽん叩いた。絶望的な気持ちになる。


「今教室で見てた奴らも、そう感じてるんだろうな……」


 日原さんを救えなかったどころか、とんでもない誤解を招いてしまった。日原さんもデートの誘いだと思ってしまったかもしれない。考えてみたら、そう思われても仕方ない言動だった気がしてきた。


「大丈夫か咲夜? ますます顔色悪いぞ」


 陸の気遣いが胸に刺さる。


「マジで調子悪そうだな。保健室行く?」


「平気、頭が痛いだけだから」


 頭痛というのも、悩み故の。しかし陸は真に受けた。


「頭が痛いのか!? やっぱ具合悪いんじゃねえか。変な行動するから、おかしいなとは思ったんだよ」


「失礼な……素の行動だよ」


「保健室行くぞ。午後の授業は休むって俺から先生に言っとくから」


「いや、平気だって! 大丈夫だから!」


 陸はすぐに早とちりする。首を振る俺の手首を掴み、ズルズルと保健室へ引っ張っていく。


「大体、咲夜は真面目すぎるんだよ。わりかしバカのくせにすぐ考え込む。知恵熱でも出てるんじゃねえか?」


「出てない! ちょっと待てって、陸、力ありすぎ」


 バカ力の陸に引っ張られると、抵抗しても逃れられないのだった。


 *


 とうとう陸に保健室まで引きずられた。陸は保健室をキョロキョロ見回し、やっと俺の腕を離した。


「保険医の先生、席外してるみたいだな。後で報告すればいっか。とりあえず寝てろや」


 そう言い残して陸は保健室を出て行った。カラカラと閉められた戸に、俺はため息を洩らした。ズル休みじゃん、こんなの。だが教室に戻ったら陸に怒られそうだ。仕方ない、サボろう。


 保健室は静まり返っていた。誰もいないのかとも思ったが、よく見たら三台あるベッドのうち真ん中のものだけカーテンが閉まっている。誰か寝ているようだ。

 俺も左端のベッドに腰を下ろした。ズル休みとはいえ折角休ませてもらえる機会を貰ったのだ、この静かな空間でラルの計画を阻止する方法を考えよう。ゴロンと横になって、仰向けに寝そべる。白い天井が俺を見下ろしていた。

 枕の寝心地が悪くて、もぞもぞと横を向く。真ん中のベッドがある方に顔を向けたときだった。突然、真ん中のベッドを包んでいたカーテンがシャッと開いた。


「ようこそ、咲夜くん」


「うわあっ」


 聞き覚えのある声に、俺は勢いよく飛び起きた。

 真ん中のベッドに腰掛けてきたのは、今まさに対策を練ろうとしていたラルだったのだ。


「びっくりした! なに、サボりか!? 転校初日からサボりなのか!?」


「やあね、人聞きの悪い」


 ラルがすっと布団から立ち上がる。そして俺が寝転ぶベッドに移動してきて、すとんと座った。


「咲夜くんとお友達が廊下で話してるの聞いて、咲夜くんが保健室に来るって分かったから。待ち伏せしてたのよ」


「なんで!? 授業受けろよ! 不正な手続きとはいえ籍置いてるんだろ?」


 追い払おうと手でシッシッと払ったが、ラルには響かない。


「だって授業とかホームルームとか、だるいんだもの。放課後まで保健室で過ごそうと思ってるのよ」


 むしろラルは接近してきた。


「それに授業なんかより、咲夜くんに興味が湧いちゃったし」


 体を捻り顔を近づけて、妖美に目を細める。俺は息を止めた。


「見てたわよ。さっき美月ちゃんを放課後誘い出そうとしてたでしょ? 私の邪魔がしたかったのよね。でもそんなに私の気を惹きたいなら、私にアプローチしてよ」


「俺はなんの罪もない日原さんが、お前ら暗殺者に狙われてるのが気に入らないんだよ」


 強気に睨みつける俺の威嚇も虚しく、ラルはまた少し距離を詰めてきた。布団の上に投げ出す俺の腿に、手を乗せてくる。


「おバカのくせにお堅くて、あんまりに一生懸命なんだもの。懐柔したくなっちゃうわ」


 指先の熱が脚を伝ってきて、ぞぞっと鳥肌が立った。身じろぎする俺を、ラルは面白そうに見つめてくる。


「咲夜くんのこと、私に教えて」


 ラルの息が耳にかかってくる。俺はぐっと顔を背けた。


「教えることなんかない。大体はキルから聞いてるんだろ」


「察しが悪いのね。キルが知らないこと、教えてほしいって言ってるの。そうね、例えば……」


 ラルの唇がどんどん近くなる。もう耳たぶに触れてしまいそうだ。


「触ってほしいところとか、気持ちよくなっちゃうところとか……」


 頭がガンガンする。


「好きな女の子とか」


 なんだろう、この脳が溶ける感じ。


「女の子……?」


「うん。いるでしょ、好きな子のひとりやふたり」


「なんで……」


「私がその隙間に入り込みたいから」


 ラルの冷たい指が、俺の頬を撫でる。俺はびくっと体を弾ませ、首を傾けて拒んだ。ぞくぞくする。それでも、ラルの指はまだ肌を這っていた。


「聞かせて、咲夜くん」


 ラルが俺の耳元で、囁やき声を出したときだった。

 突如、窓がガラッと無骨な音を立てた。


「ラル。その辺にしとけ」


 窓から飛び込んできたのは、見慣れた白い犬耳。見るなり、ラルはチッと舌打ちをした。


「キルったらデリカシーないわね。空気読みなさいよ」


「読んだ結果、入ってきたんだろうが」


「味見くらいさせてくれたっていいじゃない」


 いつもどおりの粗笨なキルを見て、我に返った。数秒前まで頭がトリップしていたのか、急に現実に戻ってきたような気分になった。


「残念だけど、サクはラルが思ってるほど美月と親しくないぞ。どこをどう擽ろうと、美月の情報は大して出てこない」


 キルが白けた目で言うと、ラルはちらと俺を眺め、スッと顔を離した。キルは今度は俺に呆れ顔を向けた。


「サクもサクだよ。隙だらけだから付けいられるんだぞ?」


 まだ少しくらくらする頭でキルの声を聞く。キルはてくてく歩み寄ってきた。


「見た目で明らかだと思うが、ラルの得意技はハニートラップ。こうやって色目使って騙して情報を抜き取る諜報員であり、近づいて近づいて近づききって殺すハンターでもある」


 それを聞いて俺は横目でラルを見た。ラルの方も俺を流し目で見ていて、目が合った。


「キルが私の手の内を勝手に喋るってことは、咲夜くんは本当になんの情報もなくて殺す価値もないのね。なんで存在してるの?」


「急激にランク落とすのやめてくれる?」


「なによ、遊んでほしかったの?」


 ラルがしゅっと脚を組む。俺は首を竦めた。


「いや、別にそんなつもりはないけど……!」


「大丈夫だサク、ラルに惑わされるのは誰でも同じだから。恥じることはない」


 キルがぴょこんとベッドの淵に飛び乗ってきた。


「ラルはポイズンサキュバスの異名を持つ、天才ハニートラッパーだ。老若男女問わず、九割がた落ちる。こいつに近寄られるとあらゆる神経をだめにされる。多分そういう毒霧でも出てるんだよ」


「毒だなんて失礼ね。フェロモンよフェロモン」


 ラルは唇を尖らせた。キルが真顔で続ける。


「斯く言う私も、ラルをふにふにするのが大好きだ」


「キルもなのかよ」


「私も、キルちゃんをもにもにするの大好きよ」


 ラルもわざとらしく首を傾げて言葉尻を真似た。相思相愛で結構なことだ。

 キルがベッドから脚をぷらぷらさせた。


「ラルは私とは違うタイプの天才なんだよ。私は正直者だから人を騙すのが下手なんだが、ラルはそういう作戦に長けてる」


「やだわ、私が嘘つきみたいに」


 ラルが拳でこつんとキルの頭を小突いた。


「で。キルは、私と咲夜くんの甘ーい時間をわざわざ邪魔しに来て、なにか用でもあったの?」


「あ、うん。ラルに美月の情報を共有しようと思ってね」


 キルはぽんと手を叩いて話し出した。


「サクから聞くより私から聞いた方が早いぞ。ラルは他人の心に土足で入って情報漁りをするのが特技だからな、美月の人間関係についてはよく知っておいた方がいい」


 暗殺会議が始まった。ラルも仕事人の目になって真剣に聞いている。


「まず、私がいちばんキーになる人物として注目している奴。りっくんという存在がある」


 真っ先に出てきたのが友達の名前で、俺は耳を疑った。


「海原陸。こいつは日原美月の情報を、多く集めている可能性が高い」


 キルの言葉に、陸のスマホに入っていた日原さんの隠し撮り画像が脳裏を掠めた。陸は日原さんの熱烈なファンだ。テスト勉強会を経て少し距離が縮まったようだし、たしかにあいつなら日原さんのことをよく知っていそうだ。


「態度が軽くて扱いやすいタイプだし、サクと親しい間柄だ。非常に近づきやすい」


 キルの説明が続く。俺は聞きながら脳の片隅で考えた。先程ラルが俺に迫ったような態度で陸に擦り寄ったら、陸ならあっさり騙されてしまいそうである。そのまま手のひらで転がされて、日原さんの情報を集めさせられたり殺しの手伝いをさせられたり、なんてことも想定できる。ラルも同じことを思ったのか、ニッと勝ちを確信した笑みを浮かべた。


「楽勝ね。それ、私に頂戴」


「しかしだ。安易に利用できる相手じゃないともいえる」


 キルが神妙な顔をした。


「詳細は謎だが、りっくんも暗殺者なんだよ。それも、同じ美月狙いのね」


「なんですって」


 そうだった。キルはいまだに、陸を同業者だと信じているのだった。


「かなりの凄腕だ。私の攻撃を全て無効化するほどのな」


「そんな奴がいるの? キルは攻撃の命中率ではフクロウトップクラスと言われているのに」


「そうなの!? 陸すげえな! あっ、てことは日原さんもすげえ」


 勢い余って俺まで会議に口を挟んだ。キルが重々しく頷く。


「頭が悪そうな素振りを見せているのも、油断させるための罠である可能性が高い。あれは私がこの町に来る前から美月を狙っていた様子があるから、間違いなく手持ちの情報量はピカイチだ」


「なるほどね。それじゃ完全に騙すというよりは上手く手懐けて協力者にする、という考えの方が現実的ね」


「私もそう思った。なめてかかると返り討ちにあう」


 キルが真剣に言い、ラルは整った眉を寄せた。


「そして、その凄腕りっくんが、長らく狙っているのに殺すに至っていない美月ちゃんて、何者なのよ。キルでも手こずってるって時点で、やばい案件だとは思うけど」


 キルもはあ、と重くため息をつく。


「つまりそういうことだ。美月は並の相手じゃない。こっちも慎重に進めるべきなんだよ」


「キルらしくないわね。勢い任せのいつものあなたはどこへ行ったの?」


「勢い任せで行こうとして失敗したんだよ。だからこんな現状なの」


 キルがばさっと仰向けに倒れた。そんな彼女見てラルは得意げに口角を吊り上げた。


「そういうことね。まあ、私が来たからにはもう大丈夫よ」


「報酬は減るが仕方ないな……頼むぜ」


 ふたりの暗殺者のやりとりを聞きつつ、俺は余計に頭を悩ませた。ラルが参加したことで、今度こそ日原さんの命が危ない。仮に今日の放課後暗殺までは実行しなかったとしても、そうしたら陸が近づかれる。

 俺が気を重くしている間も、キルはラルに真剣に話していた。


「今日の放課後、ラルは美月に友達として近づく。私は影から狙う。討つタイミングとしては……」


 途中まで喋ってから、キルは急に俺の方に目線を向けた。


「おいサク。暗殺者じゃないのに、なぜ会議に混ざってる?」


「俺が混ざったんじゃなくて、お前らが俺のいるところで会議始めたんだけど?」


 勝手にベッドに上ってきたくせに、酷い言い草だ。キルがカッと牙を剥いた。


「口答えしてんじゃねえよ。こっからが大事な打ち合わせになるから、聞かれたら迷惑だ。出ていけ」


「俺が先にここにいたのに?」


「口答えするなと言っている。殺すぞ。殺さないにしても全治一週間くらいの怪我負わすぞ」


 とんでもない理不尽を突きつけられた。本当は会議に参加してこいつらが日原さんになにをするつもりなのか把握しておきたいのだが、ここでいうことを聞かずに居座ってキルを怒らせるのは得策ではない。


「ったく。分かったよ。他に生徒が休みに来たら、ちゃんと場所変えろよ」


 俺は長いため息をついて、ベッドから降りた。俺だって休みに来た生徒なのになあ、などと不服に思いつつも諦めて保健室を出る。戸を閉める瞬間、背後でラルの声が聞こえた。


「咲夜くん。今度、味見させてね」


「嫌です」


 ぴしゃっと言い切ってから戸を閉じた。

 廊下に出てから、壁に背中を預ける。全く、恐ろしい転校生が来てしまったものだ。キルとは別のタイプの要注意人物だ。


 しかしまあ、キルもラルも同じ暗殺者でそれぞれが個人で報酬を取るというのだから、一応ライバルということになる。それでも仲が良さそうなのは、きっとふたりともタイプが全く異なるからだ。

忍者のように姿を見せずに近づいて素早く殺すのがキル、姿を利用して人の心に入り込み弱らせて殺すのがラル。分野が違えば回ってくる仕事が違うのだろうし、こうして共同戦線を張ればお互いの足りないところをカバーできる。上手くやっているものだ。


 なんて、感心している場合ではない。そんなふたりに日原さんが狙われているだなんて絶望的な状況だ。

 冷たい壁に後頭部をぶつけた。どうしようと考えてもなにも思いつかない無力な自分が虚しい。

 と、己にがっかりしていたところへ声をかけられた。


「君、しんどそうだね。どうしたの?」


 顔を上げると、見慣れない男性がいた。

 くしゃくしゃの癖っ毛の、眼鏡の男だ。だいぶ暑い時期なのにジャケットを羽織っている。三十代くらいのいい大人だが、ネクタイはファンシーなウサギ柄で、ワイシャツの胸ポケットから覗くボールペンもウサギのマスコットがついていた。首から名札を下げていて、俺はゆらゆらするそれを目で追いかけた。


 古賀新一。名札に刻まれた名前を読む。先生だろうけれど、今まで関わったことがない人だ。


「つらいことでもあった?」


 古賀先生は、少し前屈みになって首を傾げた。突然話しかけられた俺は戸惑って、返事がまごついた。


「い、いえ……なんでもないです」


「本当に? 授業中のはずの時間に保健室から出てきたから、調子悪いのかと思ったんだけど。それに浮かない顔してるし」


 ゆったりとした、穏やかな話し方だ。


「悩みがあるなら聞くよ?」


 言いながら、彼は首にかかった名札を指で摘んで俺の目の高さに呈してきた。そのとき俺は、古賀新一という名前の上に、その職が記されていたことに気づいた。


「スクールカウンセラー……?」


「うん。あんまり知られてないけど、今年からこの学校でお世話になってるんだ」


 古賀先生がにこりとする。知らなかった。この学校にスクールカウンセラーが勤務していたとは。


「悩んでる人の話を聞くのが仕事だからさ。よかったら俺にぶっちゃけてみない?」


「あっ……その、大丈夫です。いじめとか、そういう悩みではないので……」


 首を振って遠慮すると、古賀先生は名札を摘んだ手を下ろした。


「カウンセラーっていうと、そういう相談ばっかりってイメージなのかな。そんなことないんだよ。悩みとまでいかなくても、ちょっと気になってることでも話してくれていいのに」


 そういうものなのか。俺はしばし古賀先生の眼鏡の奥の瞳を眺めていた。

 暗殺者の行動について、俺がひとりで考えるよりこういう人に相談してみたらいいのではないか。大人に話したら状況が変わるのではないか。

 古賀先生は困ったように笑って続けた。


「ていうか、この学校平和すぎて超暇だから、俺が話し相手欲しいだけ。悪いんだけど付き合ってくれない? コーヒーくらいは出すからさ」


 *


 古賀先生に連れられてきたのは、保健室の隣にあったカウンセリングルームだった。去年まで保健室の備品を突っ込んであった倉庫だった場所で、それを整備してカウンセリング用の環境に改造したらしい。

 壁に並んだ棚にはまだ、薬や包帯や綿棒の類、保健室の関係書類らしきファイルが収まっている。そのうちの一部はインスタントのコーヒーとカップがひっそり並ぶ、食器棚代わりになっていた。


「お砂糖とミルク、入れる?」


「お願いします」


 古賀先生がインスタントコーヒーの粉をカップに振り入れる。俺は部屋の真ん中にあるテーブルの横に立っていた。テーブルを挟むように設置されたソファを、古賀先生が目線で示す。


「座ってな」


 促されて、俺はおずおずとソファに腰を下ろした。

 埃っぽい部屋を見渡す。去年までの保健室の準備室とあまり変わっていないが、カウンセリング関係の本や妙にリアルなウサギのぬいぐるみなど、所々に古賀先生の私物らしき物が入り込んでいる。カウンセラーがいたのすら知らなかった俺は、こんな部屋があったことも、もちろん知らなかった。


「朝見くんだっけ。悪いね、俺の暇潰しに付き合わせて」


 古賀先生が二つのコーヒーカップをテーブルに置いた。


「いえ、俺も授業サボってましたし……」


 保健室がキルとラルに占拠され、教室にも戻れない今、他に行くところもない。

 古賀先生が苦笑いを浮かべる。


「赴任したはいいけど、相談者が全然来ないんだ。まだ三人くらいしか来てくれてなくって、それも皆サボってた生徒。暇すぎた俺がここに引きずり込んだ」


 俺と同じ境遇の生徒が他にいるらしい。


「本当に暇なんですね」


「ほんっとにね! なにしに来てるんだろう、俺。なにもしなくていいのは嬉しいけど、ここまですることないと逆にしんどいよ。もっと生徒たちと友達になる予定だったんだよ。遊びに来てよ、寂しくて死んじゃうじゃないか」


 朗らかに苦笑する古賀先生を見ていると、こちらまで笑えてくる。

 二つのカップがふわりふわりと湯気をあげている。コーヒーの香りが部屋じゅうを満たして、気持ちが落ち着いてくる。


「平和な学校だねえ。朝見くん、ネクタイが赤いから二年生だよね。朝見くんのクラスも平和?」


 古賀先生がへらりと小首を傾げた。俺はそうですねとこたえようとして、言葉を呑んだ。テーブルの上の二つのコーヒーカップに目線を落とす。俺の前にあるのはミルクの色が混ざった淡い色、もう一つは真っ黒な水面が円を描いている。

 表面上は平和かもしれないが、今この部屋の隣の保健室には、暗殺者なんていう不穏なジョブの女がふたりも現れている。とても平和なうちのクラスの生徒を狙う、ふたりの暗殺者だ。


「二年生っていうと、転校生が来てたねえ。人気者みたいだし、なんの心配もなさそうな」


 古賀先生が黒い方のコーヒーを手に取る。その人気者の転校生が問題なのだ。

 日原さんを取り巻く問題を、話さなくてはと思った。だが、いざ説明するとなると、上手く言い表せない。暗殺者に狙われていると正直に言ったら、頭がおかしいと疑われて心療内科に連れていかれかねない。


「そうですね、平和……です」


 踏ん切りがつかなくて、言い出せなかった。古賀先生がコーヒーに息を吹きかける。


「朝見くんて真面目そうなのに、授業サボるんだね。そんな顔して不良なんだ。人は見かけによらないねえ」


 心外な誤解だ。俺は首を振って弁解した。


「サボるつもりなかったんですよ! 友達から見て体調不良に見えたらしくて、保健室に連れてかれたんです。そんで保健室から出てきたところを古賀先生に見つかったんですよ」


「あっ、不良じゃなくて体調不良だったのか!」


「体調不良でもないんです、本当は!」


 俺もコーヒーカップを手に取った。ほかほか熱くて、手指がじんわり温まる。古賀先生が口元でカップを傾けた。


「でも友達くんの気持ち分かるよ。朝見くん、苦しそうな顔してた」


「そうすか?」


「うんうん。マジでなんかあったかと思ったもん。てかなんかあったでしょ」


 古賀先生はカップをテーブルに戻し、しばし宙を見上げた。


「さては失恋したな。当たり?」


「違います」


 陸からの「振られた」発言を振り返して眉を顰めた。そういえば日原さんには迷惑をかけてしまった。それを思うと教室に戻りたくない。古賀先生が天井を見上げた。


「あれえー失恋じゃねえのか! いい線いってると思うんだけどなあ。なんだろ、高校生が悩むことってなんだろ。当てたい。友達と喧嘩した? テストの点が悪かった?」


「なんでゲーム感覚なんですか!」


「だって朝見くん、教えてくんないんだもん」


 それから古賀先生は、また正面の俺に目線を戻した。


「本当は、失恋で正解でしょ」


「違いますって」


「いや、図星っぽかったよ。反応の仕方が。俺は心理学のスペシャリストだから分かる。絶対に特定の誰かを思い出していた。よし、失恋で決定だ」


 古賀先生のしたり顔に、俺はまた眉を寄せた。俺が「振られた」ことを思い出したと表情から読み取ったのは流石だが、微妙にずれている。


「違います! たしかに振られたかもしんないですけど、そういうんじゃなくて。ああでも、困らせたのは事実……」


「なにしちゃったんだよ」


「ありもしない割引券を捏造して、ある女子を放課後連れ出そうとしました。でもこれは本当に友達として誘っただけで……!」


 口に出して言ってみると、己の愚かさを再確認する。


「え、割引券ないのにあるって言って誘おうとしたの? 必死すぎない?」


 古賀先生はカウンセラーのくせに半笑いで聞き返してきた。


「なんでそこまでしたかな。恥ずかしいねえ、それ」


「本当に恥ずかしいですよ。俺がバカだったせいで訳分かんないこと言って、結局あの人を困らせただけだった」


 コーヒーを一口啜って、ため息をついた。


「変な嘘ついて、困らせて。自己嫌悪です」


 陸から心配されるような表情になる。古賀先生がゆっくりまばたきをした。


「なんでそこまでしたかな」


 同じ言葉を繰り返していたが、今度のそれは少し真剣な色を差していた。


「単純にデートに誘おうとしたんじゃないんだろ。君、そういうタイプじゃないもんね」


 俺ははたと目を上げた。分かってくれた。古賀先生は、汲み取ってくれた。


「……彼女が、放課後、別の人と遊びに行こうとするのを止めたかったんです」


 勢いで本音が零れた。古賀先生がコーヒーを啜る。


「どうして?」


「学校、平和は平和なんですけど……実はちょっと、つらいところもあって。俺自身が嫌がらせを受けてるとかじゃなくて、俺は見てるだけだけど」


 俺は慎重に切り出した。この人にどこまで話せるか確かめながら、探り探り話す。


「クラスの女子が、別のふたりの女子からよく思われてない……ていうか。そのふたりが陰でこそこそ相談して、彼女を陥れようとしてるんです」


 ぽつりぽつり、所々を伏せながら事情を説明する。古賀先生が前のめりになる。彼の目は、いつの間にか真面目な態度に切り替わっていた。


「陥れようと?」


「はい。片方は仲良くなった振りをして近づいてます。それで今日の放課後、本心ではよく思っていない彼女を友達ごっこで連れ出そうとしていた。なにかよからぬことをしようとしているのが分かったんで、俺はそれに行かせたくなかった」


 俺は手に持ったコーヒーに視線を落とした。茶色い円が、僅かに渦状の波を立てている。


「なるほど、それで予定を変更させたくて、声をかけたんだね」


 古賀先生はからかったりせず話を聞いてくれた。


「でも上手く誘えなかった、と」


「はい。ちゃんと考えれば上手く助ける方法があったかもしれないのに、下手くそな嘘をついて、ただ困惑させてしまった。なにやってるんだろう俺……だっさ。しょうもないな……」


 話せば話すほど情けなさが露呈していく。そうだ、早くラルを止めないと放課後まで時間がない。それなのに焦るばかりでなにも思いつかない。

 コーヒーの水面を眺めていると、古賀先生の穏やかな声が聞こえた。


「しょうもないね」


 コーヒーから古賀先生に目を移す。古賀先生はふうとコーヒーの中に息を落としていた。


「でも、そのしょうもなさは格好いいよ。彼女を助けたいと思って起こした迷惑行為だったんでしょ?」


 古賀先生がコーヒーに口をつける。俺は絶句して、コーヒーを胸の高さに上げたまま固まった。


「お前本当は嫌われてるよとか、本人には言えない。あいつ本当は嫌われてるよって他の人に相談することもできない。朝見くんは、彼女を傷つけないためにひとりで背負ったんだよね。ひとりでしょうもない奴になったんだ。それのどこが、ダサいっていうの?」


 古賀先生の淡々とした声が、静かな部屋に溶ける。俺は目を泳がせた。なにも言えない。


「けど、ここで『無理だった、ダサいからやめよう』って彼女を助けることを諦めちゃったら、ちょっとダサいかもね。まあ、気持ちは分かるから責めないけど。俺だったら諦めちゃうと思うし」


 古賀先生が目を細めた。


「俺は好きだよ、そういう心意気。是非、彼女を助けてやってほしいね」


 俺はなにも言えなくなったのを、コーヒーを口に寄せて誤魔化した。コーヒーの香りがふんわり鼻腔を擽る。胸を満たしていた黒いモヤが、少しずつ晴れていくような気がした。

 無言のままで数秒いたら、キーンコーンと、チャイム音の放送が響き渡った。


「お。五限が終わった」


 古賀先生が壁のスピーカーを見上げる。俺は口元のカップを傾けて、残っていたコーヒーを飲み干した。


「ごちそう様でした。次の授業は出ます」


「うん。お喋りに付き合ってくれてありがとね」


 先生はにへっと緩い笑顔で片手を上げた。俺はソファから立ち上がった。


「いえ、こちらこそありがとうございました」


「俺はいつでも暇だから、またこうして遊びに来てよ。友達連れてきてくれてもいいし、トランプ持ってきてくれてもいいし」


「俺はそんなに暇じゃないです」


 苦笑いを返して、戸の前でぺこりと頭を下げる。古賀先生は穏やかに微笑んでいた。

 廊下に出てから、俺はしばし虚空を眺めた。いつの間にかカウンセリングされていた。飄々としているようでいて、意外とちゃんと心理学のプロフェッショナルだ。なんの解決策も打ち出してはくれなかったけれど、あの人は俺の中のスイッチを押してくれた。

 よし、と拳を握り、小走りで教室に戻った。


 *


 教室に着く頃には六限が始まってしまって、日原さんに声をかけることはできなかった。数学の授業が始まって、多くの生徒が眠りはじめる。俺は喋る先生そっちのけで、放課後の事案の対策を練っていた。


 キルとラルの具体的な作戦までは聞けていないが、ラルが日原さんに接近してキルは物陰から狙う様子だった。ならばキルだけでも捕まえておけば計画を狂わせられるのでは。

 いや、ラルだってプロの殺し屋だ。キルがいなくなろうとひとりでも日原さんを殺すくらいできる。むしろ攻撃が当たらなくてやきもきしているキルより、しっかり近づいて狙うラルの方が確実性は高いといえる。そもそもキルを取り押さえること自体不可能だ。


 逆にラルを押さえるというのはどうだろう。キルは日原さんに慎重なので、あいつをひとり野放しにしてもいきなり暗殺に成功するとは考えにくい。ラルが日原さんよりも優先したくなる用件を作って、ラルを引き止める。日原さんを誘ったラル自身が予定を取りやめれば、日原さんはいつもどおり送迎車で安全に帰宅する。

 名案だと思ったのだが、今度は仕事を控えた暗殺者が仕事を保留するような用件が思いつかない。


 真面目な顔で教科書を睨んでいるうちに、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。結局、具体案が出る前に授業が終わった。授業の内容も頭に入っていない。

 六限終了からホームルームまでの空き時間、隣の席を横目で見る。日原さんがにこにこ微笑みながらスマホを見ている。日原さんの友達の枯野さんが近寄ってきた。


「美月、なに見てるの?」


「今日の放課後、隣のクラスに来たラルちゃんに町を案内するから、どこ行こうか選んでたんだ」


 楽しそうな日原さんに、胸がチクリと痛む。彼女は純粋に、転校生を案内しようとしている。枯野さんが日原さんの机の前にしゃがむ。


「早速あの転校生ちゃんと、連絡取り合ってるのかと思ったよ」


「ううん、まだ連絡先聞いてないから……」


 どうやら連絡先はお互いに入手していない様子だ。いや、ラルの方は下調べしているだろうから連絡先くらい知っているのだろうけれど、演技の上で交換していないのならラルからいきなりメッセージを送ってくることはない。

 俺の背後で平尾とその友達が数人、騒いでいる。


「うわ! あの野郎、一緒にCD買いに行くって言ってたくせにドタキャンしやがった」


 スマホで別の友人とやりとりしているらしい。


「彼女から誘われたからそっち優先だって」


「なら仕方ないだろ」


「彼女は最優先だろ」


「これだからリア充は信用できないんだよ!」


 後ろの席のそんな会話をぼんやり耳に入れながら、俺は日原さんの横顔を見ていた。


「日原さん、あのさ」


 思い切って、日原さんに声をかける。日原さんは大きな目をぱちぱちさせてこちらを向いた。


 *


 帰りのホームルームが終わって、生徒がぱらぱら教室を出はじめた。当番で掃除に向かう者もいれば部活に行く者もいて、帰る人もいる。日原さんも、教室を出ていった。

 ラルが訪ねてきたのはその直後だったので、あと一歩早かったら危うく俺の作戦は失敗していた。


「あれっ、美月ちゃんは?」


「帰ったよ」


 教室の出入口に現れたラルに、俺は近づいた。ラルが眉間に皺を寄せる。


「放課後遊びに行く約束してるのに、先に帰っちゃうわけないでしょ。どこに隠したの?」


「本当に帰ったんだよ。『ラルは先に帰った』って伝えて、帰ってもらった」


 ラルに勝ち誇った笑みを向けてやった。ラルが更に眉間の皺を深くする。


「あら、残念だわ」


 ドタキャンされた平尾の話をヒントに思いついた、ごくシンプルな操作だった。

 日原さんにラルは来ないと言ってしまえば日原さんはラルを待つことなく帰る。日原さんのことだから隣のクラスを覗いてラルに一声かけようとしそうなものだが、生憎ラルは教室に飽き飽きして放課後まで保健室でサボっていた。教室にいなければ、日原さんはラルが帰ってしまったと確信してしまう。日原さんとラルは連絡先を交換していないから、ご破算になったのを日原さんが確認する手段もない。

 邪魔をされたラルは不愉快そうに戸に寄りかかった。


「咲夜くん、昼休みに振られちゃって打ちひしがれてたから、もうチョッカイ出さないと思ってたのになあ。しつこい奴は嫌われるわよ」


「しつこく対抗しないと、しつこい暗殺者に抗えないんでね」


 教室に残る他の生徒に聞こえないくらいの声量で返す。ラルはふうんと鼻を鳴らした。


「じゃ、美月は私がドタキャンしたと思ってるわけね」


「結果的にそうなったな」


「やるじゃない、偽善者のくせに」


 ラルが面白くなさそうに長い髪を掻き上げる。俺は流れるような赤みがかった髪を目で追いかけた。


「でも日原さん怒ってなかったよ」


「そうね。イイコちゃんは、簡単に感情的になったりしないんでしょうね」


「日原さんには、ラルに外せない事情ができて泣く泣く帰ったって伝えたから。通りがかりの俺に言伝して、謝りながら帰ったことにしておいた」


「はあ!?」


 ラルが急に大きな声を出した。教室にいた生徒が振り向く。ラルは少し周りを見渡してから、また声のトーンを下げた。


「なにやってんのよ? そこでなんで私に救いを持たせるのよ」


「だって単純にラルは帰ったとだけ伝えたら、ラルが約束すっぽかしたみたいになっちゃうだろ」


 なにに驚いているのか分からなくて、こちらも少し戸惑った。ラルがわなわなと拳を握った。


「だから、なぜそうしなかったのよ。私が勝手にバックレたことにすれば、美月ちゃんの中で私の株が下がって、次に遊びに誘っても拒否するようになるかもしれないじゃない! あんたバカじゃないの? 詰めが甘いわ」


 ラルの言うとおり、ラルを悪者にしてしまえば次からの接近を抑制できたかもしれない。一瞬くらいは、そういう発想もあった。


「そうだけどさ。実際ラルはバックレたわけじゃないんだから、そんな濡れ衣まで着せる必要はないかな、と……」


 意図を説明したら、ラルはしばらく口を半開きにしてまばたきを繰り返していた。それから彼女は震える声を絞り出す。


「おまっさん……ほんっとの大間抜けじゃわい!」


 信じられないといった声色で、謎の語尾が発された。


「いっそただの偽善者の方が、まだよかっととよ。おまさんみたいな根っからのお人好しがいっちゃん不愉快やっちゃけ。わっしの精神衛生上もっとも良ぐないタイプだじゃ!」


「ラル!? なに言ってるんだ? というか、なんて言ってるんだ!?」


 なにか変なスイッチを押してしまったようだ。ラルは人が変わったみたいに早口にまくし立てた。


「気分最悪やけ! おまさんもそのうち毒まみれんしちゃるでの」


 ラルは意味不明な捨て台詞を吐いて、廊下を早足で逃げ帰ってしまった。

 どこの方言でなんと言って、なにに怒っているのかは分からないが、怒られていることだけは分かった。

 振り返ると、やりとりを半端に聞いていたクラスメイトたちがきょとんとしていた。彼らもラルがあんな話し方をしはじめて驚いていた。


 よく分からないが、ラルが日原さんに近づくことは阻止できた。とりあえず一安心だ。俺も帰って夕飯の支度をしなくては。

 鞄を肩にかけて、教室を出た。ラルの姿はもうない。ラル以外にも誰もおらず、廊下は静まり返っていた。昇降口へと向かいはじめたそのとき、突如横から声が飛んできた。


「ひでえ仕打ちするじゃんか」


 びくっと辺りを見渡した。廊下はがらんとしている。見たところ誰もいない。


「こっちこっち」


 また声がした。声の方向を頼りに振り向くと、真横にあった廊下の窓の桟に、キルが腰掛けていた。光学迷彩のコートが反射して、体が微妙に透けている。このカメレオンみたいなコートのせいで、一回見落とした。


「そんなところに座ってたら落ちるぞ」


「落ちないし、落ちても受け身くらい取れるよ。暗殺者舐めんな」


 キルは窓に掴まるでもなく胸の前で腕を組み、脚も組んでいた。


「サクは残酷だね。ラルから地方民の顔を引き出すなんてさ」


 どうやら先程のラルとのやりとりを見ていたようだ。


「驚いたよ、なんで急に喋り方変わったんだ?」


 聞くとキルは上目遣いで俺を見上げた。


「ラルはな。いつも他人から下心丸出しの汚い目線ばかり向けられてるから、ああいうなんの見返りも求めないただの良心に耐性がないんだよ。酷い拒否反応を起こして、建前のキャラクターを保てなくなるそうだ」


「え……良心に免疫がないって可哀想だな」


「可哀想でもないだろ。自分でその道を選んで、そんで向いてるんだから。ラル自身も騙すのが得意なんだしね」


 それからキルはひょいと脚を組み直した。


「その点、私は上手にやるからな。他人の言動は善意だろうが悪意だろうが偽善だろうが、全力で利用する」


「つまりキルは俺に甘えてるんだな……」


「甘えてるんじゃない。利用してるんだよ」


 ギロッと鋭い視線を向けてから、キルはぴょんと立ち上がった。器用に窓の桟に立っている。左耳の通信機に触れて、わざとらしいため息をついた。


「あーあ、ラルと連絡つかないし。こりゃ作戦失敗だな」


 桟の位置で高さを稼いでいるキルは、俺より高いところから見下ろしてくる。


「やるじゃん。ま、次はこうはさせないけどな」


 ニッと牙を覗かせて、キルは後ろに飛んで窓の外へ飛び降りて行った。

 俺は再び安堵した。日原さんの今日の安全が確定した。安心して家に帰られる。

 昇降口に向かって歩き出しながら、ふと思った。

 もしかして俺は初めて、自分の力で暗殺者の邪魔をすることに成功したのではないか、と。

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