1.妹が犬拾った。
「玉ねぎ、挽肉、タマゴ……よし、買い忘れなし」
制服姿で肩にスクールバッグ、両手に買い物袋を提げて、商店街を歩く。
「お、
惣菜屋のおじさんに声をかけられ、俺は立ち止まった。おじさんが手を振る。
「今日も買い物か。まひるちゃんから聞いたよ、今晩はハンバーグなんだって?」
「はい。まひるの要望で」
呼び止められたついでに惣菜屋でハンバーグの付け合わせのポテトサラダを買う。惣菜屋のおじさんは楽しげに笑った。
「さっき河川敷で下校中のまひるちゃんに会ったよ。『朝見咲夜のハンバーグは世界一!』って自慢されちゃった」
マジですか、と俺は苦笑した。歳の離れた小学生の妹、まひるは人懐っこくて素直で、そして大袈裟だ。純粋故にちょっと抜けているところもあるが、真っ直ぐ育ったいい子だと思う。
「偉いなあ、咲夜は。学校から帰ってご飯作って、掃除も洗濯もして。うちの息子なんか宿題もまともにやらねえのに」
「あはは、宿題は俺もあんまり真面目にやってないや」
家事も、小学生の頃から続けていればもう苦でもなんでもない。ただの習慣になる。嫌々やっているわけではないし、こんな毎日に充実感を感じている。
うちには母親がいない。八年前、俺が小学生三年生の頃に亡くなったのだ。病床に伏して数ヶ月、あっという間に衰弱してこの世を去ってしまった。親父は海外に出張に行っていて、自分の妻の死に立ち会っていない。いたのは俺と、当時まだ二歳だった妹のまひると、ばあちゃんだけだった。
親父を責めるつもりはない。あの人はしょっちゅう海外で仕事をしているから、家にいるときの方が少ないのだ。今だって、もう二年くらいは帰ってきていない。
まだ幼い妹と、目が悪いばあちゃんと、俺との三人暮らしになる。それを悟ったとき俺は、ガキだったくせに「なにがなにでも家を守ろう」と誓ったのだ。
その結果、こうして母親気質な性格と習慣を身につけてしまっただけなのである。
「お嫁さんが来たらどうなるかねえ」
惣菜屋のおじさんの後ろで、その奥さんが意地悪に笑う。俺は三角巾が似合うおばちゃんに、苦笑いした。
「俺、まだ高校生ですよ」
「じゃあせめて彼女でも作りなさいよ」
そんなやりとりをしていた俺の声を聞きつけたのか、店の奥からぬっと顔を覗かせた奴がいた。
「あ、咲夜来てる。いらっしゃい」
海原陸。この惣菜屋の息子であり、俺のクラスメイトで幼馴染み。惣菜屋夫婦の作る美味い飯を食って成長しているせいなのか、自販機並みの身長に引き締まった筋肉がついて、とにかくデカイ。
「出たな、宿題もまともにやらねえ俺の息子。今日の分はやったのか?」
おじさんが睨んでも陸はへらへらして誤魔化していた。
「それより咲夜、今、彼女ができたとか言ってなかった?」
「言ってねえよ、できないって話をしてたんだよ」
「んだよー」
口を尖らせて、それから陸はカウンターに腕を乗せ前のめりになった。おじさんとおばさんの様子を窺いながら、手招きしてくる。歩み寄ってみると、ひそひそ声と共にスマホの画面を差し出された。
「じゃん。今日の美月ちゃん」
画面に映し出されていたのは、同じくクラスメイトの日原 美月だった。長いさらさらの黒髪が陽光で煌めいて、彼女の瞳に反射している。写真家が撮ったモデルのようなベストショットだが……。
「陸……これ盗撮っていうんだぞ」
「誰にも配ってないからセーフ」
「バカか。営利目的じゃなかろうが個人で楽しもうが盗撮は盗撮だ」
陸の短髪頭をバシッと叩く。叩かれた陸が反撃してくる。
「だって美月ちゃんと話す機会なんかないし、見つめるくらい許されたっていいじゃねえか」
「見つめるだけにしろ、撮るな! つうか見つめてるだけでも充分気持ち悪い」
陸はしょんぼり目を伏せたがすぐにまた口角を釣り上げた。
「でもこの写真、いいだろ?」
もう一度画面を呈してくる。日原美月の写真が俺の目に再び飛び込んできた。艶のある黒髪が肩に垂れて、ゆったりした胸にふんわりと被さる。ほんのり色づいた頬、唇、全てが柔らかそうで、触れてみたくなる。
「……いい写真だとは思う」
「だろ、あげないけどな」
「欲しくねえよ」
そんなのがデータフォルダに入っているのを人に見られたらなにと言われるか。だが陸の気持ちもちょっと分かる。眺めていたくもなる。
「その写真、盗撮だからな、消せよ」
「融通効かねえなあ。咲夜はイイ子ちゃんすぎる。どうしても消したくないからパスワード付きのフォルダに封印するよ」
「全く反省してねえな」
おじさんたちに聞こえないように叱ってから、俺はポテトサラダを手に店を後にした。
陸は幼い頃からああだった。根は真面目ないい奴なのだが、ちょっと楽天家すぎて、いたずらをしてもばれなければいいと思っている節がある。陸に言わせれば、俺の善良が度が過ぎるのだそうだ。
善良であることに、すぎるもなにもあるもんか。
商店街の三時過ぎの空は、雲ひとつない晴天だった。五月の風が通り抜ける。もうじき暑い季節が来る。
初夏の風が俺を追い越して、その先にいた少女の髪を撫でた。ふわっと巻き上がる黒い髪、少しだけ浮き上がるスカート。
どきりとした。
日原さんだ。つい先程まで写真で見ていた日原 美月だ。
立っているだけなのに、なんてきれいなのだろう。呆然と目を奪われる。
それからふつふつと罪悪感が湧き上がってきた。盗撮画像を見てしまったせいで、こんなところでご本人と遭遇してしまうと、どうしようもなく気まずい気分になる。相手はそんなこと知らないのだから、気まずくなる必要なんてないのだけれど。そもそも挨拶を交わす程度の関係でしかないのだから、ここで会っても会釈一つで済むのだけれど。
そうはいっても、陸のせいで猛烈な背徳感がある。ここは気づかなかったふりをして通り過ぎよう。
日原さんは細い指で乱れた髪を直しながら、小洒落た雑貨屋に入っていった。地味な俺になんか気づきもしない。そりゃそうだ、俺はこれといって個性のないただのクラスメイトAで、相対し日原さんは学校じゅうの、いや、校外からも視線を集める高嶺の花なのだ。
まず、男女問わず釘付け決定の美貌。顔のかわいさはもちろんスタイルも抜群で、つやつやさらさらの髪に長い睫毛、白い肌、整った爪と、ありとあらゆる美しさをひとりで抱え込んでいる。
見た目だけではない。彼女は性格まで美しかった。誰にでも平等に挨拶を交わし、いつでも笑顔で、不機嫌なところを見たことがない。クラスで浮いている人にも積極的に話しかけるコミュニケーション能力の高さ、やっかみから嫌がらせをされても笑って許す懐の広さ。
その上、成績は常にトップ。素材の頭が優秀であり、しかも努力家。先生たちからの信頼も厚い。
それだけでも充分ハイスペックだというのに、これに加えて大病院の院長の娘という、お嬢様でもある。だがそれを鼻にかけたりしない。嫌味っぽさが一切ない、清楚で気品溢れる、それでいて親近感のある愛嬌を振りまいているのだ。
恵まれた容姿、癖のない性格、学力、富。日原 美月という少女は、人々が羨む全てを持ち合わせている。これだけ揃っていると逆に欠点がないことが不自然に思えてくるのだが、どんなに粗探しをしても全く見つからない。怖いくらいに非の打ちどころがないのだ。
純粋に人間として尊敬する。そりゃあもちろん、あんな子と付き合えたら毎日楽しいだろうなあなんて思うこともあるけれど、まずもってそんな珍事は起こり得ない。俺なんか容姿は個性なし、性格は陸曰く「融通が効かない度が過ぎる善良」、学力は平均、家にお金は……お金だけは、不思議とあるけれど。大病院の院長の娘ほどではない。
そうだ、そろそろ親父からこっちの口座に仕送りがくる時期だ。まひるがご馳走の時期だと楽しみにしていた。妹の笑顔を思い出して、さて、と気合を入れる。今日のハンバーグも、腕を振るってやろう。
*
家に帰って真っ先に、仏壇に手を合わせる。写真の中の微笑む母さんと目が合った。「咲夜がお母さんの代わりをしてくれてるから安心ね」とプレッシャーをかけられているような気分になる。
腰を上げて、キッチンに立つ。
ダイニングでテレビの前で、洗濯物を畳むばあちゃんが、俺の背に話しかけてきた。
「悪いねえ、咲夜。いつもごはん作ってくれてありがとう。なにかお手伝いできることがあったら言ってね」
「うん、ありがと。でも料理は俺が趣味でやってることだから気にしないで」
ついでに、ばあちゃんは視力が弱いから、料理なんてさせられない。
「そうそうばあちゃん、今日お惣菜屋の海原さんから聞いたんだけど。まひるが俺の料理褒めてくれたんだってさ」
ハンバーグの挽肉を準備しつつ、俺は徐ろに話し出した。
ばあちゃんはこうして俺の話を聞いてくれている、大切な人だ。
「そうねえ、咲夜はお料理が上手だものね」
ばあちゃんはいつでも、俺とまひるの味方をしてくれる。その日の出来事を話すと、楽しそうに聞いてくれる。こんな風になに気ない会話をしていると、なにとも言えない穏やかな気持ちになれるのだ。
「まひる、今日はハンバーグだって楽しみにしてたよ」
「そうだよな、昨日から食べたがってたもんな」
「それでね。お兄ちゃんにお願い事があるって言ってたのよ」
「え?」
ハンバーグを捏ねる手を止めて、ちらとばあちゃんの方を見た。
「もしかして、もう明日の夕飯のリクエスト?」
「ううん、違う。もっとすごいこと。私もびっくりしちゃったわ」
なにをお願いされるのだろう。ちょっと不安だが、まあ、まひるのことだ。あまり無茶は言わないはずだ。ただあいつはちょっと抜けているというか、突飛なところがあるから気は抜けない。
なんだろうなあと呟いて、再びハンバーグを捏ねる。種を三つに分割して、それぞれを丸く形作る。
ふと、ガラス戸の戸棚にあったはずのクッキーが、なくなっていることに気づいた。
「あれ。ばあちゃん、ここにあったクッキー、知らない?」
「私は食べてないわよ」
ばあちゃんでなければまひるか。腹が減って、つまみ食いでもしたのだろうか。
首を捻っていると、階段を駆け下りてくる足音がドタドタ響いてきた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん帰ってきた!?」
妹のまひるが、興奮気味にダイニングに飛び込んできた。
「帰ってる帰ってる。まだ夕飯まで時間あるから待ってろ」
俺がさらっと返すも、まひるはふくふくした頬を紅潮させてキッチンを覗き込んだ。
「あのね、お兄ちゃんにお願いがあるの」
早速来た。なにを頼まれるのか、ちょっと覚悟する。まひるのことだから宿題を教えてほしいとか、そんな程度だとは思うけれど、ばあちゃんが驚いたと言っていたから、少しは大きめの波が来るかもしれない。
「お願いってなに?」
改めて聞く。まひるは一呼吸置いて、それから真っ直ぐ俺を見上げた。
「まひる、わんちゃん飼いたい」
……なるほど。
ばあちゃんがびっくりするわけだ。
「あのなあ、まひる。ペットを飼うということは命を預かるということだ。母さんも言ってただろ? だからな、そんな一時の気持ちで軽々しく飼うものじゃないんだよ」
こんこんと諭してやるも、まひるは頑固に食い下がった。
「分かってる。まひる、ちゃんとずーっとかわいがるよ。一生大事にするよ」
この言葉を信じてやりたい気持ちは山々だが、生憎小学生のこの手の発言は信憑性が薄い。
「お願いお兄ちゃん。どうしても飼いたいの。飼わせてくれるっていうんなら、今日のハンバーグ抜きでもいい。なんでも我慢する」
真剣な顔で必死に訴えかけてくる。俺はちらりとばあちゃんの顔色を窺ってみたが、ばあちゃんはもう犬を飼うことを容認しているのか、黙って微笑みを携えている。
今までまひるは、犬が欲しいなんて言ったことはなかった。明らかに生活が変わってしまうであろうお願いだ、すんなり受け入れるわけにはいかない。その反面、普段わがままを言わないまひるがこれほど頑なになっているのを見ると、受け入れてやりたくなる。
「でもさ、生き物を飼うってお金がかかるんだよ。食べさせるものはもちろん、世話に必要なものはたくさんある。病気や怪我とか検査で病院に連れていかなきゃならないし、動物である限りその寿命の分だけ責任があるんだ。分かってるのか?」
「まひるのお小遣いなくなってもいい。ご飯もちょっとでいい。欲しい物全部我慢する」
まひるの健気な思いが胸に突き刺さる。
正直、まひるがそんなに我慢するほど経済的に困っているわけではない。むしろ犬一匹受け入れても、まだ多少の贅沢ができるほどだ。
実はこの経済状況については、俺も疑問に感じている。
家計は海外にいる親父からの仕送りだけで、俺はバイト一つしていない。それなのに、その仕送りがいちいち額が大きいのだ。
父とはほぼ音信不通といっていいほど連絡を取っていない。声も顔も忘れた。仕事もなにをしているのか具体的には知らない。ばあちゃんが言うには、フランスで日本料理に関する仕事をしているのだそうだが、余程金回りがいいのか、お陰様で俺たちは苦労していない。
「その犬っていうのは……どんな犬種が欲しいとか、決まってるのか?」
天秤をゆらゆらさせながら時間稼ぎに聞いてみる。まひるはちょっと目を逸らした。
「決まってるっていうか……もう『この子』って決定してる犬がいて」
それから更に、顔を伏せる。
「実はもう拾ってきちゃったんだけど……」
俺の許可を取る以前に、もう連れてきてしまったようだ。
「河川敷で倒れてたの。お腹が空いてるみたいだったから、おうちに連れて帰ってきて、食べ物をあげたの。そしたら元気になって、まひるに懐いてくれた」
まひるがたどたどしく告白する。俺は黙って聞いていたが、戸棚のクッキーのことを思い出した。
「まさか、犬にクッキーを食べさせたのか?」
「うん……」
「人間の食べ物、与えちゃだめだろ」
「ごめんなさい」
「それに、野良犬って今時いないだろ。近くに飼い主がいたとか、あるいは迷子かもしれない。お巡りさんに言ったか?」
「言ってない……」
ああ、やっぱりだ。気持ちだけが先行して、知識が追いついていない。やはりまひるに犬を預けるのは不安だ。俺が拒否する方に傾いたと思ったのか、まひるは小さな頭を下げて懇願してきた。
「ごめんなさい、これからはちゃんと飼い方を勉強するから。お願い……」
まひるは人懐っこくて素直だ。好きなものは好きで、愛おしいと思ったら愛したい、そういう性格だ。
こうなったまひるは頑固である。仮に俺が犬なんかだめだと言えば、泣いて喚いて犬を抱えて家出しかねない。
「お願いお兄ちゃん。まひるがお世話するから。お兄ちゃんに迷惑かけないから!」
まひるはもう一度顔を上げ、俺の目を見据えた。彼女の中でもう固まっているらしい。梃子でも動かなさそうだ。俺は意を決して、ため息混じりに頷いた。
「分かった。飼い主が見つかるまでの保護としてなら、飼っていいよ」
「やったあ!」
まひるはぱあっと顔を輝かせ、腕を振り上げた。
「ただし! 世話は俺がする!」
「え!?」
喜んでいたまひるは、両手を広げたまま固まった。俺は腕を組んで続けた。
「まひるがちゃんと大人になって、生き物を飼う責任の重さを本当の意味で理解するまで、世話をしちゃだめだ」
子供の教育のためだとして、子供に動物の世話をさせる親がいるらしいが、俺は賛成できない。人間からすれば子供の頃のきれいな思い出かもしれないが、動物からしてみれば責任能力のない子供に一生を捧げる運命になるのだ。
命あるものを大切にしなさい。
母さんにそう教えられた。まひるはまだ、俺が世話をしているのを見て勉強し、犬への愛情を育ててくれればいい。
そこまで理解したかは定かではないが、まひるは条件を呑んだ。
「分かった。よろしくお願いします、お兄ちゃん」
改まってお辞儀する。見ていたばあちゃんが、ふふ、と笑った。
「よかったねえ、まひる」
我が強いまひると、すでに容認済みのばあちゃん。どちらにせよ、俺に拒否権はなかった気がする。
まひるがご機嫌できらきら目を輝かせている。こんなに嬉しそうな顔を見ると、全てを許したくなるのだから俺も単純だ。
「それじゃ、お兄ちゃんにもご挨拶しないとね」
まひるに言われて気がついた。普通、飼うか飼わないかという議論をするのなら犬を見てからだよなあ、なんて思う。実物を見て、欲しくなって、否定派を崩すというのが本来のやり方なのだが。
「ドアの前で、お兄ちゃんに会うの待ってるよ」
「え、そこにいるの?」
「うん」
「どんな犬なんだ?」
見る前に聞いてみると、まひるはふふっと笑った。
「白くて大きくて、立ち耳の犬。とっても賢いの」
大型犬か、素人でも飼えるのかな。
「賢いから、お喋りもできるんだよ」
「え?」
「おいで、キルちゃん!」
一瞬聞き間違えかと思うような言葉が挟まっていた気がするのだが、聞き返すより先にドアが開いた。
そして入ってきた白い「犬」を見て、俺は呆然とした。
「まひる……これ、犬じゃなくねえか?」
そこにいたのは、白い外套を纏った人間の少女だった。
犬の耳みたいな装飾がついたフードを目深に被り、腰のベルトに犬の尻尾のようなチャームを下げているが、どう見ても犬ではない。間違いなく人間だ。
「どうも、犬です」
少女が歩み寄ってきた。小学生のまひると身長があまり変わらない。子供、人間の子供だ。犬じゃねえ。
フードの中から零れている髪は、きらきらした金色だった。蛍光灯の光を受けるとオーロラ色に光る。上着の長い袖から覗く手は、がっつり硬そうな茶色い絶縁手袋に包まれている。
しばらくぽかんとしていたが、俺は自称・犬とまひるを交互に見た。
「犬じゃねえじゃん、とりあえず犬じゃねえじゃん。誰なんだよこいつ」
「
「名乗れとは言ってな……いや、名乗っていいんだけど、てか本名じゃねえのかよ」
なんなんだ、全く理解が追いつかない。混乱が混乱を招いてなにも分からない。俺は一旦虚空を見上げ、深呼吸して、目を瞑った。冷静になれ。数秒無言で心を無にして、再びまひるに向き直った。
「まひる、これは犬じゃない。元いたところに戻してきなさい」
「なんでよ! お兄ちゃんさっき飼ってもいいって言ったじゃん!」
まひるが甲高い声を張り上げた。俺も負けじと言い返す。
「犬だと思ってたからな。これは犬じゃない」
「犬だよ! お耳も尻尾も、どう見ても犬!」
それ以外なに一つ犬じゃねえだろ。耳も尻尾も作り物だろうが。しかしどうやらまひるは犬だと信じ込んでいるようで、なにを言っても聞いてくれそうにない。
「ばあちゃん、これ犬じゃねえじゃん」
話す対象者を変えてばあちゃんに訴えてみた。が、ばあちゃんは相変わらずうふふと笑っている。
「そうねえ、おっきくてオオカミみたいね」
「そうじゃなくて!」
もしかしてばあちゃんは目が悪いから、白い影と耳の形くらいしか識別できてないのか。いや、それにしたって言葉を話してる犬なんておかしいだろ。
「あのさ」
自称・犬の少女が口を開いた。
「おにーさんさあ、さっきまで動物飼うなら最後まで責任持てとか偉そうに言ってたじゃんか。そのわりに随分あっさり私を捨てようとするんだな」
どこかなげやりな、力の抜けた口調だ。俺は間抜けなフードを睨んだ。
「だってお前人間じゃん、おうちに帰れ。家族が心配してるぞ。まだ居座る気なら警察に連絡する」
「なんでよ、お兄ちゃん飼っていいって言った!」
ここでまひるが声を上げると、ばあちゃんまで加勢した。
「咲夜、まひるがこんなにかわいがってるのよ」
するとさらに自称・犬まで俺を責めはじめた。
「なんだお前、可哀想な私をまた捨てる気か?」
「だから、人間だったら話は別だって」
話が行ったり来たりする。なんなんだこいつ。いらついてくる俺と、一歩も譲ろうとしないフードの少女。部屋中の空気がピリピリする。立ち込める険悪なムードに、まひるがいよいよ泣きそうな顔になった。
「お兄ちゃん、無理言ってごめんね。でもまひる、どうしてもこの子飼いたい」
まひるもまひるだ。なんでこれを犬だと思い込んでいるんだ。ちょっと抜けているとは思っていたが、まさかこれほどまでとは。まひるが大きな目に涙を溜めた。
「お願い、喧嘩しないでえ……」
やばい。泣かすつもりはなかった。でもだからといってすんなりこの変な少女を認めるわけにもいかない。戸惑っているうちに、俺より早くフードの少女が反応した。
「まひるー! ごめんね! 私が悪かったよ!」
叫ぶと同時に電光石火のスピードでまひるに飛びつき、まひるの頬に頬ずりする。あまりの素早さに俺はまた目を剥いた。
「まひるは飢餓状態だった私を拾って助けてくれた命の恩人! まひるを泣かすなんてとんだ糞野郎なお兄ちゃんだ! 私が殺してやるから!」
「おいちょっと待て、なにを言っている。なんで俺が悪いみたいに言うんだよ。あと殺すとか言うな、汚い言葉を使うな、まひるに聞かせるな!」
言葉を投げつけ合う俺とフード少女の間を、まひるが割って入った。
「キルちゃんキルちゃん、だめ。お兄ちゃん死んじゃったら困る」
抱きしめる胸の中で訴えたまひるを見て、フードの少女はスッと落ち着いた。
「まひるがそう言うなら、生かしてやるか」
どうも、まひるの言うことなら素直に聞くようだ。フードの少女がクールダウンしたついでに、俺も熱くなりすぎたことに気づく。
飼う飼わない以前に、迷子の女の子だ、どちらにせよ元いた河川敷に放り出すわけにもいかない。不思議な装いだし、なにかと分からない点が多い。もしかしたら警察に頼れない事情があるのかもしれない。
「よし、一度落ち着いて話を聞こう」
少女の目を見て提案する。少女の方も素直に頷いた。
「それよ。人間同士話し合いで決着つけようぜ」
「今、人間であることを認めたな」
「わんちゃんだよ!」
またまひるが口を挟んだ。犬だと思っているまひる、同じくよく見えてなくて犬として受け入れているばあちゃんのふたりがいると話がややこしくなりそうだ。
「まひるとばあちゃんはここで待ってて。俺はこいつと話してくるよ」
まひるを抱きしめる少女をまひるから引き剥がして、襟首を掴み、自分の部屋へと連れて行った。
*
半泣きだったまひるをばあちゃんに任せて、俺とフードの少女は俺の部屋に入った。
「まず、君はなんなんだっけ?」
「私は生島キル。人間」
俺は勉強机の椅子に座り、キルと名乗る少女はベッドに座った。
「人間なんだな」
「当たり前っしょ。あのかわいい妹ちゃんが犬だと思ってたみたいだから合わせただけ。その方が都合がよかったし」
フードの「犬」は、あっさりそう認めた。
「幸いあのおばあちゃんも、犬ってことで納得してくれた。正直訳分からんけど、ふたりともド天然で助かったわ」
「しかしそこへ、ちゃんと人間だと認識してる俺が現れた。それでも無理やり犬ということで突き通そうとして、あんな混沌とした状況になったわけだ」
「そ。あんたも、犬だと思い込める順応性があればよかったんだけどね」
「そこまで柔軟じゃねえよ。同じ血が流れてるとはいえ、俺はああはならない」
背もたれに寄りかかると、椅子がぎしっと鳴いた。少女は前屈みになり、合わせた膝の上に肘を乗せて頬杖をついた。
「まひるから聞いてるよ。あの子の兄貴の咲夜、だよね。血の繋がった兄妹なのに、似てないな。まひるはおバカでかわいいのに、あんたにはかわいげも特徴もない」
特徴の塊みたいな奴が、無個性の俺を嘲笑う。
「なんか量産型男子高校生って感じするし、ザクって呼んでいい?」
「ふざけんな。名前、咲夜だって言ってんだろ」
「じゃあ合間をとって、サク。よろしく頼むぜ、私のご主人様」
なんだかこの図々しさが癪に障るが、腹を立てても仕方ないので、受け流した。
「で。なんでキルは、うちのペットになろうとしてるの」
「説明してると長くなるんだけどさ。ご覧のとおり仕事中でね」
耳を疑った。キルを頭のてっぺんから足先まで眺める。ご覧のとおりと言うが、どう見ても仕事中には見えない。
「なに……コスプレ関係のお仕事か? 大変だな、まだこんなに小さいのに」
「そんな子供じゃねーわ。未成年ではあるけど」
本人はこう言うが、見た感じ百三十センチくらいのサイズ感。小学生だろう。そんな子供がこんな服を着てお仕事とは、やはり事情が複雑そうである。
「因みに、なんのお仕事か聞いてもよろしいか。言いづらかったらいいんだけど」
腫れ物に触れるようにそっと尋ねた。キルはちら、と目を上げた。フードから覗く瞳が光る。鋭い眼光が刺さって、ぞくっと背中が冷たくなった。
「その、言えないなら無理には」
俺が言い終わるより先だった。
ひゅっと涼しい風が俺の頬を掠め、直後にトス、と乾いた音が続く。目の前のキルは、絶縁手袋を嵌めた左手をやや手前に突き出している。無表情の目の先は、俺、ではなくてさらにその後ろの壁を見据えている。
「そうだね、本来はあまり言うべきことじゃない。でもサクにはこの家でお世話になるわけだから、話しておく」
俺は恐る恐る後ろを向いた。
「殺し屋」
キルの声がする。
「私の仕事は、殺し屋。暗殺者」
俺の背後の壁に、ナイフが突き刺さっていた。この位置。数センチずれていたら俺に刺さっていた。ぞっと背筋が凍る。目を凝らすと、そのナイフの先と壁と間に小さな脚がはみ出している。それはどうやら、数ミリの蚊。
「えっ……殺し屋……」
思わず繰り返す。キルは立ち話でもするかのように、軽く頷いた。
「国家公認暗殺者集団『フクロウ』所属、コードネーム『生島キル』。それが私」
部屋の中を飛ぶ、小さな蚊。それをこの距離からナイフで射止めたのだ。ナイフを取り出す瞬間も、投げる瞬間も、全く気が付かなかった。
素早く音もなく、そして確実に仕留める。まるで暗闇の森で小動物を捕らえる闇夜の猛禽類、フクロウ。
「え、冗談……だよな」
俺はナイフが命中して絶命している蚊を見て肩を震わせた。
「冗談でこんな技術を見せると思うか?」
キルがため息をつく。俺はまばたきを忘れていた。
「国の公認……暗殺者集団……? そんなのあるわけないだろ、冗談はコスチュームだけにしろ」
「政治、人、金。権力や富を持つ者は、常に人を恨み、恨まれている」
キルは絶縁手袋をきゅっと引っ張って嵌め直した。
「そんな仕組みの中でどうしても邪魔な奴……もう死んでもらうしかないくらいの、とびきりの邪魔な奴を、殺すんだ。だが権力者らは自分の手を汚すわけにはいかない。権力も富も守らなきゃならないからな」
キルのマシュマロみたいな声が、静かな部屋に染み渡る。
「そこで活躍するのが、私たち『フクロウ』。国の公認で国を動かす邪魔者を消す。恨みっこなしだ」
信じられない。
この平和な国に、そんな仕組みあるわけない。
「ふざけてるのか? 殺人は犯罪だ、国が殺人を認めてるわけない」
「そうだね、世間一般ではそういうことになってる」
キルの声は落ち着いていた。
「でもな、実は日本は世界でも有数の暗殺大国なんだよ。感情を表に出さないことを美徳とする国民性は水面下の殺意を増長させる。それに加えて日本人は暗殺者に向いてる人種でね。綿密な計画を立て、納期を厳守する」
俺は黙っていた。声が出なかった。
「日本の暗殺スキルは、世界最強とさえいわれてるんだよ。まあ当然、こんなこと国民には晒さないから、サクが信じられないのも無理もない」
頭が回らない。
「信じられないなら信じなくていいよ。でも、私はちゃんと言ったかんな。後で聞いてねえとか言うなよ」
全身の血が止まったみたいだった。信じたくない。そんな話有り得ない。でも、でも仮に、本当にそうだとしたら。そうでなかったとしても、先程の、あのナイフ捌き。こいつは間違いなく、人を殺せるスキルを持っている。
分からないこと、考えなくてはならないこと、いろんなことがありすぎて頭がぐちゃぐちゃになって、結局思考が停止した。なにから言えばいいか、分からず、俺はようやく声を出した。
「酷い。なにもこの蚊を殺すことないだろ」
「そっち!?」
キルがぎょっと目を丸くした。俺は蚊の死骸を指差し眉を顰めた。
「蚊だって生きてるんだぞ。それをこんな、無慈悲に殺したりして」
自分で言っていて、今はそれ以上に言わなくてはいけないことがあるとは思った。だがまだ整理ができていない。キルは蚊が磔になった壁と俺を交互に見比べた。
「虫けらだぞ!? ほっといてたら、サクが血を吸われて痒くなってたぞ」
「そのくらいいいだろ! 俺がこいつに血を吸われても死ぬことはない。でもこいつは生きるために血を吸って」
「なんだこいつ、モラリストも度が過ぎると気持ち悪いな」
自称・殺し屋に気持ち悪い呼ばわりされた。キルは本気で引いたらしく顔を青くしている。俺の方も多分、顔色が悪くなっていたと思う。
「え……と、殺し屋というのは、マジなの?」
話の軌道を戻す。キルはまだ嫌そうな顔をしていたが頷いた。
「マジだよ。このとおり、結構敏腕アサシン」
「人を殺してるのか?」
「あたぼうよ、何人殺したか数えらんないほど殺ってる」
眩暈がした。俺の常識からはまず考えられない発言だった。
母さん。命あるものを大切にと俺に教えてくれた母さん。とんでもねえ奴が来たよ。
「犯罪者じゃん。警察に連絡……」
制服のポケットからスマホを出すと、キルが苦笑いした。
「無駄だよ。さっき申し上げたとおり、私は国家公認の暗殺者組織に所属してる。警察も国営でしょ、つまり仲間なんよ」
キルは細っこい脚を組み直し、絶縁手袋の指を立てた。
「仲間、っていうとちょっと語弊あるか。私らは警察内部の人間から仕事もらうこともあるし、警察の偉い人を殺すこともある。敵とか味方とかの固定はない。特定の機関と癒着しないんだよ。警察も、うちがそういう組織だって知ってるから野放しだよ」
絶望的な気持ちになった。この国はどうなっているんだ。
「俺も下手な動きをしたら殺す、のか」
青ざめる俺を横目に見て、キルは屈託のない笑顔を浮かべた。
「心配すんな、私はターゲット以外は特に理由がなきゃ殺さないよ」
笑っているのにひんやりした瞳が俺を捉えている。
「私たち暗殺者ってのは、政治的な問題とか、デカイ金が絡んでるとか、そういう理由で死んでいただきたい人を殺すのが仕事なんだ。私怨で殺すのはまた別の殺し屋。よって、私にはサクをいつでも殺せるスキルはあるけど、サクを殺す必要はない、今んところね」
今んとこ。特に理由がなければ殺さないけれど、理由ができたら条件は違うというわけか。
先程の口喧嘩が蘇ってくる。まひるを泣かしたから殺すという発言。あれは冗談ではなかったのか。ぞくっとする。あのときまひるが止めてくれなかったら、本当に殺されたかもしれないのか。
ていうか、これまずいんじゃないか。逆らったら殺されるってことじゃないか。
「この仕事は成功報酬でね。今マジで文無しで、三日ほどなにも食べてなかったの」
キルが真面目に話し出す。俺はまだ混乱でそれどころではなかったが、逆らってはいけなそうなので合わせることにした。
「三日も?」
「そ。ここんとこ仕事が少なくて、あってもちっちゃいのばっかりだったから貧乏を極めててさ。ようやく新しい仕事もらえて昨日この町に来たはいいんだけど、寝泊まりする場所も食べるものもなかったんだ。いつもなら、仕事で赴任する町には組織から住む部屋を貸してもらえるからそれを当てにしてたんだけど、今回は手違いでそれもなくて」
なんか可哀想になってきた。
「そんで、川が見えたからせめて水を、あわよくば魚を捕ろうとしたんだ。でも直前で意識が遠のいてバタンキューしちゃってさ。そのとき聞いたのよ、天の声を……『朝見咲夜のハンバーグは世界一!』って」
惣菜屋のおじさんの話を思い出した。まひるがそんなことを言ったらしい。
「声の主だったまひるは、川辺で倒れる私を見つけてくれた。思わず私は『世界一のハンバーグが食べたかった』と嘆いたよ。するとまひるは、『今日のお夕飯はハンバーグだよ。一緒に食べよう』って私を連れて帰ってくれたんだ」
なるほど、それでうちに来たのか。まひるは与えられる食べ物を探して冷凍庫を覗き、すぐに食べられそうだった白米を温めて食べさせたのだ。その点はキルが犬じゃなくて人間だったから、問題ない判断だったようだ。
「まひるはなぜか私を犬だと勘違いしてるから、私は成り行きでペットになってるけど……結果として私は、屋根のある場所で寝泊まりできるようになったし、責任感のある飼い主さんが食べ物をくれる幸運な条件に出会ったわけさ」
黙って聞く俺をちらと見て、キルは続けた。
「空腹で生き倒れていたところを助けてくれたまひるに、私は恩返しをしたい」
キルの声色に、真剣な色が差す。
「私は暗殺者だから、基本的に私怨の殺しは請け負わない。でもまひるが死んでほしいと思っている人を、私が特別に殺してあげようと思ってる」
「恩返しって言うからもっと心温まる話かと思ったのに……血なまぐさいな」
真面目な声でピントのずれたことを言うキルを、俺は苦い顔で見ていた。
「生憎、うちのまひるはそんな願望を持つような子じゃないぞ」
「分かんないだろ。これから先そういう感情が芽生えるようになると思うよ。人間なんてそんなもんだ」
嫌悪感、というより、悪寒が走った。まひるに限ってそんなことないと言いたかったのに、数え切れないほどの人を殺してきた少女から発された言葉は妙に現実味がある。
「まひるは、人を殺せなんて頼まない」
まひるはそんな子じゃない。自分に言い聞かせるつもりで、吐き捨てるように言った。
キルは不服そうに俺を眺めていた。また言い返してくるのかと思いきや、口より先に、ぐううと腹が鳴いた。
「ハンバーグが食べたい」
「お前なあ」
間抜けではあるが、考えてみたらキルは三日食事をしていない。やっとありついたのが、うちの昨日の夕飯の残りの、ちょっとの白米のみ。
人殺しに食わせてやるのは気が乗らないけれど、食わせないで餓死させるのだって大概人殺しと同じだ。
「分かった。ちょっと早いけど、支度はじめるよ」
制服のブレザーを脱ぎ捨てて、キッチンに戻るため立ち上がった。
「慈悲深い飼い主で助かるよ」
背後でキルの半笑いの声が聞こえた。
「とりあえず私は、まひるには献身的に尽くすとするよ。人間なら必ず、まともな殺意を持つようになるはずだから」
*
「ハンバーグハンバーグ! 楽しみだね、キルちゃん!」
先程まで泣いていたまひるは既にご機嫌に戻っていた。
「まひる、犬はハンバーグは食べられない。玉ねぎが入ってるから、犬には毒なんだ」
フライパンの中を観察しつつ、俺はまひるに声を投げた。
「だがキルは例外的に食べても大丈夫だから、ご安心を」
「よかったあ! キルちゃんの分もあるって!」
まひるは嬉しそうにキルを抱きしめ、それからいそいそとテーブルを消毒ふきんで拭き始めた。
焼く前のハンバーグの種は、三つに成形してボールの壁に貼り付けてあった。折角作った形をぐしゃっと潰して、また一まとめにし、四つに丸め直した。
蓋をしたフライパンから、じゅわあと油の音がする。少し蓋をずらすと、隙間から煙が洩れ出てきた。ふわり、肉の焼けるいい匂いが運ばれてくる。ハンバーグの真ん中に爪楊枝を刺して、透明の液が溢れるのを確認する。今日もきれいに焼けた。
「はい、できたよ」
皿に乗せて、テーブルに運ぶ。まひるとキルが目を輝かせて、ばあちゃんが微笑ましそうに笑う。四つの席それぞれにハンバーグが行き渡った。ばあちゃんと俺が隣同士、ばあちゃんの前にまひる。まひるの隣で俺の向かいにキル。
ふと思う。椅子が四つのまま、もう八年経つのか。
キルのいる位置は母さんの席だった。彼女が他界しても椅子を片付けなかったのは、別に未練とかではなくて、単にたまにお客さんが来ることもあるからだ。ついでに、親父が帰ってきていれば、そこは親父の席になる。
母さんが生きていて親父も帰ってきていたときは五人体制だったが、その頃はまひるがまだ小さくて大人の椅子には座っていなかった。だからこの椅子の数は、俺が覚えている限りはいつも四つだった。
「お肉は動物さんなの。ちゃんとお礼してから食べるんだよ」
まひるがキルに笑いかける。先程の俺の蚊に対する発言と重なったのか、キルの目が一瞬死にかけた。が、まひるのいうことは聞くと決めているらしく、キルはきちんと手を合わせてからハンバーグに手をつけた。
箸で一口大に切って、きらきら流れる肉汁に目を輝かせ、勿体つけるように口に運ぶ。それからキルはぱあっと目を見開いた。
「お、おいしい!」
「でしょ、世界一なの」
まひるが自慢げに胸を張る。
三人分の材料で作った四人分のハンバーグは、それぞれがちょっと小さくなった。
「あああ! 染み渡る!」
それでもこんなにおいしそうに食べてくれる人がひとり増えた食卓は、いつもより充実している気がして。
「付け合わせのポテサラも美味いだろ? 出来合いだけど、この店のがおいしくてさ」
「うん! リンゴ入ってるんだね」
こいつが殺し屋だとか犬だと思われているとか、そんなことが小さいことに思えてくるのだ。
*
洗い物をしている間、キルはまだ椅子に座って俺の背中を見ていた。
「やるねえ、サク。完全に胃袋掴まれたわ」
「ご満足いただけてなによりです」
ばあちゃんは自分の部屋でテレビを観ている。まひるは風呂に行った。ここには洗い物をする俺と、暇そうに座るキルしかいない。キルが話しかけてくる。
「そういや、ペットの世話はまひるにやらせず、サクがやるっていう約束してたね」
流しの水音で、やや聞こえづらい。
「ということは、私がペットしてる間はサクの手料理が餌じゃんな! ラッキー、拾われてよかった」
キルはすっかりここに居着く気でいる。両親の寝室は今は空き部屋だし、そこを犬小屋にでもしようかと考える。生命の美しさを重んじる母がいた部屋に、殺し屋を住まわせるのは気分が悪いが、仕方ない。
キルはフードの中で、ニヤッと口角を吊り上げた。
「仕事が終わるまでの短い間だが、世話になるぜ。終わったらすぐ引き上げるから、それまでせいぜい私を可愛がれよな」
さっさといなくなってほしいが、つまりそれはキルの仕事の成功……人が死ぬことを意味する。複雑だ。
「因みにターゲットってどんな人なの?」
なに気なく聞いてみた。ジャー、という水音がシンクに響く。音の隙間に、キルの声が交差した。
「日原美月」
「えっ」
きゅ、と、思わず水を止めた。
「月綴会病院院長、日原篤影の娘。日原美月」
部屋の中が、真空になった気がした。
聞きたくなかったキルの返事はたしかに、俺の鼓膜に届いていた。
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