3.暗殺者が本気出した。

 思ったのだが、キルを家に置いておくのは案外正解かもしれない。

 迷惑だと言って追い出してしまったら、いよいよキルが焦り出して今以上に本気で日原さんを殺しに向かってしまうかもしれない。それに、こうして家にいれば奴の行動を見張ることが可能で、野放しにするよりずっと安全だ。

 向こうも寄生してのうのうとしているのは不愉快極まりないが、こちらにもメリットがある。


 そんなことを思っていた、夜のことだ。

 ピンポン、とインターホンが鳴る。俺は眉を顰めた。


「なんだ? こんな時間に」


 もう夜も更けて十一時を回っている。こんな遅くに誰だ。宅配便にしても遅すぎないか。リビングで寛いでいた俺はのっそり立ち上がり、玄関のドアを開けた。


「コンバンチャース。こちら朝見さんのお宅でよろしっすか?」


 ドアの隙間から見えたのは、ダンボールを抱えた若い男だった。緑と黒の作業着に帽子の装いで、ダンボール箱を小脇に抱えて立っている。


「は、はあ。朝見ですけど」


「お届け物でっす」


 宅配業者のようだが、俺はなにも注文していない。小学生のまひるはもちろん、ばあちゃんも宅配を使うときは俺に相談する。

 俺が戸惑っているうちに、業者の男はずいずいダンボールを押し込んできた。ダンボール箱でこちらを突いてきて、無理くり俺に受け取らせた。俺も受け取らざるを得なくて、箱に手を添えると男はサッと身を引っ込めた。


「あざっした! そんじゃ!」


 受け取りのサインをさせるでもなく、彼はすぐに扉を閉めて俺の視界から消えた。唐突に荷物を渡された方としては、閉じたドアを見て呆然と佇むだけだった。


「おっ! 来た来た」


 背後からキルの声がする。


「キル、なにか注文したのか?」


「うん。そこ置いといて」


 キルが玄関マットの上でにんまりしている。俺は彼女が指さす壁沿いに箱を置いた。


「さっきのはフクロウが専有してる運送システム、通称『フクロウ便』」


 置かれた箱の前にしゃがみ、キルはベリベリとガムテープを剥がし始めた。俺は彼女の丸まった背中を眺めた。


「え……運送業者を抱き込んでるのか?」


「一般企業には頼めないことを頼むからね。時間も場所も融通が利く上に、取引に必要な情報は最低限。危険物や死体だって運ぶ」


 この業界はどうも想像以上に根が深そうだ。


「なにを頼んだんだ」


「組織から仕事で使うアイテムを送ってもらっただけさ」


 キルがちらと目を上げる。


「組織は仕事に必要なものなら経費で落として届けてくれんの。私生活に必要なものは面倒見てくれないんだけどね」


 剥いたテープを丸めて、キルは箱の口をパカッと開いた。見えてしまったその中身に、俺は絶句した。

 束になって梱包されている大量のナイフと、鎖の付いた鎌、紐で繋がれた三本の棒、柄の先に棘のある玉がついたものと、物々しい顔ぶれが敷き詰められていた。初めて見るものばかりだが、武器であることは分かる。


「危ないから触るなよ。物によっちゃ、一回血が付いただけで切れ味が鈍るものもある」


 立ち尽くす俺に、キルが先に釘を刺した。俺は箱の中を見下ろすしかできなかった。


「触らないけど……なんだよこれ」


「日原美月は一筋縄ではいかないからな。今までのようにダガーで狙えば仕留められるというものでもなさそうだ。だからこうして他の武器を『フクロウ』に注文しておいたんだよ」


 ダガーというのは、キルが携帯しているナイフのことだろう。キルがひょいと箱の中から武器を取り出していく。


「どうだ、興味深いだろ? これは鎖鎌。これは三節棍っていうの。で、これはモーニングスター。メイスの一種の無音武器。そんでこれが鉄扇、これがスペツナズナイフといってこう、刃を発射できるナイフでな」


 ゲームの世界でしか見ないような武器が、今まさに現実の床に並べられていく。どれも小型で、キルの外套の中に隠し持つことができそうなものばかりである。


「こんなの、マジで使いこなせるのかよ」


「主力はダガーなんだけどね。使える武器の幅は広い方が有利じゃないか」


 いよいよ心臓が凍りつきそうになる。日原さんがこんな鋭利な刃物や訳の分からない鈍器みたいなもので襲われたらと思うとぞっとする。

 いくら彼女が昨日のキルの攻撃を全て躱したからといっても、結局はただの偶然でしかないのだ。それにキルは本気だ。ミスター右崎に宣言した日程でクリアできていない彼女は焦っている。

 俺は意を決して、一か八かの賭けに出た。


「なあキル。実は俺は、今からとんでもない悪さをしようとしている」


「ん?」


 キルが俺を見上げた。


「まひるに内緒で、深夜のデザートチョコレートプリンを作ろうと思う……」


「な……なんだって!?」


 丸い瞳がギンと光る。


「こんな時間に甘い物を……それもチョコレートたっぷりでは肌荒れするぞ」


「分かってる。それでも俺はやる気だ」


「サク……私はあんたのペットだ。ペットは主人ひとりを犠牲にしたりしない。私も運命を共にしよう」


 よし、食いついた。単純な奴で助かった。


「じゃあキル、悪いんだが冷蔵庫に材料が揃ってるか確認しておいてくれないか。俺はまひるが起きてこないか様子を見てくる」


「承知した」


 キルはわくわく浮き立ってキッチンの方へと駆けていった。俺はキルが去ったのを見計らって、無防備に放置されていた武器をダンボールに突っ込んだ。そしてその箱をサッと抱える。静かに階段を上り、自室のドアを開けた。一旦ダンボールを床に置き、音が響かないようにそっとクローゼットを開けて、いちばん高いところに武器入りのダンボールをしまい込む。ダンボールの手前に衣装ケースを出してカモフラージュまでした。

 再び階段を下りると、玄関の前で佇むキルがいた。後ろ姿がわなわな震えている。


「おいサク……ここにあった武器はどこへやった」


「没収した」


「返せ」


「だめ」


 冷たく返すと、キルはくるっとこちらを振り向いた。暗殺顔になっているかと思ったら、びっくりするくらい無垢な半泣き顔になっていた。


「なんてことしやがる……日原美月ひとりのためにあんなに発注しただけでも怪訝な反応されたのに……これでもう一回同じ発注かけたらどう思われるか……もう経費で落ちないかもしれない」


 よろよろ歩み寄ってきて、俺の腰にがしっとしがみついてきた。


「流石に二度目の発注はしたくないよお……さっきの返してよお」


 小さい体でぎゅうっと俺を抱きしめて、必死に訴えかけてくる。が、俺はキルのフードの耳の間に手のひらを挟んで、ぐいっと突き放した。


「プリン作る。邪魔になるから離れて」


「あああん! 日原美月殺させてよお」


「いちいちフルネームで言うのやめろ」


 その後しばらくキルは不機嫌だったが、五分でできるチョコレートプリン一つですぐに機嫌を直した。


 *


 翌朝、俺は校門で陸に捕まった。


「咲夜……お前に話がある」


 朝から怖い顔をしている。肩に置かれたデカイ手に、微妙に力が入っていた。陸を怒らせるようなことなんかあったか、頭の中でしばし考えを巡らせた。


「もしかして、昨日俺が日原さんと話してたこと、まだ怒ってるのか」


「それを踏まえた上で、余計に許せない情報が入ったんでなあ」


 心当たりがない。しかし陸は俺の肩を掴んで離さなかった。掴まれたまま昇降口に向かう。


「なにかしましたっけ」


「朝見宅に女が出入りしているのを目撃した奴がいる」


「はあ……?」


 やはり心当たりがない。


「おばあちゃんでもまひるちゃんでもない女だと聞いたぞ。ブロンドのかわいい子だって」


「いねえよそんな……あ!」


 否定しかけたところで、匿っている暗殺者を思い出した。


「ああ! あいつか。あれはペッ……いや、ええと」


 ペットだとも暗殺者だとも言えず、少し頭を悩ませた。


「従姉妹だよ。家庭の事情で、一時的にうちで預かってる」


 自分でも驚くくらいのポーカーフェイスで口から出任せがペラペラ出た。


「従姉妹?」


「そう従姉妹。女っつうからびっくりしたけど、まだ小学生だよ。まひるくらい」


 実際は十七歳らしいが、ややこしくなるので見た目年齢で説明しておいた。陸はがっくり項垂れて手を離した。


「なんだよ。とうとうサクに春が来たのかと思ったのに」


「喜んでくれてたのか?」


「いや。お前に訪れた春を迎え撃ちにいこうかと」


「そういう奴だよ、お前は」 


 昇降口を抜けて教室に向かう。

 キルの奴は暗殺者のくせに、普通に周辺住民から目撃されているようだ。そもそも暗殺者なのになぜか無駄に目立つ恰好をしている。まひるとばあちゃんの前で犬の装いをしなくてはならないのは分かったけれど、そうでないときになぜあんなアホみたいな外套を羽織るのだろう。


 教室に入り、真っ先に自分の席の隣を見た。日原さんは無事に登校してきたようだ。昨日俺が眩しいと言ったことを気にかけてくれているのか、今日もカーテンが閉まっていた。気を遣わせているのは忍びないけれど、これも窓の外から飛んでくるナイフから彼女を守るためだ。


 席につこうとして、教室の真ん中辺りでふと足を止めた。なんだか妙に不穏な気配を感じる。少し、目線を右下に落とした。

 教卓の脚の一センチほどの隙間から、ほんの少しだけ、白い布がはみ出している。

 俺はわざわざ迂回して教壇に上り、ちらりと教卓の裏を覗き込んだ。


「随分攻め入ってきたな、キル」


 教室の喧騒で掻き消される程度の声で、隠れる暗殺者に呟いた。キルは教卓の中で膝を抱えてちょこんと収まっていた。


「遠距離だと厳しいからな。近づくしかないだろ」


 キルは言い訳するでもなく堂々とこたえた。


「どうやって侵入したんだ。生徒も教師もいっぱいいるのに、よく潜り込めたな?」


「日原邸のセキュリティに比べれば、学校なんて緩い緩い」


 昨日は校舎までは入ってこなかったのに。ミスター右崎との口約束を、余程気にしているようだ。


「コソコソしてないで、正面から殺りに行けよ」


 暗殺者がそれをしないのを分かった上で嫌味を言ってやった。キルがしっかり受け取って舌打ちする。


「それができたらいちばん早い。でもそれやって面が割れたら次の仕事がこなくなるんだよ」


 今ここでこいつを引っ張り出して職員室に突き出してやれば、当分は見張られる。俺はキルの腕を引っ掴んだ。


「キル。出てこい」


「やだ。表に出るなんて暗殺者にはあっちゃならん」


 キルは教卓に縮こまって出てこない。体重は軽そうなはずなのに、引っ張ってもびくともしない。それでも粘っていると、あろうことかキルは反対の手でナイフを取り出し、掴んでいる俺の手首にぴたりと当てた。


「切り落とされたいのか?」


 つい、ぎょっとして手を放してしまった。


「おーい席つけ。ホームルーム始めるぞ」


 キルを引っ張り出す前に、担任が入ってきてしまった。


「朝見、なにをしている」


「教卓の下に変な奴が」


 言いつけてやろうとしたが、覗き込んだ担任は訝しげに眉を寄せた。


「なにもいないが?」


 え、と俺も再び教卓を覗いた。先程までたしかにキルがいたはずの教卓の中は、いつの間にやらカラッポになっていた。


「寝惚けてるのか? はよ席につけ」


 背中をどつかれて、俺はすごすごと教壇を降りた。一瞬だ、ほんの一瞬の隙に逃げられた。やはり俺はとんでもない奴を相手にしている。

 ホームルームが始まった。俺はろくに話を聞かず、目線だけ周囲を探った。この教室のどこかにキルが潜んでいるはずだ。カタッという僅かな物音に反応して、びくっと肩が跳ねる。そのとき消しゴムを手で弾いてしまい、机の上からコロンと落としてしまった。


「朝見くん。落としたよ」


 狙われているとは露知らず、日原さんが机の間に身を屈めて拾ってくれた。そのサッと体を曲げた瞬間だ。彼女の背後の壁にトスッと細い針のようなものが突き刺さったのを、俺は見逃さなかった。


「ありがとう……」


 言いつつも、俺の目は彼女越しの壁の方に集中していた。消しゴムを差し出し、上目遣いになる天使のような日原さんより、その後の謎の針に気を取られる。消しゴムを受け取るより先に、ちらと上空を見上げた。

 天井に吊り下げられた蛍光灯の照明から、尻尾ポーチが垂れている。

 あそこから針を飛ばしたようだ。暗殺者の暗器の針だ、多分、毒が仕込まれている。幸い、壁と日原さんの間に距離があるので、うっかり触れてしまう心配はない。回収はホームルームの後でいい。


 消しゴムを受け取り、黒板に向き直った。今週から変わる掃除当番についての議題が、白いチョークで書き込まれている。


「教室清掃について、なにか意見のある奴いるか」


 担任が投げやりに問う。俺は手を上げるような性分ではなかったので、ぐりっと後ろを向いて背後の席の平尾に話しかけた。


「照明の上、埃溜まってそうじゃねえ?」


「照明?」


 平尾の目線が上を向く。これでキルに気がついて騒ぎにでもなればキルを追い払える……と思ったのだが、俺も上を見た頃にはもうキルはいなくなっていた。


「照明は面倒くせえか」


「面倒くせえな」


 なにごともなかったかのようにホームルームが続く。

 キルを捕まえられはしなかったが、照明からは追い払った。次はどこに隠れたのだろう。また教室の中のキルの影を探る。しかし流石は暗殺者、きれいに気配を消している。


 ちらりと日原さんの方を見た。少し前屈みになって、机に腕を乗せて黒板を眺めている。その涼し気な横顔を見ていると。

 廊下の方からピンッと、細い風が俺の鼻先を掠めた。先程日原さんの元に飛んできた針を連想する。普通に腰掛ける俺の鼻先を抜けた。ということは、少し前屈みになっている日原さんに命中する。

 かと思いきや、日原さんはちょうど伸びをしていて、背中を反らせていた。針はカーテンに突き刺さっている。


 日原さんの無事を確認し、一旦安堵した。それから針が飛んできた廊下の方向に目をやる。廊下と教室を隔てる壁の窓から覗く、キルがいた。小さな拳銃を握って、俺の向こうの日原さんを睨んでいる。あそこから狙ったのか。

 日原さんまでの距離の中に、俺を含め別の生徒が五人いるのに、その鼻先を横断して日原さんを撃とうとした。かなり無謀な行動に思えるが、事実、他の生徒には当たらず日原さんまで到達している。ただし、日原さんが運良く伸びをして避けてしまっただけだ。

 日原さんもすごいが、キルの技術は本物だ。


「次は廊下掃除の件だが」


 担任の口から廊下という単語が出ると同時に、キルはサッと窓から姿を消した。人の意識が廊下に向くのを警戒したようだ。あの素早い動き、まるで忍者だ。


 キルに気を取られているうちに、ホームルームが終わった。日原さんは無事だ。授業が始まる前に、俺は窓際に歩み寄った。壁とカーテンに刺さっている毒針らしき針を、要らないプリントを厳重に折ってミトンにして抜き取った。針は透明で、シャープペンの芯程の細さで芯を半分に折ったくらいの長さだった。

 油断していた。夜に届いた武器を没収したから、武器はダガーナイフだけだと思っていた。どうやらナイフ以外の武器も携帯していたようだ。見たところ拳銃のようなものを握っていた。多分あれは、ニードルガンだ。


 しかしナイフで狙いにくいのと同じで、針も避けられてしまった。日原さんの「偶然避ける能力」の高さは目を見張るものがある。

 だが気は抜けない。こんなに細くて目立たない針ならば、ナイフとは違い日原さんの周辺に仕込むことができる。例えば椅子、制服、教科書。彼女が知らずに触れてしまいそうなところに突き刺しておくのだ。

 危なすぎる。なんとしてもキルを取り押さえなくては。

 カーテンから抜き取った針をプリントに包んでいると、後ろから声がした。


「朝見くん。ちょっと来て」


 なにも知らない日原さんは、今日も麗しく微笑んでいた。日原さんから手招きされる俺を、遠くから陸が睨んでいる。俺は奴に向かってわざとらしく鼻で笑ってから、日原さんに歩み寄った。


「なに?」


「昨日、赤ペンくれたお礼。よかったら」


 彼女が差し出してくれたのは、小さな袋に詰められた手作りクッキーと、日原さんが使っていた赤いペンだった。


「ペンは交換、ね」


 日原さんがうふふと花のように笑う。まさかここまで丁寧なお礼とお返しまでしてくるとは、期待していなかった。


「いいの? 逆に気を遣わせたな」


「そんなことないよ。すごく嬉しかったから、お礼させてほしいの」


 日原さんのきらきらした眩しすぎる笑顔と、教室の対角線上から放たれる陸の殺気に挟まれて、俺はなにとも気まずい気持ちになった。だが陸、だからといってこのペンを受け取らないつもりはないぞ。


「ありがとう。大事にする。クッキーもおいしくいただくよ」


「うん。妹ちゃんと食べてね」


「ええー! なに、朝見くんずるい!」


 日原さんの友達の枯野さんが噛み付いてきた。


「美月のクッキーおいしいんだよ! 美月、私にも作ってよ!」


「栄子にはまた今度ね」


 女の子が集まって盛り上がりはじめたので、俺はそっとその場を離れた。無関係の女子が壁になっているうちは、キルも狙わないはず。今のうちにキルを捕まえて毒針だけでも押収しておこう。と、思ったのに、廊下に出る前に陸に捕まった。腕をがしっと掴まれる。


「ええー……なに、朝見くんずるい……」


 地獄の底から響くような声で、枯野さんの言葉をそのまま引用してきた。こっちはキル捕獲のために急いでいるというのに。


「後でクッキー分けてやるから放して」


 これだけの交渉で、単純な陸はひょいっと手を離した。俺は廊下に飛び出し、辺りを見渡した。休憩時間になって廊下にも生徒が出はじめたからだろう、すっかり姿を消している。早くしないと一限が始まる。

 名前を呼ぼうとした。でも、学年にいない名前を大声で呼んでひとりでうろうろしていたら俺の方が頭がおかしいと思われる。それに呼んだところで素直に出てくるキルではない。


 どうする。しばし頭を捻り、一つ手段を思いついた。まず現実的な方法ではないが、昨日のチョコレートプリンの件もあるし、意外といけるかもしれない。

 廊下を奥まで進んで、突き当たりの空き教室の戸を引き開ける。ラッキーなことに鍵がかかっていない。中に飛び込み、スマホの電話帳に指を滑らせた。先日キルに登録させられたキルの通信機の番号にコールする。ホルルル、という聞いたことがない変な呼び出し音がした。なんとなくだが、フクロウの鳴き声のように聞こえる。

 呼び出し音が止まり、キルの声に切り替わった。


「はいよ。どしたのサク」


 意外とあっさり出てくれた。俺は埃の積もった教壇に腰を下ろした。


「どしたのじゃねえよ。危ねえもん飛ばすな」


「ああ、毒針? もうちょっとだったのに、またあの小娘に躱されたぜ」


「やっぱ毒だったか。ナイフで狙いにくいんだったら針も躱されて不思議はないだろ」


「いや、ナイフよりは確率が上がった」


 キルは真面目な声を出した。


「ナイフスローイング一突きで致命傷を負わせようとすると、どうしても心臓や首や額なんかの急所を狙わなくちゃならない。私はこの急所を狙うのが得意だから、今まではそれでよかった。でも日原美月に関しては動きが読めないから、急激に困難になる」


「はあ」


「その点毒針は、急所でなくてもとりあえずどこかに刺さればいい。その代わり、毒が回るまでに時間はかかるけどね」


 納得したくない話だが、理屈としては納得だ。


「それに針は、ナイフより見た目が目立たない。ナイフだと一本飛んできただけでびっくりするけど、針は気づかれないことすらある。数撃ちゃ当たる戦法が有効だ」


「たしかに日原さんも他のクラスメイトも、飛んできた針に気づいてなかったな」


 俺だって警戒していなかったら気が付かなかったかもしれない。


「そして、私がナイフで狙うのを諦めた最大の理由が」


 キルの声は更に慎重になった。


「ナイフで狙う急所の一つ……胸に脂肪が付きすぎているからだ」


 これには、相槌を打つのを忘れた。


「胸が邪魔だ。急所の一つが封じられているのは非常に苦しい。なんだ? あの生きるのに適した体は」


 キルは大真面目に唸っている。


「……生きるのに適してる人を殺そうとするの、やめたら?」


「そんなことで暗殺やめる暗殺者がいるかよ、バーカ」


「まあどうせなにを言っても、やめてくれないんだろうけどさ……」


 ここからが本題だ。


「キル、俺は今、突き当たりの空き教室にいる。ここでクッキーを食べようとしている」


「なにっ! まさかさっき日原美月から貰ったクッキーか?」


 どうやら、クッキーの受け渡しはどこからか見ていたらしい。


「そうだ。早く食べないと、彼女のファンである友達に盗られそうだからな。ただ全部食べ切れる自信がないから、優秀な助っ人を募集しようと思って」


 こうやって、クッキーでキルをおびき寄せる。キルが嫌う日原さんの手作りだと食べたがらないかもしれないという不安はあるが、これで誘い出すことができれば。


「分かった、援護に向かう!」


 いともあっさり誘い出せた。ひょっとしたらこいつは、頭の作りは陸とあまり変わらないのかもしれない。通話が切れた直後、パンッと勢いよく立て付けの悪い戸が開いた。


「食らいつくしてやるわ、日原美月!」


 白い外套の暗殺者が目をきらっきらさせてやって来た。キルの脳のスイッチは、暗殺か食かのどちらかにしか切り替わらない。


「日原さんのクッキー、おいしいんだってさ」


 袋をカサカサと揺する。キルは獲物を見つけた獣のように飛びついてきた。俺の隣にちょこんと座り、こちらを見上げた。


「才色兼備に加えて料理も上手なんて、認めないぞ。どれ、私が毒味してやる」


 発言のわりには目を輝かせている。

 キルと俺の間に、キルの腰から垂れる尻尾ポーチが横たわっている。長い白い毛に埃がまとわりついていた。ポーチを横目に、袋を縛るラッピングタイを外す。花の形に抜かれたクッキーを一枚取り、口に放り込んだ。バターの匂いがふんわり口いっぱいに広がる。キルにも袋を差し出すと、彼女も無邪気に手を入れた。


 本当は、このクッキーをこいつの餌にするのは惜しい。学校の太陽、日原さんの手作りクッキーだ。それをひとり占めできるはずだったのに。


「うーん、おいしい……! 味も焼き加減も最高。作ったのが日原美月といえど、やはりクッキーに罪はないからな!」


 クッキーをさくさく頬張って、キルは丸く膨らんだ頬に手を当てた。嬉しそうでなによりだ。


「しかしサク、なかなか気前がいいな。学校の太陽、日原美月の手作りクッキーを私に分けてくれるなんて。ひとり占めしたくなるのが本能じゃないのか?」


 見事なまでに心の中を読まれた気がした。


「校内にオークションがあったら、億の値段がつくぜ」


「ふうん。分かってんじゃねえか」


 クッキーに顔が緩んでいるキルに、俺はじろりと尖った視線を向けた。


「キルの言うとおり、日原さんは学校の太陽だ。お前はその太陽を殺そうとしてるんだぞ」


「暗殺ってのはそういうもんでしょ。光り輝く太陽を、闇の中で殺す。時代はそうやって移っていく。日原美月は、新しい正義のための犠牲者だ」


 クッキーを齧る無垢な表情の少女から出る台詞にしては、あまりにも刺がある。社会の闇を悟った言葉なのか、はたまた自分の仕事を正当化するためだけの言葉なのか、俺には分からなかった。


「そう。やっぱなに言っても止まらないんだな」


「サクも働くようになれば分かるよ」


 頑ななキルに、日原さんのクッキーを袋ごと押し付ける。


「じゃ、もう一限始まるから行く。クッキー、帰ったら俺も食べるから残しとけよ」


 キルは頷いて袋を受け取った。

 教壇から立つと同時に、俺は勝負に出た。キルの腰にぶら下がる尻尾のポーチを、引っ掴んで立ったのだ。ベルトとポーチを繋げていた金色のチェーンがブチッとちぎれる。


「あっ! おい!」


 やはり、食べ物に夢中のときのキルは無防備だ。


「サク、返せえ!」


 キルの叫びを背中に、尻尾を持ち去って全力疾走で逃げた。こんなことをしたらそれこそナイフや毒針が飛んできてもおかしくなかったが、食べかけのクッキーと袋入りの新しいクッキーで両手が塞がっているキルは、すぐには仕掛けてこなかった。

 一限はもう始まっている時間だった。誰もいなくなった廊下をひた走り、自分のクラスの戸を開ける。


「朝見、二分遅刻だぞ」


 数学のタヌキ顔教師に睨まれた。すんません、と投げやりに謝ってから開けた戸をピシャンと閉めた。キルが現れる隙間を少しでも減らすためだ。ついでに廊下側の窓も閉めて、席に戻る。ふさふさの尻尾ポーチはファンシーすぎて恥ずかしいので、ブレザーの内側に隠して歩いた。


 まさかポーチ強奪作戦が成功するとは思わなかった。クッキーでおびき寄せられるかは賭けだったし、油断させてポーチを引きちぎったのもよく上手くいったなと我ながら感心する。奪えたとしてもすぐに追いつかれて奪い返されるかナイフや毒針で足止めされるかと思ったのに、それもなかった。キルのアホさが奇跡を起こした。


 日原さんの傍の窓は、カーテンでガードされている。教室の戸は前後とも閉まっているし、廊下側の窓も閉じられている。キルにはあの空き教室から追いつかれなかったから、俺より先に教室に侵入している恐れはない。この状況なら、日原さんの安全は確保できたといってよさそうだ。


 椅子に座り、念のため日原さんの無事を確認してから、隠していたポーチを机と身の隙間で開いてみた。ファスナーで裂けた尻尾から、キルの私物が顔を覗かせる。


 いちばん取り出しやすい位置に、手のひらサイズの乳白色の筒が入っていた。蓋を開けると透明の針がぎっしり詰まっていた。ぎらつく針の先にぞっとする。替えの毒針だ。針は使い捨てになるから大量に携帯するのだろう。これを奪えたのは、大きな成果だ。


 針のケースに蓋をして、再びポーチを探る。人差し指程度の長さの、銀色の笛が出てきた。よく見るとジョイントがあり、引っ張ってみたら三分の二くらいで分かれた。中に尖った刃物が潜んでいる。吹き矢だ。


 次に茶色い小瓶が目にとまり、引っ張り出してみる。中身は錠剤のようだ。瓶にはラベルも印字もない。市販の薬にも見えるが、暗殺者の持ち物だ、ただの薬ではないと思った方がいい。ひっくり返して瓶の底を見てみたら、「にばんめにすごいやつ」と下手くそな字で書いたシールが貼り付けられていた。すごいってなんだよ。二番目ってなんだよ。


 続いて、キルの犬外套そっくりの白い犬の人形が現れた。手のひらに収まるくらいの小さな人形だ。ただのかわいい人形に見えるが、お座りしている姿なのに尻尾が下向きにぶら下がっていて不自然だ。気になって尻尾をつまんでみたら、くるんと回転して同時に人形の胴体から鋭い刃が飛び出してきた。これも暗器か。刃を戻してポーチにしまう。

 鳥肌が立った。こんなかわいらしいポーチになんてものを。取り上げて正解だった。授業が終わったらこんなポーチ捨ててしまおうとさえ思った。


 まだ危ないものが潜んでいるのではと、授業そっちのけで探る。刃物や毒があるかもしれないから、あくまで慎重にだ。

 吹き矢や毒薬や隠し刃の下には、カラフルな飴玉があった。これは普通にコンビニで売っているキャンディだ。食べることが大好きなキルだ、飴くらい持っていても不思議はない。そして先日見かけた、通信機の取扱説明書。「HO-card」と書かれたカード。クレジットカードだろうか。フクロウのシルエットがあしらわれているところを見ると、例の組織関係のカードだと推測できる。

 その他には、リップクリームにヘアゴム、拳くらいのサイズの巾着袋。ポーチの中に更にポーチ。逆に驚いた。この辺りは、そこらの女子高生の持ち物となんら変わらない。


 俺は再びファスナーを引っ張った。チー、と閉めて、ブレザーの中に潜り込ませる。これ以上漁るのはやめた。今更になって、他人の鞄の中身を見てしまった罪悪感が湧き上がってきたのだ。気持ちの上では手荷物検査……否、押収物の内容確認のつもりだった。実際、差し押さえたい暗器はたしかにあった。

 けれど、それ以外に普通の女の子と同じような所持品もある。普通の女の子にしてはすっきりしすぎかもしれないが、あれでも十七の少女であることを再認識させられた気分だった。尻尾ポーチごと捨ててやろうかと思っていたけれど、流石に良心が痛む。


 隣に座る日原さんの横顔に目をやった。キルの尻尾ポーチを開けるのは、日原さんのバッグを開けるのと同じようなものだったのかもしれない。そう思うと悪いことをした。

 まあ、どう考えても暗器を隠している方が悪いのだけれど。


 *


 先生の話をまともに聞いていないうちに、授業が終わった。

 休み時間に入ったと同時に、後ろの席の平尾がトイレに走る。彼が戸を引き開けたと思ったら、直後にまた針が飛んできた。どうやら奴は廊下で構えていたようだ。しかし日原さんは、またも絶妙なタイミングで後ろを振り向いて躱していた。


 休憩に入って生徒が縦横無尽に動く教室で、日原さんだけを狙って発射する。キルの技術の恐ろしさは、分かっていても何度でも驚く。

 廊下の方を睨んでキルを捜す。どこに潜んでいる。捜しているうちに、ピンッとまた針が飛んでくるのが見えた。

 いた。キラッと光った針が発された辺り、戸の裏側だ。ニードルガンの銃口が見える。

 今度こそ日原さんに命中しそうで、咄嗟に腰を浮かせた。が、俺が彼女を庇うより先に、直線上にいた和田が下敷きで顔を扇いだお陰で針が下敷きに当たり、ガードされた。


 続けざまに針が飛んでくる。しかしこれも、教科書で殴り合ってじゃれる男子共が立てる風圧で針の軌道が曲がり床に落ちた。

 キルを止めようと、銃口の方へ近づこうとした。また光る。今度は風圧を受けにくい下の方から狙ってきた。これは躓いた女子が勢いで椅子を蹴飛ばして角度を変え、針はその背もたれに刺さった。


 一限目で俺が教室の戸も窓も閉めたから、今後も授業中は閉められるとはかったのだろう。キルはこの休み時間の隙にやたらと針を乱射してくるようになった。尻尾ポーチを奪われて、替えの毒針は少ないはずなのに無茶しやがる。こんな人の多いところで白昼堂々と暴れたら、見つかるのではないか。そんな危険を負ってでもこんな手段に出るのだから、相当焦っているのだろう。


 そしてそんなキルの決死の覚悟も虚しく、日原さんは神の加護でも受けているかのように攻撃を躱している。俺は中間に立っているだけで、結局なにもしていない。

 廊下に向かっていくと、途中から針が飛んでこなくなった。教室を出て、廊下を見渡した。キルがいなくなっている。捕まえて手持ちの武器や残りの毒針も没収してやろうと思ったのに、消えやがった。休み時間で廊下に生徒が出てきたから撤退したのだろうか。あいつも忙しい奴だ。

 気づかないうちに教室に侵入されたのかもしれない。もう一度教室に引っ込もうとしたのだが、きゅっと襟首を摘まれた。


「なにしてんの」


 陸だ。うろうろする俺を不思議に思ったらしく話しかけてきた。


「別に、なんでもない」


「次、体育館でバスケだぞ?」


「えっ!」


 時間割を忘れていた。周りを見ればたしかに、クラスメイトたちが移動を始めている。


「因みに女子は?」


 真顔で尋ねると陸が顔を顰めた。


「女子も体育館で隣のコートでバレーだって言ってたの聞いたけど……そんなこと知ってどうすんの?」


 よかった。昨日より目を離せない状況になっている日原さんが、同じ体育館にいてくれるのは救いだ。


「え、なに……そんなに女子を凝視するつもりなのか?」


 流石の陸でも引いている。俺も目を泳がせた。

 実は暗殺者が日原さんを狙っていて、目を離すことができない……と、陸だけにでも相談してしまいたかった。単純だからすぐに信じそうだし、こいつのアイドル日原さんがターゲットであれば本気で協力してくれそうだ。


 でも、キルの邪魔をしようものなら陸も殺されるかもしれない。キルのご飯を作る俺とは違い、陸は生かしておいてもキルにメリットがないのだ。巻き込むわけにはいかない。


「なんでもない。ロッカーからジャージとってくる」


 一旦陸と離れ、教室の後ろに並ぶ個人ロッカーを開けた。一丁前に南京錠がついたロッカーで、生徒が各々好きなように使っている。俺は持ち帰りが面倒な教科書類と、パンとお菓子とジャージを詰めているが、陸なんかはぎっしり漫画が入っている。共通しているのは、折角鍵付きなのに誰も貴重品なんか入れず、鍵は開けっ放しの生徒ばかりだということだ。

 ロッカーを開け、ジャージを引っ張り出す。そして辺りをサッと見渡してから、空いたスペースに尻尾ポーチを突っ込んだ。それからキチッと鍵をかけ、陸の元へ戻る。


「お待たせ。行くか」


「咲夜さ、さっきクッキー持っていなくなったよな。もしかして全部食べたのか?」


「ああ、うん。陸に配る分を残すの忘れた。ごめんな」


「わざとだろ、お前。まああれは咲夜が貰ったものだから、当然だけどさ」


 体育館に向かう道中、相変わらず俺はストーキングのように日原さんの数メートル後ろを歩いた。時々、廊下に佇む掃除ロッカーの中から針が飛び出したりもしたが、日原さんはおろか他の生徒が流れ弾に当たることもなかった。


 更衣室はどうしようもないので目を離し、体育館で再び日原さんとキルを捜した。キルは倉庫にいたり、二階にいたりと身軽に移動してあらゆる角度から日原さんを狙っていた。日原さんの方は余程日頃の行いがいいのか、その全てを偶然躱している。

 キルの狙いはかなり正確で、やがて動いている彼女の移動の先まで読んで攻撃するようになってきた。だが、そこ針が行き着くまでの道程の中で必ず邪魔が入る。生死がかかった緊張あるゲームのはずが、アホらしい流れが続いて俺の方も辟易してきた。


「お前、美月ちゃん見すぎ」


 コートの中で陸にどつかれた。俺が見ているのは日原さんというより、彼女の頭上のバスケットゴールから銃口を向けている白い暗殺者だ。理由を知らない陸は呆れ顔だった。


「見つめてるだけでも気持ち悪いって、俺には言ったくせに。クッキー貰ったくらいで調子に乗るなよ」


「はいはい、俺は気持ち悪いですよ」


 適当に受け流して、自分のところに飛んできたボールを受け取ったときだった。

 バンッと、体育館じゅうの空気が痺れる音がした。


「きゃあっ」


 数名の女子の悲鳴。全員がそちらを振り向いた。


「美月ちゃん、怪我はない!?」


 女子が使っていたバレーボールが、突然爆ぜたようだ。それも、日原さんが触った瞬間に。

 このとき、俺は緊張感を取り戻した。

 日原さんは、大きな目をもっと大きく見開いて硬直している。その蒼白した顔を見て、俺はついに毒が回ったかと血の気が引いた。


「美月ちゃん」


 人気者の彼女の周りには、チームメイト以外にもライバルチームも待機中のチームも、隣のコートでバスケをやっていた野郎どもまでもが集まった。


「大丈夫、びっくりしただけ。爪が長かったのかな」


 日原さんはまだ驚いた顔をしていたが、心配する者たちに穏やかに微笑みかけた。日原さんの爪は決して長くない。彼女もなにが起こったか分かっていないはずなのに、彼女自身がいちばん落ち着いていた。

 俺は日原さんに駆け寄りはせず、ただ立っていた場所からやや上空を見上げた。二階の手摺に寄りかかる白い悪魔がいる。ニードルガンを上に向け、肩に預けて気だるげに下を睨んでいた。


「保健室行く?」


「大丈夫だよ。どこも痛くない」


 やりとりする学生たちを、つまらなそうに見ている。俺もあいつと同じ武器を持っていたら、ここからあいつを狙い撃ちしていたかもしれない、と思ってしまうほど腹が立った。


 キルの様子を見る限り、日原さんに毒が触れたわけではなさそうだ。かなり危なかったが、針はボールに刺さって、ボールを破裂させただけだった。

 体育の授業中の動き回る人間でも、かなり的確に狙っていた。だんだん精度が上がっている。このままではいつか、日原さんの偶然性ディフェンススキルを超えて命中させるときがくる。


 俺は二階のキルを睨みつけた。キルのことだ、すぐにでもまた針を放つ。今すぐにでもあいつがあそこにいるのを誰かに伝えて騒ぎにして追い払ってやらなくては。

 しかしそう思った矢先、キルはニードルガンを外套の中に潜り込ませ、二階の窓を開けた。そしてそこからぴょんっと飛び降り、体育館の外へと去っていった。


「あれ……? 引き上げた?」


 日原さんの無事が確認されると、中断されたバレーもバスケも再開した。その間、キルが現れることはなかった。


 *


 その後、心を入れ替えたかのようにキルの攻撃が止まった。

 なにがきっかけになったのかは全く分からない。不思議だが攻撃してこないにこしたことはないので、そのまま三限、四限と平穏に過ごした。

 やがて昼休みを迎え、日原さんは教室で仲良しの女子たちとお喋りしながら昼食をはじめた。


 なんだか知らないが、久しぶりに平和だ。針が飛んでくる心配をせず学校生活を送れるのが、こんなにありがたいことだとは思わなかった。日原さんはもう安全なようだし、自販機に飲み物でも買いに行こう。

 のんびり廊下を歩き、欠伸をする。窓から差し込む光が暖かい、いい天気だ。この時間は各々の教室か購買に生徒が集中力するお陰で、廊下が空いている。特に誰もいない渡り廊下は暖かい陽射しをたっぷり孕んで、心地よい空間に生まれ変わっていた。暖かくて、歩いているのに昼寝してしまいそうだ。


 しかし、そんな平穏な昼休みは、一瞬にして奪われた。

 突如、肩にドスッとなにかがのしかかってきた。

 なにが起こったのか理解する前に、喉に鋭利な刃物が突きつけられる。

 両肩にそれぞれ、左右のブーツ。頭は後ろから腕を回されて取り押さえられた。後ろ頭を覆うようにして、俺を取り押さえているのは。


「よう、サク」


 上から覗き込んできた逆さまの顔に、俺は凍りついた。


「キル……肩に降ってくるというのはどういう……」


「注意力が足りてねえぞ? 暗殺者はどこからでも現れる」


 頭を包み込む暗殺者は、ニヤッと牙を覗かせた。

 喉にギリギリ触れない距離のナイフに、冷や汗が垂れる。こいつは食べ物をくれる俺を傷つけないはず。そのはずだが、いざこんな状況に置かれると本能的に体が拒否反応を起こす。肩に全体重を預けられているのに、その重さを感じるより生命の危機の方にばかり脳細胞が集中する。


「ポーチを返せ」


 キルの金の前髪が俺の鼻先に触れる。


「残弾がなくなったんだよ。早く返しな」


 キルの攻撃が止まった理由が分かった。毒針が底をついただけだったのだ。そりゃそうだ、こいつが心を入れ替えるなんて有り得ない。

 昼間の渡り廊下の陽光の中で、犬の着ぐるみみたいな女に強制肩車をさせられて脅されるという、異様な状況だった。


「嫌だ……」


 あの尻尾のポーチは、まだ返せない。返すとしたら、まさにこいつが必要としている毒針やそれに準ずる武器を処分してからだ。


「中身を安全なものだけにしてから、返してやるよ」


 言うと、ナイフの先がちょんと喉に触れた。


「他人の手荷物開けて中身見るなんて、いい趣味してんじゃねえか。束縛彼氏気取りか? え?」


 心臓がどくんと波打った。


「ごめん……勝手に見たのは謝る」


「謝れと言ってるんじゃない。返せと言ってるんだ」


 また、額に汗が浮かんだ。


「返したくない」


 精一杯の抵抗をする。キルはため息をついた。


「返したくないなら、場所を吐け」


 俺は唾を飲み込む。キルはまた刃でちょんと喉をつついた。


「どこにある? 隠し場所さえ吐けば、解放してやるよ」


 一向に引く気配がない。俺だってこのままやすやすと毒針入りポーチを返すつもりはない。

 キルはがっしり頭に絡みついている。決してバカ力ではない。振り払える程度の弱い力でしがみついているだけだ。それなのにどうしてだろう。体が硬直して、脚が動かない。相手は本気で俺を殺すつもりはないと分かっている。分かっているのに、なんだろう、この逆らえない圧。


 キルを頭に乗せたまま走って、人のいるところへ出てしまえば、こいつは取り押さえられるだろう。その前にキルは自分の身を案じて去り、解放してくれるはず。理屈ではそれは理解できるだが、数ミリでも動いたら喉に刺さりそうな刃の冷たさが、俺から判断力を奪っていく。


「ロッカー……」


 額の汗が、つうっと流れた。首を伝って、ワイシャツの襟に染み込む。声を出すと動く喉にちょんと刃先が触れて、鳥肌が立つ。


「教室のロッカーにある……」


「ほう」


 キルの声が降ってくる。


「どのロッカーだ」


「苗字の、ラベルが貼られてる……」


 息が、上手くできない。


「ご苦労」


 キルは嘲笑うように言い、それから一気に、ぐっと俺の首にナイフを押し付けた。一瞬ぞっと肝が冷えたが、深く押し付けられたのは刃でなく柄だった。


「情報抜き出したら情報源は殺すのが普通だから、サクも気をつけろよ」


 ナイフが離れ、肩がふわっと軽くなった。トン、という音と共に、キルが廊下に着地する。


「そもそも背後取られてる時点で、死んでも文句言えないからな」


 キルはフードの中でニイッと笑い、風のように去っていった。陽光差す渡り廊下にひとり取り残された俺は、全身の力が抜けてかくんと座り込んだ。


 死ぬかと思った。

 あれが暗殺者の気迫。重圧。殺気。食べ物に夢中のときの無邪気な表情からは想像できない、殺し屋の立ち振る舞いだった。あれがキルの本気。たった数分でも息が詰まる思いだった。日原さんはあんなのに一日中殺意を向けられているのか。考えただけで吐きそうだ。

 それにしても、最後に見せたフードの中での笑い方。酷い下衆顔だった。今になって腹が立ってきた。


 *


 飲み物を買って、頭を冷やした。落ち着け、ポーチは場所を知られたところでロッカーの中だ。

 まず昼休みの賑やかな教室に潜入しなくてはならないし、ロッカーまで人に見つからずに近づけたとしても鍵がかかっている。ガチャガチャ弄っていればあっという間にクラスメイトに見つかる。大丈夫だ、ポーチは簡単には奪い返されない。


 しかしその考えは甘かった。教室に戻ったら俺のロッカーの前に、ぱらぱらと四、五人程度の小さな人だかりができていた。


「あ、朝見。見ろよこれ」


 人だかりの中の平尾が、手招きする。


「お前のロッカー、破壊されてるぞ」


「は!?」


 俺の名前を貼り付けたロッカーは、扉が上からベッコリ剥がされて、中からポーチが抜き取られていた。ついでにおやつに買っておいたメロンパンまでなくなっている。

 やるかもしれないとは思ったが、やりやがった。鍵がかかっていたからといって諦めるようなキルではない。どんな手段を使ったのかは謎だが、完全に破られた。


「なんか突然ガキーンって音がして、振り向いたらこのロッカーだけ壊れてたんだよな」


 平尾が不思議そうに首を傾げた。

 つまりキルは、この賑わう教室への潜入に成功し、ロッカーまで辿り着き、破壊した。その音で注目が集まる頃には、尻尾とついでにメロンパンまでもを確保して、どこかしらに隠れたということか。どんな素早い動きだったらそれが叶うというのだ。敵ながら天晴れだ、キル。


「くっそ……やられた」


 ポーチを取られた上に学校の備品を壊された。メロンパンまで奪われた。頭が痛くて、昼飯どころではない。

 慌てて教室を見回す。日原さんはお昼ご飯を終えて、仲のいい枯野さんたちと雑誌を見ている。今のところ無事だ。キルはどこだ。針をニードルガンにセットするためにどこか落ち着ける場所に身を引いたはずだ。

 捜しにいこうと、また廊下に出ようとしたときだった。


「なあ咲夜! もしかしてこれ!」


 聞き慣れた幼馴染みの声と、もう一つの耳に慣れた声。


「こらああ! 離せえ!」


「もしかしてこれ、咲夜が今朝言ってた、従姉妹の小学生!?」


 興奮気味に問う陸が、教室に入ってくる。その手には、白いフードを目深に被った暗殺者。


「離せ、離せー!」


 喚いて裏返る声の主、キルは、長身の陸に襟首を掴まれて釣り上げられ、完全に足が浮いていた。つかない足をバタバタさせて暴れているが、陸はびくともしない。


「えっ……陸、よくそれ捕まえられたな!」


 もう驚きを通り越して感心した。


「どうやって捕まえたの!? すげえよお前」


「廊下をチョチョッと走ってるの見えたから、普通にぱしっと」


 暗殺者を取り押さえて連行してくるなんて、只者ではない。


「まじで金髪だな。しかもこんなかわいい服着て。名前、なんていうんだ? なんで高校に遊びに来ちゃったんだ?」


 まず暗殺者には見えないビジュアルのせいで、陸は和やかに笑っている。陸の存在感に振り向いたクラスメイトたちが、たちまちキルに注目する。


「え、なになに、あのちっちゃい子」


「朝見くんの従姉妹だって」


 表に立つのは暗殺者としてアウトだというのに、自分に注目が集まってキルは狼狽した。


「やめろ、やめろ。嫌だよお」


 こんなこと言いたくはないが、いい気味だ。もっと早く陸に相談すればよかった。


「サクー! サク、助けて。メロンパン返すから」


 ぶら下がるキルが泣き落としに入った。なにも分かっていない陸は「お兄ちゃんに会いたかったんだな」と微笑ましげにキルを床に下ろした。

 瞬間、キルの瞳はまたギンッと殺し屋の色に変わる。


「畜生……計画が台無しだ」


 見た目にそぐわない台詞ののち、キルが机の間をすり抜けていく。フードが風を孕み、尻尾のポーチがたなびく。そして長すぎる袖口からシャッと、鋭い銀色の爪が伸びた。

 熊手のような、四本の刃。キルの左の手の甲、絶縁手袋の上から装着されている。テレビで見たことがある。あれは手甲鉤だ。ナイフでもニードルガンでもない、まだ別の武器を隠していたのか。ロッカーを破壊したのも、あの鉤爪だったのだろう。

 存在が明るみに出て逃げ場を失ったキルは、とうとう開き直った。


「覚悟、日原美月!」


 なんと暗殺者のプライドを捨て、真正面から日原さんへと飛びかかっていったのだ。

 日原さんの数メートル手前の机に飛び乗り、そこから宙を舞うように日原さんに特攻していく。開いた鉤爪が日原さんの肌に向かってぎらつく。


 俺はその零点一秒に、内臓が凍った。全てがスローモーションに見えた。ゆっくりに見えるのに、一歩も動けない。

 日原さんはぽかんとキルを見上げている。光る鉤爪を、呆然と仰いでいた。

 まさにその銀色の爪が、日原さんの細い首を掻き切ろうとしたときだった。


 あろうことか日原美月は、逃げることも避けることもなく、自身の細い腕を大きく広げた。広げた懐に、キルが飛び込んでいく。落下してくる白い暗殺者が鉤爪を振りかぶるより、彼女が暗殺者を抱きとめる方が先だった。


「かーわいいっ」


 穏やかな微笑みとともに、彼女はキルを抱きしめた。

 しっかりホールドされているキルの後ろ姿は、間抜けなことに行き場のない手が空中に伸びていた。


「もう、やんちゃなんだから。よしよし、いい子ね」


 日原さんは腕でキルを締めつけて、優しく三角耳付きの頭を撫でている。キルもだが、俺もぽかんとした。

 どういうことだ。日原さんを正面から直接切り裂きにきたそいつを、かわいいだと? 目の前に振り翳された手甲鉤は見えなかったのか?


 俺だけでない、そこにいたクラスメイト全員が、呆然と日原さんとキルを眺めていた。俺はそんな教室の空気をちらちら見て、そろりとふたりに歩み寄った。抱きしめ固められたキルは、まだ石になっている。


「朝見くん、この子、朝見くんの従姉妹なの?」


 日原さんがこちらを振り向いた。君を狙っていた暗殺者です、とはっきり言ってもいいくらいキルは堂々と向かっていったのだが、日原さんにその意識はないようだ。


「あー、うん……そうだよ。従姉妹。キルって名前」


 とりあえず、頷いておいた。頷きながら、宙ぶらりんのキルの手からガチャガチャと手甲鉤を外した。


「そうなんだ、すごくかわいいね。私、ちっちゃい子大好きなんだ」


 日原さんはふわりと穏やかに笑っている。


「キルちゃんは元気でいい子ね」


「そ、そうなんだ。元気が有り余ってて大変だよ」


 引き攣った笑いを返しつつ、未だ動かないキルの顔を覗き込んだ。

 目を見開いて、真っ青になっている。この世の終わりみたいな顔、という表現がまさにしっくりきた。


 教室も砂漠のように静まり返っている。突然現れた不審な少女が出現し、見るからに殺意のある突撃に出た。しかしそれを、日原さんはノーガードノーダメージで受け止めた。

 キル自身も、まさかの失態に放心状態に陥っている。

 え、ということは、まさか。


「偶然なんかじゃなくて……日原さんは、本気になった暗殺者よりも強いのか?」


 俺の小さすぎる呟きは、誰にも聞かれることなく溶けて消えた。

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