2.高嶺の花が狙われてる。

「どんぶらこ、どんぶらこ……川から桃が流れてきました」


 温かい布団と、母さんの声。しっとりと柔らかくて、気持ちいい。


「桃を切ってみると、元気な男の子が生まれてきました」


 寝る前に母さんが絵本を読んでくれる。その本は何周目かもう分からないくらい読み聞かせられているけれど、そんなことはどうでもいい。こうして母さんの声を聞いていると安心する、それだけでいい。

 心地よくて眠くなってきていた俺は、ぼうっとする頭で呟いた。


「お母さん……桃って本当は、手のひらに乗るくらいの大きさの果物だよね」


「そうね。この桃は赤ちゃんがひとり入るくらい大きな桃なのよ」


「そんなに大きくても、桃って言っていいのかな」


 頭が眠りかけているせいか、くだらない質問をした。母さんは特に困った顔一つせずにこたえた。


「ふふ、そうね。桃色をしていれば全部桃でいいんじゃない?」


 *


「大きく出たな」


 起き抜けにぼやいた。

 目を覚ますと十七歳の俺の部屋で、母さんはとっくにいない世界だった。


 子供の頃の懐かしい夢を見た。それだけなら微笑ましい思い出だったのに、なぜか母の名言、否、迷言まで一緒に夢に出てきてしまった。

 桃色をしていれば全部桃でいい……あの人はそういう、妙にテキトーなところがあった。

 犬っぽい耳と尻尾が付いていれば犬だと言い張るまひるは母さんに似たのだろう。大雑把なところがそっくりだ。


 布団からもぞりと体を起こして、目を擦る。少し頭がはっきりしてきた。それから数秒前の己の思考を辿った。犬っぽい耳と尻尾。微睡みの中で一瞬過ぎったあいつのことを、今一度思い出す。

 へんてこな耳付きの上着に、でっかい尻尾のチャーム。しかも暗殺者。


 家の中に殺し屋がいると分かっていて、安眠なんかできるはずなかった。目が冴えて小さな物音が気になって、とうとう明け方まで起き続け、もういっそこのまま完徹しようかと思った矢先急にストンと眠ってしまった。そして皮肉のように母の夢を見て、一時間弱で目が覚めた。

 あの暗殺者も夢と一緒に流してしまいたかった。このまま朝の光とともにいなくなっていて、全部夢だった……と思いたい。しかし。


「サクー、入るぞ」


 ガチャリと無遠慮に部屋のドアを開けて入ってくる声は、たしかに昨日の暗殺者のものだった。


「せめてノックしろ」


 まだ布団の中に半身を埋もれさせたままだった俺は、ベッドからドアの方を睨んだ。そしてぎょっと頭も覚醒した。


「寝起きの機嫌悪くね? 低血圧か?」


 そこにいたのは犬フードの少女ではなく、黒いキャミソールにデニムのショートパンツ姿、金髪をポニーテールにした少女だったのだ。


「え、誰?」


「昨日のこと、もう忘れちゃったのかよ」


 部屋の中をずかずか入ってきて、布団の横に立つ。黒いサイハイソックスを履いた脚は、華奢な割にしっかり筋肉がついていた。


「生島キル。暗殺者集団フクロウ所属の、プロの殺し屋。思い出した?」


 ベッドから見える向こうの壁には、ナイフが刺さったあとの傷。忘れられるわけがない。


「人間に戻ってるぞ。その見た目じゃ、まひるがびっくりするだろ。犬の上着はどうした」


「あれは仕事着だ。まひるが起きる頃に着るよ」


 こだわり抜いているのかと思ったのに、想像以上に雑だった。キルの横髪の中でキラッとなにかが光る。昨日はフードを被っていたせいで見えなかったが、左耳の耳輪にリング状の金色の耳飾りを付けていた。ピアスか、イヤーカフか。キルはぺたんこの胸を反らせてしたり顔をした。


「どうよ、こういう身軽な格好してるとちゃんと暗殺者っぽいでしょ」


「いや……どっちかというと夏休みの小学生だよ」


 はっきりこたえたら、キルはカチンときたらしく顔を引き攣らせた。


「どうもあんたは、私に殺されたいようだな」


「うわ、怖。でも暗殺者が暗殺者らしくないのはいいことだろ、バレバレだとまずいんだから」


「そこじゃない。てめえ私の体型を見て小学生っつったろ」


 キルの素早い手が、シャッと俺の胸ぐらを掴んだ。


「私はこれでも十七歳だ!!」


 突きつけられた衝撃の事実に、俺は言葉を失った。

 十七歳? 俺が高二で、十六歳。えっ?


「嘘だろ!?」


「本当! ったく失礼な奴だな。言っとくが、学校行ってたら高校三年生だよ」


「歳上!? 嘘だろ」


 衝撃が大きすぎて同じ言葉しか出てこない。体格がまひると変わらないのに、実年齢は俺より上、しかも暗殺者。


「ということは、俺は妙齢の女の子と一つ屋根の下で一晩過ごしたということ?」


「そうだよ、やっと自覚したか、このパープリンめ」


 キルはぽいっと、俺の胸ぐらを放した。


「サクを殺したい欲は強まったけど、生憎というか幸いというかあんたは私の飼い主だからね。殺しちゃうとご飯もらえないし、生かしといてやるよ」


 俺は呆然としていた。キルのことをまだ妹と変わらない幼い少女だと思っていた。しかしキルは見た目の発育が止まっているだけで、同年代のそこそこ成熟した女性だったというのか。

 驚いている俺に、キルはため息をついた。


「私が大人のお姉さんだったからって、変な気起こすなよ? 万が一にもサクが私を襲おうとでもすれば、あんたの手首が飛ぶだけだ。暗殺者を舐めるなよ」


「そんな気起こさねえよ」


 たしかに、歳の近い女の子と一緒に暮らすというシチュエーションであるのは間違いない。だが普通の女の子ならまだしも、キルが暗殺者という時点で、下心を出している余裕などない。


 改めて、俺は昨日の出来事を振り返った。

 昨晩、俺は成り行きに流されて、こいつを家に置く……まひるの言葉を借りれば、「飼う」ことにした。相手が殺し屋で、俺を殺せるスキルを持っていたから、怖かったから断れなかった。……とかではない。キルは脅してきたわけではない。

 どちらにせよ関わりたくない存在だし、本当ならすぐにでも追い出したい。が、キルはここを追い払われたら、また寝床も食べ物もなくなってしまう。見たところまひるには懐いているし俺とばあちゃんも殺される心配はなさそうだ。それどころか当てにされている。奇妙な関係が生まれてしまった。


 キルが真顔で腕を組んだ。


「そんなことよりほら、さっさと支度しろ。私は早く朝ご飯を食べたいんだ」


 こいつのせいで生活がおかしくなったのに、キル本人がこうも堂々と居着いていると、色々とよくなってくる。俺は寝起きのボサボサ頭を掻いた。


「この食欲魔獣」


「ペットが飼い主に餌を要求してなにが悪い。大体な、私はそれを楽しみにして早寝したんだぞ」


「そんなに楽しみにされても……朝食なんて普通に目玉焼きの乗ったトーストとカリカリに焼いたベーコンだよ」


「魅力的じゃねえかよ!」


 キルは殺し屋とは思えないような純粋な瞳をきらきらさせた。

 本当のところ、作る作業と洗い物を一度にまとめたいから、まひるを起こしてばあちゃんも誘ってからの朝食にしたかったのだが、ここは大人しくキルと自分の分だけ作ろうと決めた。ふたりで話しておきたいことがある。

 俺は昨晩のやりとりを思い出していた。


 *


「日原美月。月綴会病院院長、日原篤影の娘」


 昨日の夜、夕飯のハンバーグの後片付けをしていたときの会話だ。

 ターゲットのことなんて教えてくれないだろうと思って、世間話程度の勢いで尋ねてしまった。しかしキルは、濁すどころかツルッとその名前を口にしたのだ。


「日原……美月?」


 聞き間違いだと思いたくて、繰り返した。だがキルは否定してくれない。


「知り合いか?」


 暗殺者はへらへら笑っている。日原さんが狙われている。蚊をナイフで殺せる、この暗殺者に。俺は必死に考えを巡らせた。


「いや……知り合いじゃないよ。誰だそれ」


 接点があることを知られたら、利用される。日原さんが同じクラスだとばれれば、俺の通う学校、クラスイコール日原さんのクラスだと割り出される。そこから個人情報を集められたら、こいつは一気に日原さんに近づく。そして仕留める。


「なんだ、知り合いじゃないのか。知り合いだったら手伝ってもらおうと思ったのになあ、殺しやすくひとけのないところに連れ出すとかさ」


 キルが残念そうにため息をついた。俺は内心安堵した。これで逆に、俺と日原さんが同じクラスだという線がキルの中で消えたはずだ。

 しかし、暗殺者というものはそんなに扱いやすい生き物ではなかった。


「なあんて、言うとでも思ったか?」


 キルの口角がニヤアと吊り上がって、やけに発達した牙が覗いた。


「ヘッタクソな嘘つくね。そんなんで暗殺者を欺けると思ったのか? 申し訳ないが、こっちはとっくにターゲットの情報は受け取ってる。通ってる学校もクラスも、出席番号も成績も、クラス内でのカーストの順位も住所も連絡先もスリーサイズも知ってるぞ」


 テーブルに肘をつき、小さな手のひらに顎を乗せる。俺をからかう瞳が、楽しげに光っていた。


「サクが同じ学校の制服を着てるのにも気づいてるし、例え学校が同じでも接点がなかったとしても、日原美月ほどの知名度の高い生徒を知らないはずがない」


 危ない奴だということは分かっていたつもりだった。でも甘かった。考えてみれば当たり前だ。映画で観たことがあるが、暗殺者ならターゲットの情報はあらかじめ入手しておく。彼女が高嶺の花で学校の有名人であると知っていれば、同じ制服の俺が彼女を知っているのも容易に推測できる。

 キルは更ににやけた。


「しかも、その反応。想像以上に近しい存在のようだな。クラスメイト……あるいは、友達。ひょっとして恋人か?」


 それから彼女は、肩を竦めて憫笑した。


「なわけねえか。あの娘のスペックに対してサクが釣り合うわけもなく」


 バカにされているのに、言い返す言葉が思いつかない。隠そうとしても無駄だ。どうせそのうちばれる。


「日原さんはクラスメイトだ。友達というほどの距離でもない。挨拶程度の関係」


「だろうね! 日原美月はサクがお近づきになれる存在じゃないもんな。せいぜい憧れのアイドルか?」


 キルは引き続き俺をからかった。俺の方は冗談を言える気分ではない。


「なぜ日原さんの命を狙う? 日原さんがなにをしたって言うんだよ」


「なにもしてねえさ。強いていえば、月綴会病院の院長のひとり娘に生まれちゃったくらいだな」


 キルが椅子の上で体を横に向けた。サイハイソックスの脚がこちらに投げ出される。


「院長の日原篤影は病院の名義で一個人の政治家、安井幸高への政治献金を不正に……ああ、いくらサクが飼い主でもターゲットについて話すのはやめておこう。私の仕事に差し支える」


 外の風がカタカタ、窓を鳴らしている。


「要はその院長を社会的に抹殺するために、娘の美月に死んでもらうってわけさ」


「娘は関係ないんじゃねえか。ふざけんな、それなら院長本人を殺せよ」


 院長なら死んでもいいというつもりはなかったが、そんな言葉が出てしまった。それほど、無関係の娘を殺すという流れが納得できなかったのだ。キルはひょいと脚を組んだ。


「暗殺ってのはケースバイケースなんだ。本人殺せば片付くこともあるし、それじゃ逆に事態が悪い方向に進むということもある。今回の場合は本人を殺しても院長に胡麻擦ってる周辺人物たちが上手く賄賂の金と見返りの在り処を晦まして得してしまう。政財癒着の根本は絶やせない」


 なんだかよく分からない説明が始まった。


「しかし院長の娘が死んだとなれば、院長は単純に娘を亡くしたショックで悪事を働く余裕がなくなるはず。自分が原因で娘が暗殺されたと知ったら、より一層弱る。院長を弱らせられれば、周辺人物らの計画も狂わせられる」


 或いは、とキルは続けた。


「最愛の人を失った人間のとる行動は予測不可能。院長が発狂して、揉み消されずに表沙汰になるような問題でも起こしてくれれば、調査が入って献金問題もついでに浮き彫りになり計画は壊滅する」


 俺の手はスポンジを持ったまま止まっていた。キルが絶縁手袋の人差し指を立てた。


「目標は、無関係の娘を殺して院長本人をぶっ壊すこと。そして目的は、巣ごと崩すこと」


 キルの話を、頭の中で一旦整理した。膿なのは日原さんの父親である院長、だが本人を殺すよりもその娘を殺した方が効率的だということだ。そのために父親の不正に関わっておらず、それどころか恐らく知りもしない、無関係の女の子が国公認で命を狙われている。

 俺なんかに理解できる世界ではなかった。


「やめろ、日原さんは悪くないんだろ」


 こんなことしか言えないのだから、俺も頭が悪い。


「日原さんが殺されるなんて、納得できるわけねえだろ」


「説明したとこで、分かんねえか」


 キルはため息をついた。


「サクの常識じゃ考えられないよね。でもだからといって私が仕事から手を引く理由にはならない。サクが泣いても喚いても、日原美月は近々私が処分する」


 俺はまた言葉を失った。キルは殺人を仕事と割り切っている。なんの罪もない、真っ白な未来の女の子を殺すことに一切躊躇がない。こんな奴、どう足掻いても説得できない。


「やめろ」


「今からでも攻め入りたいところなんだけど、生憎この時間、ターゲットが家にいる時間帯はだめだ。日原邸のセキュリティの堅さはいくら私でも危険だからな」


「やめろ」


 無意味だと分かっていても繰り返した。


「日原さんを殺すな……」


「随分固執するね。挨拶程度のクラスメイトなんだろ?」


 キルがニヤッと牙を見せた。


「もしかして好きなのか? かわいいもんねえ、いい子だし。まずもってサクには手に届かない女神……」


 いつの間にか、俺はキルの胸ぐらを掴んでいた。


「真面目に聞け」


 いつキルの前に出たか、いつ掴んだか、まるで覚えていない。ただ頭に血が上って、カッとなった。キルの方も不意をつかれたことに驚いたのか、大きな丸い瞳を見開いていた。


「あの子に手を出したら、夕飯抜きだぞ」


 濡れていた俺の手から水が伝う。キルの犬外套の胸元がじわりと湿った。ぷつぷつと泡が染み込んでいく。


「……ペット虐待じゃん?」


 数センチ先でキルが笑う。


「優しいあんたに、そんなことができるのか?」


「お前な……」


 胸ぐらを掴まれていても、キルは抵抗しようとしたりはしなかった。大人しく間近の俺を見上げ、余裕げに微笑している。俺がキルを睨み、キルが俺を試すように笑む。数秒、視線の交差が続いた。

 かちゃり、とダイニングのドアが開く。


「お風呂空いたよー」


 なにも知らないまひるが顔を覗かせた。そして俺とキルの姿勢を見て、ぎょっと仰け反る。


「え、なに、なに……喧嘩してるの? 仲良くしてよ」


 まひるの声を聞いて少し緩んだ俺の手を、キルがサッと振り払った。


「喧嘩じゃないぜー。お兄ちゃんが生意気だったからガブッと甘噛みしてやっただけさ」


 適当に誤魔化しやがった。生意気なのはお前の方だ、キル。


「お風呂空いたらしいし、次、私が入るねー」


 キルがぴょんっと椅子を飛び降りた。俺はその後ろ頭を睨んだ。


「おい、話は終わってないぞ」


「ペットだって、まめにお風呂に入れないと皮膚病になっちゃうんだぜ?」


「そんな話はしてない」


「そうだね。でもこれ以上さっきの続きを話したところで、埒が明かないだろ」


 キルは暗殺者のくせに正論を言い、それからちらと首だけ振り向いた。


「驚いちゃったじゃねえか。この私の首を押さえるなんて、なかなかやるね、サク」


 幼い瞳と獣のような牙がニッと笑う。


「暗殺者向いてんじゃない?」


「冗談でもやめろ」


 まだ声を低くしている俺に対し、キルは全く怯んだりしなかった。


「明日の朝ご飯、楽しみにしてるから!」


 それだけ言い残して、キルはさっさとダイニングを出ていってしまったのだった。


 *


 そして翌朝、現在に至る。


「アツアツトーストにほかほかのサニーサイドアップ! そしてカリッカリのベーコン。素晴らしいトライアングル! そして当然のようにセットされているコーンスープがまたマイルド」


 キルは宣言どおり、朝食を楽しみにしていた。ほくほくの笑顔でトーストを頬張る暗殺者と、クラスメイト殺害を宣言されたのにその暗殺者に朝飯を振る舞う俺。なんだ、この変な構図。

 まひるとばあちゃんが急に起きてきても対応できるように、キルは犬の上着を着て昨日と同じ見た目になった。


「昨晩の議題について、再度議論しよう」


 俺は自分の分の朝食に手をつける前に、堅苦しく切り出した。キルはスープをかき混ぜつつ、ちらと俺に目をやった。


「何度話したって無駄だ。私は職務を全うする。お前は好きなだけ駄々捏ねてろ」


「キルはどうも自分の立場を分かってないな」


 俺はトーストに手を添え、離した。熱くて持てなかった。


「飢餓状態のキルを救ったのはたしかにまひるだ。だがな、ハンバーグを食べさせ、これから先もあんたを家に置いてやろうと決めたのは誰だ?」


 嫌な言い方だなとは、自分でも思っていた。しかしこうやって躾をして、キルより俺の方が上位に立たないと、こいつは俺のいうことを聞くようにならない。キルは口の傍まで運んだスプーンを、途中で止めた。


「なんだよ急に、恩着せがましい。ちゃんとサクには感謝してるだろ。だからこそサクにはちゃんと、仕事の話を打ち明けてる。普通なら殺し屋はこんなに喋らねえぞ」


「感謝してるんなら少しは俺の要望を受けてくれよ。日原さんを狙うのはやめろ」


「無理。もう受諾しちゃったからね」


 この案件から手を引く気配が全くない。だが俺の方も、このまま見過ごすわけにはいかない。


「飼い主はペットが悪さをしないか、見張る責任がある。キルも首輪付けて鎖で繋いでやろうか?」


 しかし、言い終わる頃には目の前にキルはいなかった。え、と声に出すより前に、喉に突きつけられた刃物に気がつく。


「なんだって? 私を繋ぐ?」


 背中に染み込んでくる、キルの声。背後から回されている刃物を持った手は、絶縁手袋のせいで一回り大きく見える。


「サクにできるのか? 私はこんな風に動くんだよ」


 音もなく、隙もなく、一瞬で背後を取られた。その上、首まで抑えられた。額からつうっと汗が流れた。

 悟った。ただの一般的な高校生に過ぎない俺が、プロの暗殺者の動きについていけるわけがない。拘束しておくなんて不可能だ。


「自分の立場を分かってないのは、サクの方かもな」


 キルは耳元でふふっと笑い、今度はゆっくりした足取りで自分の席に戻った。そしてまた無邪気な表情に戻り、目玉焼きに舌鼓を打つ。そんな愛らしい仕草を見せる暗殺者を見て、俺はため息を洩らした。


「一体どうしたら……」


 息でトーストの白い湯気がふわっと歪んだ。大したことない頭をフル回転させて、考えた。精神的にも物理的にも、キルを押さえつけることはできない。キルがいうことを聞くのは、今のところまひるだけ。まひるがやめてと言えばやめてくれるのだろうか。

 いや、やはりそれとこれとは違う。キルは俺に感謝していると言いつつも頑固に仕事を諦めない。ならばまひるからの指示であっても、仕事は仕事で割り切るはずだ。とはいえ、まひるが起きたら試しに一度言わせてみるか……。

 そのとき、キルが急にもぐもぐする口を止めた。


「食事中の着信ほど、不快なものはないな」


 なにやらぶつくさ文句を言いながら、キルは外套フードの中に左手を滑り込ませた。


「すまんなサク。ご飯中の通信はお行儀が悪いことは承知だけど」


 彼女はそう前置きし、目を伏せた。


「おはよう、ミスター右崎。今ご飯中なんだけど急ぎ?」


 誰かと通信しているようだ。キルの手にはスマホもトランシーバーもなかったはずだが、どうやって話しているのだろう。


「ああ……ちょっと手こずってんの。うん、調子乗った。それは認める」


 話すキルは、フランクな口調ではあるものの、ややした手な印象があった。俺はようやく食べやすい温度になったトーストを口に運んだ。


「でも小娘ひとりくらい楽勝だぜ? いいから待っててよ。進捗はまた連絡する。じゃあね」


 通信が切れたようだ。キルがうーんと唸る。


「仕方ないだろ……そっちが仕事回してくれなくて空腹で倒れて、一日仕事にならなかったんだから。とは言えねえな」


「なに今の。上司?」


 尋ねると、キルは頷いた。


「そんなとこ」


「どうやって通信してたんだ?」


「これ」


 キルがバサッとフードを脱いだ。髪を掻き上げ、左耳を覗かせる。耳輪に付いた金のリングが煌めく。


「うちの組織が開発した装着型通信機。これで線が繋がってる端末なら発信も着信も可能なんだ。もちろん、盗聴なんかもできるぜ」


「え、すげえ」


「マイクは周音の中から指定した声のみ拾うように設定してある。だから通信中の私の傍でサクが騒いでようと相手には洩れないってわけさ。もちろん設定を変えれば他の音もまとめて拾うこともできるし、複数の端末でシェアすることもできる。どうだ、これが暗殺者集団『フクロウ』の情報網管理技術だぜ」


 無駄にハイテクな機械を使っている。その高い技術力を、犯罪行為以外のところで役立ててくれればいいのに。


「そうそう、サクの連絡先も登録しようと思ってたんだった」


 キルが下を向いた。俺はその視線を追いかける。驚いたことに、キルの手元は腰のベルトにぶら下がる尻尾チャームを引き裂いている。


「それ、ファスナー付いてたのか」


「唯一の手荷物だ」


 キルはごそごそと尻尾の中を漁り、ひょいと手を引き抜いた。ずるっと小冊子が出てくる。


「この通信機、機能が多すぎて却ってややこしいんだ。取説持ち歩かないとろくに設定もできない」


 ぺらぺらとページを捲り、キルは外套の袖から徐ろに白いスマートフォンを取り出した。なんだこいつ、普通のスマホも持っているのか。かと思いきや、よく見たらそれは俺のスマホだった。


「お前、いつの間に!」


「部屋に入ったときに回収させてもらったよ。ええと、このキャリアの電話番号を登録するには……」


 悪びれもなく説明書を指でなぞっている。


「サクー、画面のロックの解除番号教えて」


「させるか! なんで勝手に触ってんだよ」


 身を乗り出して、キルからスマホを奪い返した。油断したつもりはなかったのに……いや、部屋に入れてしまった時点で油断していた。折角盗ったスマホを取り返され、キルはつまらなさそうにむくれた。


「じゃ、電話番号教えてよ。私の通信機と連絡つくようにしてやるから」


 暗殺者に連絡先を渡すというのは少し気が引けるが、それ以前に既に居候だ。こいつの動きを監視する目的も兼ねて、連絡はついた方がいいか。

 俺は素直に口頭で番号を唱えた。キルが説明書を注視して、左手でぷちぷちと耳元の装置を操作する。途端に、ヴヴヴと俺のスマホが振動した。画面に表示されているのは、一般的な電話番号とは明らかに違う数字と記号の混ざった羅列だった。


「それが私の通信機ID。登録しといて」


 キルは通信機の説明書を再び尻尾ポーチにしまい、トーストにかぶりついた。俺は「不在着信」と表示されている自身のスマホに目線を落とした。


「俺の番号の情報、キルの入ってる組織に送られたりしないよな?」


「警戒しすぎ。『フクロウ』は暗殺者に情報提供を強要しない。暗殺者が秘密の多い仕事だって分かってんだから、詮索してこない。こっちも、組織の詳しい情報は聞けないけどな」


 トーストに頬を綻ばせる幸せそうな表情からは不似合いな台詞だ。


「気になってたんだけど、その『フクロウ』ってなんなの。会社みたいなもんなの?」


 ベーコンでケチャップをつつきながら聞いてみる。キルは再びフードを被った。


「会社っつうよりギルドだね。『フクロウ』のエージェントが仕事を割り振ってくれる代わりに、報酬の一部が組織のマージンになる仕組み。今回の日原美月の件は、クライアントから私にご指名があった」


 最後だけちょっとしたり顔で言われた。キルはどうやら、「フクロウ」の中でも指名が入るほどのカリスマアサシンのようだ。


「所属してる暗殺者はそれぞれ個人事業主で、それぞれがライバル。気持ちの上ではお互い無所属の野良アサシンと変わらない感覚だ。まあ、時々は共同の仕事もあるから、知ってる奴もいるけどね」


 なんとなくイメージは湧いた。キルの話す様子だと日本には随分たくさん暗殺者がいるように聞こえて気味が悪い。


「仕事を割り振ってくれるエージェント……ミスター右崎と呼んでるんだけど、さっきの通話はそのミスターからだ」


 キルが少し憂鬱げに目を細めた。そんな彼女を正面に、ベーコンを齧る。


「なんかちょっと、しどろもどろになってたな」


「私、始動前にミスターに『一日で日原美月を殺る』って宣言しちゃってさあ。実際はその一日目にぶっ倒れて仕事どころじゃなかったわけよ」


「久しぶりのデカイ仕事で調子こいて大口叩いちゃったと」


 意地悪く返してやった。言い当てられたキルはなにか言い返そうとして鋭い牙を見せたが、結局図星だったようで目を泳がせた。


「いいんだよ……先方は急いでないらしいし。日原美月は難しい案件であるっていう前提の上での仕事だから」


 誰も急いでいないのに、キルだけが張り切っていっぱしの口を利いたようだ。そんな発言を踏まえて、彼女が「ミスター」と呼ぶ者からの進捗確認が入ったといったところだろう。キルは隙がないようでいて、こういうところは間が抜けている。


「客は急いでないとはいえ、あんなこと言っちゃったからな。早めに片付けないと」


 キルがスープを啜る。ゴミ出しでも頼まれたかのような、軽い口振りだった。人を殺している自覚はあるのだろうか。


「日原美月ねえ。お人形さんみたいな若え女の子を殺るなんてゾクゾクするぜ。どう調理してやろうかな」


 キルが言葉の割に無表情で呟く。こうして話していると実感が全く湧いてこないが、こいつは日原さんの命を狙っているのだった。あまりにも現実離れした話なので、想像ができない。

 止めても無駄。拘束は不可能。俺にはなにもできなくて、結局なぜか受け入れるかのように家で保護している。我ながら情けない。


「……そろそろ、まひるを起こしてくる」


 俺はトーストの最後の一口を口に突っ込んで椅子から立ち上がった。日原さんを殺さないように、まひるから頼んでもらおう。それも無駄な気はしている。見たところキルは仕事を最優先にする。いくらまひるに恩があっても、優先順位は仕事が上だろう。


 ダイニングを出て、まひるの眠る二階へ上がる。その階段でふと、立ち止まった。

 まひるになんて説明すればいいのだろう。

 君が犬だと思ってかわいがっているのは実は殺し屋で、俺のクラスメイトを殺そうとしている、と正直に喋るのか。俺たちが平和に暮らしているこの国は実は暗殺を認めていて、殺人が正当化されているのだと、そこまで話すのか。

 まひるに理解できるのか。まひるにそんな現実を突きつけていいのか。


 じゃあばあちゃんに相談してみるか。いや、あの人だってキルを犬だと思っている。仮にまひるとばあちゃんが話を信じてくれたとして、キルへの説得に当たってくれたとする。そうしたらキルはどうする? 寄生する家を見つけて伸び伸びしようとしていたのに、全員が敵になったとしたら。

 あいつは殺し屋だ。本人も言っていたが、「条件が変わったら殺すかもしれない」のだ。


 俺はまた階段を上りはじめた。キルの方は誰がなにを言っても聞いてくれなさそうなのに、それに対してまひるとばあちゃんにのしかかるリスクが大きすぎる。既に危険なのかもしれないが、これ以上の危険に巻き込むわけにはいかない。


「まひる、起きろ」


 廊下からまひるに呼びかけた声は、自分でも驚くくらいにいつもどおりだった。


 *


 まひるとばあちゃんに朝食を用意して、仏間に入った。亡き母さんに手を合わせ、いつもより深く目を閉じた。

 母さん、どうかまひるとばあちゃんだけは守ってください。

 目を開けて、母さんの写真と向き合う。分かってるよ。守るのは俺の仕事だ。暗殺者を招き入れたのは俺の不覚だ。あいつが早くいなくなるように頑張る。と言いたいところだが、キルは日原さんを殺すまではこの家に居着くつもりだと推測される。

 あいつを早く追い出したいが、日原さんも死なせたくない。猛烈なジレンマだ。


「サク、まひるがヨーグルト食べたいってさ!」


 ダイニングの方からキルの声が飛んでくる。


「冷蔵庫にあるやつ、取り分けていい?」


「ああ、頼む!」


 仏間から返事を投げた。

 なんだよ、この平和なやりとり。俺を悩ませる暗殺者があんなんだから調子が狂う。暗殺者のくせにまひるをかわいがって、ペットのくせに飼い主であるまひるの面倒を見てくれている。悪い奴とは思えなくなってくるから余計に頭がぐちゃぐちゃになる。


 仏間で三角座りをしているうちに、学校へ出る時刻が迫ってきた。のっそり立ち上がって、また母さんの写真を一瞥した。

 学校を休んでキルを見張ろうかとも考えた。だが、毎日休んで見張り続けることはできない。そもそもキルを止めるなど不可能だろう。それなら……。


 *


「よ、咲夜!」


 学校に着くと、教室の前で陸に背中を叩かれた。


「いってえな! お前、自分の力の強さ分かってねえだろ」


「悪い悪い。今日の昼飯なに? 玉子焼きある?」


「また横取りする気か!」


 惣菜屋夫婦の息子に生まれて美味い弁当を持たされているくせに、こいつはいつも俺の玉子焼きをくすねてくる。


「海原ー! 朝見ー! ワイシャツが出てるぞ!」


 生活指導の体育教官の怒声が聞こえる。


「ねえ、昨日の特番観た?」


「観た!」


 廊下で立ち話する女子の声がキャッキャと響く。

 なんの変哲もない、いつもの朝だ。


 開きっぱなしの教室の戸をくぐって、俺は窓際の席に視線を投げた。既に人が集まっている、彼女の周り。日原さんの席は、いつも友達が寄ってきていた。白いカーテンと外の木の緑、窓から差し込む初夏の光。日原さんの微笑みが一層美しく見える。

 そう、なんの変哲もない、いつもの朝だ。まさかこの少女の命が狙われているだなんて、誰も予測できない。


「今日もかわいいなあ、美月ちゃん」


 俺の隣で陸が呟いた。


「俺、美月ちゃんと付き合えたら死んでもいい」


「へえ、死ねるといいな」


 陸のくだらない発言を適当に流して、自分の席に向かう。陸はチッと舌打ちした。


「いいよな、咲夜は勝ち組で。美月ちゃんの隣の席だもんな」


「勝ち組でもなんでもねえよ、隣だってだけで、それ以上はない」


「その距離で見ていられるだけで羨ましいんだよ! 美月ちゃんと隣の席になれたら死んでもいい」


「急激にハードル下がったな」


 日原さん本人には聞こえないような微妙なトーンで勝手に盛り上がる陸を置いて、俺は自分の席……日原さんの隣に鞄を下ろした。隣から、鈴の音のような澄んだ声が届く。


「おはよう、朝見くん」


「おはよう……」


 ただの挨拶なのに、返した俺の声はちょっと無愛想になった。それでも日原さんは、小首を傾げてふふ、と笑った。

 この子が殺される。その緊張感と、ちくしょうかわいいな、という煩悩とが頭の中で格闘する。

 そんな俺を尻目に、かわいい上に気が利く日原さんは、自分の周りに集まっていた女の子たちに呼びかけた。


「ホームルーム始まるよ、席に戻らないと」


 集まっていた彼女の友人たちが、それぞれがぱらぱらと自分の席へと戻っていく。周りがすくと、日原さんの抜群のプロポーションがより顕になった。陸ではないが、どうしても見とれてしまう。

 俺は顔を黒板の方に向けたまま、横目で日原さんの方を眺めていた。さらさらの髪、長い睫毛。桜の花びらのような唇。細い首筋がゆったりした胸に続き、細い腰が椅子の上でしなやかに曲がる。スカートから伸びる脚はきゅっと細い。開いている窓からさわさわ、静かな風が吹き込んでくる。日原さんの長い髪を撫で、つやめかせた。ぼうっと目を奪われてしまう。


 そしてその視界の中に潜む「奴」に気づき、俺は目を剥いた。

 日原さんの向こうにある窓、更にその外側。風にざわつく木の上だ。葉っぱの中に、白い犬の耳が突き出している。

 本当に現れやがった。

 どうやって侵入したのか知らないが、キルがあそこから日原さんを狙っている。うっかり日原さんの美貌にぼけっとしていたが、あいつの出現で一気に気が引き締まった。


「日原さん」


 俺は隣に向かって声をかけた。日原さんが少し、目を丸くする。俺から話しかけることなんてそうそうないから、驚いたのだろう。


「ごめん、眩しくて黒板が見えないから、窓とカーテン閉めてもいい?」


 普段は恐れ多くて、話しかけたくても話しかけられなかった。でも、今回は全くといっていいほど躊躇しなかった。


「あ、うん! ごめんね、気が付かなくて」


 日原さんが立ち上がろうとする。俺は慌てて先に立った。


「ううん! 俺がわがまま言った! ごめんな!」


 今ここで日原さんが窓に向き合ったりしたら間違いなくキルのナイフが飛んでくる。

 日原さんに閉めさせず、俺が窓をピシャッと閉じた。同時に、木の葉の中に身を潜めていたキルがもさっと顔を突き出す。俺はその童顔に向かって、ベッと舌を出した。そしてシャッとカーテンを閉め、外から日原さんの姿を見えないようにしてやる。

 キルを見張ることはできない。それなら、日原さんの方を見張るしかないじゃないか。

 学校で日原さんをなるべく見張り、帰ったらキルを見張る。こうすることで日原さんを守れるのではないか、というシンプルな発想だった。


 *


 眩しいと言ったのを気にしてくれているらしく、日原さんはその後もカーテンを開けなかった。これで教室の窓から狙われることはなくなった。

 ホームルームの後、陸が俺の机に寄ってきた。


「一限目、化学室に移動だって」


「うん、行くか」


 立ち上がりつつ、ちらと日原さんの方を確認する。友人の多い彼女はそのたくさんの友人たちと移動するようだ。教科書を胸に抱え、談笑しながら廊下へ出ていく。

 とりあえず、あれだけ人が集まっていればキルも狙いにくいだろう。暗殺者なら目立つ殺し方はしないはずだ。だが念には念をと、俺は日原さんの後ろについて化学室に向かった。


「美月ちゃん、後ろ姿もきれいだなあ」


 陸が前を行く日原さんを見てデレデレしている。

 俺は廊下を移動しつつ、辺りを警戒していた。窓の外からいつナイフが飛んでくるか分からない。だが、やはり彼女の友人たちが壁になっているのか、今のところなにも起こらない。


 こうして気をつけてみると、学校という環境は意外と安全かもしれないと気づく。日原さんは友人に囲まれているし、生徒や先生などとにかく人が多いから、暗殺には適さない。窓の外からナイフが飛んでくるかと外を警戒しても、キルが隠れられるような場所はあまり多くない。


「問題は登下校中か」


 ぽつんと声に出して呟いた。隣にいた陸は、なにか聞こえたようだがなんと言ったのかまでは分からなかったらしく、首を傾げていた。

 一歩学校の外に出たら、キルが隠れられる場所は格段に増える。歩く日原さんに忍び寄り、路地裏なんかに引きずり込んで殺す……なんて、キルなら容易いはずだ。とはいえ、日原さんは無事に登校してきている。


「なあ陸、日原さんって登下校は誰かと一緒なのか」


 日原さんの大ファンである陸に尋ねてみる。


「なんで? さてはお前、一緒に帰ろうと誘うつもりだな」


 陸は勝手に誤解し、俺が違うと弁明する前にニヤッと口角を上げた。


「でも残念だったな! 美月ちゃんには朝も夕方も送迎の車があるんだよ。咲夜が彼女に近づこうなんて五千年早いんだよ」


 送迎車だって。驚いたが、考えてみたら日原さんはこんな普通の高校にいるのが不思議なくらいのお嬢様だ。送迎車があるのもうなずける。

 とすると、登下校中は安全が確保されているといってよさそうだ。走行中の車なんて、暗殺者に不向きに決まっている。とりあえずは安心か。ほっと息をついていると、日原さんの後ろ姿がぴたっと立ち止まった。


「あっ! ごめん皆、先に化学室行ってて」


「どうしたの?」


「教室に赤いペン置いてきちゃった。取りに行ってくる」


 日原さんが踵を返した。彼女がこちら向きになると、陸は熱烈なファンのくせに急に照れだして目を逸らした。細い脚が軽快に廊下を逆戻りする。俺と陸の横を通り過ぎていく。瞬間、嫌な予感がした。

 日原さんをひとりにしたらまずい。誰もいなくなった教室に彼女がひとりで現れたら、暗殺の絶好の機会だ。


「日原さん!」


 咄嗟に手を伸ばす。日原さんの細い手首を、ぱしっと掴んでしまっていた。日原さんが口を半開きにして振り向く。


「ごめん、今の聞こえちゃったんだけどさ。これから教室に戻ってると授業に間に合わないから、赤いペンだったら俺のを貸すよ。ちょうど二本ある」


 今までろくに喋ったことがない奴が、いきなりこう言い出すなんて、不自然すぎる。苦しいのは分かっていたが、それでも引き止めなくてはならなかった。


「え……いいの?」


 当然ながら日原さんは驚いていた。つい触れてしまった手を離し、自分のペンケースを漁る。赤ペンを取り出して、差し出す。


「迷惑じゃなきゃ使って。ていうかあげるよ、うん」


 無駄に早口になった。日原さんはしばし目をぱちぱちさせていたが、やがてふわっと微笑んだ。


「ありがとう。お言葉に甘えちゃうね」


 ぺこりと会釈し、彼女は友人たちの中に戻っていった。俺はまた、ほっと胸を撫で下ろした。危なかった。どこからかキルに睨まれているような気がする。

 だが、振り向くと、睨んでいるのはキルではなく陸だった。


「咲夜てめえ……なに抜け駆けしてんだよ」


「えっ……だって」


「言い訳するんじゃねえ。今のはなんだ。どういうつもりだ。そういやお前、今日随分ジロジロと美月ちゃん見てるよな?」


 陸が険しい顔をする。図体のデカイ陸が怖い顔をすると迫力が違う。


「いや……ジロジロ見てなんか」


「見てる! 俺が美月ちゃんをジロジロ見てるから分かるんだよ!」


 仕方ないだろ、暗殺者が狙ってるから周囲を警戒してるだけなんだよ! とは、流石に言えない。


「ごめん陸、あとで赤ペン貸して」


「二本あるんじゃねえのかよ!」


「ほんとは一本しか持ってない……」


「お前な! そんな無茶してまでなんで恰好つけたんだよ!」


 怒る陸から逃げるように、化学室に向かって早歩きした。


 *


 その後も何度か、日原さん暗殺のチャンスになりそうなタイミングはあった。

 日原さんが図書室にいれば、図書室の窓から見える倉庫の屋根に立つキルが現れたし、飲み物を買いに行けば自販機の影に潜んでいた。キルは組織のミスター右崎に偉そうな口を叩いた手前、さっさと仕事を終わらせたいのだろう。ありとあらゆる隙に出現していた。

 しかしその度に俺は、日原さんに話しかけてキルから遠ざけるなり、飲み物を紙幣でついで買いするなりして、ディフェンスし続けた。

 そしてついに、日原さんは無事に放課後を迎えた。


「美月、ばいばーい」


「うん、気をつけてね」


 日原さんのお友達が各々帰っていく。日原さんには送迎があるから、一緒には帰らないのだ。あとは送迎車が彼女を安全に送ってくれる。これで一安心だ。

 俺はぺたんと机に突っ伏した。どっと疲れた。アイドル日原美月を一日見ていられる真っ当な言い訳を手に入れ、その姿を一日監視し続けるという、ある種夢のような境遇だったはずだ。しかしながら実際にやってみるとものすごく疲れる。

 ひとり、またひとりと、教室から生徒が出ていく。目を瞑ると、異様に静かで、このまま眠ってしまいそうだった。


「朝見くん」


 頭上から声が降ってきた。透明な糸のような、細くて澄んだ、きれいな声だ。耳に入ってから、その声が日原さんのものだと判断するまでに少し時間を要した。ハッと顔を上げる。


「これ、ありがとう」


 日原さんが、俺が渡した赤いペンに両手を添えて立っていた。辺りに他のクラスメイトはいない。いつの間にか皆、帰ってしまったようだ。


「あ、いや……こちらこそ強引に渡したりして、ごめん」


 放課後になって任務が一段落したような気になっていたせいだ。急に日原さんの方から話しかけられて、戸惑った。日原さんは整った顔をふんわり緩めた。


「なんか今日、話す機会がいっぱいあって楽しかった」


 図々しく話しかけてごめんなさい……と、口の中で謝る。日原さんは柔らかく微笑んでいた。


「朝見くん、今まであんまり話したことなかったから知らなかったんだけど、優しいんだね。ペンのことも、自販機のときも……あと、ヘアピン拾ってくれたりとか、図書室でも本取ってくれて」


 優しいのは日原さんの方だ。俺はキルの邪魔をするために一心不乱に日原さんに関わっていただけで、具体的になにをしたかまともに覚えていないというのに、日原さんは俺の行動を一つ一つ挙げた。


「朝見くん、いつも目を合わせてくれないから、避けられてるのかと思ってたよ?」


「そ、そんなことは!」


「でも今日はなにかと縁があって話せたから、嫌われてるわけじゃないんだなって分かった」


 落ち着いた柔らかい声が、静かな教室に溶けていく。


「そういえば、朝見くんって妹がいるんだって?」


「あ、ああ、うん。小学生の」


「そっか、お兄ちゃんだから、面倒見がよくて優しいんだね」


 日原さんの微笑みが、俺の頬を無駄に熱くする。


「そんな大層なもんじゃないけど……」


「いいなあ、妹。私、ひとりっ子だから羨ましい」


 ちょっとアンニュイな笑い方も、またきれいだ。


「ありがとう。ペン、大事に使うね」


 日原さんは手を振って、教室を出ていった。

 なにか返事をしようと思ったのに、脳の血管が働かなくてなにも言えなかった。やばい。吃った。声が裏返った。だせえ。

 やっぱり、彼女は太陽だ。俺には眩しすぎる。


 *


 家に帰ったら、リビングでキルが潰れていた。犬耳の外套姿で大の字でうつ伏せになっている彼女は、トラなんかの毛皮カーペットそっくりだった。


「おいサク……あの日原美月って女はなにか特殊な訓練でも受けているのか?」


 ぺたんこに広がったまま話しかけてくる。


「おかしいだろ……私が仕留められないなんて有り得ない。高慢じゃなくて根拠のある自信だ。この私が小娘一匹の喉笛も裂けないなんて有り得ない」


 凹んでいるキルを見て、俺はにやついた。


「どうだ。俺に邪魔されて苦労しただろ」


「うん、まあ、二割くらいはサクが邪魔だった」


 さらっと言われ、聞き返す。


「二割?」


「サクが関係ないところでもミスってるんだよ。見てない瞬間なんていくらでもあっただろ。それらも含めて、日原美月には私の刃が当たらない」


 どうやら俺は俺自身が感じているやり甲斐のわりには、さほど貢献できていなかったらしい。


「ぼうっとしてるかと思いきや急に立つ、動いてるかと思えば急に立ち止まる。急に振り向く。急に転ぶ。送迎車のタイヤを狙撃して事故を誘発しようにも、絶妙なタイミングでスピードが緩んで攻撃が外れる。いつもあと一センチってとこで狙いがずれるんだよ。なんなんだ、日原美月!」


 キルがあああ、と有声音のため息を洩らした。俺もため息をついた。


「そっか……俺はただ無駄に日原さんにお近づきになってしまっただけなのか」


 結構頑張ったつもりだったのだが、俺の努力以上に日原さんの運の良さが日原さんを守っていたのだ。キルが寝そべったまま顔だけ上げた。


「大体、あのキャラクターがいけ好かない。美人でお嬢様で、性格も清らかだと。んなチートみたいな奴いるかよ。絶対なにか裏がある」


 今朝まではただ仕事で無感情に狙っていただけだったのに、今は彼女自体が気に食わなくなっている。


「なにもなかったらもはや人間じゃねえ。一方私は中卒労働者の暗殺者だぞ……」


「中卒だったんだ……そういえば『学校行ってれば高三』って言ってたもんな」


 この様子だと、日原さんが自分の持っていないものばかり持っているから妬んでいるだけのように見える。


「有り得ない……美しさと富を必要以上に持ってて、サク相手にもあんなに優しく接する人間なんて。サクのスマホに盗聴器を仕込んで会話を聞いてたけど、あそこまで嫌味がないなんて」


 キルの弱音を聞き流しかけて、耳を疑った。盗聴器と聞こえた気がする。スマホの電池パックのカバーを開けてみると、小さな黒いチップがねじ込まれていた。それをつまみ出して床に叩きつける。


「なに勝手に仕込んでんだ!」


「くっそ……早く殺らないとまたミスターに笑われる。明日こそキメなければ」


 キルはむくっと体を起こし、それからギロッと俺を見据えた。


「激励飯だ。今夜の夕飯は特別おいしくしてよね」


 食事を楽しみにしてくれる人がいると気合を入れて作ってしまう、そんな本能を利用された。

 もちろん、暗殺者を激励するつもりなんかないけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る