4.勉強に集中できない。

「なに!? 知ってた!?」


 あの日から五日後。

 キルがリビングで叫んでいる。ミスター右崎と通話しているそうだ。


「美月が子供好きであると分かっていた上で、私を指名していたのか!? しかもそれを私に報告せずに! つまり私の見た目が美月向きだと、そう判断したってわけだな」


 キルは発達した牙を突き立てて、電話越しのミスター右崎に怒鳴り散らしていた。


「たしかに懐には入っていきやすいかもしんないけど! 物理的にも懐に飛び込んでしまったわけだけど! そもそも私はそんなにガキじゃない!」


 キルが特攻に失敗し、日原さんに抱きとめられたあの後も、日原さんはしばらくキルを膝に乗せて離さなかった。キルはその間ずっと死んだ目をしていた。日原さん曰く、「朝見くんに会いに教室に来たのに、私に真っ先に懐いてこっちに来てくれた」「天使のように舞い降りてきた」とのことだ。殺すための突撃だったのに、日原さんの目には便利なフィルターがかかっているらしい。


 彼女自身がそんなことを言うので、あの場で危険を感じていたクラスメイトたちもなんとなくそんな気がしてきて流され、キルは日原さんに懐いているというねじ曲げられた事実が広がった。


「不本意だ! 私がガキだと思われてるってだけでも不快なのに、あんなハイスペックマシーンにウルトラポジティブを搭載したみたいな変な女に、私の方から懐いたみたいに言われて……!」


 キルのミスターへの怒りは、もはや愚痴に変わっていた。


「なんかもう、メロンパン見るだけでフラッシュバックするんだぞ」


 なにやらキルは、メロンパンを拒絶するようになった。日原さんが大量に与えたからである。彼女はキルが俺のロッカーからメロンパンを強奪していたと知るやいなや、購買でたくさんのメロンパンを購入し、灰のようになったキルにプレゼントしたのだ。お陰でメロンパンはこりごりのようだ。


「しかも……私は暗殺者なのに……暗殺者なのに、注目を浴びてしまった……!」


 元々有名人だった日原さんの身に起こった出来事は、ついでに謎の犬着ぐるみ少女キルも有名にしてしまった。更にそのついでに、それは朝見の従姉妹らしいと、俺の名前まで知れ渡ったのだった。


「分かっててはめやがったな。こんにゃろミスター右崎! ウザキのウザはウザイのウザ! ウザー!」


 キルが子供じみた悪態をついてリビングのカーペットにうつ伏せに潰れる。俺はその隣でワイシャツにアイロンをかけていた。

 通話が終わったらしく、キルはすうっと静かになった。急に静かになられるとなんだか燃え尽きてしまったみたいで可哀想になる。愚痴くらいは聞いてやろうと、俺は潰れたキルに話しかけた。


「ミスター、なんて?」


「進捗確認の電話……すぐに殺るって言ったのに、いつまでかかるんだって。怒ってはいなかったけど笑われた」


「うん、まあそうだろうね」


 キルが日原さんに抱きしめられたあの日、実は彼女には願ってもない大チャンスが巡ってきていた。キルに惚れ込んだ日原さんは、キルと遊びたいから連れて帰りたいと俺に頼み込んできたのである。セキュリティが厳重で侵入不可能とされた日原邸に、暗殺者キルが堂々と潜り込む好機が訪れたのである。


 しかし特攻失敗と舐められた扱いにショックを受けていたキルは、ターゲット自らの誘いを拒絶し、慌てて学校から逃げ出してしまったのだ。お陰で午後の授業はなにも警戒せずに済み、平和のうちに終わった。


「本当に不覚だった。暗殺者にあるまじきミスだ」


 キルはゴロンと仰向けになった。


「普段の冷静な私だったら、抱きしめられたのなら首筋を裂いていた。腕を固定されて切り裂く動作ができないなら、仕込み毒針を刺した。あのときの私は、そんな単純なこともできないくらい動揺していた」


 手の甲で顔を覆い、キルは大きくため息をついた。


「でも言い訳なんかしたって仕方ないな……ミスターもクライアントもまだ待っててくれるっていうし、一旦受けたこの仕事をキャンセルするわけにはいかない。また気合入れて殺しに向かおう」


 必死に前向きな言葉を発しているが、本体は寝そべったままである。


「そっか……あれ以来日原さんが、度々俺に話しかけてくれるようになったよ。『キルちゃんに会いたい』って。明日、一緒に学校来るか?」


「い、嫌だ」


 キルはぴょんっと上半身を起こした。顔面は蒼白だ。


「美月にはしばらく会いたくない。私はあいつに全ての攻撃を避けられ、命懸けで正面からの特攻なんて暗殺者らしくないことをさせられ、その上その特攻までもを受け流された。こともあろうに抱きしめて『かわいい』」


 訴える声はもはや泣きそうだった。


「私は美月にアサシン心を殺された! いっそ肉体的に殺された方がましだった」


 キルは心に深い傷を負っていた。


「うわああ、もう暗殺者として生きていけない! サク、今から切腹するから介錯を頼む」


 キルは太股に仕込んだナイフをシャキンと取り出し、自身の腹に当てた。俺はアイロンを台に立て、にゅっと手を伸ばしてそのナイフを奪った。キルは、あっと呟いて上げてナイフを目で追った。


「俺は命を大切にしない奴、嫌いだから、自害の手伝いなんかしない。あと、暗殺者があっさりナイフ奪われるってどうなの」


 奪ったナイフを床に置いて、再びアイロンをかけはじめる。キルは手をぎゅうっと握りしめて喚いた。


「だから弱ってんだよ。私は今弱っている。ほかほかの炊きたてご飯とカリカリの揚げたて唐揚げしか喉を通らないほどだ」


「どさくさに紛れて夕飯リクエストするなよ……」


「早く殺さなきゃって焦りはあるけど、美月は思った以上に難しい案件だ。私の攻撃を全て無効化する相手なんて、今までに見たことがない。日向の人間にこれほどまでに脅威を感じたのは、初めてだ」


 キルはまた、コテンと横たわった。


「なにか特殊な訓練を受けている、或いは能力を持っている。下手に近づくと、返り討ちにあう」


 受け止められたのが相当こたえたのだろう。キルはかなり日原さんを警戒するようになった。


「慎重に策を練ってやり直す必要がある。まずは精神的な余裕ができるまで休ませてくれ」


「そう言って五日が経ちましたよ」


 暗殺者が大人しいに越したことはない。できればこのまま目的を忘れてほしいくらいだ。キルが現れる心配がない学校は、実に平和である。

 ゴロゴロ転がって「早く復帰したいさ」と繰り返すキルに、スマホを向ける。パシャ、とカメラの音をさせるとキルは目だけこちらを捉えた。


「おい。なに撮ってやがる」


「日原さんから『キルちゃんに会えなくて寂しいから写真送って』って言われてたの思い出した」


「ふざけてるのか? 暗殺者の顔写真をばらまくというのがどういう行為か分かってんのか。削除しろ! すぐ削除しろ」


 今の今まで寝転がっていたとは思えない速さで、キルが俺に飛びかかってきた。ちょっと驚いたが、もう日原さん宛に送信した後だった。


「ごめん、もう送った」


「なんてことしやがる。美月が今の写真をSNSに載せたらどうするんだ。どうせフォロワー多いんだろうから、きっとすぐに拡散される」


 想像してみた。そうなったら、キルはもう暗殺者を続けるのは厳しいかもしれないな。日原さんはそういう意味でもキルを殺すことができる。


「ていうか、いつの間に連絡先を交換するほどの仲になってたのか!」


 スマホを奪おうとして俺の腕に絡みついたまま、キルは不機嫌にむくれた。そうなのだ、キルのお陰で日原さんとの会話のきっかけが生まれて、俺はむしろ儲けている。


「この前、放課後一緒に勉強しないかって誘われたよ。もうすぐ中間テストだから」


 五月も終盤に入り、定期テストの時期が訪れた。俺は勉学はさほど得意な方ではないので、成績優秀な日原さんが一緒に勉強してくれるというのはとてもありがたい。まあ、日原さんがきれいすぎて、勉強に集中できなそうではあるが。


「教えてもらうばっかりじゃ悪いから、俺もなにか手軽に摘める軽食でも作るか」


「仲良くなってんじゃねえよ」


 キルが面白くなさそうに舌打ちして俺の腕を離した。俺はアイロンの電源を落とし、台を畳む。


「日原さんは俺自身とは仲良くなりたいわけじゃないと思うよ。キルと遊びたいんだよ。以前『妹が欲しい』って言ってたし、小さい子と遊ぶのが純粋に好きなんだと思う」


「サクと仲良くなりたいだけの方がましだったよ。生憎私は小さい子じゃないんでな」


 キルはカーペットの上で胡座をかいた。


「大体その、子供好きアピールがあざとくて嫌だ。かわいいものを愛でている自分がかわいいと思ってるに違いない」


「そうかなあ。でも、実際にかわいいよな」


「そうやって騙される奴がいるから味をしめるんだろ」


 キルは日原さんに厳しい。


「日原さんは自分を引き立てるためとかじゃなくて、心から子供をかわいいと思ってるだけだと思う。本心じゃなかったら、わざわざ会うのは面倒くさいはずだろ」


 日原さんは上っ面だけでなく、本当にキルを気に入っているようなのだ。


「キルに会いたいからこそ、勉強会にはキルにも同席してもらう条件になってる」


「はあ!?」


 キルがぎょっと目を剥いた。


「なんで!?」


「だから、日原さんの目的がキルだからだよ。俺とふたりで勉強したって彼女にはメリットがない」


 自分で言っていて虚しい。キルは牙を剥いて俺の胸ぐらを掴んだ。


「勝手に承諾してんじゃねえ! 私は行かないからな!」


「俺もね、最初は断りましたよ」


 怖い顔をするキルに弁明する。


「暗殺者とターゲットを接触させたくないから、適当に理由つけて断った。しかし陸が」


「陸?」


「キルを捕まえて、教室で晒し者にした張本人」


「ああ、あのでっかいあいつか」


「そのでっかい陸が、『美月ちゃんの誘いを断るなんて人として有り得ない』と」


 陸の言うとおり、キルが暗殺目的でさえなかったら俺だって受けないすべはなかった。事情を知らない陸は、俺の行動を理解できずアホと罵った。


「そしたらそのやりとりを日原さん本人に聞かれちゃって、日原さんが『海原くんも一緒に勉強しようよ』って言い出したんだ。ただしイベント発生の条件はキルがいること、というのは変わらない。つまりキルが同席しないと、陸の夢の勉強会が流れてしまう」


 その後の陸の、これ以上ないほどの懇願っぷりといったらなかった。


「なにがなんでもキルを同席させろと。俺も陸にはなにかと世話になってるし、あんなに頼まれたら断れないし。キルが日原さんを殺さないように、俺が目を離さなければいいかなって思ってOKしたんだ」


「だからなぜ勝手に? 私は許可してないぞ!」


 キルがぶんぶん顔を横に振る。俺は因みに、と続けた。


「今度の土曜日の午後だから、承知しとけよ。日原さんがまひるにも会いたいって言うから、勉強会の会場はうちになった。ばあちゃんは承諾済み」


「私だけ知らなかったのか!?」


「日原さんはキルに会いたくて、陸は日原さんと親しくなる口実が欲しい。ばあちゃんもまひるも賑やかになるのを楽しみにしてる。俺も美人に勉強を教えてもらえるのはありがたい。キルさえ我慢してくれれば他の全員がwinwinなんだ」


「私が犠牲になってる時点でwinwinとは言わないだろ!」


「唐揚げいっぱい作ってやるから、諦めてくれよ」


 投げやりにそう言ってみたら、キルははたと静かになった。


「唐揚げ……仕方ないか」


 本当に素直に諦めた。この少女が先日渡り廊下で脅してきたあの暗殺者と同ひとり物だなんて、信じられなかった。すっかり牙が抜けて、これならもう放っておいても日原さんに手出しなどしないだろう。

 そしてこのとき俺は、キルという暗殺者をなめていた。後々になって後悔するはめになるのだ。


 *


「冷静に考えたら、朝見家というこのホームグラウンドに、ターゲットが自ら飛び込んでくるんだ。チャンスじゃないか」


 勉強会当日の土曜日、キルはやけに張り切っていた。それまでは当日に近づくにつれだんだんしょぼくれていったくせに、その日になったら突然開き直ったのだ。


「美月め、飛んで火に入る夏の虫だぜ。この家に上がり込んだことを悔やむんだな」


 目をギラギラさせてにやついている。俺はお客さんをお迎えする準備で、リビングを念入りに掃除していた。キルが日原さんになにをする気なのかはよく分からないが、これだけ意気込んでいるのだ、よく見張っておいた方がよさそうだ。


「お兄ちゃん、美月お姉ちゃんとりっくん、もう来る?」


 まひるはずっと楽しみにしていて、昨日の夜からそわそわしている。

 まひるが日原さんに会うのは今日が初めてだが、陸とは見知った仲である。家が近所で、しかもよく買い物に行く惣菜屋の息子である陸は、お互い幼い頃から親交がある。まひるもよく一緒に遊んでもらっていた。


「もうすぐ来るよ。今日の名目は勉強会なんだから、勉強中はまひるは静かにしてろよ」


 掃除機をガーガーいわせながら窘める。まひるは元気よく「はあい」と返事したが、わくわくが振り切っている姿を見る限りあまり期待できそうにない。

 掃除機でカーペットの上を吸い込んでいると、ふいにプツッと、なにかが潰れるような音がした。


「ん? なんだ、なにか踏んだ?」


 掃除機のヘッドで、なにか押したような感覚があった。次の瞬間、背後でパンッと軽い爆発音がした。

 振り向くと、俺が掃除した後の床に真っ白な羽根が舞い踊っている。それを見て、まひるがきゃあきゃあと喜んでいる。


「お兄ちゃん見て! きれーい!」


 ふわりふわりと散る羽根が、なにの変哲もないリビングをやけに幻想的にしている。なにが起こったのかよく分からなくて、俺はしばらく呆然としていた。

 やがて床に散乱する茶色い布の切れ端に気づいて、ハッとした。クッションだ。クッションが爆発したのだ。


「ちょっと火薬が足んねえか……」


 背後で声がした。振り向くと、ソファの上で仁王立ちするキルが渋い顔をしていた。俺はなるべく冷静に尋ねた。


「キル、お前一体なにをしたんだ。なぜクッションを爆破した」


「美月を殺すトラップだ」


 キルも落ち着いた声でこたえた。


「カーペットの下にスイッチを仕掛けた。押したらクッションに仕込んだ火薬に火がつく仕組みだ」


「危ないもん作ってんじゃねえよ。怪我したらどうすんだ」


「怪我で済ませてたまるかよ。私は美月を殺すつもりでやってる」


 ぞっと、悪寒が走った。まずい、キルのアサシン心が完全復活している。昨日まで日原さんに怯えて慎重になっていたから大丈夫な気がしていた。俺からキルに同席を頼んだのに、やはり近づけるべきではなかったと今更後悔した。この調子では他にもトラップが仕掛けられていると考えてよさそうだ。


 クッションから飛び出した羽根を片付ける前に、一旦掃除機の電源を切った。他にもスイッチがないか確認した方がいい。

 掃除機を壁に寄せて、カーペットを大きく捲ってみた。案の定、三分の一ほど床を露わにさせただけで、五箇所ほども怪しいポイントがあった。十円玉程度の大きさと厚みの、白いコイン状のボタンらしきものが点在しているのだ。


「バカ、見るなよ。それは気づかずに押してしまうのが利点の爆弾だぞ」


 ソファの上からキルが言う。俺は床にしゃがんでボタンを観察した。ボタンは微妙にふっくらしているだけで、ほとんど厚みがない。上からカーペットを敷いてしまったら、全く気がつけないほどだ。


「『フクロウ』オリジナル、リモート着火装置だ。通称リモチャ。押すと無線で繋がってるチップに高圧電流が流れて、隣接する火薬に着火することができる。仕掛けておけるというメリットはデカイが、引火に失敗するケースが多いのが難点だ」


 こんなの、昼飯時にはなかったのに。いつの間に設置したのか。


「どうやって床に貼り付いてるんだ?」


「両面テープ」


 聞いてすぐさま、俺は白いボタンを剥がしにかかった。キルがソファから睨んでくる。


「剥がすな剥がすな。折角貼ったのに」


「剥がすに決まってるだろ!」


 押すとなにかしら爆発するそうなので、隆起に触れないように端っこに慎重に爪を立てる。しかし俺がこんなに神経を尖らせているのをまるで気にせず、まひるが別の箇所にあったボタンを容赦なく押した。


「あ、こら! まひる!」


 注意するより先に、まひるの背後でマグカップが火を吹いた。


「うわあっ! まひる、大丈夫か」


「すごーい! お兄ちゃん、今の見た!?」


 まひるは悠長に笑っている。キルはまた眉を寄せた。


「あれ? マグも爆発で大破するはずだったんだけどな……火薬の調整難しいな」


「しなくてよかった! 危ねえだろ!」


 そんなことをしているうちに、まひるがまた別のボタンを触る。ボンッと爆ぜる音がして、干してあったカラのペットボトルが砕け散った。


「すごーい! すごーい!」


 まひるは大興奮して他のボタンに向かっていく。俺はチョロチョロ動くまひるの腕を後ろから捕まえた。


「まひるやめて……掃除したところから汚すのやめて……!」


「まひる! 美月のために仕掛けたんだから、まだ全部爆発させないでくれ!」


 キルはキルで慌てはじめ、結局ふたりがかりでまひるを止めた。

 掃除機をかけたリビングは、かける前より酷い散らかりようだった。


 *


 大人しくしないとおやつ抜き、と脅かしてまひるを部屋に帰らせ、再びボタンを剥がしにかかる。もちろんキルには邪魔されたが、お前もおやつ抜きだと脅かしたらスッと引っ込んだ。

 一先ず回収しきったら、また掃除機をかける。掃除機をかけ終わったら、キッチンに立つ。勉強中のおやつ用に、手軽に摘めるサンドイッチを作ろうと思って、準備していたのだ。買っておいた食材を広げて、俺はちらりとキルのいるリビングの方向に目をやった。


 俺が爆弾を解除しても、キルはおやつ程度で邪魔をやめた。ということは、他にも手段があるという意味だ。爆弾以外にも、なにか罠がある。しかしキルだって俺がキルの邪魔をするのは分かっているはずだ、他の罠があったとして、尋ねたって教えてくれるはずもない。

 こんなトラップハウスに友人たちを招き入れるのは非常に危険だ。今から連絡して、場所を変えてもらった方がいい。


 料理を始める前に、ポケットからスマホを取り出した。ショートメールより電話の方が早い。日原さんの電話番号をタップして、耳に当てた。呼び出し音数秒で、彼女は応答してくれた。


「もしもし。朝見くん、今向かってるよ」


「日原さんごめん、あの」


 言いかけたとき、ずしっと背中に重圧がかかった。心臓が飛び跳ねて声が詰まる。手からするっと奪われたスマホを横目に、俺は青ざめた。

 しまった、暗殺者に背後を取られた。

 俺の背中には、キルが子泣き爺のように張り付いていた。彼女は奪ったスマホを耳に当て、とびきり媚びた声を出した。


「みーつき! 待ってるよ! 早く来てねっ」


 そして勝手に通話を切って、ぴょんと背中から飛び降りた。俺は腰ほどの高さにあるキルの頭を睨んだ。


「キル……お前はまた勝手に」


「隙だらけの方が悪い」


「場所変更しようと思ったのに。スマホ返せ」


「変えさせるかよ。折角お迎えの準備を整えたんだぜ?」


 キルはそう言い残し、スマホを俺に返さず逃走しやがった。流れ星のように立ち去る白い背中を、俺は慌てて追いかけた。


「待て、返せ!」


「そう言われて返す奴いねえよ。ついでに画像フォルダ覗いたる。私のポーチを漁ったお返しだ」


「それは悪かったって! 謝ったじゃん!」


 しかしキルはダイニングからリビングへと駆け抜け、ソファの上に飛び乗り俺の腕を避け、廊下へ飛び出し階段の手摺を駆け上る。すばしっこいアサシンを捕まえるなんて、一般人かつ凡人の俺にはまず不可能だ。


「キル! おやつ抜きだぞ!」


「それさ、よく考えたら抜かれてもサクのおやつを摘み食いすれば解決じゃんな!」


 おやつ抜き攻撃が効かなくなった。どうやって躾ればいいのか、もう分からない。

 階段の途中で、キルの上着に手を伸ばしたときだった。ピンポーン、と間の抜けたインターホンの音が鳴り響く。


「朝見くーん。キルちゃん。日原です」


「来ちゃったじゃねえか!」


 階段の上のキルに向かって叫ぶ。キルはニヤリとした。


「さあて……お出迎えして引きずり込んでやろうか。ようこそ日原美月。地獄の暗殺ハウスへ」


 させるか。俺はキルを放置し階段を転がるように駆け下りた。日原さんが入ってくる前に、玄関口で場所を変える相談をするのだ。

 俺がその判断を下したのが分かったのか、キルも高速で手摺を滑り下りてきた。すかさずキルの前に腕を伸ばして壁に手を突き、通行の邪魔をする。が、キルはその腕をジャンプで飛び越えタンッと階段の下に着地した。

 まずい、キルに日原さんを出迎えさせたくない。日原さんを危険な場所に誘導するに違いない。いや、むしろあの殺る気満々のキルならすぐにでも首を切り裂きそうだ。


「日原さん! 待って、まだ準備が整ってない!」


 玄関に向かって大声を飛ばす。これで少しでも時間稼ぎになれば。

 だが、そんな俺の必死の抵抗は無駄に終わった。


「咲夜、入るぞ!」


 デッカイ幼馴染みが、無遠慮にバンッと玄関を開けたのだ。


「びっくりしたぞ、着いたら美月ちゃ……日原さんが外で待ってるから。この暑いのに外で待たせるなんて、なに考えてんだ」


「陸のくせに、ごもっともだな……」


 陸は幼い頃からうちに遊びに来ることはしょっちゅうだったので、なんの遠慮もなく自宅のように入ってきた。日原さんも、陸に続いてそわそわ入ってくる。


「お邪魔します」


 階段の上に足を乗せたままの俺は、息を呑んだ。

 ふんわりした空色のワンピースに、白いカーディガン。私服の日原さんを見たのは初めてだ。こんなのが傍にいたら、勉強になんか集中できるわけがない。

 日原さんは玄関マットに立つキルを見て目を輝かせた。


「キルちゃん! こんにちは。今日はよろしくね」


 にっこり微笑んで、キルの頭の三角耳の隙間をぽんぽん撫でた。撫でられて首を竦めるキルは、よく見たら毒針らしきものを指の間に仕込んでいて俺はぞっとした。抱きしめられていたら刺すつもりだったようだ。

 日原さんがかわいい、ということ以上に、キルが彼女の命を狙っている限り、勉強になんか集中できない。


 やはり日原さんが残念がろうと陸がなんと言おうと断るべきだった。キルが弱っていたから大したことないだろうと思って甘く見ていた。まさか当日になって突然ここまで復帰するとは思わなかった。完全に俺の判断ミスだ。

 自分の部屋で大人しく待っていたまひるが、声を聞きつけて現れた。


「あっ! 来た! 美月お姉ちゃんとりっくん来た!」


「わあ、あなたがまひるちゃん? かわいい!」


 日原さんは無邪気に喜び、まひるも、かわいいお姉さんを見てはしゃいだ。


「美月お姉ちゃん、朝見まひるです! よろしくお願いします!」


 すぐに懐いて、日原さんに挨拶する。日原さんはきゃあっと頬を染めた。


「お利口さんだねえ」


 まひるをぎゅっと抱きしめて撫でている。そのふたりを陸が微笑ましそうに眺め、キルは白い目で眺めていた。俺はそんなキルの様子を窺っていた。まひるが盾になっているうちは、キルは攻撃には出ない。キルはまひるに恩を感じている。万が一にも、まひるが傷を負う危険があれば動かないはずだ。


「上がるぞー」


 陸が玄関からリビングに向かう。日原さんもぺこっと会釈して、まひると一緒に陸について行った。

 仕方ない、怪しいものを見かけたら取り除くよう心がけるしかない。そしてなるべく早く、この家から移動するプランを提示するのだ。

 そんなことを考えていた、さなかだった。


「うわっ!」


 陸の悲鳴とガンッ、べキッという衝撃音。びくっと顔を上げて、目に入った光景に目を剥いた。

 陸の頭をギリギリ掠めるようにして、壁に短いメイスが突き刺さっている。


「な……なんだこれ」


 陸が不思議そうにメイスをつつく。日原さんは口に手を当てて固まった。まひるもきょとんとして、目を丸くしていた。

 変な汗が流れた。陸、日原さん、まひると並ぶ更にその後ろに立つ、暗殺者の後ろ姿に鳥肌が立つ。俺はその腕をぐいっと引き寄せた。


「こんなに堂々と罠を仕掛けたのか」


「リビングのドアを廊下側から開けたらメイスが殴打してくる仕組み。まさか避けるとはな」


 キルは濁すでもなく、ただし俺にしか聞こえないくらいの声でこたえた。俺はくわっとキルの両肩を掴んだ。


「キル! こんな洒落にならない罠仕掛けるんじゃない! 今すぐ全部外せ!」


 怒鳴られるとは思わなかったのか、キルはちょっとびっくりした顔で俺を見上げていた。目をぱちくりさせて、黙っている。そんなキル以上に、日原さんとまひるが驚いていた。


「朝見くん、怒ることあるんだ」


「お兄ちゃん?」


 驚かれたって、空気が悪くなったって、そんなことを言っていられる場合ではない。こんな危険な罠がいくつもあったら誰かしら怪我をする。

 しかし、真剣に受け止めているのは俺だけのようだ。


「すげえ。この罠作ったの、キルなんだ?」


 陸が壁に刺さったメイスを抜き取った。壁の穴からぱらぱら粉が落ちる。


「どうやったらそんな仕組みになるんだよ。めっちゃ器用だなあ」


 俺は言葉を失った。

 こいつ、頭を潰されそうになったのになぜこんなに悠長にしていられるんだ。

 俺が呆然としているうちに、日原さんが硬直から解けた。


「へえ、最近のおもちゃってこんなによくできてるんだね。見たことないけど本物みたい!」


 陸が特別能天気なのかと思ったら、日原さんも天然を発揮した。


「キルちゃんはねえ、いたずらっ子なんだよ」


 ついにはまひるまで、平常心で笑いはじめた。

 いたずらっ子で済むかよ。肩を掴んだままだったキルに向き直る。キルももう少し驚いてほしかったのか、ちょっと不満そうな顔をしていた。


 陸が自分の家みたいにリビングに入っていき、日原さんも続く。キルの罠がどこに仕掛けられているのか予測できない。いつなにが飛び出してくるか分からない。なんとかして場所を変える提案をしようと、俺はまだ図っていた。


「適当に座っててと言いたいところだけど、ふたりはそこと、そこに……」


 俺はカーペットの上のクッションを指差した。ローテーブルを囲むようにして、座布団代わりに置いたものだ。罠を確実に取り除いた安全地帯を指定して、座ってもらう。一先ずなにも起こらないことを確認して、俺はまひるに目線を合わせた。


「まひる、俺たちは今から勉強するから外でキルと遊んでて」


「えー!」


 まひるはむくれて抗議した。


「なんでよ、美月お姉ちゃんとりっくんと遊びたい! お勉強は後にしようよ」


「勉強が優先なの。まひる、犬の散歩してみたいって言ってただろ。キル連れて行ってこいよ」


 まひるは未だにキルを犬だと信じているので、そんな言い回しをする。キルも、俺がこんな提案をすると思わなかったようで慌てはじめた。


「遊んでから勉強でいいじゃんか」


「だめ。そう言ってるといつまでも勉強はじめないで夕方になっちゃうから」


 無理やりにでも外に出ていっていただきたい。キルと日原さんの接触をできる限り減らすのだ。まひるはまだつまらなそうに眉を寄せていたが、素直な彼女は頷いた。


「分かった。後で絶対、お姉ちゃんとりっくんとも遊ばせてね」


「三時くらいになったら戻っておいで。おやつにするから」


「うん。キルちゃん行こ」


 まひるがキルの手を握った。キルは慌てて俺とまひるを交互に見て、結局まひるが大好きな彼女は、諦めてまひるについて行った。まひるとキルが出ていき、リビングのドアが閉まる。

 俺はほっと胸を撫で下ろした。よかった、キルを外に追いやることに成功した。これでキルから日原さんへの直接攻撃は一先ず回避できた。

 俺は座って待つ陸と日原さんの方を振り返った。


「朝見くん、わんちゃん飼ってるの?」


 事情が分からない日原さんは、俺とまひるの先程の会話を聞いて勘違いしていた。俺はとりあえず、その場は流す。


「あとで説明する。それより、飲み物持ってくる。ふたりはそこを絶対に動かないで」


「リビングなのに、見られちゃまずいものでもあんのかよ」


 陸が怪訝な顔をした。俺は動いてしまいそうな陸に念を押した。


「いいから絶対動くな。いいな」


 下手に動いて、罠が作動したらいけない。彼らにはなるべく安全なところでじっとしていていただきたい。

 まだ不思議そうに首を傾げている陸と日原さんを置いてキッチンに立つ。途中で放置していたサンドイッチの具材がそのままになっている。キルのせいでこれも作り損ねていた。

 三人分の冷たいお茶をカップに注いで、リビングに戻る。


「勉強する前に、話があります」


 お茶を置いてから、俺は慎重に切り出した。


「今から俺が話すことは信じられないかもしれないけど、ふたりとも自分の身を守るために真剣に聞いてほしい」


「どうしたんだよ、かしこまって」


 陸が苦笑する。俺は真面目に続けた。


「この部屋には今、無数の罠が仕掛けられている。さっきのメイスが証拠だ」


 もう、正直に全て話すしかない。


「実は、俺が従姉妹だと紹介したキルは、暗殺者なんだ」


「は?」


「ええ?」


 当然、陸と日原さんは目を剥いた。


「国家公認暗殺者集団に所属してる、プロの殺し屋」


 それから俺は更に神経を尖らせた。


「気を悪くしたら申し訳ないんだけど……キルのターゲットは日原さんだ」


「えっ……」


 日原さんが息を呑む。陸は彼女の方を振り向き、眉を寄せて俺にまた目線を向けた。


「なんで……なんで日原さんなんだよ」


「理由は言うべきじゃない。ただ、あいつは日原さんの命を狙ってる。それを知っておいてほしい」


 俺はそこで一旦、呼吸を整えた。


「まひるとばあちゃんはそれを知らない。不思議なことに、ふたりはキルのことを犬だと思ってる」


「ん!? なんだそりゃ」


 陸が声を上げる。混乱しても仕方ない、陸でなくても訳が分からない状況だ。


「今まで嘘ついててごめん。キルは俺がなんとかする。そういう事情だから、今日はもう場所を変更しないか。ここにいたら、日原さんが危ないんだ」


 よし、きちんと説明できた。支離滅裂な話ではあるが、これが真実だ。陸と日原さんは、顔を見合わせた。


「そっか……なるほど」


 呟いて、日原さんがお茶を一口啜った。それから俺の目を覗き込む。怖い思いをさせたかと思ったのに、その目に不安や憤りはなくて、驚くくらい優しかった。


「朝見くんは、そんなに真面目に遊んであげてるんだね!」


「はい!?」


 今度は俺が目を丸くした。日原さんはうふふっと微笑んだ。


「ごっこ遊びの設定にそこまで役に入ってあげるなんて、すごくお兄ちゃんらしい」


「ほんとだよなあ。やっぱまひるがいるから、そういう基盤ができてるのか?」


 陸も日原さんに続いた。


「あのくらいの歳の子って、暗殺者ごっことかそういうちょっと尖った遊びが好きだもんな。まひるはあの性格だから、わんちゃんごっこの方が好きなんだな」


「ね。お兄ちゃんもおばあちゃんもしっかり参加してあげてて微笑ましいね」


 俺は平和ボケの恐ろしさを見た気がした。

 全く信じてくれない。バカにしてるとか、嘘をついているとか、そう思っているのではない。本当に、俺がキルの暗殺者ごっこに付き合っていると思っているのだ。


「本当だって! さっきのメイス見ただろ!? 壁に穴が開いたんだぞ!」


 メイスの罠があったリビングの入口を指差した。


「あんな罠がまだたくさんこの部屋にはあるんだ。危なすぎる。一刻も早くここから出て、別の場所で勉強しよう!」


 それでも陸と日原さんに緊張感はない。


「あんな本格的なメイスのおもちゃがあるくらい暗殺者ごっこが流行ってるんだな。そういうアニメでもやってるのか?」


「キルちゃん、やんちゃだから好きそうだよね!」


 そうじゃない!

 なぜ信じてくれない、と焦りが生じてくる。でも分かる。あれが暗殺者だと説明されて、スッと信じられる方が珍しい。そうは言ってもあの罠を見たのだからもう少しくらい警戒してくれてもいいと思うのだが。


「移動しようよ、危ないって」


「大丈夫、大丈夫! 俺らも遊びに付き合うから。な、日原さん」


 陸は手をひらひらさせて笑っている。日原さんも頷いた。


「私はターゲット役なんだよね。嬉しいなあ、そんな大役に選んでもらえて」


「これは遊びじゃないんだよ!」


 焦りで少しだけ、声を強めた。それでもなおふたりは平然としている。


「真剣な演劇?」


「分かった! ターゲット役、ちゃんとこなすよ!」


「キルが他にどんな罠仕掛けてるのか、ひととおり見てみたい。どこにあんのかな。それより咲夜、家から持ってきたお菓子開けてもいい?」


 陸は俺の説明なんか全く気にしないで、大きな鞄からスナック菓子を取り出した。


「うん、それは構わないけど……いや構う! ここでのんびりしてる場合じゃない」


「私もクッキー焼いてきたよ。あ、でもこれはキルちゃんとまひるちゃんにも食べてほしいから後で出すね」


 俺はまだ粘っているのに、日原さんも気に止めてくれない。

 だめだ、ふたりとも遊びだと思い込んでしまった。陸は逆に罠を見たがっているし、日原さんはターゲット役に気合を入れて臨むつもりでいる。外に連れ出すきっかけがなくなってしまった。

 陸はお菓子を、日原さんはテキストを広げ、テスト勉強が始まってしまった。俺は頭を抱えしばらく策を考えていたが、なにも思いつかなかった。


「……サンドイッチ作ろうと思ってた。持ってくるよ」


 一旦キッチンに立って、パンに具を挟みながら考えよう。リビングのクッションから立ち上がる。


「絶対にそこから動くなよ!」


 友人ふたりにはもう一度固く呼びかけてから、キッチンに向かった。

 調理台の前に立ち、はあ、と息をつく。ひとりになると多少頭がクリアになる。野菜とハムと睨めっこして、考えを巡らせた。


 キルが暗殺者だから逃げなくてはならない、という説明をしてももう遊びとしか思ってもらえないだろう。なにか決定的な証拠を見せるか、と考えたが一般的な目線から見て一目で暗殺者だと判断できる要素なんかない。大体、キルの外見は暗殺者らしくなさすぎるのだ。

 こうなったらもうキルを理由にせず、他の理由をこじつけて外へ連れ出した方がいいのではないか。カラオケに行きたいとか、言ってみるか。いや、陸はともかくまださほど親しくもない日原さんを、男ふたりとカラオケに連れていくなんて可哀想でできない。どうしたものか。


「おい、咲夜」


 声にびくっと振り向くと、陸がキッチンに入ってきていた。


「うわっ! 動くなって言っただろ! なんで来たんだ」


「ああ、うん、早速こんなん飛び出してきたぞ!」


 陸はパッと明るい顔で右手に握ったナイフを振った。


「すげえよ、壁からシュンッて。びっくりしたけどキャッチした」


「すげえのはお前だよ! よく怪我しなかったな」


 陸は無駄に運動神経が高い。この俊敏な動きだけでもすごいのに、体力は有り余り正確さもある。お陰で各運動部から助っ人を頼まれてばかりで、本人は入る部活を選べず帰宅部である。


「咲夜、さっきはありがとな」


 陸がナイフを下ろし、リビングまで通らない程度の小声で言った。俺はパンにレタスを乗せつつ、え、と尋ねた。


「俺、なにかしたっけ」


「場を和ませてくれただろ! 分かってんだぞ」


 身に覚えがない。陸はナイフを持った手を腰に当てた。


「お前がお茶を入れに行って、俺と美月ちゃんがふたりきりになって。途端に会話が覚束なくなっちゃってさ」


「はあ」


「そこへ戻ってきた咲夜が、キルちゃんの遊びの話で朗らかな空気にしてくれた。流石だよ咲夜、分かってんなあ」


 そんなつもりはなかった。ふたりで置いてきたことをそんなに気にしていなかったし、会話に詰まっていたことも気が付かなかった。


「陸、お前緊張してたんだな」


「してるよ……美月ちゃんなんて遠くから見てるだけで、こんなに近くにいることねえもん。咲夜とかまひるが介在するから、辛うじて喋れてるんだよ」


「繊細かよ」


「あのさ、咲夜」


 タマゴサラダを混ぜる俺に、陸は真顔で言った。


「タマゴサラダに刻んだハム入れると美味い」


「まじか。そりゃ美味いわ」


 俺はすかさず、余っていたハムを刻んだ。


 陸は惣菜屋の息子なので、おいしいものを更においしくするコツを無駄によく知っている。両親から情報が入るらしく、本人は料理をしないくせにやけに詳しいのだ。そして彼から伝わってくるアレンジレシピは、大体俺の口に合う。

 そういえば、母親を亡くしたのをきっかけに料理を覚えようとした俺に、色んなレシピを教えてくれたのが陸の両親だった。だから俺の料理は陸の家の味に近くて、味覚が近いのも当然かもしれない。


「なになに、楽しそう」


 大人しく勉強していた日原さんまで、ひょこひょこキッチンにやって来た。彼女の背後をビュンッとナイフが通り抜けたのを見て、俺は肝を冷やした。


「日原さん、動かないでって言っただろ」


「だってひとりでテキスト進めたって楽しくないもん。それより料理の方が好き。私にも教えて」


 ふわふわ微笑んで、彼女は持っていたヘアゴムで長い髪を束ねた。


「このキュウリは塩味にするの?」


 塩を振って放置してあったキュウリやトマトを見ている。俺はタマゴとハムを混ぜ合わせつつ、こたえた。


「塩で水分抜いてるんだよ。後で拭き取る。水気が多い野菜をそのままパンに挟むと、パンが水分を吸い取ってベチャッとするから」


「へえ!」


「バターを塗って多少は移らないようにするんだけどね」


「バターはパン自体の乾燥も抑える」


 陸がさらっと付け足した。


「咲夜、フレンチトーストサンドはやったことあるか?」


「あれな、失敗した。それこそベチャベチャになって」


「難しいんだってな」


 陸とそんなことを話していたら、日原さんがにこっと笑んだ。


「サンドにしたことはないけど、私、フレンチトースト作るの得意だよ。休みの日に作るの。家族からも好評なんだ」


「へえ! 食べてみたい。今ちょうど材料あるんだけど、作ってもらえる?」


 冗談めかして言ってみたら、日原さんは目を輝かせた。


「いいの!? 作りたい。食べてみてほしい!」


 俺と陸は思わず互いの顔を見合わせた。まさか、我らがアイドル日原さんの得意料理を食べさせてもらえるとは。

 この家から逃げて別の場所に移動したいとか、考える隙間が足りなくなってきた。


 *


 さくっと短時間でサンドイッチを作るつもりだったのに、フレンチトーストを焼いたりアレンジサンドイッチを作ってみたりとついキッチンで遊びすぎた。

 俺は趣味の家庭料理を、日原さんはフレンチトーストを。陸はその両方を更に深くするコツと、時短の伝授を。狭いキッチンでワチャワチャと、各々が特技を活かす。テストのための勉強会なのに、お料理教室になりつつある。


 考えてみたら、日原さんはキッチンにいれば安全だ。日原さんがキッチンに立つことは想定されていないから、ここには罠がないのだ。


「いい匂いさせてんじゃねえか」


 ふわふわなマシュマロ声がして、びくっと顔を上げた。調理台から見えるダイニングに、キルが戻ってきていた。


「もう帰ってきたのか」


「もう、もなにも三時だよ。サクが帰ってこいっつった時間だ」


 そんな時間か。うっかりサンドイッチに夢中になっていてテキストを全く進めていなかった。


「キルちゃんとまひるちゃんは、フレンチトースト好き?」


 日原さんが自身を狙う暗殺者に尋ねた。単純頭のキルは、その単語だけで目を輝かせた。


「フレンチトースト!? 好きに決まってる」


「よかった! おいしくできたから一緒に食べようね」


「キル、手を洗ってこい」


 作業しながら指示する。キルは満面の笑みで敬礼した。


「あいあいさー!」


 ぱたぱた走って洗面台に向かって行った。その姿はどう見ても暗殺者には見えなくて、陸と日原さんが信じてくれないのも無理もないなと改めて思った。

 できあがったたくさんのサンドイッチとフレンチトーストを、リビングのテーブルに運んだ。手を洗って戻ってきたキルは、まひるも引っ張ってきた。


 陸と日原さんがキッチンにいるうちに、俺はキルの腕を捕まえて耳打ちした。


「お前、キッチンの食材に毒入れたりしてないだろうな」


「まさか。そんなことはしない」


 キルがニヤッとしたり顔をした。


「なぜなら、私も食べるからだ」


 最高に説得力のある言葉だった。この様子なら、食べても誰も苦しまない。

 陸と日原さんがリビングに戻ってきた。日原さんが和やかに陸に話しかけている。


「パンと卵液を電子レンジで加熱すると、一気に吸い込むんだね。知らなくて今までずっとつけおいてたよ。陸くんありがとう」


「いやいや、美月ちゃんのフレンチトースト食べられるだけでこっちもありがたいから」


 陸は料理を通じて日原さんへの緊張が解れたらしい。ふたりになると話せないほどだったくせに、もう下の名前で呼び合っている。

 なんだろうか、テスト勉強は進んでいないが、それ以外については案外いい方向に物事が進んでいる。キッチンに罠がないから気は休まるし、陸と日原さんも打ち解けた。俺も楽しくなってきていて、警戒心が薄れてきていた。

 だというのに、日原さんがリビングに戻ったのをきっかけに、事態は変わった。


「きゃっ」


 日原さんの短い悲鳴が上がった。見ると、床から一センチ程度の高さに紐がピンと張ってあり、日原さんはそれにつまづいたのだ。転びかけたが、日原さんは壁に手を突いて体勢を立て直した。

 今まで俺も陸も気が付かずに跨いでいて、あんな紐があったとは知らなかった。絶対にキルの罠だ。


「大丈夫? 日原さん。ごめんな、キルのいたずらが……」


 しかし、キルの罠はただ足を引っ掛けるだけの姑息な嫌がらせではなかった。その紐は、あくまでスイッチでしかなかったのだ。

 日原さんに蹴られた紐がたわんで、どう結んであったのか、高い棚の上に隠し置かれていた巨大な金属球がぐらついた。人の頭ほどの大きさがある球が、ぐわっと彼女の頭上に落下する。全身の血の気が引いた。


「かかったな、高密度超合金に骨ごと砕け散れ」


 横からキルの囁きが聞こえた気がした。

 日原さんは真上の金属球に気づいていない。俺が立ち上がっても、もう間に合わない。


「日原さん! 危ない!」


「ん?」


 次の瞬間、降ってきた球はパシッと、日原さんの後ろにいた陸にキャッチされた。え、と俺が声を発する前に、陸は球を床に置いた。

 数秒前まで頭をかち割られそうだった日原さんは、なにも分かっておらずきょとんとしている。


「危ない? なにが?」


「今、罠が発動した」


「うん、足引っ掛けられちゃった! 暗殺者怖いなあ!」


 日原さんは足を取られただけだと思って、殺害を試みていたキルに微笑んでいる。俺はまだ呼吸が乱れていた。今のは危なかった。陸がたまたま近くにいて助けてくれたからよかったものの、それがなかったら確実に命中していた。陸がいて本当に助かった。

 しかし息をつく間などない。


「ねえねえお兄ちゃん、あれなに?」


 まひるが俺の肩を揺すって、棚の脇を指さした。まひるの指先が示す先に、小さな銃が括りつけられていた。見覚えがある。キルが学校で使っていたニードルガンだ。それがキリッと銃口を日原さんに向けている。

 日原さんが咄嗟に手を突いた、壁にもスイッチがあったのだ。銃は自動で引き金が下がり、今にも針が放たれそうになっていた。

 しかしここで、陸が突然あっと声を上げ、くるっと後ろを向く。


「やべ、キッチンに携帯忘れた」


 慌てて戻ろうとした陸の足が、ガンッと棚を蹴る。衝撃のお陰で銃口の角度が変わり、発射された針は日原さんから大きく外れて、壁に刺さった。

 危なかった。今のもたまたま陸が棚を蹴ってくれなかったら確実に被弾していた。


 ちらっとキルの様子を見ると、立て続けに邪魔が入ったのが気に入らないらしく、白けた顔で頬杖をついていた。

 やがて、またニヤッと怪しく笑みを浮かべる。俺はぞっとして、キルの目線の先を探った。

 パキン、パキンと軽い異音が聞こえる。なにかがどこかで発動している。どこだ、どこから来る。なにがスイッチだったんだ。

 焦る俺を嘲笑うかのように、その罠は牙を顕にした。


 ビュンッと銀色の風が飛び出す。それも、三箇所同時に。

 どうやら部屋の随所に隠されていたらしいスペツナズナイフが、全自動でその刃を放ったのだ。


「日原さん避けろ!」


 俺の声より、刃が日原さんに届く方がずっと早い。今度こそだめだと思った。

 しかしまたしても、飛んできたナイフ三本とも、陸がそれぞれ手を伸ばして柄を捕まえた。一本ずつ、ひょいと右手で止めて左手に持ち替え、次のナイフを右手で取って左手に預けを器用に繰り返して三本とも手の中に収めたのだ。

 あまりの手際のよさに俺もキルも絶句した。まひるはジャグリングでも見たかのようにキャッキャと喜んで、陸もそんなまひるににこっと笑いかけていた。


「どうしたの朝見くん、さっきから」


 日原さんは自分の身の回りで起こっている事態にまるで気づいていない。今、ほんの数分のうちに三度も死にかけたというのに、本人には全く自覚がない。


「美月ちゃん、キルの罠にかかりすぎだぞ」


 陸は陸で、自分がどれだけすごいことをしているか自覚していない。集めたナイフを床の隅っこに置いて、平然とリビングのクッションに腰を下ろした。日原さんも無事に席についた。


「え? 私、罠そんなに踏んだ? 気づかなかった」


「鈍感だなあ」


 日原さんも陸も、和やかに談笑している。俺はずっと肝が冷えっぱなしだったのに、当の本人たちはなんとも思っていない。キルは度々殺し損ねて不服そうにむくれ、まひるは陸のパフォーマンスに感動している。


「じゃ、おやつにしよっか! 私が焼いてきたクッキーもよかったら食べて!」


 日原さんが九死に一生を繰り返し味わったとは思えない笑顔で言った。


 *


 日原さんが安全な場所に落ち着いたので、罠の発動は止まった。おやつタイムなのでキルの直接攻撃もない。今のところは休戦と考えて、俺もほっと落ち着いておやつを楽しむことにした。


 日原さんのフレンチトーストは、本人が自画自賛するのも納得の逸品だった。ベタベタした食感はなく、ふわっと柔らかくて品のある甘さ。うちのキッチンの材料だから特別なものは使っていないはずなのに、こんなにおいしく仕上がるものなのかと感激すら覚えた。

 更に彼女が自宅で焼いてきたクッキーも、テーブルを彩る。前回食べ損ねていた陸は、このクッキーにあり付けて満足げである。

 自分のサンドイッチも好評ではあったが、途中で陸ナビが入った。


「これ多分、粒マスタード入れたら美味い」


「その発想、貰っとく」


 いつものことなのでしれっとやりとりしていると、キルが小首を傾げた。


「入れる前からなんでおいしいって分かるんだ」


「陸は舌が肥えてるんだよ。高級料理ばかり食べてるって意味じゃなくて、ご家庭でできる簡単レシピに関しては、って意味で」


 俺はサンドイッチをかじりながら、そういやキルには紹介していなかったなと思い出した。


「この前ポテトサラダ食べただろ、リンゴ入ってるやつ。あれを売ってる惣菜屋の息子なんだよ、こいつ」


「なるほど、美味いもん食って育つとそんなにデカくなるのか」


 小柄なキルは陸を見上げ、はあと感嘆した。


「おいしいものを更においしくする方法を見つけられるのか。何者なんだお前は。神の舌でも持ってるのか」


 珍獣でも見つけたかのような目で陸を眺めている。


「なにを食べてもおいしい! って言うだけでアレンジは思いつかないキルにとっては、陸の能力は物珍しいんだな」


「ほお。でもなにを食べてもおいしいのも、すごい能力だと思うぞ」


 陸がキルの膨らんだ頬を指でつついた。


「なんでもおいしく食べられるのって、本人はすごく幸せだし作った人も嬉しい。それってすごいことだろ」


 そう言われて、キルは口に運びかけたサンドイッチを途中で止めた。陸を見上げて目をぱちぱちさせ、それからにゅっと手を伸ばした。


「りっくん、いい奴だ」


 キルはまひるが陸を呼ぶときの呼び名を真似た。握手を求める小さな手を、陸は迷わず大きな手で握った。サイズ感が全然違うふたりががっしり握手する。俺はなんとも言えない複雑な気持ちになった。


「おやつ食べたら、今度こそ勉強しよ」


 日原さんがサンドイッチを手に取る。それを聞いて、まひるが首を捻った。


「今度こそ? さっきまでお勉強してたんじゃないの?」


 そうだった、まひるには勉強するから外にいてくれと指示したのだった。


「なんでよ! お勉強終わったら遊んでくれるって約束したのに!」


 まひるは怒りながらハムのサンドイッチを口に運んだ。たしかにその約束だった。おやつが終わったらまた外へ行ってふたりで遊んでいろと言ってもまひるが聞いてくれそうにない。


「まひるも一緒に宿題やる。静かにしてるから、一緒にいさせて」


 まひるがお願い、と手を合わせてきた。日原さんがまひるの頭をぽんと撫でた。


「それいいね、一緒に宿題。まひるちゃんが分かんないところあったら教えてあげる」


「やったあ! 美月お姉ちゃん大好き」


 まひるは早速立ち上がって、自分の宿題を取りに部屋に向かった。罠を踏まずに出ていってくれてほっとした。


「まひるちゃんがいちばんやる気あるね。私たちも負けてられないよ」


 日原さんがローテーブルから降ろしてあった問題集を再び上げた。俺も持ち込んでおいたテキストを手に取り、テーブルに載せた。苦手教科の数学から着手する。残りのサンドイッチとフレンチトーストとクッキーは、勉強しながら摘むおやつにしよう。

 まひるが戻ってきて、各々が真面目に勉強を始めた。ここへきてようやく当初の目的だった勉強会らしい雰囲気になる。


 普段俺は、勉強面ではあまりまひるの面倒をあまり見てやれていなかった。しかし今日は日原さんがいる。成績優秀な上に器用な彼女は、分かりやすく丁寧に教えてあげている。まひるだけでなく、俺や陸の質問にもこたえてくれる。

 陸はすぐに集中力を切らせて、軽食に手を出したりぼうっと宙を見上げたりするが、日原さんが教えてくれるとなると結構真面目に取り組むようになる。


 思った以上にいい雰囲気だ。日原さんのお陰で捗る。近くに寄られるといい匂いがしてきめ細やかな肌に目が行って、課題の説明が頭に入ってこないという難点はあるが。

 折角そんないい空気ができてきたのも、実は俺の陰ながら努力のお陰でもある。


「おい、サク……」


 隣に座るキルが、細い声で文句を言った。


「どけよ」


 酷く意地の悪い手段だが、俺はキルの外套の裾を踏んずけて座っている。キルはそのせいで身動きが取れず、日原さんに攻撃できずにいるのだ。

 俺は問題集の余白に、ちょこちょこと小さな字を書いた。


『そこからナイフでも投げれば』


「バッカやろ……なんにも分かってねえな」


 キルが舌打ちし、俺の手からペンを奪い取った。俺の字の下に、返事を書いている。丸みの強い癖字が綴られていく。


『いまここでわたしがナイフなげたら、だれがどうみてもわたしがはんにんになるだろ。暗殺者としてそれはありえない』


 やっぱりな。内心ほくそ笑んだ。あんな大胆な罠を仕掛けておいて今更こんなことを言うのも矛盾しているが、キルは堂々とした攻撃を仕掛けることを好まない。あくまで静かに、誰にも見られず、誰がやったか分からないように殺すことをモットーにしている。

 日原さんと対面して正面から特攻した後なんか、らしくないことをしてしまったと言って落ち込んでしまったほどだ。だからこんな、まひるも陸もいる中で堂々とナイフを出したりはしない。今この状況下で日原さんを殺すとしたら、そっと忍び寄って体に毒針を刺す。そういう殺害方法を選ぶだろう。

 なんて、キルの発想のパターンが分かるようになってきた俺も自分が嫌になってくる。


『どうしても日原さんに近づきたいんなら、この上着脱いで抜けていきな』


 もう一度、分かっていながら意地悪な書き込みをした。キルが睨んでまたペンを横取りした。


『まひるがいるのに、犬のうわぎぬげるわけないだろ』


 これも狙いどおりだ。まひるがいる限りキルはまひるが犬だと判断するこの外套を脱げない。そもそもどう見ても人間の行動を取っているのでこれも矛盾しているとは思うが、キルはまひるの前ではこの上着だけは死守するのだと分かっている。故に、脱皮して身だけ日原さんに近づくということはできない。

 キルが引き続き書き加えた。


『わかっててやってるだろ。こんなにちかくにひょうてきがいるのに、うごけない。どけ。ふむな』


「読みづらいな! なんでそんなに漢字書けないんだよ!」


 いい加減痺れを切らし、俺は声に出して返した。キルもくわっと牙を剥く。


「ほっとけよ! 漢字なんか書けなくても誰にも迷惑かけてねえからいいんだよ! お前らのやってるオベンキョーはするだけ無駄だ、断言する」


「テスト前の学生たちのやる気を削ぐようなこと言うんじゃない!」


 先程まで静かに筆談していたせいだ。周りからは突然ぎゃあぎゃあと喧嘩を始めたように見えたようで、陸がびくっとこちらを振り向いた。


「びっくりした! なんだよ急に喧嘩して。でも俺も、勉強って内容によっちゃ無駄だとちょっと思う」


「だよな!」


 キルがバッと陸の方を見た。


「やっぱ、りっくんは話が分かるな。それに比べてサクなんか善良なだけだ。頭が固い」


「なんだと! キルなんか善良でもなく漢字も書けないくせに」


 言い返したら、キルは絶縁手袋の左手をきゅっと握って、ポカッと俺の頬を殴ってきた。


「中卒バリキャリパンチ!」


「言い返せないからって暴力で訴えやがった!」


「中卒バリキャリパンチ、テイクツー!」


 キルがまたグーパンをかましてくる。しかし二度目は俺の手の中に受け止められた。キルが両手とも突き出してくる。俺もその手を受け止めて、両手で押し合いになった。拳を押し付けるキルと手のひらで受け止めた俺は、お互いギリギリと睨み合った。小柄なキルよりは俺の方が圧倒的に力がある。ぐいっと押しのけると、キルも反撃してきた。


「勉強なんか無駄だ無駄だ、やめちまいな」


 悪魔の囁きを洩らしつつ、全体重を俺に預けてくる。流石に少し体を傾けたが、それでもキルの拳を受け続けた。

 と、突然キルがひょいっと拳を離した。お陰で俺は前のめりになって残された手のひらで宙を掻いた。


「時間は有限だぞ、大事に使え」


 そう言って、キルがすっと立ち上がる。

 しまった。体を傾けたせいで、キルの上着を踏んでいた腰を浮かせてしまったのだ。


「まさか初めからこれが目的で……」


「バカめ! 隙だらけなんだよ、物理的にも戦略的にもな!」


 ニヤアと口角を上げて、哀れみの目で嘲笑してくる。

 晴れて自由の身となったキルは、俺が再び取り押さえるより先にぴょんっとソファの背もたれに飛び乗った。袖を一振りすると、キルの左手の指がきらっと光った。指の谷間に毒針を仕込んだようだ。あんなのを装備して、日原さんに近づくつもりだ。


「キル! こら!」


 俺は座っていたクッションを放り出し、キルが立つソファに特攻した。ソファの裾に体当たりし、本体を揺らす。足場が悪くなったキルは転倒しかけたが、流石は暗殺者、きれいにバック転してソファの背もたれの裏に着地した。


「キルだけ夕飯のおかず減らすぞ!」


 脅かしてみても、キルは怯まない。


「それならサクのを横取りするまでだ!」


 すばしっこい小動物のようにソファの向こうを駆け抜け、日原さんの背後を狙う。あまりにも素早い。

 追いかけて追いつくものではないと、俺も学習した。自分が座っていたクッションを振り上げ、キルの顔面に向かって投げつける。


「ふぎゃっ」


 このクッション攻撃が見事にキルに命中した。動きが止まった隙に、キルに突撃する。いくらキルが素早くても、所詮は狭いリビング内だ。一瞬でも動きを止められれば、俺にでもすぐに追いつける。ほんの一秒以内で行ける距離だ。

 だが、ほろりとクッションが床に落ちたとき、キルのいたはずの場所にはもう彼女の姿はなかった。姿を捜すより先に、いや、え? と不思議に思うより先に、トンッと背中に軽い衝撃が走った。振り向くと、俺の背を踏み台にして跳ぶキルのニヤリ顔があった。


「まだ遅いぞ、サク」


 どういう神経を持っていたらあんな動きができるんだ。咄嗟に床のクッションを引っ掴んでキルに再び投げつけたが、それは外れてボフッと壁にぶつかった。

 キルは壁沿いのチェストの上に降り立ち、チェストに乗っていた手のひらサイズの小瓶を俺の方に放り投げてきた。咄嗟にキャッチしたその瓶は、中が真っ白に曇っていた。綿埃のように見えたが、よくよく見ると中でゆらゆら渦巻いている。どうやら白い煙が瓶の中に詰まっているらしい。しかもだんだん濃くなっていく。


 まさか火薬か。爆発するのか。

 だとしたらどこに捨てたらいいんだ。

 混乱しているうちに、瓶の中の濃霧が飽和した。コルクの蓋がポンッと飛び出し、瓶の口からぶわっと煙が溢れ出してきた。


「うわああ!」


 ついに爆発した。かと思ったら、もくもくと煙が洩れ続けるだけだ。白い煙が俺を包み込んでいく。


「安心しな、ただの煙幕だよ」


 キルがふははと軽快に笑う声が聞こえる。

 爆発こそしなくて助かったが、これはこれで全く周りが見えなくなった。一体どれだけ煙が出てくるのか、小さな瓶からは考えられないほどの量が出続けている。瓶の口に手を押し付けて、これ以上の煙の流出を抑えた。少し周りを手で扇ぐと見慣れたリビングがぼんやり見えてきた。視界が悪い。せめて日原さんの無事だけは確認しないと、彼女の座る位置に目を凝らす。


 キルは既に、日原さんの背後でニヤリと笑っていた。

 煙幕の煙を手で扇ぐ日原さんは、後ろのキルに気づいている様子はない。キルの指の毒針が、きらりと反射する。

 日原さん、後ろ、と叫ぼうとした。しかし煙のせいか焦りのせいか、喉で絡まって声にならなかった。

 日原さんの首筋に、キルの毒牙が襲いかかる。俺は全身の血が止まったような気がした。


「キルちゃん」


 ぴたり、名前を呼ばれてキルの手が止まった。日原さんが煙を払いつつ呼んだのだ。


「こーら、だめでしょ」


 そして振り向き、後ろで針を向けていたキルの手首を、ぎゅっと取り押さえた。キルはぎょっと目を丸くして、握っていた針をぽろりと落としていた。


「お姉ちゃんたちね、お勉強してるの。いたずらしちゃだめでしょ?」


 ちょっと怒った口調で、キルを窘める。キルはまだ驚いて硬直していた。


「いい子にしてようね。はい、お姉ちゃんのお膝にいようねー」


 日原さんはぐいっとキルの手首を引き、そのまま自身の膝に乗せた。そして身動きがとれないように、テーブルと胸の間に挟んで左腕をベルトのようにキルに絡ませて固定する。

 キルをただのやんちゃな小学生だと信じている彼女は、恐れることなく自然と暗殺者を捕獲した。


「えっ、ちょ……ちょっと、腕離して。ポーチ届かない」


 キルが落とした毒針の代わりの針を出したがっているが、上手いこと固定されてそれも叶わない。日原さんはガッチリホールドしたまま器用にペンを取った。


「だめ。放したらまた暴れるでしょ」


 日原さんはキルを抱えたまま問題集に取りかかりはじめ、彼女を狙っていた暗殺者は標的の腕の中で狼狽していた。俺はそんな間抜けなキルを指差し盛大に笑った。


「わはははバーカ! だっせえ」


「朝見くんもうるさいよ」


 日原さんに冷たく言い放たれた。


「朝見くんたら、ちゃんと叱らないで一緒に遊んじゃうんだもん。キルちゃんと遊びたい気持ちは分かるけど、私だって我慢してるんだよ?」


 虚しいことに、日原さんを守ろうとしての俺の行動は、日原さんの目には遊んでいるだけに映っていた。日原さんのみならず、陸とまひるにも遊んでいると思われた。


「派手に遊ぶなあ、お前ら!」


「お兄ちゃんすごい、今の煙どうやったの!?」


 ふたりとも勉強への集中力を切らしてキャッキャと盛り上がっている。

 違う、俺は遊んでいたのではない。遊んでいたのではないが、うるさくしたのは事実だ。


「お、おい美月。放せって……放せよ、頼むから」


 日原さんの腕の中でキルがもぞもぞ戸惑っている。しかし勉強会を妨げたキルを怒っている日原さんは放してなんかくれない。

 俺は元いた席に戻るべく、大人しくクッションを拾った。そのとき、クッションのちょうど真上の壁に、見覚えのある白い突起があることに気がついた。


「ん? この丸いやつって……」


「美月、お願い、放して!」


 キルの懇願が徐々に焦りを増していく。


「あれ? なんかペンが熱いような」


 日原さんが手に持ったペンを止めて、不思議そうに眺めた。よく見るとペンのあらゆる隙間から、フシューと白い煙が立ち上っている。

 俺は壁に貼り付いたコイン状の隆起と、キルと、日原さんのペンを見比べた。掃除をしながら見つけて、カーペットの下の同じものを剥がしまくったアレ。慌てるキル、発熱する日原さんのシャープペン。


「キル、これ……さっきの爆発ボタンの残りなのか?」


「リモチャ……」


 キルが真っ青な顔で俺を見上げた。リモート着火装置。まさかここでそれが出てくるなんて。


「サクが投げたクッションが、ボタンに命中してた」


 全部剥がしたと思ったのに。

 いや、このボタンは新しく仕掛けられたものだ。日原さんがここに来た後に付いたもの。だって、このボタンに反応する火薬は。


「日原さん、ペンを捨てて!」


 巻き添えを恐れて焦るキルと、火薬で熱くなるペンが根拠だ。

 サンドイッチ作りをはじめる前に、日原さんは勉強道具を机に置いていた。キルが外から戻ってきた頃も、ペンは机の上に放置されていた。中に火薬を仕込み、着火するボタンを貼り付けておくには充分な時間もあった。


 そしてその着火のスイッチを、偶然的に俺が押す。日原さんが火薬入りのペンを持つ。ここまではキルの計算どおりだっただろう。しかしそのペンを握る日原さんに自分自身が捕まってしまったことは誤算だった。


「うあああ! 美月、放してえ!」


 キルの断末魔が響いて、そして火薬に熱が行き届いた。


「熱っ」


 日原さんがペンから手を離した。

 瞬間、ボンッとペンが白煙を上げた。

 日原さんは手を反射的に跳ね上げて、宙を握った。陸が無言で口を半開きにする。まひるがきゃあっと目を輝かす。キルはびくっと肩を縮めて目を瞑った。俺は、なにもできずにただその爆ぜたペンを見ていた。


 といっても、シャープペンに入る火薬の量などたかが知れていたのだろう。シャープペンの消しゴムとキャップが飛び出して、キルの額に当たっただけだった。

 キルの額にコチッと当たったシャープペンのキャップは、そのまま力なくテーブルの上に落ちた。キルがおでこを押さえる。


「いっ……痛い」


 部屋の中はしばし呆然としていた。そのうち陸が吹き出し、まひるがけらけら笑い出し、日原さんがキルの額を撫でた。


「ごめんね、痛かったね。なにが起こったんだろう」


 全く怪我がなさそうな日原さんを見て、俺はほっと胸を撫で下ろした。大爆発が起こらなくて本当によかった。キルの火薬調整が異様に下手で助かった。


 キルはまたもや暗殺に失敗した。それどころか、自分が仕掛けた罠で自分が巻き添えをくらった。先日までの、自信をなくした暗い顔に戻っている。もう暴れたりポーチに手を伸ばそうともしない。やった、これで日原さんは安全だ。

 しかし、キルが折角大人しくなった矢先だった。


「あ、お母さんから連絡が来てる」


 日原さんがスマホを取り、画面を指でつついた。それから顔を上げ、俺に申し訳なさそうに言った。


「ごめん、朝見くん。私、もう帰らないと」


「もう?」


 まだ勉強会は全然進んでいない。


「うん、今、お母さんから連絡が入って。お父さんが会食でいないから、今日はふたりでちょっと遠くまでご飯食べに行かないかって」


 なるほど、そういうことなら仕方ないか。


「そっか、おいしいもん食べてこいよ」


「うん。ごめんね、折角の勉強会だったのに」


「俺の方こそ、その折角の勉強会で大騒ぎしてごめん」


 勉強が進まなかったのは俺のせい……いや、キルのせいだ。

 日原さんがようやくキルを解放し、鞄を持った。帰っちゃうんだなあ、なんて、妙に名残惜しい気持ちになる。まひるが不満そうにむくれた。


「えー! 遊んでくれるって言ったのに! 約束破った!」


「こら、まひる。仕方ないだろ」


 窘める俺と怒るまひるを見て、日原さんはまひるの頭を撫でた。


「ごめんね、まひるちゃん。今度また遊ぼうね」


「絶対だよ!」


 まだ納得はいっていないようだったが、まひるは一先ず引き下がった。日原さんがリビングから玄関へ向かう。その後ろ姿に、キルが声を上げた。


「待って、美月」


 てくてくと日原さんに歩み寄り、見上げる。


「お父さんが会食って、誰と、どこで」


「え? ええと……ごめん、詳しくは知らないんだけど、安井さんって人だって。お父さんがいつもお世話になってる人なんだ」


 日原さんがこたえる。なんでそんなことを聞くんだ、と俺は疑問を持ったがすぐに思い出した。

 キルが狙う本命は、日原さんの父親だ。たしか政治家の安井幸高と、不正に繋がっていると聞いた。

 この会食も、なんらかの汚い接触に違いない。キルがかわいげのない顔で舌打ちしている。


「それじゃ、お暇します。お邪魔しました」


 日原さんが丁寧に頭を下げた。見送ろうとしたら、陸まで鞄を抱えて立ち上がった。


「俺も帰るよ」


「陸も?」


 陸は関係ないだろ、と思ったのだが、直後陸は小さな声でぽつんと呟いた。


「俺の目的は勉強じゃなくて、美月ちゃんだから」


 そういやそうだった。日原さん本人にはその呟きは聞こえなかったようだが、耳のいいキルには届いていた。


「やっぱりそうなのか!?」


 バッと陸を見上げ、大きな目を見開く。陸はキルに照れ笑いを返した。


「分かっちゃった?」


「そうかなって思った!」


 ちょっと興奮気味のキルを見て、俺はちょっと驚いた。キルがこういう話に関心を持つのは意外だった。恋愛、とまでは行っていないのかもしれないが、好意のベクトルを気にするなんて、案外お年頃らしいところもあるようだ。

 陸の呟きを聞いていなかった日原さんは、これでお開きだねと微笑んでいた。


 *


「日原篤影の動きが進んでる」


 ふたりが帰った後、キルはリビングのソファで三角座りをして大真面目に言った。


「今日の会食もなにか取引が行われるんだろう。賄賂だろうな。やっぱ、さっさと美月を殺さないとまずい」


 表情は立派に暗殺者だが、小ぢんまりしゃがむ姿はどう見ても叱られて落ち込む子供そのものだった。


「殺したい気持ちばかり先行して、結局なにもできなかった……。やはり只者じゃないな、美月」


 シャープペンのキャップをくらった額を押さえ、キルは重いため息をついた。俺はリビングに掃除機をかけつつ、ギロリとキルを一睨みする。


「キルのせいで、全然勉強捗らなかった」


「初めから勉強する気なんか誰にもなかったんじゃねえのか?」


 睨み返してくるキルを横目に、俺は掃除機を止めた。膝を抱えて丸くなった姿勢のまま、キルは続けた。


「美月は多少はやる気あったのかもしれないが、あの子はお前らなんかと一緒に勉強会なんかせんでも成績がいいんだろ? 目的は、私やまひると遊ぶことだったはずだ」


「そういえばそうだよな。暴れたのを口実にキルを拘束したのも、本当はただ抱っこしたかっただけなのかも」


「末恐ろしいぜ」


 キルがぎゅっと自身の膝を抱き寄せた。それから膝に寄せた手指を立てた。


「まひるは宿題を一緒にやることを条件に、あの空間にいたかっただけ」


 キルの指差す天井の、その上。まひるは二階の自分の部屋に戻って不貞腐れている。日原さんと陸ともっと遊びたかったのだ。


「サクだって、勉強はついでくらいにしか思ってなかったろ。皆のアイドル日原美月を自宅に招いて満足してたろ」


 俺の頭の中をキルに勝手に覗かれた気がした。一応勉強することをメインにしたつもりだったが、たしかに彼女がいる家に来て手料理を食べてくれて、そして彼女の手料理を食べさせてもらえて、浮ついていた部分はある。


「りっくんの狙いも美月だった」


 キルが膝に顎を乗せる。俺も日原さんのことはかわいいとは思うが、陸ほど日原さんに夢中ではない。キルは上目遣いで俺を見据えた。


「なあ、りっくんはどこの所属か聞いてるか?」


「ん? 所属?」


「知らないようだな。ま、あいつもプロならいくら友人でも教えてないか」


 なにを言い出したのかよく分からない。俺の頭に疑問符が浮かんでいたのが見えたのか、キルは面倒くさそうに言った。


「だからさ。同業者だろ、りっくんは」


「同業……え?」


「私の同業者。殺し屋だろ?」


 なにを言い出したのか、やはり分からなかった。俺がいつまでもきょとんとしているので、キルは鬱陶しそうに付け足した。


「あいつは私が仕掛けた罠を全部受け止めた。そんな並々ならない能力を持っているなんて、殺し屋じゃなきゃ有り得ない」


「違う違う! 陸は殺し屋じゃねえよ」


 キルは大真面目なのに、つい笑ってしまった。


「キルの言うとおり、あの身体能力は人知を超えてるけど。俺は幼馴染みだから知ってるよ、あいつが殺し屋なわけない」


 普通に一緒に学校に行って、普通に生活している、普通の高校生だ。しかしキルは信じない。


「思えば出会いからおかしかったもんな。逃走中の私を片手で掴んで、公の場に晒し上げた。あんなの常人じゃ不可能だから、変だと思ってたんだよ」


「だからって、陸は殺し屋じゃねえよ」


「さっき明言してただろ。『俺の目的は勉強じゃなくて美月ちゃんだから』って」


 帰りがけに陸が言っていた台詞だ。なるほど、キルがあんなに反応したのはそういう理由だったのか。色恋沙汰に興味があったのではない。「殺し屋の陸」が自分と同じ標的を狙っていると解釈したからだったのだ。


「目的って、そういう意味じゃねえから!」


「標的が同じとなると、下手したら仕事盗られて私が報酬貰えなくなっちゃうな。とはいえ目的が一緒なら一先ず仲間だ。上手く協力していきたいな」


「聞け! 違うってば!」


 俺がどんなに訴えてもキルは聞く耳を持たない。ややこしい勘違いがまた一つ増えてしまった。


 もうなにを言っても無駄なので、はあとため息をついて再び掃除機のスイッチを入れた。煙幕のせいで部屋が若干煙たい。カーペットも少し粉っぽくなった気がする。念入りに塵を吸い込んでいたら、掃除機のヘッドがポチリとなにか押した。


「うわ、この感触」


 まだ残っていたようだ。

 ボンッと軽い爆発音がして、ソファの一角が煙を上げた。座っていたキルは、ころんと床に転げ落ちていた。

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