影との闘い
真夜中、カサインはこっそり村から抜け出し、再び濃霧へ入った。
兎に角真っすぐ歩き続けていると、鈍い痛みが少しずつ表れて、しばらくすると身体を青い炎が包んだ。
それは、前と同じように、魂に直接響く類の痛みであり、カサインはまた意識が遠のいた。
前回と違うのは、カサインに心の準備ができていることだった。これから影と対峙する。そう確信して、そして余裕をもってカサインは意識を手放した。
目を開けると足元には、あたり一面にヒメユリが咲き乱れ、天空には太陽の代わりにエメラルドグリーンのブローチが輝いていた。
透き通るような緑色で、よく磨かれていた。それは紐が心臓に絡まりながら空に浮かんでいた。
カサインがその景色に気を取られていると、目の前に黒い小さな池が現れ、沸々とマグマのように煮えたぎりながら、徐々に上に伸び、やがて人の形を成した。顔も、
服も見えず真っ黒だった。
そうしてその影は、見知った人に姿を変えた。それはベアルだった。ここは自身の心象世界であり、影は彼を挫くために、いろいろな人の姿を借りて現れる、とカサ
インは直観的に感じた。
ベアルはカサインに話かけた。役目を果たすように。
「こんな所で何をしているんだ。ここは君の居ていい場所じゃない。君は、天文台に戻って星の探求をしなくちゃいけないだろう? 」
「俺は天文台から逃げたんだ。あそこでの生き方は俺が求めていたものではなかった」
「ハッ! 何を今更言ってるんだ。争って勝たなきゃ価値はないだろ。全てはそう決まってるんだ。占星家じゃない君は君じゃない。常識だよ。使命だよ。
君だって今までそうやって生きてきたじゃないか。そうやって他人を蹴落として来ただろう?だいたい今更そんなことを言って何になるというんだ。足元を見ろ、君が今まで争ってきたことは全部無意味だったと言うのか?
じゃあ、彼らはどうなる、無償の愛を知らず、ひたすらに星の知識を求め、それでも勝者にはなれなかった、認めて貰えなかった彼らは無価値だというのか。それは過去の君自身をも否定する行為なんだぞ! 」
真下には、幾万の自身の死体があった。それは、カサインの全人生の集合体であり、人生のあらゆる時間を切り取ったいろんな年齢のカサインの死体があった。
「ああ、これが今までの俺か。ひたすらに争い、それに全てを賭けて、それでも勝てずに腐敗していったいくつもの俺」
一瞬、ほんの一瞬だが、カサインは惜しい、と思った。自身の今までの頑張りを手放すことは出来なかった。ベアルはそれを見逃さず、一気に畳みかけてきた。
「そうだよ。これは全て君だ。君の努力の結晶だ。彼らを無駄にしたくはないだろう?ほら、彼らも泣いているよ」
カサインは迷った。天文台に入るために欲望を押し殺して生きた日々、天文台に失望しながらもなんとか上を目指して努力した日々。それらを無価値にしていいのだ
ろうか。価値とは・・・
カサインはジーヴァンのことと、彼の言葉を思い出した。『崇める理由は汝の外ではなく、内にあるものだ』
「そうだ。価値は俺の中にあるんだ。今までの自分が俺に価値を与えるのではない!
俺が、私が、彼らに価値を与えるんだ。生き方を変えるからと言って彼らを見捨て
る訳じゃない。彼らの魂を救う為に、むしろ私は違う生き方をしなきゃいけないんだ!あの受難の日々を無駄にしないために!」
「いいや、できないね、お前にそんな生き方は。世迷言を言うな。現実を見ろ……」
ベアルはそう呟いて、またあの影に戻った。そして形を変えて現れた。
今度は、父の姿だった。上下一つながりの群青色のローブに金の縦線が数本あり、彩りを与えていた。
その上に首から淡い赤の布を垂らし、両端には天文台長の証である地球儀の刺繍が施してあった。
「カサイン、カサインよ。後生だから、私の願いを聞いてくれ。どうか天文台に戻って、私を安心させてくれ」
「父さん・・・。私の人生を違う角度から眺めているのはあなただと気付きました。今なら分かる。私はあなたの道具でもないし、私の望む生き方を追求する権利がある」
「お前は私の言うことを聞かなければならぬ。全て、私に任せて、私の思うように人生を過ごせばいいのだ」
「違う!
私はあなたではない。
私はあなたの道具ではない。
私は占星家ではない!
この祈りによって、私はあなたと決別する。
確かに幼い頃はこの世界で育てて貰う為に、あなたの道具になる
しかなかった。
だけど、今は違う!
私は自分の内に価値を見つけた。占星家でなくても、あなたの道具じゃな
くても、私には生きる価値があると知った。あなたが望むことと、私が生きることは無関係なんだ……」
「競争に勝てない者は生きる価値などない。万能でない者に、父の言うことを聞けぬ者に生きる価値はない。占星家でない者に生を謳歌する権利などない」
「やめてくれ!そんなことを言わないでくれ。その言葉の所為で、今も多くの人が苦しんでいる。本当に大切なものを忘れさせている。
多くの色づくであろう生を奪っているのに気付かないのか!?
私はあなたの価値など求めぬ。その所為で、あなたが楽園を保証しなくても、私
は自分で楽園を造れる。なぜなら―
―― なぜなら、私の蛇はまだ生きているのだから。
―― ああ、人生は難しい。だが甘露だ。私は生きるに値する。それだけの価値をもって生まれて来たんだ! 」
その瞬間。カサインがその言葉を発した瞬間、空に輝くブローチに深い亀裂が生じ、頂上から底までひび割れ、ガラスが割れるように音を出して木端微塵に消し飛んだ。
そして内側から月が顔を出し、世界を照らした。
カサインはその一欠片を手に取り、影の父に手渡した。
「自分の生を他に預けるから苦しくなるんだ。だからこのブローチは父さんに返すよ。
私は感じている、私の人生が輝いているのを。さようなら、父さん。私はもうあ
なたの輝きにあやかろうとはしない。
私はもう負けない、本当の人生を歩む為に。さようなら、〈万能の占星家〉アリステラス」
カサインは胸のヒメユリをむしり取った。花弁が茎から離れ、バラバラになって宙を舞って行った。
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