5.深夜のラーメンは美味い。

「キルのせいだぞ。俺のテストの平均点が四十七点だったのは、絶対キルのせいだ」


 全科目のテストが返ってきたその日、俺は帰宅するなりキルを責めた。キルはばあちゃんと一緒にリビングのテレビで演歌番組を観ていた。


「っせえなあ。私のせいじゃないだろ。サクの学習能力が低かっただけだろ?」


「学習しようにも集中できなかったんだよ、キルのせいで!」


 あの土曜日の勉強会は全く勉強会にならなかったのは言うまでもないが、それだけではない。自分ひとりで勉強しようとしていても、学校で授業を受けていても、どうしてもキルが気になってしまうのだ。キルがいつ日原さんを殺す最高の作戦を思いついて実行するか、今突然実行するのではないかと、常にこいつの動向が気にかかっていた。


「気がつくとキルのことを考えてる。キルのせいで散漫になってなにも手につかない」


「そんなに愛されても、こたえられない」


 キルはテレビの画面に流れていた演歌の歌詞をそのまま引用してふざけてきた。

 俺の注意は散漫になっていたが、結局今のところキルは日原さんを殺していない。シャープペン爆発の盾にされた一件を受けて、また慎重になっているのだ。


 日原さんは狙われている張本人だが、なにも知らないので至って当たり前の日常を変わらずに送っている。成績にもなんの影響もない。相変わらずの好成績を維持していた。

 因みに陸は俺と同じでちょっとぼけっとしている。これはキルのせいではなく、日原さんと急激に親しくなれて毎日が楽しくなっているからである。もっとも、奴にはもともとテスト勉強をする習慣がないので、テストの結果になにの影響も及ぼさなかったが。


「テストの結果なんて、気にしたって意味ないぞ。学歴全てじゃないんだから」


 キルがへらへらする。


「都心のいい大学入って都会でひとり暮らしして、デカイ企業に就職する野望でもあるのか?」


「それ野望じゃねえだろ。進路については具体的には考えてないけど……まあ、上京はないかな」


 高校卒業は、二年後。まひるはまだ小学生だ。ばあちゃんの体調だって、いつ崩れるか分からない。仮に四年制の大学を卒業するとして、それでもまひるはまだ中学生。

 黙って聞いていたばあちゃんが、こちらに顔を向けた。


「咲夜。そんなに気負わなくていいのよ。あなたがやりたいことをしなさい」


 ばあちゃんには分かってしまったようだ。俺が家庭を気にして消去法で進路を考えているのを、優しいこの人は察してしまうのだ。


「咲夜はすぐに自分を犠牲にしちゃうのよね。私のことは気にしないで。まひるだって大丈夫、おばあちゃん、責任もって見ててあげるから。私の体がだめになったら、お父さんがきっと帰ってくるわ」


 ゆっくりゆっくり話すその声を聞いていると、キルのせいで胸に募っていた焦りが徐々に和らいでいく。ばあちゃんは俺にとって唯一甘えられる存在だと、再認識する。

 折角穏やかさを取り戻しはじめたのに、キルがまた口を挟んだ。


「なんなら私と一緒の仕事するか? 学歴不問だぞ」


 キルと一緒の仕事って、暗殺者じゃねえか。


「絶対やだ」


「冗談に決まってんだろ、サクみたいな鈍臭い奴につとまる仕事じゃない」


キルはニーッと歯を見せて笑い、それからテレビの画面に映った女性歌手見て、あっと声を上げた。


「近藤遠子だ! この人が歌ってんの初めて見たぞ」


 四十代くらいの、赤いドレス姿の演歌歌手である。

 演歌歌手なのに歌う姿を初めて見たなんて言うのはなんだか失礼な気がするが、キルがそんなことを思うのも無理もない。


「この人、バラエティ番組でご意見番してるイメージの方が強いよなあ。歌手だったの忘れてたよ」


「それもそうなんだけど、私にとっては殺し屋のイメージの方が強い」


 キルがさらっと恐ろしいことを言った。聞き間違えだと思って無視しておく。


「芸名は近藤遠子、フクロウ内でのコードネームは行方カム。本名は……私も知らない。まさか芸能人が殺し屋やってるとは誰も思わないし、殺し屋側も芸能人がこんなとこにいるとは思わないから気が付かないし、政界の大物との接触機会もあるしで、芸能界に紛れ込むのはかなり都合がいいんだってな」


 無視したかったのに、情報が改めてしっかり耳に入ってきてしまった。


「キルさん、なにをおっしゃってるんだ?」


「活動圏が違うから、サクにならばらしてもカムにはなんの迷惑もかからないので、真実をポロッとね」


 テレビの中の近藤遠子は派手なドレスを明るい照明できらきらさせて、ドロドロした男女の歌を歌っている。バラエティ番組で雛壇芸人に混じって大騒ぎする、中年の女性。本業は歌手。で、裏業は暗殺者、だと。キルの発言が全く信じられない。


「それは流石に妄想じゃないのか? この人が人殺しなわけないよ」


「なぜ言い切れる? 言っとくが、人気バンドブルブルサムライのギターの人もフクロウ所属だし、ピン芸人のもち米パン太だってそうだぞ。さっきも言ったとおり、芸能界と暗殺界は相性がよくて、同時に活動するには持ってこいの環境なんだ」


 衝撃の告白が立て続けに襲い来る。脳が消化しきれないので、一旦黙って目を瞑った。キルも黙る。テレビから流れてくる重い歌詞だけが部屋を淡々と流れた。

 冗談だとしても本当だったとしても、そんな発言をばあちゃんがいるところでするとは、キルはなかなか思い切っている。


「ばあちゃん聞いた? キルが暗殺界とか言い出したぞ。ていうかガンガン喋ってるし、犬じゃなくない?」


 これをきっかけに、まひると同じくキルを犬だと思っているばあちゃんの目を覚まそう。俺がこう言い出したらキルは慌てるのではないかと思ったのだが、キルは至って冷静にテレビの方を眺めている。ばあちゃんも、驚いたり嫌がったりするでもなく、ふわっと微笑んだ。


「そうねえ。芸能界に限らず、世の中いろんな事情の人がいるから。皆いろんなものを抱えているのよね」


「ばあちゃん? 暗殺って不穏なワードが出てきてるんだけど……それにほら、キルは絶対に犬じゃないぞ」


「あら。私はキルちゃんは犬でも犬じゃなくてもどっちでも構わないよ」


 ばあちゃんは時々、会話が噛み合わなくなるときがある。とぼけているのではない。ただ、俺には分からない世界観で話しているときがあるのだ。

 キルを犬だと信じてしまったとしても不思議はないような人なのも、こういうところがあるからなのだ。キルもそれを見極めていた。


「おばあちゃんは心が広いからな。サクみたいに定形の正義を押し付けてくるのとは全然違う。この人は他人を認める能力がある」


「キルはそういうところに付け入ってるんだな?」


「言い方悪いぞ。おばあちゃんの来るもの拒まず行くもの追わず精神が私を受け入れてくれてるんだよ」


 キルがこてんとばあちゃんの肩に寄り添う。俺はテレビに耳を傾けるばあちゃんを横目に見た。

 ばあちゃんは、バカではない。キルの言うとおり、キルを受け入れてくれているのだ。犬だと思っているだとか、どこまでキルの正体を分かっているのだとか、そういう部分は分からないけれど、ばあちゃんは詮索したりせず、キルを受け止めている。

 俺はもう、あれこれ言い返すのはやめた。


「……夕飯作りはじめるよ。今日は焼き鮭」


「っしゃあ! それ好き!」


 キルはテレビの方を注視したままガッツポーズをした。俺はキッチンに向かいつつ、ハッと大事なことを思い出した。またキルに声を投げる。


「その番組見終わったらでいいから、録画しといた番組がちゃんと録れてるか確認してくれない? 録り忘れてはいないと思うけど、一応」


「録画? なに録ったの」


 キルが顔だけ振り向く。俺はワイシャツの上にエプロンをかけた。


「ホラー特番。なんか夏場になるとポツポツ出はじめる胡散臭いやつ」


「胡散臭いって言いながら観るのかよ」


「胡散臭いけど面白い。普段関わらない世界だから興味深いんだよ」


「サクってオバケ信じてるの?」


 尋ねられて、少し首を捻った。


「見えるわけじゃないから半信半疑だけど、いても不思議はないかなと思ってるよ」


「だっせ。いるわけないだろ、オバケも幽霊も亡霊も」


 キルがばっさり冷めたリアクションをとった。俺も負けじとからかった。


「そういうこと言う奴って大抵怖がりなんだよな。怖いからいないと思いたいんだよな」


「私は殺し屋だぞ? マジで霊なんかいたらとっくに呪い殺されてる」


 白けた顔で断言された。たしかに、死者に怨まれそうな仕事をしている。


「つまり、霊が存在したらキルは呪い殺される恐れがあるから信じたくないと。やっぱ怖いんじゃねえか」


「怖くねえって、死人が怖くて殺し屋つとまるかよ」


 かわいげのない声色で、妙に納得の理屈を返された。


「本当ならものすごい安定感だ。そんなキルに頼みがある」


「なに?」


「そのホラー特番、今夜観るから一緒に観てくれないか」


「うん?」


 キルがテレビから俺に視線を移した。俺は腕を組んで小さく頷いた。


「昼間に観るより夜中に観た方が楽しいんだけど、夜中にひとりで観てると流石に怖い。でもばあちゃんもまひるも付き合ってくんないんだよ」


 キルははあ、と目をぱちぱちさせた。


「気丈に振る舞ってるから、怖くないのかと思ったよ」


「怖くなかったら観ないだろ。恐怖刺激欲しさにそういう番組観るんだもん。だから怖くないっていうキルにはつまらないだろうし付き合わせたら悪いのかもしんないけど、その白けっぷりは心強い」


「いいよ。付き合ってやる。お腹空いちゃうから夜食を食べながら観ようぜ」


 キルはすんなり頷いてくれた。


 *


 その晩、まひるとばあちゃんが寝静まった後、俺とキルはリビングに集まった。明日は休みだから、夜更かしできる。


「悪いなあ、付き合わせて」


「構わないよ。夜中のカップラーメンは最高だしな」


 夜食はインスタントの塩ラーメンにした。スーパーで買える、最も安っぽいものだ。ポットに沸かしておいたお湯を注いで、蓋をする。ふたり分のラーメンを持って、キルが待つリビングへと持っていく。


「初夏のスペシャルホラー! 怖すぎるリアル体験記。もうタイトルからしてショボそうだろ」


 サムネイルとタイトルを見ながら言ったら、キルが苦笑いした。


「そう言いながらもわざわざ録画してるんだから、サクはあまのじゃくだな」


「チープな物が欲しいときってあるじゃん?」


 ラーメンの蓋の上に箸を置く。洗い物が面倒だから、割り箸を用意した。キルは安物のラーメンを見て、たしかにね、と呟いた。


「チープな物にはチープ故の魅力があるね」


 リモコンの再生ボタンを押して、特番を再生する。画面は冒頭から、視聴者投稿らしき動画で始まった。


「廃墟の病院だってよ。よく入る気になるよな」


 俺はソファの上で膝を抱えた。キルは床のクッションにちょんこり座って、膝に拳を乗せている。


「こういうとこ行かない方がいいんだけどなあ。犯罪者の根城になりがちだから。霊より人間の方が、遥かにあっさり人を殺すぜ」


 暗殺者のキルがそういうことを言うと、無駄に説得力がある。

 画面の中では男が三人で廃病院を散策している。その内ふたりは楽しげに雑談をし、ビデオカメラを回しながら後ろからついてきている男だけが怯えた様子で「帰ろう」と繰り返していた。

 キルは大人しくテレビに向き合っている。

 テレビに映し出されていた男が突然、わっと悲鳴を上げた。がたんとカメラが揺れて、画像が乱れる。瞬間、キルの肩が飛び上がった。


「びっくりした?」


 後ろから尋ねたら、キルはこちらを向かずにこたえた。


「いいや? 揺れたから癖で身構えただけ」


 声色は、至って落ち着いていた。

 動画は先頭を行く男が急に元気がなくなり、奇妙な言葉を呟きはじめ、残りのふたりがやばいやばいと騒ぎ出して、そこで終了した。


「なんだ、ただのアホたちの散歩動画じゃんか」


 キルがはあ、とため息をついた。だが、その後「お気づきだろうか」とテロップが出て動画がもう一度繰り返されると、彼女はひゃあっと飛び上がった。


「今! 今ドアの隙間のとこ! 鏡の辺り!」


「顔っぽいのあったな」


 俺も見逃さなかった。キルがバッと俺を振り向く。こちらを向いたキルは特に驚いた顔はしていなくて、むしろ軽い嘲笑を浮かべていた。


「どう見たって作り物だったね。キャーキャー言ってるスタジオだってヤラセなんだろ?」


「かもね。ラーメンできたよ。マーガリン入れる?」


「入れる入れる」


 キルは至って平常心で、ラーメンを蓋を毟った。マーガリンの塊をスープにぽたっと落として、湯気に目を細めている。


「怖いか?」


 聞いてみたら、キルはまさか、と鼻で笑った。


「予想どおりのチープさだよ」


 夜中にテレビを観ながら、カップラーメンを啜る。どこか懐かしいと思ったら、小学生の頃に陸がお泊りに来たときの感覚に似ているのだ。

 不思議だ。キルは訳の分からない理由でこの家に居座る迷惑な居候で、よりによって殺し屋なのに、なぜ俺はこんなに心を許しているのだろう。家の中に歳の近い奴がいて、話していて壁がないからだろうか。なぜか俺は、こいつと仲良くテレビの前で夜食を食べている。


「はあ。夜中のラーメンって染み渡るね」


 キルものんびりラーメンを味わっている。つい先日、この部屋で日原さんを巡ってキルとバトルしたのが嘘みたいだ。あの日以来、キルはまた大人しくなっている。


「なあキル。もう日原さん、諦めたら?」


 ラーメンのマーガリンを箸で潰しながら言ってみる。キルはテレビの雛壇芸人を眺めたまま、雑に返した。


「仕事だから諦めないよ。ただ、今は充電期間。こないだみたいにまた盾にされたら、本当にこっちが死ぬからな」


 爆薬シャープペンの件が、まだキルを臆病にさせている。あの爆発が情けないくらい小規模だったお陰でキルは命拾いしているが、あれがもっと大爆発だったり、他の危険な武器だったりしたら、日原さんの代わりに死んでいたかもしれない。キルが慎重になるのもうなずける。


「どうやったら無事に殺せるんだろう。サクも考えてくんない?」


「俺は日原さんを殺すの反対派だから、仮に思いついたとしても言わない。むしろ先に対処法考える」


「サクの邪魔は大して邪魔にならないけど、こそばゆいんだよなあ。サクが協力してくれたら上手くいきそうなのに」


 キルが麺を口に運ぶ。ゆるい口調でとんでもないことを言う奴だ。


「それとももしかして、仕事が終わったら私がこの家からいなくなっちゃうから、寂しいのか? だから阻止したいのか?」


 仕事が済めば、キルは次の仕事のために次の場所に移動する。この家からいなくなる。


「寂しいわけねえだろ。一刻も早く出ていってほしいよ」


 そうなったら、こうして一緒にテレビを観ながら夜更かししてくれる人がいなくなってしまうのだけれど。


「もしさ、私が無事に美月を殺したとして」


 キルが不穏な前置きをする。


「この家からいなくなるとき、まひるにはなんて言えばいいんだろう」


 ソファから見えるのは、キルの後ろ姿だけ。どんな顔をしているのかは、ここからでは見えない。


「まひるは本気で、私を犬だと思ってるんだもんな。飼い犬が突然別れを告げたら、辛いだろうなあ」


 キルは人でなしのくせに、まひるには情けをかける。


「おばあちゃんは私が犬じゃないの分かってるんだろうし……世話になってるし、菓子折りの一つでも渡したいんだよな」


 ばあちゃんのことも、慕っている。

 テレビの場面が切り替わった。賑やかなスタジオから一転し、また気味の悪いVTRが流れ出す。キルがラーメンのカップを手に取り、立ち上がった。そしてのそのそと、ソファに上ってくる。俺の隣にちょんと腰を下ろした。


「暗殺者はほぼ個人の活動で、しかも誰にも知られずにやるのが基本だからさ。こういう、ホームステイみたいなの初めてなんだ。だから仕事以外で人と関わるの久しぶりで、よく分かんないんだよね」


 キルは面倒くさそうな口調で言って、またラーメンを啜った。湯気がふわふわ、浮かんでキルの頭上辺りで消えていく。俺はその湯気を目で追い、テレビに視線を戻した。


「そっか、ずっとひとりで、仕事から仕事に渡り歩いてたんだな」


「うん。自由で気ままだったよ」


 偉そうに言うが、こうして他人の家に居候している今だって充分自由気ままだ。


「他人のことなんか、考える必要はなかった。けど、今はそうもいかないからな」


 キルのため息がラーメンの湯気を歪ませる。俺も箸で麺を摘んだ。


「冷徹な暗殺者なら、まひるとばあちゃんなんか気にしないで、黙っていなくなればいいんじゃないの?」


「そんなん、まひるがかわいそう。泣いちゃうかもしれない」


 キルがラーメンにふうふうと息を吹きかける。人殺しのくせに、恩人まひるの涙は見たくないだなんて、めちゃくちゃな感じがする。


「まひるに優しくできるんだから、日原さんにも優しくしろよ」


「それとこれとは別だろ。片や恩人、片や仕事のターゲット」


 実にくっきり割り切っている。


「単純に、まひるはかわいい。好きなのはまひる。和むのはおばあちゃん」


 キルの視線は、テレビを流れる映像に注がれている。


「楽なのはサク」


 こちらを見るわけでもなく、キルはさらりと言った。俺もちらりとキルの横顔を一瞥しただけで、ろくに相槌も打たずにテレビの方を見ていた。


「不思議だよ。あんたたち皆モラリストで、私は殺し屋で、合うわけないのにさ」


 キルはカップ麺を片手に持ったまま器用に膝を抱き寄せた。そうか。キルもそう思っていたのか。お互い様だったんだな、なんて、口の中で呟く。

 キルがまたラーメンを啜る。「あつっ」という短い声が洩れたのが、テレビから流れるスタジオの悲鳴に混じっていた。俺は画面の端に映っていた人面ばかり見ていた。


「キル、今の分かった? 人の顔みたいなの映ってた」


「分からんかった」


 映像が再度流される。今度は該当箇所に丸印がついて、キルにも分かったようだ。


「あー、今のか。すげえ顔」


 キルは冷めた口調で言って、少し腰を捻った。そしてずりずりとこちらににじり寄ってきて、俺の脇にぴたりと寄り添った。


「なに。くっつくな」


「寒い」


「そう? 夏だし、ラーメン食べてるのに。膝掛け持ってこようか?」


「要らない」


 キルが食べ終わったラーメンのカップをテーブルに乗せた。それから羽織っていた犬耳の外套を脱ぎ、ブランケット代わりに体の正面を包んだ。膝を抱いて座る丸まった姿勢のキルが白い外套に脚までしまい込んで、大福のようになってしまった。


「前から不思議だったんだけど、その目立つ上にダサい上着はなんなの?」


 俺もラーメンを食べ終わって、テーブルに置いて尋ねた。キルが上着の中でもぞりと姿勢を整える。


「ダサいって言うな。これすっごく高性能なんだからな」


 そう言ってから、キルはまた少し体を捩った。瞬間、キルが微妙に透けた。目を疑った。キルで見えないはずのキル越しのソファの色が、彼女の体を透かして見えたのだ。


「えっ? なんか今、透明になった?」


「光学迷彩繊維の特殊装備なんだよ。光の屈折を利用して、背景に馴染むことができる」


 そういえば、キルが所属する暗殺者団体はやたらと技術が発達したアイテムを支給してくる。


「暗殺者初めたばっかの頃、ミスターから貰ったんだ。当時この上着もまだ試作品で、実験的に私に使わせてくれた。私は最初から使いこなしたけど、屈折させるのが難しいから実用的じゃないとされて、今は私以外誰も着てない」


 光を屈折させて、姿を消すコートだったのか。学校で追いかけ回したとき、度々見えなくなった理由がようやく分かった。


「それを着て背景に溶け込んでいたにも拘らず、陸はキルを捕まえたんだな」


 廊下を逃げるキルを陸が摘み上げて教室に連れ戻してきた衝撃は、未だに頭に残っている。陸のことだから単純に野生の勘が鋭いだけなのだろうが、キルが彼を同業の暗殺者だと思い込むのも納得だ。

 テレビから流れる廃学校の映像に、一瞬白い影が通り抜けて消えた。いるのかいないのか人間の目には判断できなくて、いたら危ないだなんて、幽霊は姿を消した暗殺者みたいだ。


 映像は再び騒がしいスタジオに戻る。駆け出しアイドルの若い女の子にカメラが向いた。彼女は亡くなったペットが霊になって現れた話を涙ながらに語り出す。


「ハイテク装備だったんだな。それなら尚更なんでそんなデザインなんだ?」


 キルの膝辺りに乗っている三角の耳を摘む。キルはテレビのアイドルの話を聞きながらこたえた。


「最初はこんな耳付いてなかったんだ。けどさ、動物愛護系のNPOの名を語って海外のマフィアに金を流してる奴がいて、そいつを殺す仕事があってさ。そのターゲットがズーサディズム持ちでその上スードゥズーフィリアでもあったから、近づき易くするためにミスター右崎が縫い付けてくれたんだ」


 後半、なにを言っているのかよく分からなかった。


「私、こんなルックスだから、ハニートラップの仕事はまずないんだけどさ。その件でのミスターの提案は、ある種のハニートラップだった。びっくりしたけど、ミスターが私にそれができるって認めてくれたのも、かわいいねって褒めてくれたのも、嬉しくて」


 キルがもそもそと、コートの中に顔の下半分を潜らせた。


「当時の私にはなんの実績もなかったのに、ミスターは私に太鼓判を押してくれた。そしてその仕事は、私にとって最初に成功した仕事になった」


 俺の目線はテレビに向いていたが、テレビの音は殆ど耳に入っていなかった。キルの声は続く。


「だから、これを着てると自信が湧いてくるっていうか。ミスターは私を認めてくれてるんだって。ミスターが認めてくれた私を、私が認めてあげないと失礼だろ。結果出さないとかっこ悪いしね」


 キルがミスターと通話していたときの話し方を思い出した。元から懐っこい性格ではあるが、ミスターと話しているときのキルはどこか親密というか、心を預けている感じがあった。キルは余程ミスターを慕っているらしい。


「キルが自信家なのは、そのミスターとやらが大好きだからだったんだな」


「いたずら好きでうざいとこもあるけどね。仕事は確かなんだよ。あ、言っとくけど恋愛感情じゃないから。ミスターは既婚者だからね」


「キルからそういう話聞けるの、珍しいな」


 恋愛感情ではなかったとしても、こんなふうにキルが人間的な気持ちの在り処を話してくれたことなんてあっただろうか。

 つい先ほど、ここに来るまで単独で行動していて仕事関係以外では人と関わっていなかったと話していた。ということは、こうして胸の内を明かしてくれたのは、ひょっとしたら俺が初めてだったのかもしれない。


 ホラー番組のスタジオトークが終わり、芸人が心霊スポットに挑む企画に切り替わった。スタッフと芸人の楽しげなやりとりで始まり、廃業したホテルへと入っていく。

 キルがこてんと俺の肩に体重を傾けてくる。子供みたいな体温だ。


「くっつくなって」


「眠い」


 眠いと言うわりに瞼はしっかり開いている。キルの金髪が俺の肩でくしゃくしゃになっていた。キルが擦り寄ってくるので、俺の片腕まで膝掛け代わりの上着の中に取り込まれた。中の空気はほんのり温まっている。

 ガキみたいな外見とはいえ、女の子がこんなに近くに寄り添っているのだから、下手したらドキドキしてしまいそうだ。だが外套の中で手が時々触れる、ナイフや銃などの暗器の気配で別の意味でドキドキした。この光学迷彩の外套はその機能だけでなく、内部のポケットにかなりの秘密を隠しているようだ。


 売れない芸人がホテルを散策している。突然、芸人が悲鳴を上げた。


「うわあああ!」


 その大声に驚いて、俺とキルもびくっと肩を飛び上がらせた。


「あああ!」


「ふあああ!」


 キルがひしっと俺の腕にしがみつく。ふにふにした柔らかい手だ。そういえば、今はいつも嵌めている絶縁手袋を付けていない。


「くっそ、この芸人リアクションでかすぎだろ。客室のドアが勝手に閉まっただけかよ」


 キルは悪態をつきながらも俺の腕を離さない。芸人が歩を進める。今度は階段で足を掴まれたと騒ぎ出した。


「今いましたよ! ぬるっとした! 絶対引っ張りましたって!」


 大袈裟な反応をする芸人に、キルが更に文句を垂れた。


「うるせえな! 足を取られるような隙を作ってる方が悪い! この仕事受けてる芸人がこいつじゃなくて暗殺者兼業のもち米パン太だったら確実に避けていた!」


「それじゃテレビ的においしくないだろ」


 ぼそりと呟くと、キルはぎゅっと俺の腕に爪を立てた。


「腹立つんだよ! こうやってギャーギャー騒ぐだけのつまんねえ芸人が! 腹立つんだよお!」


 爪が突き刺さるほど握りしめてくるキルの手は、ぶるぶる震えていた。


「大丈夫?」


「寒い! 寒いんだよ! この芸人が白けさせるから余計に寒い」


 キルがガアガア怒る。寒いと言っているが、腕を巻き込まれている外套の中はぬくぬく温かい。

 テレビの中の芸人がまた大声を上げた。


「今の見ました!? 今度はドアが勝手に開きました!」


「うるせええ! ドアの開閉くらい風のいたずらでいくらでも発生するわ! 廃ホテルなんかどうせ隙間風だらけだろ!」


 キルがまた手に力を込めた。俺は薄暗い画面に目を凝らした。


「でもここ、どんづまりだ。風のなんて入ってこないよ。ドアが勝手に開くわけないぞ?」


「スタッフが……スタッフが動くことで空気が流動してるんだよ!」


 キルがくわっと尖った牙を見せてテレビ番組を威嚇する。

 その瞬間だった。


 キイ。俺たちの背後で、ドアが軋んだ音を立てた。


「うわあ!」


「いやああああ!」


 俺の悲鳴は、切り裂くような叫び声に掻き消された。キルが俺の胸に飛び込んでくる。体に巻き付けていた大事な外套は乱雑に蹴飛ばされ、テーブルに並んでいたカップ麺のカラのカップに覆い被さった。キルが俺の背中に腕を絡ませ、額を胸に押し付けてくる。

 そして、勝手に開いたドアの方を見ると。


「お兄ちゃん、まだ起きてたの?」


 目を擦り擦り佇む、まひるがいた。


「なんだ、まひるか……」


 ふう、と安堵のため息をついた。キルは俺に張り付いたまま、顔をまひるの方に向けた。


「え、まひる? なんだ。びっくりさせないでよ……」


 絡ませていた腕を解いて、するりと離れていく。キルは思い出したように外套に手を伸ばし、ふわりと羽織った。犬のフードを被ったキルを見て、寝ぼけまなこのまひるは、ようやくキルもいたのに気づいた。


「キルちゃんも、ねんねしないとだめだよ」


「うん……まひるもね」


「まひる、お水飲んだら寝る」


 まひるはよたよたした眠そうな足取りでキッチンに入り、食器棚からお気に入りのカップを取り出していた。まひるが水を注ぎ、飲んで、自分の寝室に戻っていくのを見送り、俺とキルは再び大きくため息をついた。


「このタイミングは心臓に悪いな……」


 キルはソファの角に身を捩じ込んで、クッションを抱えて小さくなった。俺は反対側のソファの角からその姿を見ていた。


「キル、本当は怖いんだろ」


「ああ?」


 ギロッとこちらを睨んでくる。俺は臆することなく続けた。


「最初に怖くない、霊なんていない、くだらないって言ってしまった手前、引くに引けなかっただけで本当は怖いんだろ」


 実は気づいていた。番組が進行するにつれてだんだん近寄ってきていたことも、強がりを言って対抗しようとしていたことも。耐えようとしてやたらと饒舌になってしまっていたことも。


「怖くねえわ、こんな子供騙しのエセホラー番組なんか」


 キルが殺し屋の目で俺を見据えてくる。俺はふうんと鼻を鳴らした。


「そう。怖くなかったか、残念。本当は怖いんだろうなあと思ったから、わざと誘ったんだけどな……」


「はあ!? お前……分かっててやったのか!」


 おバカなキルは、自供ともとれる発言を繰り出した。


「最低だ! 清く正しい善良な市民のくせに、そんな小賢しい嫌がらせを!」


「善良な市民だけど、なんとなくキルだったらいじわるしても許される気がして。でもまあ、まさか抱きついてくるほど怖がるとは思わなかったけど」


 ふっと嘲笑ってやると、キルはカアッと牙を剥いた。


「違う! 抱きついたんじゃない! サクの首を押さえて心臓抉り出してやろうと思っただけだ!」


「言い訳が猟奇的だな」


「怖くなんかない!」


「さっき認めてただろ」


「違う、違う!」


 キルも俺もテレビをそっちのけで言い争った。

 キルがヒートアップして声を荒らげていると、再びリビングのドアが開いた。


「キルちゃん、うるさいよお」


「ひあああ!」


 またまひるが来ただけなのに、キルはびくんと跳ね上がって俺に飛びついてきたのだった。

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